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8645-8650: フローニンゲンからの便り 2022年6月22日(水)



No.3739 宇宙の微笑み_A Smile of the Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1630, Human Species as Viruses

The human species have become viruses for the planet.

They will migrate to another planet in the future.

It means that humans will become viruses for the universe.

Groningen; 06:29, 6/22/2022


No.1631, Humans as Intestinal Bacteria

Humans are opportunistic bacteria.

They can be good or bad one.

Groningen; 07:08, 6/22/2022


No.1632, My Existence and Pain

I know who I am through my pain.

Pain makes me notice my existentiality and spirituality.

Pain is crucial.

The palliative society to eradicate any pain is deeply problematic.

Groningen; 10:08, 6/22/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8645. ウィルスとしての人間/対人支援と文明学

8646. 今朝方の夢

8647. 痛みや苦痛の意味/日和見菌としての人間存在

8648. 痛みや苦痛と真実/受苦としての情熱

8649. 痛みを通じた存在規定/痛みと学習

8650. わずかな変化がもたらすもの


8645. ウィルスとしての人間/対人支援と文明学


時刻は午前6時を迎えた。今、朝日がとても眩しく輝いている。ちょうど、書斎の机に差し込む形で朝日が部屋に入って来ている。朝の世界は穏やかで、小鳥たちの鳴き声以外には音は何も聞こえない。


昨夜は、川面凡児の全集を夕方に受け取り、夕食後にそれを眺めていたこともあって、少し興奮した形で就寝に向かった。ベッドの上でも色々と考え事をしていたのもそのためだろう。当面は、ビョンチョル·ハンと川面凡児の思想に言及しながら自分の考えを文章の形にまとめていこうと思う。彼らを思想上のスキャフォールディングにしていき、自分の問題意識とそれに対する自分なりの考えや処方箋を言葉にしていく。そうした方向性について考えていた。


そこからは、改めて人間という生き物が地球という惑星にとってのウィルスのような存在であることを考えていた。ゆくゆくは人間は、別の惑星に移住しだすのだろうが、そうなってくると、人間は地球にとってのウィルスなだけではなく、宇宙にとってのウィルスになるだろう。地球のことを本当に思うのなら、宇宙のことを本当に思うのなら、人間という生き物は存在しない方がいいのだろう。もしそれでも人間が存在したいと思うのなら、どのような在り方で生きなければならないのか、人間が作り出す文明をどのようにしなければいけないのかということについて考えていた。


文明学への思いは日々強まる一方であり、文明の病理やその構造やメカニズムにまで探究を広げていくことは、対人支援者にとっての倫理的な行動の現れなのかもしれない。クライアントが個人であれ、組織であれ、彼らと自身を取り巻く文明の構造や仕組みを見ないままに真の支援など本来できないはずなのだ。だが実際には、今の対人支援のほとんどは、文明の病を直視することなく、逆に文明の病を温存したまま、表層的かつ対処療法的な支援に留まっている。そうした形での支援を行なっているがゆえに、文明の病の影響を受けた形で同種の問題を抱えるクライアントが後を絶たないのである。対人支援者が行うべきことは、目の前のクライアントを救いながら、さらにその先を見据え、クライアントの課題を生み出している根幹の文明的な病に意識を向け、その治癒と変容に向けて活動することなのではないだろうか。そうしたことを考えながら、現代人というのは、何らかのゲームに絶えず従事しているゲーマーか、注意散漫な形で何かに駆り立てられ続けている野生動物かの2種類に大別されるのではないかと考えていた。そうなってくると、自分が日々行なっているのはゲーマーと野生動物の観察であり、そうした観察を通じての現代社会の病の分析と処方箋の捻出なのだろう。フローニンゲン:2022/6/22(水)06:25


8646. 今朝方の夢


静けさが辺りを包み、朝日の輝きが地上を満たしている。差し込む朝日を額に浴びながら、今朝方の夢について振り返ってみたい。


夢の中で私は、数人の友人と一緒に、どこか外国の街にある遊園地のような場所で各種のアトラクションを楽しんでいた。そのアトラクションの中に、自分の名前を入力するものがあった。早速私は自分の名前を打ち込んでみたところ、すると機械が突然光だし、私は祝福を受けた。それによって自分の内側にエネルギーが流れ込んできて、自分は新たに生まれ変わったような感覚があった。すると気がつけば私は、見慣れない家なのだが、それでいてそこが自分の家だとわかる場所にいた。少し広い部屋にマッサージチェアーの形をしたスチームバスが2台あって、そのうちの1台を小中高時代の親友(AF)が使っていて、もう一台を高校時代の野球部の友人(KH)が使っていた。野球部の友人はマッサージチェアーを使いながら気持ち良さそうに眠っていたので、私はもう一方の友人に声を掛けた。すると友人はすぐに私にマッサージチェアーを譲ってくれ、早速使ってみると、それは極上の気持ち良さをもたらし、深いリラックスと共に私も眠りの世界に落ちそうになった。すると、私の脳裏では、母方の祖母がみんなに料理を作ってくれ、それを振る舞いながらもみんなには午後6時には帰ってもらうことを伝えておかなければいけないと思った。とりあえず今同じ部屋にいる2人にはそれを伝え、別の部屋にいる友人たちにも連絡をしておかなければいけないと思った。だが、あまりの気持ち良さに本当に眠りの世界に入ってしまい、スチームバスの温度も最適で、程よく発汗しながらぐっすりと眠ることができた。目覚めてみると、もう友人たちはどこかに消えていた。それに気づいた時、私の体は近くの駅にあって、駅から自宅に向けて歩いて帰っている最中だった。私の横には小中学校時代の友人(HO)がいて、彼と結婚について話をしていた。すると、同じ大学の後輩の若い女性が私たちの話を興味津々に聞いていた。彼とは、さて結婚はどうしようかねと話をしていると、近くにいたその彼女が何か提案をしたそうに笑みを浮かべていた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2022/6/22(水)06:40


8647. 痛みや苦痛の意味/日和見菌としての人間存在


痛みや苦痛から出発すること。現代のように、痛みや苦痛を和らげることに過剰に躍起となり、痛みや苦痛の意味や価値を考えることなくそれを抹消しようとする社会の在り方に反抗しながら、痛みや苦痛の中にある実存的な意味に目を向け、そこから自らの実存的な物語を紡ぎ出していくこと。一時的に苦痛を緩和しようとする社会の在り方を冷静な眼差しで見つめてみると、痛みや苦痛の深層的な意味が自ずから浮かび上がってくる。中世に活躍したカトリックの神秘家アビラの聖テレサが、痛みや苦痛の中に神を見出していたことを思い出そう。彼女は、痛みや苦痛と神の間に重要な関係性を見出していたのである。痛みや苦痛というのは、本来計測不可能なものであり、主観的な産物なのだ。痛みや苦痛を守るということは、主観性を守ることにつながるのではないだろうか。少なくとも、現代社会のように、痛みや苦痛を忌み嫌い、それを抹消するような方向性はどこかおかしい。


ふと時刻を確認すると、時刻はまだ午前9時であった。今朝も読書が捗り、オットー·ラスキー博士との協働プロジェクトに関する音声ファイルをいくつか作成していた。その前にはそういえば、主語を人間ではなく惑星や宇宙に置き換えてみると、人間がウィルス的な存在として見えてくることについて日記を書き留めていたように思う。もう少し厳密には、人間は腸内細菌のようなものなのだろう。人間存在は、善玉菌にも悪玉菌にもなれる日和見菌的な存在なのだ。現代においては、どうも悪玉菌としての振る舞いが著しく、それは生態系の危機的な状況を見れば一目瞭然である。人間が他の存在に変容することは難しいであろうから、どのようにすれば善玉菌の割合が増え、腸内細菌全体としてのエコロジーが調和的なものになるのかを考えていくしか方法はないのかもしれない。フローニンゲン:2022/6/22(水)09:23


8648. 痛みや苦痛と真実/受苦としての情熱


痛みや苦痛について引き続き考えている。それが本質的には主観的なものであり、本来は意味を有しているものであることを考えると、痛みや苦痛から意味を剥奪することの危険性を思う。現代人が慢性的な痛みや苦痛を抱えているのは、そうしたところに由来があるのではないだろうか。治癒の本質は、意味を通じて実現されるという点にある。ロゴセラピー(意味中心療法)はまさにその本質に則ったものであり、人間の心身は意味を通じて癒されるという側面が必ずある。そうした性質を蔑ろにし、痛みや苦痛から意味を剥奪するというのがいかに馬鹿げたことであるかが見えてくる。意味の復権は、痛みや苦痛という現象に対しても当てはまることなのだ。


ビョンチョル·ハンは、真実には苦痛が付き物であると指摘している。とりわけ真実が自分の実存や霊性に迫るものであればあるほどに、そこにはある種の痛みが付き纏うというのは確かにそうかもしれない。そして人間は、そうした痛みを通じて自らの実存性や霊性を深めていくという性質がある。ここにおいてもまた、痛みを骨抜きにし、真実から遠ざかってしまうことの危険性を見る。現代のポスト·トゥルースの時代においては、ソーシャルメディアの巧みなアルゴリズムテクノロジーを通じて、自分が信じたいと思う情報しか目の前にやってこない状況になっており、そこには自己に痛みをもたらす真性の真実は存在しておらず、人々はますます自閉症的になり、自らの実存性や霊性は未熟なままに温存される。そのような社会状況の絵図が脳裏に浮かぶ。


生を豊かにする情熱。語源的に見れば、情熱(passion)という言葉は、ラテン語の"Passio"という言葉から派生し、それは“suffering”という言葉に由来する。情熱は、苦を受け入れることから始まり、情熱は受苦なのである。苦痛を回避する傾向を加速させる現代社会においては、情熱を持って生きることはますます困難になってしまうのではないだろうか。情熱的な生は、苦を引き受けることから始まるということを、そして情熱的な生は痛みを通じて燃え上がるということを再度確認する必要があるように思う。フローニンゲン:2022/6/22(水)10:04


8649. 痛みを通じた存在規定/痛みと学習


主観性の産物である痛みは、自分が何者であるかを知らしめてくれる。痛みを通じて、自分は自分が何者であるかがわかる。存在規定に痛みは重要な役割を果たすのだ。逆に言えば、痛みがなければ、私たちは自らの存在を規定し得ないのではないかと思う。現代の実存性の崩壊というのは、痛みの緩和と撲滅を加速させる社会の構造的な病理と密接に結びついているように思う。


晴れ。今日は晴れだ。すこぶる天気が良く、フローニンゲン上空の空には一点の曇りもない。今日は午後に、旅行後初めてジムに行く。ジムでジークンドーのトレーニングをする予定だが、武術の鍛錬において、痛みを通じて学ぶことがどれほど大事かを痛感する。これはひょっとすると学びの本質なのかもしれない。人は、痛みを通じて学習する生き物なのかもしれない。学習というものがそもそも自らの中にある新たなものを見出していくプロセスであり、そこには必然的に発見という名の産みの苦しみが内在している。そして、そうした発見を生み出すことが異質な考えや感覚、異質な存在との出会いであることを考えれば、そこに何らかの痛みが伴うのは必然的なことのように思える。ここでもまた痛みの重要性を見出す。痛みは深層的な学習にとって不可欠のものであり、痛みを緩和し、取り除こうと躍起になる現代社会は、人間から学習機会と学習そのものを剥奪する社会だと言えるのではないだろうか。痛みと共にあり、痛みを通じて学んでいくこと。その姿勢を保持し続けたいものである。フローニンゲン:2022/6/22(水)10:18


8650. わずかな変化がもたらすもの


時刻は午後4時を迎えた。今日は大変天気が良く、気温は21度ぐらいまでしか上がっていなかったが、太陽の光のおかげで随分と暖かく感じた。街ゆく人々は軒並み半袖で出かけていて、自分もまた半袖半ズボンを着てジムに行った。今日はいつもと違い、ジムの鏡のある部屋とダンス用の部屋に先客がいて、そこを使うことができなかった。そのため、オープンスペースでジークンドーのトレーニングをしていた。ジークンドーには秘儀的な側面もあるので、あまり人前で技を見せたくはないのだが、そうは言っておられず、自分のトレーニングに集中した。ちょうど今週の日曜日にロビンさんとのプライベートセッションがあるので、それに向けて鍛錬をしていった。先日の旅行中にも毎日少しの時間を作ってジークンドーのトレーニングをしていて、継続の大切さを実感する。トレーニング後、サウナに入ると、そこにも先客がいて、自分がサウナ室に入ると、彼に話しかけられた。どうやら先ほどオープンスペースでトレーニングをしている様子を見ていたようであり、何をしているのか気になったそうだった。ジークンドーの鍛錬をしていたことを伝えると、彼はジークンドーを知っていたので嬉しくなった。どうやら彼はブラジリアン柔術を以前行っていて、怪我によって今はそれを行っていないらしかったが、マーシャルアーツへの関心は高いとのことだった。そこからは彼とジークンドーを含めたマーシャルアーツの話をしていた。今日はいつもと違うスペースでトレーニングをし、それがきっかけでサウナ室での会話が生まれたことを興味深く思う。何かを変えると、新たな何かが生まれることを改めて思う。継続することは継続しながらも、何気ない変化を時折取り入れると、思わぬことが生まれることを教えてくれるには十分な出来事だった。フローニンゲン:2022/6/22(水)16:16

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