No.3725 夕暮れの宇宙_The Universe at Dusk
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1605, A Beautiful Morning in Kaunas
A beautiful morning has come to Kaunas.
The tranquility and peacefulness are superb.
They invite me to a meditative state of consciousness.
Kaunas; 07:57, 6/14/2022
No.1606, After the Rain
After the rain, bright time and space have opened up.
Deep fulfillment and joyfulness come from the rich time and space.
I can see the center point.
Kaunas; 10:46, 6/14/2022
No.1607, Čiurlionis’ Art Work
How powerful it is!
Every Čiurlionis’ art work comes into the depth of my being.
What a great nourishment it is!
M.K. Čiurlionis Museum of Art; 11:42, 6/14/2022
No.1608, Multi Ontological Layers
There are multi ontological layers of friendship and love.
We have to start with the lowest and closest dimension to us so as to attain the highest dimension.
M.K. Čiurlionis Museum of Art; 11:53, 6/14/2022
No.1609, Expansion of My Imagination and Creativity
My imagination and creativity are immensely stimulated and activated by Čiurlionis’ art works.
My artistic self will be reborn soon.
M.K. Čiurlionis Museum of Art; 11:59, 6/14/2022
No.1610, For My Stupidity and Creativity
Everywhere can be transformed into a safe and private space for my stupidity and creativity.
M.K. Čiurlionis Museum of Art; 13:38, 6/14/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8606.【カウナス旅行記】カウナスの風と小鳥たちの鳴き声/昨日の記憶
8607.【カウナス旅行記】朝食の楽しみ/今朝方の夢
8608.【カウナス旅行記】脳の組成の変化/プロテスタント主義と労働観及び観想的な余暇的生活
8609.【カウナス旅行記】余暇と観想/社会の病理的構造と知性の適用範囲
8610.【カウナス旅行記】存在の階層構造の最も高いところへの眼差し
8611.【カウナス旅行記】嘆き
8612.【カウナス旅行記】国立チュルリョーニス美術館での素晴らしき体験
8613.【カウナス旅行記】カイロス時間に佇んで/感覚の開発・涵養
8606.【カウナス旅行記】カウナスの風と小鳥たちの鳴き声/昨日の記憶
時刻は午前6時半を迎えた。今、カウナスの空にはうっすらとした雲がかかっている。ホテルの部屋の窓を開けると、ひんやりとした風が入って来て、同時に小鳥たちの鳴き声も聞こえて来た。どこに行ってもそよ風があり、小鳥の鳴き声を聞くことができること。その尊さと有り難さに感謝をしたい。自分の心がとても落ち着いているから風を感じ、小鳥たちの鳴き声を聞くことができるという側面もあるだろう。そうであれば、自分の心そのものにも感謝をしなければならないし、自分の心をそのように落ち着いたものにしてくれている全ての働きにも感謝をしたい。
現在宿泊しているヴィクトリアホテルはとても落ち着いていて、雰囲気が良い。ここを選んで正解であった。ホテルの受付から部屋に向かうまでの廊下には現代アートの絵画作品が飾られていて、それらを眺めることもまた目の涵養となった。また、一番驚いたのは、割り当てられた部屋のベッドの背景がピエト·モンドリアンの作品だったことである。もちろん原画ではないが、モンドリアンの代名詞とも呼べる作品の複製がベッドの背後に大きく飾られていて、とてもお洒落である。部屋の照明の感じも大変好ましい。
昨日カウナス空港に到着した時の記憶がふっと蘇って来た。アイントホーフェン空港で、初めて無人チェックインカウンターを使い、そこでスーツケースを預けることになった。カウナス空港に到着し、速やかにスーツケースをベルトコンベアで受け取ることができたので、予定通りのバスに乗れるかと思った。バスがやって来るまで時間があったので、ヴィリニュスで購入したバスカードを空港内のキオスクでチャージしようと思って店員の女性にお願いしたところ、それはヴィリニュスでしか使えないカードとのことだった。親切にも女性は、チケットの購入の仕方を教えてくれ、バスの運転手から直接購入すればいいとのことだった。金額は片道1ユーロとのことだった。バス停に到着すると、しばらくしてバスがやって来た。どうやら事前にアプリをダウンロードしていれば、片道が0.7ユーロになるとのことであり、アプリを機械にかざして乗車する人たちの姿もちらほらいた。おそらく彼らは現地人なのだろう。旅行者は1ユーロのチケットを購入しようと、クレジットカードやデビットカードを出そうとしていたが、どうやら現金しか受け付けていないようだった。カウナスのバスはアプリで乗れる側面もありながら、まだ現金でチケットを購入しないといけない側面もあり、テクノロジーが発達しているのかしていないのか、なかなか判断が難しいなと思って少し笑みが溢れた。バスに乗車すると、機内でも気づいたが、アイントホーフェンからやって来たオランダ人が結構いて、当初はカウナスに行く人はほとんどいないと思っていたので意外であった。そこからバスに揺られ、景色を堪能しながらホテルに辿り着いた。そのような記憶がふと蘇って来た。カウナス:2022/6/14(火)06:59
8607.【カウナス旅行記】朝食の楽しみ/今朝方の夢
時刻はたった今、午前7時を迎えた。今日から本格的な観光が始まる。観光予定について書き留める前に、今日はホテルの朝食も楽しみであることを述べておきたい。アイントホーフェンのホテルでは朝食をつけることをしておらず、それでいて日中は結構歩き回っていたので、午後になるとお腹が空くことがあった。今回カウナスで滞在しているホテルでは、朝食をつけいて、中庭のあるお洒落なレストランでの朝食が楽しみだ。生憎今日は曇りであり、昼前から小雨が降り始めるようなので、中庭で朝日を浴びながら食事を楽しむことは出来なさそうだが、ビュッフェ形式なのかオーダー形式なのかを含め、どのような食事を味わうことができるのか、今から楽しみである。五感を研ぎ澄ませ、落ち着いた心でゆったりと朝食を味わうことは、観想的な生き方の実践となる。それは、現代社会の様々な病理に対抗する重要な実践であり、そのことを意識しよう。ここで残念なのは、本来食事を観想的に摂ることは当たり前だったはずであり、それが現代社会の病理に対する実践に変容してしまったことである。元来食事は実践と呼ぶような大袈裟なものではなかったはずであり、それそのものを楽しむだけで完結してはずなのだ。そのように考えてみると、社会の変化は、人間の行動の種類と意味、そして付帯される機能まで変化させてしまうようだ。
カウナスに滞在した初日の夜に見た夢。それは少し断片ながらも何か意味を持っているように思われるものだった。夢の中で私は、小中高時代から付き合いのある親友(SI)と何か重要な話をしていた。しかしそれは深刻なものではなく、お互いの表情は柔らかく、楽しみながら話をしていた。話の内容は確か、将来のことだっただろうか。親友の彼の英語力に関する話や、彼が希望する留学や海外生活の話を中心にしていた。英語の勉強にせよ、留学にせよ、海外生活にせよ、それらは全て自分が経験済みのものだったので、私は自分の知見を惜しみなく彼に共有した。彼はそれを喜んでいて、話が終わる頃には、彼の内側に活力のようなものが沸き起こっていることに気づいた。そんな夢を見た後に、今度は2人の別の友人(NK & HY)が現れる夢があった。私は彼らを見守る存在としてその場にいて、彼らは仲良く話をしていたかと思ったら、突然喧嘩をし始めた。ただし、それは殴り合いのような喧嘩ではなく、お互いの能力を披露し、競い合うような形で行われた。具体的には、2人は変身し、人間と動物の合体したような姿となった。どうやらその姿になると特殊能力が使えるようだった。そこから2人は、目の前にある河を泳いで渡っていこうとした。どちらが先に対岸に辿り着けるかを競争し始めた時、私の後ろから子犬の鳴き声がした。後ろを振り返ると、そこには小さくて可愛い子犬がいた。私はその子犬と一緒に、河を泳ぐのではなく、河の上を走って行こうと思った。どうやら私にもそのような特殊な能力があるようだった。河の上を順調に走り始めたところで夢の場面が変わった。今朝方にはその他にも夢を見ていたような気がする。むしろ、今思い出せないそれらの夢の方が重要な意味を持っていたような気がしている。何か思い出せることはないか、もう少し振り返ってみよう。夢と向き合うこともまた、現代社会の記憶の改変傾向への対抗手段となる。カウナス:2022/6/14(火)07:16
8608.【カウナス旅行記】脳の組成の変化/
プロテスタント主義と労働観及び観想的な余暇的生活
時刻はゆっくりと午前8時に近づいている。あと1時間したら朝食を食べに1階のレストランに向かおうと思う。部屋の窓からレストランを眺めることができ、宿泊客たちが思い思いに朝食を楽しんでいる姿が見える。ゆったりとした朝の時間を味わい、落ち着いて朝食を摂っている彼らの様子はとても好ましい。先ほど朝の創作活動をしているときに、自分の脳の組成の変化を感じた。それは旅の効果だろうか。また、ここ最近は英語の発話能力の鍛錬として、毎日随分と英語を口に出していたので、それが脳の組成の変化をもたらしたことも考えられる。いずれにせよ、旅の意識状態と相まって、脳がまた新たな神経ネットワークを活発に構築している様子が窺える。
昨夜、禁欲的なプロテスタント主義は、仕事を救済と結びつけるが、そもそもの出発点として人間は原罪を負っているというよりも、神道的に人間は光の存在として最初から解放されていると発想の転換をしてみると、どのような在り方で日常を生きることができるだろうかということについて考えていた。そのようなことを考えさせたのは、これまでの自分はどうも自然と、禁欲的なプロテスタント主義的な生き方をしていたように思ったことが関係しているだろう。人間が原罪を負っているというのは、そもそも宗教の普及の論理として置かれた考え方のようにも思えて来て、それが巨大な宗教体系の中に組み込まれることを通じて、いつの間にか原罪説が大きな力を持つ物語機能を有し、それが私たちの意識に知らず知らず大きな影響を与えているように見える。そもそも資本主義がプロテスタントの思想と密接に関係していることからすると、原罪説の物語の力はキリスト教国ではない日本においても他人事ではないのである。自分もまたそのようなナラティブに影響を受けていて、それに自覚的となり、最近は余暇、仕事、労働について考察を深めようとしている。そんな中で、今後AIを含めたテクノロジーの発達に応じて、日々の仕事に忙しく従事するのではなく、日々の生活を労働中心に営むのではなく、余暇中心に切り替えていくこともまた人間にとって重要なのではないかということについて考えていた。ビョンチョル·ハンが指摘しているように、古代ギリシャから中世にかけては、観想的な生き方が労働的な生き方を遥かに上回る価値を有していた。だが、そこに回帰するというよりも、観想的な在り方を現代的にさらに深めた形で、つまり古代ギリシャ的な観想的生き方を含んで超えるような観想的生活を送っていくことができるかどうか。それがこれからの人間の在り方に求められるのではないかと思う。いや、それができなければ人間はもはや動物や機械以下の存在になってしまうだろう。ハンは内省と観想を人間存在の本質に据えており、現段階においてはその考えに大きく賛同している。今このように執筆している日記にせよ、創作活動にせよ、全てが内省と観想と結びついていて、形として生まれてくる表現物は、内省と観想の産物なのである。上記の事柄は、カウナスの旅の中でもまだまだ考察を深めていきたい。プロテスタント主義的な在り方と仕事や労働との関係、そして現代に求められる観想的な余暇的生活の特性とそれをいかにしてい営むのかについて考えていこう。カウナス:2022/6/14(火)08:09
8609.【カウナス旅行記】余暇と観想/社会の病理的構造と知性の適用範囲
緩やかな時の流れが心地良い。カウナスの朝はとても落ち着いている。アイントホーフェンで滞在していたホテルは、駅が近く、そして街の中心部でもあったので、午前中からすぐに賑やかになり始めていたが、カウナスのこのホテルはどうもそうではなく、一日中静かなようだ。アイントホーフェンのホテルは部屋が通りに面していて、車の走る音が聞こえて来たりもしたが、今宿泊しているホテルは道から奥まったところにあるので、通りを走る車の音は聞こえない。それが静かさをもたらしてくれている。
余暇と観想。これを古代ギリシャ的な意味を超えて、さらに一段と深いものとして大切にすること。余暇と観想がない人生は奴隷の人生であり、そうした奴隷を生み出す構造は、今から何千年も前の文明の誕生時代から変わっていないのかもしれない。現代人を眺めてみたときに、どれだけ多くの人が日々余暇と観想を味わっているだろうか。残念ながら、それらは現代人から剥奪され、そこにあるのは際限のない駆り立てである。成長や成果への駆り立て。時間への駆り立て。そうした駆り立てを行う駆り立て屋は、社会の中に非中央集権的に分散されていて、グローバルな規模を持つ。イギリスの思想家のティモシー·モートンの言葉を借りれば、それもまたハイパーオブジェクトと言えるのではないだろうか。もちろん、モートンが用いた言葉の定義からすると、全てに合致するわけではないが、余暇と観想を巧妙に収奪し、現代人を目標や成果へ駆り立て、自由のない奴隷に化していく目には見えない巨大な社会的仕組みは、ハイパーオブジェクト足りえるのではないかと思う。
そのようなことを考えながら、弛まぬ学習や実践を通じて獲得された知性をある限定的な領域に対して活用するのではなく、その対象領域を拡張して適用することの大切さについて考えていた。現代は、知性の適用範囲すらも社会的な仕組みによって規定されてしまっているのだ。知性の自由な発揮の規範的側面についてはさらに考えていかなければいけないが、少なくとも現代のように、ある知性を極めて限定的な領域や対象に押し留めて適用させる風潮と仕組みは、決して健全なものと言えないだろう。少しばかり内省と合理的知性を働かせてみれば、この社会の隅々に存在している病理的な構造に気づくはずだが、それに気づかないというのもまた、自らの知性が制限を受けているからである。むしろ社会は、そうした病理的構造を巧妙に隠蔽したいと望んでおり、ひとたびそうした構造を発見し、それを指摘しようものなら、社会から異質な存在として見做されてしまうことが多い。そうした目には見えない風潮が蔓延ることに応じて、人々の知性はますます限定的な対象にしか発揮されることなく、結果として社会の病理的構造は温存され続ける。余暇と観想の享受。そして、知識の拡張適用の実現に向けて、今日もまた探究と実践を前に進めていこう。この社会への関与の思いが日々強まるばかりであり、それは旅の空の下であっても何ら変わりない。カウナス:2022/6/14(火)08:49
8610.【カウナス旅行記】存在の階層構造の最も高いところへの眼差し
都会の喧騒から離れた観想的な生活。旅の最中にあって、そうした生活が実現されている。カウナスはとても落ち着いた町であり、リトアニアの歴史と穏やかさが体現されている。もちろん、それは今の時代に生きる自分が感じていることであり、この国もこの町もまた、過去に過酷な歴史を経験したことを忘れてはならない。先ほどホテルのレストランで朝食を摂っているときに、今自分が味わっている観想的な生活風景とは遠くかけ離れた生活を営まざるを得ない人たちのことを思った。とりわけ、今もまだ継続しているロシアとウクライナの戦争に巻き込まれた人たちや、アメリカのテキサス州で行った悲惨な銃事件の被害者の人たちは、観想的な生活などとは言っていられない過酷な状況に置かれているのである。結局のところ、今の自分が味わっている観想的な生活というのは個人の次元に留まったものなのだ。ロイ·バスカーの批判的実在論の観点からしたら、存在の階層構造の最も底辺の存在次元の体験として観想的な生活が実現されているに過ぎないのだ。私たちがこの世界で生きていく際に、この世界で生じる全ての出来事を体験することはできない。出来事は存在の階層構造が体験よりも1つ高いのだ。そして重要なことは、そうした自分が体験できない出来事に目を向けながらも、個別具体的な出来事に意識を埋没させるのではなく、存在の階層構造の最も高いところにある、そうした出来事を生じさせる力や構造に眼差しを向けていく必要があるのだ。文明学の探究者として、そして実践者として、存在の階層構造の最も高い場所を見据えて日々の研究と実践に従事していく。そのようなことを考えていた。
ホテルの朝食とはとても美味であり、1時間弱かけてゆっくりと味わった。午前9時前にレストランに降りていくと、人はほとんどおらず、とても空いていた。今は別に観光シーズンではなく、平日の始まりでもあるから、宿泊客もそれほどいないのだろう。それが逆に自分にとっては有り難い。さて今日は、午前11時頃をめどにホテルを出発し、国立チュルリョーニス美術館に向かう。今回のカウナス滞在で最も楽しみにしていたのがこの美術館である。気の済むまで作品鑑賞を楽しんだ後に、この美術館と目と鼻の先にある悪魔博物館に足を運びたい。この博物館には、世界の様々な悪魔に関する展示品が所蔵されていて、世界の文化比較の観点でもそうだし、悪魔という存在についても自分なりに理解を深めたいと思う。今日はこの2箇所をじっくり巡り、帰りにスーパーに立ち寄って、今夜の夕食を購入しようと思う。カウナス:2022/6/14(火)10:06
8611.【カウナス旅行記】嘆き
非常に嘆かわしいこと。本来、内省と観想が人間存在の本質として見做されていた時代は過去のものとなり、むしろ無知と堕落した知性、そして奴隷的生活が人間の本質となってしまった現代社会の有り様はとても嘆かわしい。自分の内側で嘆きの声が蠢いている。そこから自分の問題意識も学習も実践も、マグマのように吹き上げてくる。奴隷的労働者と消費者は、互いに共通した性質を持っているとビョンチョル·ハンは指摘する。彼らに共通しているのは、時間を食い潰し、観想的な在り方が剥奪されていることである。おそらく現代人のほぼ全ての人が奴隷的労働者であり、尚且つ消費者に堕していることがわかる。自分もまたその魔の手から完全に逃れ切れているとは言えない。そうした魔の手に立ち向かっていくこと。自分の観想的な生活を守りながらも、それを単に個人のレベルで守るだけではなく、集合的なレベルで守っていき、そして魔の手を超克していくこと。そこに向けた活動に十全に従事していくこと。自分の全ての取り組みはそこに向かうものである。
晴れ間が差し込んできた。早朝にカウナス上空を覆っていた雲が晴れてきて、今、朝日が地上に降り注いでいる。煉瓦造りの洒落たホテルの外装に朝日が照らされる姿は美しい。美術館に行かなくても、この建築そのものが1つの芸術作品であるように思えてくる。そうなってくると、街の景観や自然の景観の中にある芸術性を見出していかなければならないという気持ちになってくる。ここでふと、果たして自然を芸術的なものとみなしていいのかと考えさせられた。自然は芸術を超えたものなのではないかという考えが脳裏をよぎったのである。芸術の歴史を紐解いてみると、そこには人間が自然と向き合い、それを乗り越えようとした形で芸術が発展していった姿を見ることができる。そうなってくると、本来自然と芸術は相容れないものだったのかもしれないという考えが芽生える。もちろんそれらは対立関係にあった頃も存在していただろうが、関係はもう少し複雑な様相を見せながらも、やはりどこかで自然と芸術の間には一線を画す境界線のようなものがあったように見える。最終的には、人間もまた自然の産物であるから、人間こそが自然の芸術作品であるという見方も生じてくる。それにしても、自然が産んだ人間という芸術作品は、今このようにどうしようもないほどに堕落し、惨めな存在に成り下がってしまっているのはひどく嘆かわしいことである。自然もまた完全ではないのだろうか。あるいは不完全さを含んでいるがゆえに真に完全な存在だと言えるだろうか。現代人のこの退廃した不完全性を抱擁している自然の偉大さには深く感服する次第だ。
明るさ。差し込む太陽の光の美しさよ。それが真の光であるならば、人間の心の深い闇を照らし尽くして欲しい。人間は一度、その眩しさに失明をした方がいいのではないかと思う。現代人は、虚構かつ幻想的な夢をその濁った目を通して見続けているのだから。その目を一度失明させて初めて大切なものが見えてくるのではないかと思う。現代人に真に必要なことは失明だったのだ。それによって自身の内側にある種々の感覚が芽生え、新たな眼が発現されてくるだろう。それこそが自己と世界を広く深く見つめる観想的な眼なのだ。カウナス:2022/6/14(火)10:33
8612.【カウナス旅行記】国立チュルリョーニス美術館での素晴らしき体験
時刻は午後4時を迎えた。今、大満足な形でカウナスの観光を終え、ホテルの自室に戻ってきた。幸いにも今日は、天気予報と異なって、雨に見舞われることがなかった。厳密には、自分が美術館の中にいる時に通り雨が降り、外を歩いている時には一度も傘を差さずに済んだのである。こうしたところにも自分の運の良さを見る。
さて今日はまず最初に、今回のカウナス滞在の最大の目玉である国立チュルリョーニス美術館を訪れた。ここでの体験が非常に素晴らしく、今から書き留めることはその体験を組み尽くすことはできないと思われるので、あえてその体験の外観を素描していく。ホテルを出発して、すぐに動画を撮影し始めた。現在協働中のアントレプレナーファクトリーさんから支給してもらった動画撮影機材のGo Proを活用して、旅に関するセミナーに向けて動画を撮影していくことは旅の日課となり、また楽しみとなった。Go Proを片手に、自分の目線で動画を撮影していくことにより、動画を見てくれた方は自分の目線で旅の一端を追体験してもらえることができたら幸いであるという思いで動画を色々な場所で撮っている。
カウナスはリトアニア第2の都市とあって、町の中心部は小綺麗でありながらも歴史を感じさせ、とても雰囲気が良い。人口密度も高くなく、観光客もそれほど多くないので、落ち着いて街を観光するにはもってこいである。結局、国立チュルリョーニス美術館に行くまでに2つの動画を撮影した。美術館に到着し、チケットを購入すると、すぐさまチュルリョーニスの作品が展示されている場所に向かった。チュルリョーニスの作品世界が好きな私にとっては、そこはもう夢の世界のようだった。作品の展示の仕方や照明の雰囲気等を含め、チュルリョーニスの一連の作品がどれも眩く光っているように感じられた。先日訪れたヴィリニュスですでにチュルリョーニスの立派な画集を購入しており、その画集に掲載されている作品を直に見れたことは本当に幸運であった。特に私は、“Fairy Tale (1907)“という作品が好きで、ミュージアムショップのデジタル絵画かポスターを購入しようと思ったほどである。ポスターは持って帰るのに少しかさばりそうだったので、Tシャツでも購入しようと思ったが、自分の体型に合うSサイズがなく、購入を見送り、その代わりに12枚入りのポスターカードを購入した。これについては、フローニンゲンの自宅の玄関辺りに飾ろうと思う。ミュージアムショップでは、チュルリョーニスが作曲したコラールの楽譜も1冊購入し、今夜からの作曲実践で少し参考にしてみようと思う。
この美術館のカフェは雰囲気があり、そこで1杯のコーヒーを飲んだ。濃いコヒーは正午過ぎの自分を寛がせるには十分だった。ぼんやりと美術館の庭とそこに置かれている彫刻を眺めながらコーヒーを飲んだ後に、地下一階のフィルム室に行こうと思った。そこで、チュルリョーニスの絵画の世界の中に入り込んでいけるVR技術を活用した体験型のフィルム"Trails of Angels: https://youtu.be/VZ3T-FXDvbE"が上映されることになっていて、美術館に到着してそれを知ったのですでに予約していたのである。しかしその前にもう少し時間があるなと思ったので、もう一度チュルリョーニスの作品が飾られている場所に行き、全ての作品を再度鑑賞しようと思った。すると、幸運なことが起こった。その展示場所のすぐ近くにあるミュージックホールで、男性のピアニストがチュルリョーニスのピア曲を演奏し始めたのである。その音色はとても幻想的で、音楽世界の中にしばらく陶酔的に入り込み、しばらくして我に返り、演奏場所を後にして、依然として鳴り響いているピアノの音色を聴きながら、チュルリョーニスの全ての所蔵作品を改めて見て回るという幸運に恵まれたのであった。その後、VRフィルムの上映の5分前になったので、地下に降りていき、その作品を体験的に鑑賞した。私以外の客は全てリトアニア人で、20人ぐらいいた。受付の女性がリトアニア語で解説した後に、私のために特別に英語でも説明してくれた。VRヘッドセットの使い方と、25分間の上映中にどのように鑑賞したらいいのかの説明を受け、いざ上映が始まると、チュルリョーニスの絵画作品と背後に流れている音楽に没入し、不思議な意識状態に誘われた。今回初めてVRの世界に入っていったので、これは本当に素晴らしい体験であった。自分でもVR技術を使った創作活動をしたいと思わせてくれるきっかけにもなり、美術館を訪れた時に館内をウロウロした時に偶然通りかかった上映会場で、受付の彼女にこのVRフィルムについて説明を受けなかったら、このような素晴らしい体験はできなかった。そのことを思って、帰り際に彼女には深い感謝の気持ちを伝えて美術館をあとにした。今日はとにかく、チュルリョーニスの世界に全ての感覚を通じて没入できた素晴らしい日であり、今日の体験は一生の思い出になるだろう。カウナス:2022/6/14(火)16:35
8613.【カウナス旅行記】カイロス時間に佇んで/感覚の開発・涵養
今日は曇りがちであり、観光から帰ってきてホテルの自室に戻ってきてからは少し雨が降っていた。だが、時折晴れ間も見えていたことは確かであり、夕食を獲り終えた頃には太陽がそっと顔を覗かせていた。その姿を見た時に、どこか心が緩み、思わず微笑んでしまった。こうした1つ1つの瞬間を大切にして味わうこと。画一化された時間の流れに埋没しないこと。自分自身の固有の感覚を見出すこと。今日訪れたチュルリョーニス美術館で見た作品の解説文の中にあったように、クロノスではなくカイロス時間を大切にすること。前者は機械的な標準化された時間であり、後者な内的な固有の時間である。自分固有のカイロス時間に絶えず佇んでいると、自分の魂は心底喜ぶ。それは当たり前のことかもしれないが、魂の養分になるのはカイロス時間なのだ。逆にクロノス時間は、魂を窒息させてしまう。私たちの魂には固有のカイロス時間があるにもかかわらず、多くの人たちがこうも標準化された機械的時間に自らの存在を委ねてしまうことの問題を見る。そうさせてしまう背後にあるメカニズムと構造を見極めること。記憶の改変と相まって、時間の改変も同種の構造的問題があるはずだ。
微細な音を聴き分ける音楽家。微細な香りを嗅ぎ分けるソムリエ。微細な危険を察知する武術家。具体例を挙げれば切りがないが、人はある特定の感覚を研ぎ澄ませていくことができる。自分は果たしてどのような感覚を研ぎ澄ませているのだろうか。今現在進行中の旅も、必ず何かしらの感覚を研ぎ澄ませているはずなのだ。五感全てが育まれている感じがするが、それを細分化してみると、少しばかり偏りがあるかもしれないし、本当に五感全てが均等に涵養されている可能性もある。いずれにせよ、自分がどのような感覚に長けていて、日々どの感覚をどのように開発しているのかにより注意深くなってみよう。自分の毎日の学習や実践は詰まるところ、感覚の開発·涵養なのだから。そしてそれは、観想的な生の実現とそれを深めていくことに大きく寄与する。
本日時間を取って眺めていたチュルリョーニスの絵画の記憶が頭を離れない。それは感覚としても染み付いている。チュルリョーニスの同時代人にオディロン·ルドンがいるのだが、この2人の画家は自分が最も好きな画家の分類に属し、彼らが生きた時代の芸術の潮流からすると、2人は非常に先端的な絵を描いていたように思う。結局のところ、画家の好みも自分の感覚に合致するかにかかっている。それは生理的なものだし、実存的なものだし、霊的なものである。またそれを言い換えると、波長の合致とでも言えるだろうか。いずれにせよ、チュルリョーニスもルドンも、自分と感覚と波長が合致しているのだ。こうした合致を大切にしていこう。また、不一致な対象に関しても内省に値することも忘れてはならない。明日はまたどのような一致と不一致を体験することができるだろうか。こうした体験を内省材料とし、そうした出会いが増えれば増えるだけ、自分の感覚は磨かれていく。一致に関しては肯定弁証法として、不一致については否定弁証法として、自分の感覚がなんたるかがますます明瞭なものになるはずだ。カウナス:2022/6/14(火)21:05
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