No.3697 黎明期の宇宙_The Dawn of the Universe
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1568, Entropy and Negentropy
We constantly increase both entropy and negentropy.
The harmony and balance are key to living.
Groningen; 15:33, 6/1/2022
No.1569, Uniqueness
The uniqueness of our intelligence and spirituality is secured by that of our body.
If we neglect it, we would lose all of our uniqueness.
Groningen; 15:41, 6/1/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8532. 文明学の緩やかな探究/エネルギー場と存在論について
8533. 今朝方の夢
8534. 好きこそ物の上手なれ/型の意味
8535. 儚さの尊さ/万物の内側の時間を生きて
8536. 書くことと名付けること/多読と精読
8537. 生者の世界と死者の世界の同一性/霊性発達と身体の浄化/意識の指向性と時代のパラダイム
8538. シネマティックコンシャスネス/存在の入れ子のユニークさ
8539. ビョンチョル·ハンの「ハッスルカルチャー」の指摘より
8540. 物質的なものへの過度な批判の弊害/用語集の作成に向けて
8541. 太陽の化身として/できないことの尊さ
8532. 文明学の緩やかな探究/エネルギー場と存在論について
時刻は午前6時半を迎えた。とても冷えた朝がやって来た。昨日と同様に、今朝方も足元からかなり冷えている。暖房が自動で入ってもおかしくないほどの気温であり、6月に入ったものの、まだまだ寒さを感じる日々である。天気予報を確認すると、今日が寒さのぶり返しのピークのようであり、明日からは少しずつ気温が上がり、最高気温は20度前後、最低気温が10度前後の日々が続くようだ。それくらいの気温が一番過ごしやすく、ここからフローニンゲンは良い気候に入っていく。今日もまた読書と創作活動に明け暮れようと思う。読書に関しては、昨日届けられたシュタイナーとマルクスの思想を架橋したものを読もう。そして、バーナード·スティグラーの書籍も何か1冊読み進めることができたらと思う。現代文明の危機的な状況を見ると悠長なことは言っていられないが、探究は緩やかにしか進んでいかないため、決して焦ることなく、毎日少しずつ探究を進めていく。文明学の傘下に様々な学問領域を収めていきながら、日々の読書を進めていく。その際に研究ノートを書き留めていくことについて、先日書き留めていたように思う。それは必ずやっていこうと思う。知識の獲得と表現は一体なのだから。読んだ内容を咀嚼して、自分なりの言葉でまとめていき、それについて自らの考察を少しでもいいので書き留めるという表現行為が、分厚つ堅牢な知識体系を構築してくれる。そのような知識の体系が出来上がって初めて、現代文明に対する有効な処方箋が提示できるのではないかと思う。
今朝方の朝の世界はとても穏やかだ。風が全くなく、無風の世界に木々たちが凛として佇んでいる。彼らの佇まいはとても美しい。気温は低く肌寒さが残っているが、生命力に溢れた新緑の木々を見ているだけで、こちらにも生命力が溢れてくる。きっと彼らとは目には見えない次元で深くつながっているのだろう。だからこそ、エネルギーの共鳴現象が起こるのである。目には見えない生命エネルギーがやり取りされる場所。そんな場所がきっとある。そのフィールドを知覚することができれば、自分を養ってくれるエネルギーとうまく周波数を合わせて、それを取り入れることができる。逆に自分の方から肯定的なエネルギーを送ることもできる。エネルギー場への関心は尽きない。そう言えば、昨日はフランスの代表的な現代哲学者に関する書籍を読んでいたのだが、その中で存在論に関する興味深い言及があった。それをもとにすれば、目には見えないエネルギーが存在する固有の場だけではなく、目には見えない知識が堆積されている場についても容易に想像できる。知識の性質を問う認識論ではなく、知識の存在を問う存在論の観点からすると、抽象的な知識もまた必ず居場所を持って存在しているのだ。数学などの虚数も、現実世界ではあり得ない数であるが、数学空間には確かに存在しているのである。存在の性質は奥が深い。存在論への関心も依然として自分の内側にあり続けている。フローニンゲン:2022/6/1(水)06:56
8533. 今朝方の夢
時刻は間も無く午前7時を迎えようとしている。静謐さに包まれた朝の世界を眺めながら、今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、小中学校時代の友人たち数名と、あるロゴのデザインのコンテストに参加していた。私たちは順調に審査に通っていき、決勝戦に駒を進めた。そこで最優秀賞を獲得すれば、そのデザインが企業の商品に使われ、世界的に自分のログが知られることになる。それを目前として、決勝に進んだそれぞれの人たちは、自分のプレゼンの準備に余念がなかった。審査員へのアピール時間の際に、私の隣には外国人の若い女性がいて、彼女はなんとしても優勝したいという思いが強いようだった。一方の自分は、それほど優勝にこだわっておらず、プレゼンをすることやその雰囲気を楽しむことが一番の目的であった。そんな気持ちでプレゼンをしながらも、心の奥では自分のデザインが最優秀賞を受賞するのではないかと密かな期待もあった。結局蓋を開けてみると、優勝したのは小中高時代の友人(HO)だった。私は素直に彼を祝福し、プレゼンの壇上から降りたところで夢の場面が変わった。
次の夢の場面の舞台は、天空の島だった。そこはリゾート地になっていて、そこで親友(NK)の結婚式が行われることになっていた。そのため、小中高時代の友人たちが数多くその島に訪れていた。もちろんその島には私たちだけではなく、一般のリゾート客も多くいた。しかし日本人は私たちだけであり、その他は外国人のリゾート客であった。いざ結婚披露宴が始まると、宴会が始まったばかりだというのに、友人の1人(KF)が随分と酔っ払っていた。彼は別に酒癖が悪い方ではないので、特に害もなく、むしろ彼が酔っ払っていることは場の雰囲気を大いに和ませた。しばらく披露宴を楽しんだ後に、私は2人の友人(HY & SS)と一緒に、ある部屋の地面に寝っ転がり、壁にボールをぶつけてキャッチするゲームをし始めた。1人がボールを壁にぶつけ、それを隣の人が片手でキャッチするというゲームなのだが、片手でキャッチする時には、必ず交互に別の手でボールをキャッチしなければならないというルール設定にしてあった。それがあると意外と難しかったのか、友人の1人は相当手こずっていた。そのようなゲームに興じた後、気がつくと私は、天空の島を自転車でサイクリングしていた。いや、厳密には、サイクリングを楽しんでいるリゾート客たちの後ろを飛びながら島巡りをしていたと言った方が正確である。彼らには私の姿は見えていないようであり、彼らの話を聞きながら、風光明媚な島の景色を堪能しつつ空を飛んでいた。その際に、私はドイツ人の若い女性に手紙を渡していて、彼女がその手紙を読んで感動し、大切に保管していることを聞けて嬉しく思った。彼女とその友人がゆっくりと自転車を漕ぎながら、自分の手紙の内容について話をしているのを聞いていたのだが、気恥ずかしさもありながら、自分の思いが彼女にちゃんと伝わっていることを思って嬉しくなった。彼女たちが島を一周し、眼下に紺碧の海が見える橋を渡り切った時、夢から覚めた。フローニンゲン:2022/6/1(水)07:12
8534. 好きこそ物の上手なれ/型の意味
好きこそ物の上手なれ、とはよく言ったものであり、自分は日々自分の心を掴んで離さない対象の虜になりながら学習と実践を続けている。愛すること、惚れることには魔力があるらしい。それは理屈を超え、理性を超え、私たちを対象に没入させてくれる。そこでは小賢しい自我が溶解し、自分は大きな存在と合一化することを通じて対象と向き合える。日々の学びも実践も全てそのような状態で営まれている。自分が愛するものだけ、惚れたものだけに時間とエネルギーを注いでいくこと。そうした生活がこれからずっと続いていくことに喜びを隠せない。それは魂の要求事項である。その要求に従っていけば、自分は自らの生を十全に全うできるはずである。
今、小鳥たちが鳴き声を上げている。早朝には朝日が拝めたが、午前9時前に全てを洗い流すかのような激しい雨がしばらく降った。雨が止み、今はまた穏やかな朝の世界が広がっている。静けさの中で、瞑想的な意識を保ったまま引き続き読書に打ち込んでいこう。
少しばかり読書をした後に、再び日記の執筆に取り掛かりたいと思う自分が立ち現れた。対象を愛して、惚れ込む形で学習と実践を続けていった結果として生まれるもの、それがその人固有の型なのだ。型というのは本来そういうものだったのだ。ある対象がたまらなく好きで仕方ないという感情に基づいて学習と実践を続けていると、ある時ふとそれが集積した形で通り道のようなものが生まれる。それが型だったのだ。言い換えればそれは、ある1人の人間が深く愛した結果の行動の軌跡のようなものであり、それはその人固有のものであるがゆえにとても尊いのだ。型の新たな意味が立ち現れたことを嬉しく思う。今日の自らの学習と実践は、深い愛の感情と共に行われるものであり、それが自分固有の型の形成に必ず寄与していく。そして、型を形成していく過程での無上の喜びを感じる時、そこに解放と救済の可能性を見出す。フローニンゲン:2022/6/1(水)09:47
8535. 儚さの尊さ/万物の内側の時間を生きて
何かがずっと永続するとなると、人はきっとそれに対して敬虔な気持ちになることは難しく、それを大切にしようとする気持ちも希薄なものになってしまうのではないだろうか。目の前の景観が今後もずっと続くというような思い込みがある場合、人はその景観を蔑ろにしてしまうことさえある。現代人はひょっとしたら、この世界の儚さを理解する感性を失ってしまったのではないだろうか。万物全てに存在している儚さ。それは生命のみならず、建物のような非生命においてもそうである。全ては等しく有限の命を持っているのだ。人は目の目の前のものが未来永劫ずっと存在するものではなく、流れ星のように一瞬だけ存在するものであると認識して初めて、それを大切にできるのではないかと思う。万物の尊さに気づけないというのは、その儚さに気づけないことを意味していたのである。しかも万物は、一回きりの固有の姿を現す。そこにも巨大の尊さがある。目の前の全てが、生命も非生命も、時間も空間も、一回限りの儚く固有の存在であると深く認識した時、全てに対する尊重と敬意が自然と芽生えるはずである。そうでなければ、感覚が退廃仕切っているのである。そうに違いない。
全ての存在に固有の時間を味わおう。それに気づき、それと深く同化するのである。現代文明は、全ての存在に固有の時間を標準化し、画一化する形で殺戮する。その流れに断固として抵抗し、抗うこと。少なくとも一個人として、自分が交流する全ての存在に対しては、彼らの固有の時間を見出し、それを敬意を持って味わうこと。文明が生み出す歪んだ時間感覚に同調しないこと。こうしたことは全て、明確な気づきの意識を保ち続けていれば可能なことなのだ。それは1つの実践的な処方箋である。外に作られた虚構の時間を生きるのではなく、万物の内側の時間を見出し、そこに生きること。それができて初めて人は、魂の安らぎと寛ぎを感じることができる。その結果滲み出してくるのが、生の喜びと充実感、そして至福さである。味気なく画一化され、暴力的な時間の中で生きないこと。それが今ほど求められる時代はないのかもしれない。この世の中においては全てがグローバル規模で、暴力的な時間に同調してしまっているのだから。フローニンゲン:2022/6/1(水)10:02
8536. 書くことと名付けること/多読と精読
書くことは名付けること。自分の思考や感覚、そして体験に名付けをすることが書くことであり、書くことはそうした名付けの機能によって存在をあらしめる。この世界にそれまでなかったものを生み出すこと、それが書くことなのだ。今このようにして文章を綴っている自分もまた、1人の創造者として、これまでになかったものを形として生み出している。書くことと名付けの関係は非常に重要であり、名付けることによって存在が存在として立ち現れることも注目に値する。
文明学の創出に向けて、読みに読み、書きに書くという生活の到来を感じる。その過程の中で、絶えず文明の治癒と変容に向けた処方箋が見出されるはずである。そもそも書くという行為を通じて対象を客体化した瞬間に、何かしらの治癒と変容の作用が生じているのだ。あとはその作用を高めていけばいいのである。その時の方法もまた書くことだ。大量に読み、大量に書くこと。それを自らに課したい。というよりも、それはもはや自分の内側の要求事項として、巨大な促しとなって自分に向かってきている。
長い間多読をする生活を送っていたが、そろそろ自分の研究にとって重要な文献を絞っていき、精読することを行う必要があるように思う。多読と精読の双方を行っていければ理想的であるが、これまでの読書のスタイルからすると、精読の方にいったん舵を切るのも大切なことのように思える。文明学の創出に向けて、いくつかの領域おける重要文献を吟味し、それらを丁寧に読み込んでいく生活にどこかのタイミングで入ろうと思う。本当に自分の身になり、実践を導く書物の選定をこれから強く意識しよう。すでにいくつかの文献は核になると分かっているが、核となる文献の吟味を余念なく行う。フローニンゲン:2022/6/1(水)10:43
8537. 生者の世界と死者の世界の同一性/霊性発達と身体の浄化/
意識の指向性と時代のパラダイム
そもそもこちらの世界と死後の世界を分けていることに問題があるのではないか、という考えがやって来た。そもそも人間を含めて、生命に内在している魂や霊性というものは、生きている状態においても目には見えない領域に存在しているのであり、死んで初めてそれらが活動する世界があると考えるのはどこかおかしいと思ったのである。端的には、生者の世界と死者の世界というのは同一のものとして絶えず存在しているのではないかと思ったのだ。平田篤胤は、死後の世界というよりも霊魂の世界を探究していたのであって、その姿勢こそ正しいものに思える。生者の世界と死者の世界は同一のもの、少なくとも地続きであるという認識のもと、このテーマについても引き続き探究を進めていこう。
霊的発達プロセスの歩みにおいては、存在の入れ子の全てが浄化されていく。存在の入れ子の下部構造にある身体はまさにその恩恵を受け、逆に言えば、身体を浄化していくことは、霊性の涵養において鍵を握る。身体を蔑ろにして高度な霊性に至ろうとする人をよく見かけるが、それは根本から間違っているのである。身体を蔑ろにした状態で高度な霊性を涵養することはできず、仮に高度な霊性段階に到達できたように思えても、その土台が脆弱なゆえに、思わぬ病理がどこかのタイミングで生じるであろう。身体を蔑ろにしないこと。身体を忌み嫌わないこと。身体を見つめ、身体を鍛え、養いながらにして浄化の歩みを進めていくこと。その大切さを改めて思う。
自分の関心というものが、時代のパラダイムに影響を受けていると自覚すること。関心の向かう先や感覚の向かう先など、およそ意識の全ての指向性は時代のパラダイムの影響を受けている。逆に言えば、個人の意識の特性の中に時代のパラダイムが内包されているという見方もできる。それらはお互いがお互いを含むという関係になっているのだ。時代のパラダイムを見つめるためには、自分の内側のありとあらゆる指向性をつぶさに見つめていけばいい。そうすると、時代のパラダイムの特性が明らかになってきて、自分が何にどのように囚われているのかが見えてくる。文明論の探究をする際には、時代のパラダイムが何かを突き止めていくことが鍵になる。それは集合規模で言えば、学術研究の方向性を定め、政治経済の運用方法を定め、人間の価値観を定めていくものなのだ。文明の病とは、時代のパラダイムの病とも言える。現代のパラダイムの病理は何であり、それをどのように治癒することができるのか。それ向けた最初の一歩として、自分の内側の指向性の観察を通じて、パラダイムの性質を炙り出していくことが挙げられるだろう。フローニンゲン:2022/6/1(水)11:11
8538. シネマティックコンシャスネス/存在の入れ子のユニークさ
時刻は間も無く午後4時を迎える。結局今日は、早朝に突発的に雨が降っただけであり、それ以降は穏やかな天気が続いている。今は、夕方の穏やかさが顕現している。
現在、ヨーロッパで生活していることもあり、米国のニュースにも触れながら、ヨーロッパの最新のニュースを取り上げるBBCのポッドキャストを毎日聴いている。それは別に何か知識を得ることが目的なのではなく、純粋に今自分がいるヨーロッパで、そして世界で何が起きているのかを知りたいのだ。学術的な書物だけを読んでいると、今世の中で何が起こっているのかを見落としがちになるし、今の自分の関心は文明学なのだから、この世界で刻一刻と起こっていることに関心を向けることは重要だ。そのような考え方で、いくつかのポッドキャストの中でもBBCは毎朝聴いている。そこでふと、奇妙な体験が自分の中に起こっているように思えた。ニュースで報道されることは、確かに現実世界で今この瞬間に起こっていることなのだが、それがまるで映画のスクーン上で繰り広げられているように感じられるのである。テクノロジー哲学者のバーナード·スティグラーの言葉を借りれば、自分もまたシネマティックコンシャスネスの影響から逃れることはできないのだと思う。世界で起こっている現象が映画のスクリーン上で展開されるかのように知覚されるこの意識特性は、悪いことでも良いことでもなく、逆に言えば毒薬にも良薬にもなるものである。しかし、現代の傍観者的な無関心的意識は、シネマティックコンシャスネスの毒薬的な側面が強く表に現れたものなのではないかと思う。こうした意識をもたらしているのは、テクノロジーとソーシャルメディアの力によるところが大きいし、そもそも私たちの意識をハイジャックすることで肥大化している現代資本主義の特質によるところが大きい。さて、自分はこのシネマティックコンシャスネスとどのように向き合っていくことができるだろうか。スクリーン上で展開されるように知覚される事象を、どれだけ自分の実存や身体に引き付けて捉えることができるだろうか。そのあたりに挑戦と突破口があるように思える。
それ以外にも先ほど、知性や霊性のユニークさは、身体のユニークさに担保されていることを思った。私たちの知性がユニークなのも、私たちの魂や霊性がユニークなのも、私たちの身体がユニークであることと密接に繋がっていると思ったのである。私たちを構成する存在の入れ子は、各人それぞれ本当にユニークなものだったのだ。個性を認めると言った場合、存在の入れ子の何をどれほど認めているのかを把握しなければならない。往々にしてそうした言説は、その人のほんの表面的なユニークさしか認めていないのだから。そんな欺瞞に満ちた言説に右往左往するのではなく、個人としては自分の存在の入れ子の全てのユニークさを発見し、また他者の中に存在するそれらを発見していくことが重要になるだろう。フローニンゲン:2022/6/1(水)16:10
8539. ビョンチョル·ハンの「ハッスルカルチャー」の指摘より
今日は、バーナード·スティグラーの書籍をじっくりと読み返しながら、エリック·フロムやドイツの哲学者ビョンチョル·ハンの書籍などをつまみ食いする形で色々と再読していた。その中で、ビョンチョル·ハンの指摘は、文明学の探究上、非常に参考になるものが多いことに改めて気づいた。とりわけ、現代人の生活様式を「ハッスルカルチャー」であると指摘し、その問題についての考察は注目に値する。英語の“hustle”という言葉の意味は、日本語の「ハッスル」という意味とは少し異なっていて、元々は「乱暴に押し込む」「無理にさせる」という意味を持つ。まさに現代においては、自分の時間やエネルギーを無理に押し込める形で過労状態にある人間が多いことからも、ハッスルの原義である社会状態が出来上がってしまっていることがわかる。この状態を発達論的な観点で眺めてみれば、それは人間の成長を促すというよりも、全く逆に人間の成長を阻害する要因になっていると思われる。人間が真に成長を遂げていくためには、適切な課題と適切な支援のもと、じっくりと長大な時間をかけて実践に取り組む必要があるが、燃え尽き症候群を助長するような形でなんでも詰め込み、短時間のうちに成果を求めようとする形のハッスル状態は、人間の成長を促してくれることはないだけではなく、それを抑圧してしまうことにもつながる。ハッスルカルチャーにおいてとても馬鹿げているのは、新自由主義的な能力主義と達成主義の発想のもと、ハッスルしている状態がまるで良きものであるかのように錯覚し、自分を壊す方向に追い込んでしまうことである。そこでは、集合的に譫妄状態とも形容できるハッスル状態そのものやその発生メカニズムについて批判的な意識を向けることは皆無であり、さらなるハッスルに向けて自分を奮起するための種々の取り組みが嬉々として行われる。マインドフルネスの実践やヨガの実践、各種のエクササイズなど、ライフハック的なものはどれも全て、さらなるハッスル状態へ人間を駆り立てる道具に過ぎなくなってしまっている。現代においては、情熱というものの矛先がおかしなところに向かっているのではないだろうか。自己の表面的なスペックを高めることに躍起になり、カネを稼ぐことに躍起になる形で情熱が発揮され、そして実はそうした試みそのものがこの現代社会において搾取されていることに多くの人は気づけないのである。そうなってくると、燃え尽き症候群やうつ病など、種々の精神疾患に多くの人が患い、社会が廃れていく速度がより増してしまう。自己搾取的なハッスルカルチャーに自らが取り込まれていないかどうか、それを確認するための最も簡単な方法は、自分自身の寛げる時間がどれだけあるかは簡便的な基準になるであろうし、仕事とは全く関係のない——金儲けとは全く関係ない——自分が本当に好きな活動にどれだけ時間を割いているのかも簡便的な基準になるだろう。おそらく、ハッスルカルチャーに取り込まれ、搾取されている人間には、そのような時間はないはずである。フローニンゲン:2022/6/1(水)16:44
8540. 物質的なものへの過度な批判の弊害/用語集の作成に向けて
私たちはよく、物質的なものを批判するが、物質的なものが何を指すのかを明確に把握しなければ、物質的なものを過度に否定することにつながり、逆に非物質的なものに搾取され、取り込まれてしまうのではないかとふと思った。例えば現代においては、物質的なものを過度に否定すると、非物質的な情報的なものに搾取されてしまうという現象が見られる。これはとても皮肉なことかと思う。人々は物質的なものを否定して手に入れた生活様式が、まるで理想的なものであるかのように錯覚してしまうが、そこではビッグデータによる搾取と管理が水面下で行われていたり、物質的なものとの触れ合いの欠如から、生の実感の欠如などが生じているのではないかと思う。物質的なものを過度に否定することの危険性は、現代の種々の言説を眺めているとよく突き当たることである。この点については引き続き問題意識を持っておこう。生の喜びや充実感の源泉に、肉体的なものや物質的なものがあることを忘れてはならない。重要なことは、物質的なものも非物質的なものも健全に含んで超えていきながら生活を営むことである。
文明学は、思想的な治癒をもたらすものでなければならない。そうした治癒を促し、そこからの文明の変容を促すことを本質に持つ。そうしたことを考えながら、これから文明学の探究をしていくに当たっては、いくつかの重要な思想家の固有の概念に対して、書籍の巻末の索引を使って、それぞれの概念を自分の言葉で説明できるようにすることから探究を始めて行こうかと思った。自分なりの用語集を作ることから着手し、それらの概念を自ら活用できるようになることを通じて、文明の闇に光を当てていく。思想的な治癒を実現するためには、言葉の力を最大限に発揮していかなければならない。そのためには、言葉を大切にすることは言うまでもなく大切になる。自分なりの用語集の作成を地道に進めていこう。フローニンゲン:2022/6/1(水)17:05
8541. 太陽の化身として/できないことの尊さ
時刻は午後8時半を迎えた。今、空は蒼く、夕方の穏やかな世界が目の前に広がっている。ゆっくりと暮れゆく夕日の姿を遠くの空に眺めながら、今日の充実感を思う。毎日が、烈火の如く充実していることに深い感謝の念を持つ。その充実感は太陽のように力強く、自分の生命を熱く燃やしてくれる。太陽の化身として生きること。それが自分の生き方である。
創作活動や旅をすることは、自分にとって文明の病理に対して自らに施す処方箋なのだと思う。これからもそれらを大切にしていこう。そして、そうした処方箋的試みから得られたことを他者に共有し続けていこう。早いもので、来週末からアイントホーフェンとカウナスに行く旅行が始まる。前回のバルト三国旅行から1ヶ月ほどが経ったのだが、その1ヶ月が随分と長く感じられた。それだけに旅を欲している自己がここにいる。旅からの刺激と促しによって、自己はゆっくりとだが確実に変貌を重ねていく。世界の方々を巡る旅によって、自己はまだ見ぬ自己と出会い、世界と新しく再会を果たす。旅というのもまた、文明学の探究と創出に向けてなくてはならないものなのだ。
夕食を準備しながら、この現代社会の歪な側面について考えていた。できることの尊さだけを強調する過度な能力主義を助長する社会には辟易してしまう。それによって、何かができないことによる劣等感を持った人々を大量に生み出してしまう。社会が自らそうした落伍者を産出する仕組みを作っていることに驚いてしまう。できることの尊さを強調することは、能力主義を核とする新自由主義と相性が良く、それはできない落伍者の大量生産をもたらすばかりか、できる者はますます自分の能力を磨くことに躍起になり、燃え尽き症候群やうつ病を患ってしまう傾向にある。能力の成長というものは、本来人と比べようなものではなく、そもそも本質的には他者と比較できないものなのだが、他者との比較に晒され、終わりなき能力の成長を強制されることは、精神的な疲弊をもたらすことは容易に想像される。厄介なのは、明示的に能力の成長を強制されるだけではなく、暗黙的に、多くの現代人は自ら率先して能力の成長に馬車馬のように自己を駆り立ててしまうのだ。それこそ燃え尽き症候群の症状である。そうした状況に対抗するために、できることの尊さだけを問うのではなく、できないことの尊さを問いたい。人間はできることよりもできないことの方が圧倒的に多数なのだから。よく考えてみると、自分にできることなどごく少数であり、できないことが無数にあることに誰でも気づくだろう。この当たり前のことに気づかなくさせてしまっていること、そしてできることだけに注目し、できることを自分の欲望を満たすために躍起になって伸ばそうとすることが、イヴァン·イリッチ的な観点で言えば、現代社会の隠れたカリキュラムの1つである。できないことの尊さを真に自覚して初めて、人は自分にできないことができる他者の存在を尊いものだと思うようになり、支え合いというものが生まれるのではないだろうか。コミュニティーや大きな共同体の崩壊というのは、できることだけに焦点を当て、助け合いの精神を忘れてしまった現代人のつけなのではないかと思う。そんな現代社会の惨状を見ながら、自分はできないことの尊さの復権を問いたい。フローニンゲン:2022/6/1(水)20:48
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