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8516-8521: フローニンゲンからの便り 2022年5月30日(月)



No.3694 夕方の宇宙の生命_A Life of the Evening Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1564, A New Door of Perception

A new door of perception is now open.

It lets me see a number of new things.

All of them become the nourishment of the ground of my being.

Groningen; 10:12, 5/30/2022

No.1565, A Shining Evening Candle

An evening candle is burning dimly.

It seems to represent the ephemerality of everything.

Groningen; 20:02, 5/30/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8516. 昨日のロビンさんとのセッションを振り返って

8517. 今朝方の夢

8518. 来るべき翻訳紹介に向けて

8519. 現在注目している4人の思想家について

8520. アートギャラリーからの連絡/身になる読書に向けての工夫

8521. 文明学に向かって/人間の実存的側面と機能的側面


8516. 昨日のロビンさんとのセッションを振り返って


時刻は午前7時半を迎えた。今、眩しいほどの朝日が燦然と輝いていて、新たな秋の始まりを祝福している。今朝方の気温は低く、今は暖房が自動で入っている。今日は最高気温が13度までしか上がらず、最低気温は5度になるようだ。何か冬の最初の頃のような気温である。このように寒さを感じられる方が、積極的に体を動かして体を温めようとするような意思が働くので、ジークンドーの鍛錬などにはもってこいと言えるかもしれない。


昨日のロビンさんとのセッションを改めて振り返ってみると、もう少し書き留めておく必要があるものを見つけた。1つは、相手と対峙した時に視線をどこに置くのかというものだ。技を出す時に技の方向を見ていると相手に読まれやすく、また、相手の目を見ていると、相手の目によって影響を受けやすいので、ロビンさんは肩を見て相手の身体全体を捉えることを勧めてくれた。興味深いことに、多くの動きが肩に伝わり、何か動き出す時には肩が動くことが多くあるので、相手の肩を見ていると、初動に気付けることがある。そのおかげで、相手の攻撃や動きに先んじてこちらの動きを開始することができる。その他には、コンビネーションの技を繰り出す際には、常にノンテレグラフィックモーションを意識して1つ1つの技を出すことだ。自分の場合、次の技になればなるほどテレグラフィックな動きになりがちなので、その点に注意しなければならない。この点を改善していくためには、日々の鍛錬をよりゆっくりと精度高く行うことが大切になるだろう。昨日もその重要性を何度も痛感した。1つ1つの技の精度を高めることに加えて、1つ1つの技を絶えず新たなものして「一挙入魂」「一蹴入魂」の精神で発動することの重要さをロビンさんから指摘された。例えば右左のジャブのコンビネーションの際に、自分の場合はスポーツ的なボクシンングや格闘技などを見ていたせいか、最初の右のジャブはあくまでも導入的なものであり、次の左のジャブの方が威力がある形で放つ傾向があった。ロビンさんはそれを見抜き、禅の考案のような形で、「今のコンビネーションのパンチは何発だ?」と笑みを浮かべて問いを投げかけきた。この問いに対する回答のやり取りがしばらくあった後、「ワン、ツー」ではなく「ワン、ワン」と絶えず1つの技として十分に完結した形で発動させることの大切さを教えられた。この点も踏まえながらの稽古を日々積み重ねていこう。セッション終了後は雑談の時間となり、ロビンさんがアメリカで師事していた師匠の話などを聞かせてもらった。本来ジークンドーには流派などないはずだが、ブルース·リー以降の弟子たちが自らの流派を立ち上げ、あるいは流派と括られる幾つかの形に分岐して行ってしまった。ダン·イノサント氏の流派やテッド·ウォン氏の流派、ジュン·ファン·ジークンドーの流派などがある。ロビンさん曰く、オランダにはロビンさん自身を含めて4人ほどそれぞれ異なる流派のジークンドーを指導しているらしいが、残念ながらそこには政治があるとのことだった。以前異なる流派全員で集まって、交流ワークショップをやろうとロビンさんが持ちかけたところ、みんな利己的な保身のために誰も参加しなかったそうだ。どこの世界にも自己保身と政治的なものが付き纏うのだなと改めて思わされたのと同時に、本来ブルース·リーが本来望むような形ではジークンドーが発達していないように思われるのは残念なことだと思った。フローニンゲン:2022/5/30(月)07:52


8517. 今朝方の夢


時刻は午前8時を迎えた。今、カッコウのような鳥が人知れず静かに鳴き声を上げている。その声に耳を澄ませながら、今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、見慣れないホテルの部屋の中にいた。そこはスイーツルームのようであり、とても広く、置かれている家具や装飾品はとても立派だった。私は運動してひと汗かいていたので、風呂に入ろうと思った。浴室の扉を開けると、そこにはなんと、日本のジークンドーの世界で著名な先生がいた。先生はちょうど風呂から出たタイミングであり、私はすでに裸になっていて、先生もまた私が入ってきたことを驚いた。私はどういうわけか、浴槽から出てきた先生の背中に手を当てた。それは少し無礼な感じもしたが、自然と手が出て背中を触ってしまっていたのだからしょうがない。先生もそれについて何も気にしておらず、すぐに浴室から出て行って、自分が使えるように配慮してくれていた。先生はどういうわけか、風呂の中で結構な数の服を洗っていた。それらの衣服がまだ浴槽の周りに残っていたが、先生はそれらを持って行かずにどこかに行ってしまった。そう言えば、屈んでいる先生の背中に手を当てた時、浴槽の周りに大量の毛が落ちていてギョッとしたのを思い出す。先生はどうやら意外と体毛が濃いらしく、体毛の処理を浴室で行っていたようだった。そのような夢を見た後に、同じホテルの中で、高校時代の野球部の友人と話をしている場面があった。ホテルの地下には立派な図書館があって、彼はそこで本を探していた。随分と古いラテン語か何かの古書を彼は探していて、ちょうど彼が目当ての本を見つけたとこで鉢合わせた。彼としばらく話をした後、時間が逆転し、今から朝食を摂ることになった。このホテルの朝食はとても美味だったので、朝食が今から楽しみであり、高揚した気分でレストランに向かった。レストランに到着すると、給仕係の女性に席まで案内された。そこからビュッフェ形式でまずは2つのオムレツを取った。ところが、それを地面にポトリと落としてしまい、その時にちょうど給仕係の女性から何か注文はないかと尋ねられた。そこで私は、今落としてしまったオムレツを改めて注文しようと思った。ハムやベーコンなどの肉類は一切なしで、野菜やキノコが入ったオムレツを2つ注文した。私は自分の席に戻り、注文の到着を待った。その間にサラダなどを取りに行こうかと思ったが、そう思った時にちょうどオムレツが届けられた。とても美味しそうな湯気と香りをオムレツは発していて、すぐに口をつけようとしたところ、そう言えば今から上層階で行われるセミナーに参加することになっていたことを思い出した。なので素早くオムレツを平らげようと思ったが、焦って食べたくはなかったので、一口ほど食べたところで、オムレツを持ってセミナーに参加することにした。レストランを後にし、エレベーターに乗ったところ、すぐにエレベーターが動き出してしまい、エレベーターは25階に行こうとしていていた。セミナーが行われるのは20階だったので、オムレツの皿を右手で持ち、左手を使って左のポケットからルームキーを取り出して、それをエレベーターに読み込ませる形で20階に向かった。そこで夢から覚めた。フローニンゲン:2022/5/30(月)08:17


8518. 来るべき翻訳紹介に向けて


先ほどまで小雨が降っていたが、今は雨が止み、穏やかな夕方の世界が目の前に広がっている。今朝方は随分と冷え込んでいたが、午後になる頃には寒さも和らぎ、心地良く過ごすことができている。先ほど読書をしながらふと、今後どこかのタイミングで、自分の研究テーマに関する英文書籍の良書を年に1、2冊ぐらいのペースで翻訳して日本に紹介することにも意義があるかもしれないと思った。日本ではまだまだ知られていない学者の仕事を紹介することには意義があるだろうし、翻訳作業を通じて、自分自身も大いに学びになることを思ったのである。翻訳を過去にした際に、自分の理解が及ばない箇所や理解の浅い箇所が鮮明になる体験をしていたことを思い出す。そうした場面に出会すたびに、色々と調べたり、考えを深めていくことを行っていた自分がいたことを思い出し、書物を翻訳して紹介することは、多くの人の知の世界を広げることに貢献するだけではなく、自分自身の学びにも貢献することだと思った。例えばテクノロジー哲学やマネー神学に関しては、日本ではほとんど知られていない重要な学者が何人かいて、彼らの仕事を日本に紹介することもまた自分の役割なのではないかと思ったのである。このあたりは自分の仕事との兼ね合いや、使える時間の兼ね合いも考えなければならないし、版権の取得を含めた出版社との連携も考えていかなければならない。とにかく今は、翻訳に向けて、いくつか注目している学者の書籍を何度も繰り返し読み込んでいき、来るべき翻訳作業がスムーズに行えるように愚直に探究を続けていこう。幸いにも、今日の午前中から昼過ぎにかけて行っていた協働者の方々とのミーティングにおいて、これから始まるプロジェクトは、自分の探究を大いに加速させてくれるように思えた。何か物事を始める際には、完璧になってから始めることなど不可能であり、現実的ではない。重要なのは、見切り発車でもいいので、物事を初めてしまうことだ。そうすると、試行錯誤を重ねながらより良いものが出来上がってくる。自分の探究についても同じであり、自分の探究の成果を共有する際に、探究が行われる過程そのものをシェアするような形で知見を共有していくのが賢明かと思う。とりわけ、神道神学、マネー、テクノロジーに関するこれら三位一体のテーマについては、今の段階で共有できることを共有していき、その都度日々学びを深めていけばいい。そのようなスタンスを明確に持っておこうと思う。フローニンゲン:2022/5/30(月)16:14


8519. 現在注目している4人の思想家について


これは個人的な印象に過ぎないが、テクノロジー哲学の二大巨塔であるバーナード·スティグラーとアンドリュー·フィーンバーグの思想の特徴は随分と異なるように思う。前者がフランス人であるためか、フランス哲学のあの独特さが濃いいのがスティグラーの思想体系である。フランス哲学のあの独特さというのは、最初は難解に思える取っ付き難い特殊な概念群で構築された思想の展開を特徴にもつものである。新たな概念もどこか芸術的な香りがするものが多く、フランスの現代思想の流れを汲んでいるのがスティグラーの思想の特徴として挙げられるように思う。彼の思想を理解していく際には、次々に現れる馴染みのない概念群に深入りしすぎることなく、まずは全体を捉えるようにして彼の一連の書籍を読み進めていくのが賢明かと思う。細部に入り始めると、逆に個別の概念の理解が進まず、むしろ全体を把握して概念群に戻ってくると、意外と感覚的に概念が掴めることが多い。全体から部分に降りていく形で、引き続きスティグラーの書籍を読み進めて行こう。一方で、アメリカ人のアンドリュー·フィーンバーグの書籍はとても読みやすい。スティグラーの書籍は、フランス語から英語への翻訳であるため、翻訳の難しさもあるのかもしれないが、フィーンバーグの書籍からは、仮に難しい概念があったとしても、スッと入ってくる感覚がある。この違いはなんなのだろうか。その点についても今後より考察をしてみる必要があるだろう。テクノロジーの分野を離れて、マネーの分野に関して言えば、マネー神学者のフィリップ·グッドチャイルドの書籍も、ニミ·ワリボコの書籍も、難易度はさほど変わらないように思う。グッドチャイルドは、フランス思想にも造詣が深く、書籍の中では様々なフランス哲学者の思想を引用しているのだが、彼がイギリス人であることからか、彼の英語もまたフィーンバーグと同じく入ってきやすい。ナイジェリア人のワリボコの書籍についても、同様の身体感覚が伴う。結局のところ、1人の思想家の思想というのは、その人間の臓器のようなものであり、思想を理解しようとする試みは臓器移植の試みに似ているため、生理的な側面を含め、その試みは元来困難なのだ。また、1人の思想家の思想を完全に理解するということが本来的に不可能なのもそうしたところによるのだと思う。とにかくしばらくは、上記の4人の書籍を何度も繰り返し読み込んでいき、彼らが引用している思想家にも少しずつ派生的に文献読解を拡大させていくのが望ましい歩みになるだろう。フローニンゲン:2022/5/30(月)16:29

8520. アートギャラリーからの連絡/身になる読書に向けての工夫


数日前に、エストニアのタリンを訪れたときにお世話になったアートギャラリーから連絡があった。メールの差出人は、ギャラリーのディレクターのフランス人女性であり、ギャラリーを訪れたときにも彼女には色々とお世話になっていた。メールの内容を見ると、ギャラリーに足を運んだ際に購入した、ベラルーシ人の画家アレックス·サロウの別の原画がオークションにかけられたというものだった。さすがに連続して何枚も原画を購入できないのだが、案内のあった原画もなかなかの作品であった。今、ベラルーシを訪問するのは、ロシアとウクライナの戦争のせいもあって難しいのだが、戦争が終結したら、ベラルーシには一度行ってみないといけないと思っている。サロウ氏の絵画が所蔵された美術館を含め、シャガール美術館など足を運びたい場所がいくつかある。


これは常々意識していることだが、意外と忘れがちなこととして、読書を単に書物を読み進めていく行為に留めるのではなく、必ずそこに自らの声の表現を伴わせたいというものがある。すなわち、理解と自己表現の双方を動員する形で読書を進めていきたいのだ。さもなければ、読書が真に自分の肥やしになることはないと思う。結局のところ読書は、書物の内容が身につき、自らの言葉や行動として具現化しなければ本来意味のないことなのだ。それを考えてみたときに、読書の段階から小さく少しずつでいいので、書物の内容を自分なりに解釈し、自分なりの考察と声を持って表現していくという試みは非常に重要なことかと思う。それはとても大切なことでいて、現代の教育からは切り落とされていることもでもあるため、多くの人にとっては困難であることも確かだ。だが、その困難さ、すなわち自己表現を伴った読書をしていかなければ、読書の真髄を味わことなどできないであろうし、読書の内容が真に実用に足るということは起こり得ないのではないかと思う。その点を自分自身も肝に銘じて、これからの読書において少し工夫をしてみたいと思う。具体的には、現在関心を寄せている幾人かの思想家の重要な書籍をまずは取り上げてみて、それらの1つ1つのトピック(サブチャプター)を読むごとに何か文章を書いてみるということである。その進捗を記録する意味でも、例えば、「マネー神学N:XX」「テクノロジー哲学N:XX」「川面神道神学N:XX」という形で、ナンバリングとトピックタイトルを書き留め、具体的な内容を記述していくという形式を取ってみる。彼らの書物と真正面から向き合い、内容理解をした上で自分の考えを書き留めていくことになるので、自分にとっても随分と力がつきそうな読書の仕方になるのではないかと思う。近々この案を試してみようかと思う。フローニンゲン:2022/5/30(月)17:01


8521. 文明学に向かって/人間の実存的側面と機能的側面


時刻は午後7時半を迎えた。つい先ほど夕食を摂り終え、今は少し寛いでいる。夕食前にふと、ここからの自分の探究は全て、現代文明への批判的な眼差しを元にした文明学的な様相を帯びるだろうことを思った。文明の歴史から始まり、文明の成立プロセスを辿っていくと共に、文明の病理を突き止めていく。文明学は究極的には、現代文明の構造的諸問題を明らかにしながら、その治癒と変容に向けた処方箋を模索し、提示していくものにしていかなければならない。そうした実践的な文明学の基礎に、神道神学、テクノロジー哲学、マネー神学の探究がある。少しずつではあるが、自分の探究の現代的な意味と意義が明らかになりつつあり、探究の全体感とその方向性も明らかになりつつあることを素直に喜ぼう。そのように明確になりつつある姿を頼りに、自分の探究を日々少しずつ進めていけばいいのだ。


実存としてこの世界に立つこと、そして機能としてこの世界に立つこと。今日のミーティングの中で、オットー·ラスキー博士の発達理論について話し合っていたときに、改めてそのようなことを思った。私たちには実存的側面と機能的側面の双方があり、どちらも等しく重要であり、この世界で何か活動をする際には常にそれら双方の特性が現れる。現代社会においては機能性ばかりが注目されるが、発達理論の世界においては機能性の側面が蔑ろにされる側面がある。日本の発達理論の受容状況を眺めていると、実存的側面により焦点が当てられた発達理論者が注目される傾向にある。それは例えば、ロバート·キーガン然り、スザンヌ·クック=グロイター然りである。一方で、人間の実存的な側面だけではなく、機能的な側面も構造的に発達していくことを説いたカート·フィッシャーやマイケル·バサチーズなどの発達論者の功績は脇に置かれることが多い。バサチーズの理論モデルを洗練·発展させたラスキー博士の功績もまたほとんど知られていないという状況が日本の発達理論の受容状況を見ていると感じられることである。今日はそのあたりの問題意識について協働者の方々と意見交換をしていた。私たちがこの世界に存在するとき、その瞬間においては必ず固有の実存性と機能性を発揮していることを忘れてはらない。おそらく実現するであろうラスキー博士を招いたセミナーにおいて、人間の実存的側面と機能的側面の双方に着目した理論モデルを構築したラスキー博士の話を色々な角度で窺ってみようと計画している。フローニンゲン:2022/5/30(月)19:48

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