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8504-8515: フローニンゲンからの便り 2022年5月29日(日)



No.3693 協働する宇宙_Collaborating Universes


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1562, On a Cold Morning

It is very cold today.

Summer has not arrived yet.

Most living creatures wish summer’s warmth.

Groningen; 07:10, 5/29/2022


No.1563, Today’s and Tomorrow’s

Today’s sun arises.

Tomorrows’s sun will arise tomorrow.

Everything newly emerges today and tomorrow.

Groningen; 09:44, 5/29/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8504. 今日の計画/三位一体の研究

8505. 今朝方の夢

8506. 人間が生み出した三大創造物

8507. 魂の自己展開/主客反転現象/出会うものとしての人間存在

8508. 感得/感覚と想像力・創造力

8509. 神道研究と感覚の純化/外国語学習と感覚

8510. 音と言葉/拡散と収束

8511. 資産運用の見直しとロンバー・オディエへの関心

8512. ダリとミロの画集より

8513. ジークンドートレーニング108:ロビンさんとの充実したセッションを終えて

8514. ジークンドートレーニング109:強度を上げたトレーニング/いかに集中力と自覚的意識を保つか

8515. ジークンドートレーニング110:良き師の恩恵/本日のセッションで習った技について


8504. 今日の計画/三位一体の研究


時刻はちょうど午前6時を迎えた。ここ最近は、就寝する頃にはまだ空が明るく、真っ暗な状態ではないことに驚く。いつも午後10時前に就寝しているのだが、その時間帯でもまだ完全に暗くなく、むしろまだ明るさが残っているような状態である。そこからも随分と日が伸びたことがわかる。今朝方のフローニンゲンは随分と冷えていて、靴下を履きながら、上下は冬の格好をして室内で過ごしている。最高気温は12度までしか上がらず、最低気温は7度である。下手をすると、室内の暖房が自動で入りそうな気温だ。今日は非常に肌寒いが、午後からはロビンさんとのジークンドーのプライベートレッスンがある。幸にも雨は降らないようなので、ジョギングをしながら道場に行き、体を温めてから今日のセッションを始めたいと思う。前回から少し時間が空いてしまったのは、ロビンさんがその間にインフルエンザに罹ってしまったからであり、久しぶりの今日のセッションが今から待ち遠しい。さて、今日はどのようなことを学ぶことができるのか楽しみである。セッションまでの時間は、いつものように創作活動をしたり、読書をしたりして過ごそうと思う。


昨日改めて、川面神道神学を深く学んでいき、それを欧米に紹介する仕事をしながら、同時にその神学体系をマネーやテクノロジーに適用した形での仕事も進めていくことを考えていた。マネーやテクノロジーが含むトピックやテーマは多岐に渡るので、少しずつトピックやテーマを選定し、それらに対して川面神道神学を適用した論文を執筆していくのが良さそうであるという考えが芽生え、その実現に向けて少しずつだが着実に、川面神道神学、マネー哲学·神学、テクノロジー哲学·神学を三位一体的に探究していこうと思う。その探究は現在水面下で着実に進行していて、毎日それらの領域に関する書籍を読み進めている。後者2つの領域に関する書籍として、今日もまたバーナード·スティグラーの書籍や、フィリップ·グッドチャイルドあるいはニミ·ワリボコの書籍を読んでいこうと思う。とにかくこの研究は長い時間をかけて緩やかに進めていく。毎日ジークンドーや英語の発話能力の鍛錬に少しずつ従事しているように、ゆっくりとした進歩を実現させていきたいと思う。フローニンゲン:2022/5/29(日)06:10


8505. 今朝方の夢


早朝の肌寒い朝に、2匹の黒猫が庭で戯れあっている姿が見えた。彼らは元気そうに活動をしていて、その様子を眺めていると、こちらも元気になってくる。生命同士の活力は、そのように感応するものらしい。


今朝方は、2つの夢を見ていた。夢の中で私は、実際に通っていた高校の教室にいた。するとその教室に、違う高校に進学した小中学校時代の友人(MS)がいた。彼とこれから始まる政治経済の試験について話していると、自分が全く政治経済の勉強をしていないことに気づき、単位の取得が危ぶまれた。しかし、政治経済であれば全く勉強していなくてもそこそこ点が取れるだろうと思い、なんとかなるかと思った。すると友人の彼が、私は政治経済ではなく理科の試験を受けることになっていると教えてくれた。しかも理科の試験は来年に進級してから初めて行われるらしく、今は試験の心配をする必要はないとのことだった。私は文系コースに進んだこともあり、本来は政治経済の試験を受けなければならないはずだったが、確かに自分は理科が好きだったので、理科を選択していることを思い出したのである。彼から教えてもらったおかげで試験に対する不安は消え、来年の理科の試験に向けては日頃からちゃんと勉強しておこうと思った。そこで夢の場面が変わった。次に見ていたのは、この夢の延長であり、舞台は同じく、実際に通っていた高校だった。どうやら文化祭のシーズンのようであり、各学年の各教室では、文化祭に向けた準備が進められていた。私たちのクラスでは、ダンスの練習が熱心に行われていた。いくつかのグループに分かれてダンスの練習をしていると、ある気の強い女性友達(KF)が私に声を掛けてきた。先日ある友人から送ってもらったカードが自宅に届いたかを尋ねてきたのである。彼女の問いに対して私は、そのカードの到着を楽しみにしていたが、配達の際に不在であり、旅行に出かけていたため、荷物が保管されている場所に7日以内に行くことができず、荷物が送り返されてしまったことを伝えた。それはしょうがなく起こってしまった出来事だったが、彼女はそのことに少し腹を立てているようで、自分がカードを受け取らないと文化祭の出し物が進まないと述べた。仕方なくも申し訳ないことをしたなと思い、送り主の友人に荷物が送り返されたらすぐに連絡をしてもらうようにするということを彼女に伝えると、彼女の気分を少し和らいだようだった。そのようなやり取りを彼女とした後にふと、そう言えば現実世界でも似たようなことが先日起きたなと思った。そのようなことを思い出すと、教室の教卓の中に誰かの持ち物として、自分に届けられる予定のカードがあった。せっかくなのでその中身を確認してみると、送り主の友人が力作だと述べていた通り、デザインを含めて立派に作り込んでいると思った。これだったら手元に置いておきたいという思いが湧き、教卓の上にカードを広げてみて、このカードの使い方を含めて、少し親しんでおこうと思った。数人の生徒が自分のところに近寄ってきて、カードに興味を示したところで夢の場面が変わった。今朝方はそのような夢を見ていた。最後の夢においては、夢の中の自分が気づいていたように、現実世界でも先日似たようなことが起こっていた。バルト三国に旅行中に、知人の方が日本から送ってくれた物が配達されてきたのだが、不在のため、日本に送り返されてしまったのである。その件と自分の無意識の何かが影響して今朝方の夢を作り出したのだろうか。あるいは、その品が本当に今朝方配送主の知人のところに送り返され、知人の念が夢になって現れたのかもしれない。フローニンゲン:2022/5/29(日)06:26


8506. 人間が生み出した三大創造物


文字、数字、マネー。これらは人間が生み出した最も興味深い創造物の代表格である。現在、マネー哲学とマネー神学の研究を進めながらも、これまで自分を虜にしていたのは文字や数字であったことにふと気づかされる。文字から派生して言語と言葉があり、言語と言葉というのは今でも自分を惹きつけてやまないものがある。人間が生み出した文字、数字、マネーというそれら3つは、今後も自分の関心対象であり続けるだろうし、これからの研究と絶えずどこかでつながっているものだと思われる。最近読んでいた言霊学というのはまさに、日本語の文字を神道の神学体系で解釈していったものであり、そこにも文字への関心を示す自分の姿を見る。一体何がそれらに自分を惹きつけているのかについては、今後も時間をかけて探求していく必要があるだろう。いつかその理由が解き明かされる日が来るに違いない。


今日は朝から本当に冷え込んでいて、早朝に書き留めた日記の通り、自動で暖房が入り始めた。もう6月を迎えようとしているのに、まだ暖房が必要であることに驚く。例年5月末まではかなり冷える印象だったが、やはりその通りであった。天気予報を見ると、もうしばらく冷たい日々が続く。本当に暖かくなるのは7月を迎える頃かもしれない。そして、短い夏がやって来て、夏は足早に過ぎ去り、秋を迎える。そこからは長い長い冬がやって来る。季節の巡りに自分の感覚をピタリと合わせて、自分の取り組みをゆっくり前に進めながら深めていく。時間をかけてしかなし得ないことを、今この土地でじっくりと時間をかけて取り組んでいる。それができる環境を与えられていることに本当に感謝したい。自分を煩わすものはここにはなく、今後もこうした自分にとって静かな環境で生活を営んでいく。物理的な静けさと精神的な静けさの双方が必要である。人はせっかく物理的に静かな場所にいたとしても、煩わしい人間関係によって心が穏やかではなくなってしまいがちなのだ。自分の取り組みに真摯に従事し、それを真に深めるためには、そうした状況はなんとしても避けなければならない。物理的·精神的な静寂さと平穏さの中で生を営むこと。それをとにかく保持し、最後の最後まで歩みを続けていく。フローニンゲン:2022/5/29(日)07:58


8507. 魂の自己展開/主客反転現象/出会うものとしての人間存在


諸々の探究と旅は、魂の自己展開をこれとないほどに促す。その運動は永遠に続けられることを思うと、自分は探究と旅を止めることはないのではないかと思う。魂の自己展開が極地にたどり着く姿は想像できず、その自己展開には限りがないのである。それを見ても、魂というものが永遠を体現したものであることがわかる。さすれば、魂を内包した自己という存在もまた永遠を見に纏っているのではないかと思う。


日々諸々に自分の主観的な思考や感覚を主観を通じて言葉に書き留めているが、不思議なことに、言葉として書かれた瞬間に、本来主観的なものだったはずの思考や感覚が明晰なものとなり、これ以上にないほどに客観的なものに転じる。その主客反転現象に驚く。そこに主客未分の真髄を見る。本当に主観的なものは客観的なのであり、本当に客観的なものは主観的なものなのかもしれない。


人間存在というのは、絶えず開かれていき、絶えず出会うものである。展開と出会いを宿命づけられているのが、人間存在というものらしい。それを実感せずにはいられない日々が続く。自己は展開を絶えず続けていて、その過程の中で様々なものに出会う。そもそも自己展開を続けているというのは、新しい自己と絶えず出会うということに他ならず、自分1人の人間においても出会いが無限に発生しているのである。そのことに気付いているだろうか。そして、自己を超えて、他者や文化、そして自然との出会いを加えれば、人生は本当に色とりどりの出会いで満ちているとわかる。1日の時間というのもまた、出会いで作られていると言っても過言ではない。なるほど、時間は出会いで作られていたのだ。空間というのもまた固有な存在性を帯びていることを考えると、空間との出会いというのもある。時間と空間が不可分の関係を結んでいることを考えると、時間が出会いで作られているのであれば、空間もまた出会いで作られていると言ってもいいだろう。時間が変われば空間の印象が変わるのは、そうしたことによるのかもしれない。その逆も然りである。今日もまた、自己は新たな自己展開をし、新しい自己と出会う。そして、それ以外にも、種々の出会いの中で今日という時間を生きていくことになるだろう。豊かな出会いの日々がこれからも続くことを祈りながら、朝の時間がゆっくりと過ぎていく。時間もまた新たな出会いを通じて絶えず自己展開をしていく。自己の存在と同じように。フローニンゲン:2022/5/29(日)08:20


8508. 感得/感覚と想像力・創造力


真に学んだことが実用に足る次元で活用できるようになるためには、学んだ事柄を感得しなければならない。それは、身体的に感じ、身体的に知識を掴み取ることを要求する。身体を通じたこの感得があって初めて、知識が身に付いたと表現され、それをもって知識は実用の現場でようやく有益な形で発揮されることになる。日々のジークンドーの鍛錬は、身体感覚を養う上で最良の実践となっている。今後はここに箏の演奏実践が加わる。音楽を演奏する際に要求される微細な感覚に意識を研ぎ澄ませていくことによって、そこでもまた新たに身体感覚がより精密高度なものに育まれていくだろう。そして日々の学術探究は、そうした高度に涵養·開発された身体を通じて、新たな知識をどんどんと感得していき、研究成果はますます実用的·実践的なものになっていく。


単に頭に入っているだけの知識は、本来知識と呼べないないのである。知識とは、必ず実践に繋がるものでなければならない。自分の身体を通じて応用運搬できるものが真の知識である。ゆえに、単に頭の中に入っているだけのものは単なる情報に過ぎない。現代の教育において、いかにその次元で留まる学習がなされていることか。それは子供たちだけではなく、成人においても当てはまる。真に実用に足るような知識を身につけようと学習している人などほんの一握りである。


想像も創造も、感覚的なものであることを知っていたであろうか。想像も創造も、感覚から生まれるものなのである。現代は想像性と創造性の欠如で覆われているが、それはすなわち感覚の欠如だったのだ。ここで述べている感覚的なものというのは、当然ながら身体生理的なものも含まれるが、それに留まるものでは決してない。むしろ重要なのは、精神的·実存的·霊的な感覚である。それらこそが想像と創造の原動力かつ源泉である。感覚が乏しい個人は、想像性と創造性に乏しい。逆もまた然りであり、それらの関係性は社会全体にも当てはまる。想像力と創造力の開発において、一体どれほどの人が感覚に着目し、感覚から正しく出発しているのだろうか。感覚への関心とその重要性がますます自分の中で重要な位置を占めている。フローニンゲン:2022/5/29(日)08:37

8509. 神道研究と感覚の純化/外国語学習と感覚


自分が神道を探究することになったのは、内側からのある促しと要求があったからなのではないかとふと思った。端的には、神道研究は自分にとって、自分の原初的な感覚を呼び覚ましてくれ、感覚全体をより純粋なものにしてくれると思ったのである。これはかなり確証高い。自分の直観がそうだと述べている。感覚を純化することに神道研究がつながっているなんて思っても見なかったことである。だが、神道というものが自分の存在の奥深くにまで染み込んでいることを見ると、それはさほど驚くことでもないかもしれないと思った。神道的なものが存在の隅々に行き渡っている日本人である自分にとってみれば、神道研究を通じて感覚が純化され、純粋感覚を得るというのは至極当たり前のことのように思えるのである。ここからの神道研究は、それを単に学術研究目的で進めるのではなく、自己の感覚の純化を念頭において進めていこうと思う。神道研究をここから本格的に進めていけばいくほどに、自己の感覚はどこまでも純化していくに違いない。そうすれば、自己そのものが純化した存在に変貌していくだろう。そのようなことを考えながら、夏に購入予定の神道芸術の画集が楽しみになってきた。それを眺めることもまた感覚の純化に寄与するだろう。また、秋の日本への一時帰国においては、神道の観点を通じて母国を眺め、そこでしばらく生活をすることで、感覚はまた純化の道を着実に歩むだろう。


存在の入れ子の観点からすると、霊性には感覚が含まれていて、霊性は感覚から出発しなければ育みようのないものなのだ。霊性の存在基盤には感覚の土壌が必要であり、その土壌が豊かであればあるだけ、霊性もまた豊かなものになりうる。霊性を貫くものとして感覚が存在しているということを念頭に置き、絶えず感覚の土壌に必要な養分を与え続けていくこと。そのようにして土壌をゆっくりと育んでいけば、いつか霊性にも立派な花が咲く。


ここ最近は、毎日英会話アプリのELSAを用いて英語の発話能力の鍛錬を行っているが、外国語の学習及び習得においても、感覚は極めて重要な役割を果たす。あえて極論を述べれば、外国語学習の行き着く先は感覚しかないのではないかと思うほどだ。実際に言葉を学習し、それを話すなり、書いたりするときには、己の身に感得されたものでなければ実用運搬できないのだ。逆に、感覚的に言葉を掴み、それを身体の内側に獲得することができたのであれば、それは咄嗟に自然と運搬できるのである。このあたりは武術の鍛錬や楽器の演奏においても等しく当てはまることだが、外国語学習において感覚を通じて学習を積んでいくことの大切さにもっと注目するべきではないかと思う。レモンを見たり、レモンを思い浮かべたりすると、自然に唾液が分泌されるのと同じく、外国語もまたそのような自然な反応を引き起こすぐらいに感覚に仕込み込ませていかなければならないのだ。いやむしろ、外国語というものが感覚そのものにならなければならない。これからの自らの外国語学習においては、徹頭徹尾そのあたりを強く意識しようと思う。フローニンゲン:2022/5/29(日)09:00


8510. 音と言葉/拡散と収束


日々作曲を静かに進めているのと同じく、少しずつ構築的に学術論文を執筆している自分の姿が脳裏浮かんだ。学術論文の執筆は、大学でポジションを得るためだとか、そのような打算的·政治的な目的ではなく、純粋にその創造行為を楽しむ形で行いたいものである。今、それに向けて、素材を集め、その日がやって来ることを楽しみに待っている自分がいる。今すぐにそれを始めないのは、時がまだ熟していないからであり、それはすなわち論文執筆に向かう自己が熟していないことを表す。また、論文を執筆するための環境というのもまた必要となり、その最良の場になる学術機関との出会いを必要とする。


音を取り扱うことと言葉を取り扱うことを同次元で同レベルで行えるようになりたいものだ。そのためには、繰り返しになるが、感覚の涵養が鍵を握る。音と言葉が、よく開発された感覚から生まれてきて、感覚を通ってしかるべき形になっていくこと。それが音と言葉を通じた造形実践の根幹にあり、作曲も論文執筆もそのように進んでいかなければならない。その実現に向けて、日々感覚を養っていくこと。その大切さは、何度繰り返し述べても足りないほどである。


探究テーマは多岐に渡り、それは拡大の一途を遂げていく。そうした拡散現象は、魂の本分と合致するものなのかもしれない。一方魂には、収束の働きもある。そこから、多岐に展開していく探究テーマにあって、ここからの文献読解においては、対象を少し絞ろうかと思う。具体的には、神道研究においては川面凡児に関する書籍だけを集中的に読むことであったり、テクノロジーに関してはバーナード·スティグラーとアンドリュー·フィーンバーグの書籍だけを集中的に読むことなどである。マネーに関しては、フィリップ·グッドチャイルドとニミ·ワリボコの書籍を核に据えよう。それらの著者の書籍を少なくとも5、6回は繰り返し読んでいく。対象を絞った集中的な読書によって、神道、テクノロジー、マネーのそれぞれの分野に関する知識の巨大かつ堅牢な基盤ができるだろう。それが構築されて初めて、三者が相互作用を始める。それをもって初めて、自分なりの貢献がそれらの分野に対してできるのではないかと思う。拡散と収束。この二極の働きと力を絶えず意識して文献読解を粛々と進めていこう。フローニンゲン:2022/5/29(日)09:22


8511. 資産運用の見直しとロンバー・オディエへの関心


この間、スイスの元プライベートバンカーが執筆した、プライベートバンクに関する書籍を探したところ、すぐに見つからなかった。あの本は自宅のどこに眠っているのだろうか。2階には見当たらなかったので、1階の段ボール郡の中のどこかにあるかもしれない。そもそもその書籍を探そうと思ったのは、資産運用に関して見直しの時期に差し掛かっていると思ったからだ。以前よりプライベートバンクについて関心があり、自分で資産運用をするだけではなく、資産の一部はプライベートバンクに預け、プロに保全·運用をしてもらおうと考えていた。もちろん運用に関しては、自分で行うこともできるのだが、それ以上に資産を保全する観点が重要であり、それはなかなか自分では難しいことが多い。先日、改めてプライベートバンクについて調べてみると、スイスの老舗のプライベートバンクであるロンバー・オディエに改めて注目し、その活動について調査をしてみた。すると、ロンバー・オディエはESG投資に積極的であることがわかり、興味を持った。資産を預ける際に、環境の保護·改善に積極的な企業の株式に優先的に投資してもらうようにポートフォリオを組むことは一案かと思った。自分の資産を守りながらにして、金融を通じて世界に関与していく道がそこにある。ロンバー·オディエは、東京を含め、近いところで行けばロッテルダムにオフィスがあり、どこかのタイミングで口座の開設の検討をしたいところだ。実際にロンバー・オディエにお願いするかはわからないが、不良債権リスクがどうしても残る商業銀行のプライベートバンキングサービスではなく、スイスのいずれのかの老舗のプライベートバンクでの口座開設したいと思う。これについても然るべきタイミングで、然るべき出会いがあるだろう。近々、自宅のどこかに眠っている、プライベートバンクに関する書籍を引っ張り出してきて、改めて読んでみようと思う。資産を増やすよりも、資産を守りながら、それでいてこの世界に意味のある形で資産を運用したいという思いが芽生える段階に来ている。フローニンゲン:2022/5/29(日)09:37

8512. ダリとミロの画集より


それにしても今日は寒い。すこぶる寒い朝の世界が続いていて、暖房が自動で入りっぱなしである。そんな寒さの中にあって、自分の取り組みを前に進めている変わらぬ姿勢を持つ自己がここにいる。朝の活動はすこぶる順調であり、充実感が漲っている。


昨夜は、ダリとミロの画集を眺めることを楽しんでいた。改めて、スペインが産んだこの2人の偉大な画家の作品群には色々と刺激と啓発を受けることを実感した。彼らの画集を眺めていると、そこに掲載されている作品には紛れもなく彼らの固有の造形的魂の痕跡を見て取った。それが見間違うことなく刻印されていることに大いに感銘を受けたのである。人間が生み出すものは、それが本物であればあるほどに、作り手が誰かを間違うことなく特定できてしまうものなのだろう。ダリとミロの魂が辿った軌跡に感銘を受けていたのが昨夜の出来事である。ここから自分も、自らの魂の軌跡が刻印された仕事を残していこうと思う。それはすでに始まっているが、ここからさらにその軌跡を深いものにしていく。それには惜しみなく全てを投下していくつもりだ。そうした心積りがある。


今日は午後2時からジークンドーのプライベートレッスンがあり、自宅を出発するのは少し余裕を持って1時半にしようかと思う。準備運動がてらジョギングをして道場に向かい、道場に早めに到着したら動的ストレッチを行っておこう。そうすれば、ロビンさんが到着してから速やかに稽古に入れる。今日からは、ロビンさんの道場のロゴが入った上下の服を着て稽古に臨む。前回のセッションでそれを受け取ったので、実際に着るのは今日が初披露ということになる。これまでのところは、今日は随分と日記を綴っていた。ロビンさんとのセッションが終わって自宅に帰ってからも、今日のセッションを振り返るトレーニングログを執筆することになるだろう。すでに今日の創作活動は十分に行ったので、夕方にはトレーニングログの執筆をし、今日は早めに夕食を摂って、夕食後にはELSAを使って、就寝までの時間を英語の発話能力の鍛錬に当てたい。今週末もまた充実感に満ちた形で過ごすことができて本当に嬉しく思う。日々感じている充実感を糧に、さらに深い充実感が生まれるように、絶えず学習と実践を継続していこう。フローニンゲン:2022/5/29(日)11:18


8513. ジークンドートレーニング108:ロビンさんとの充実したセッションを終えて


写真にせよ映画にせよ、絵画にせよ音楽にせよ、過去に作られたものが今現在として蘇ることの神妙な性質について思いを馳せる。過去に創造されたものが、全て私たちの中で今現在として体験されることは驚くべきことである。そのようなことを考え、人間存在について改めて問うてみると、バーナード·スティグラーが指摘するように、人間とは何かを問うよりも、果たして人間など存在しているのかという問いを立ててみるのは有意義かもしれない。これは何も虚無的な問いではなく、むしろ人間の本質をより深く抉り出す問いのように思えてくる。そのような問いをしばし温めてみようと思う。ジークンドーのプライベートレッスンに向けて自宅を出発する時間になったので、いったんここで筆を置こうと思う。この日記はまた自宅に戻ってきてから書き足そう。それでは今からジョギングがてら走って道場に行き、身体感覚を養うべく、今日のセッションもまた充実したものにしたいと思う。


つい今し方、ジークンドーのプライベートレッスンから帰ってきた。今日のセッションは、改めてジークンドーの奥深さを教えてくれるのに十分であった。眼から鱗が落ちる瞬間がいくつもあり、そうした体験をさせてくれたロビンさんには本当に感謝している。思いつくままに今日のセッションを振り返ってみよう。セッションが始まる15分前に道場に到着したところ、すでにロビンさんは道場にいて、部屋の準備を全て済ませていた。いつものように挨拶をして、そこから少し雑談を楽しんだ。最初に本日習う技の確認をし、すぐにそれらの技に入るのではなく、いつものように自分からの質問の時間となった。自分から行った質問が奥が深いものだったらしく、そこからロビンさんは特別メニューを開始してくれた。それは、これまで習った技を少し状況を変えて、緊張の強度を上げて行ってみるというものである。後々スパーリングなどのより本格的な実戦形式の練習を行う前に、そうした緊張の強度を上げるエクササイズを行うのが良いとのことでやってみたところ、これが本当に学びが多かった。改めてカート·フィッシャーが述べるところの能力の課題依存性と文脈依存性の特性が浮き彫りになったのである。試しに、防御とカウンターの1から8にもう1つだけどんな形でもいいのでパンチを加えてみることになった。たったこれだけのことで、これまでうまくできていたことができなくなり、防御とカウンターの形が崩れ始めたのである。これは自分でも驚くべきことだった。何気ないパンチを1つ加えるだけである。もちろんパンチを1つ加えたことに加え、ロビンさんがいつカウンター攻撃を仕掛けてくれるか分からないという変数も加わっていて、それがまた正確な技の発動を困難にさせた。ロビンさんが改めて自分にとって優れた先生だと思うのは、自分の現段階の能力レベルを見極めて、課題レベルを上げたり、スキャフォールディングの種類や性質を変えてくれることである。それによって、これまで習った技も絶えず新しく学び直すことができ、実に学びが多いものとなる。このエクササイズに関しては、今夜からまた意識して取り組みたいことがある。今日のセッションの中では、パンチを1つ加えるだけではなく、ステップバックすることも加えたので、これと同じことを自主トレーニングでも継続したい。その際に、ロビンさんが強調していたのは、早い動きで行うのではなく、正確さを意識して、稽古の際には内省的な意識を持って1つ1つの動作を確認しながら行うことである。今日は防御とカウンターの1から8までしかやらなかったが、すでに防御とカウンターの技は21まで習っているので、1から21までの技に何か1つパンチを加え、ステップバックをする練習を入れてみようと思う。それが慣れてきたらパンチの数を増やしたり、異なるステップを入れてみるのもいいだろう。とにかく今日のセッションは学びが多く、数多くのアハ体験をすることができて、今でもまたその興奮が残っている。本当に充実したセッションであった。フローニンゲン:2022/5/29(日)16:13


8514. ジークンドートレーニング109:強度を上げたトレーニング/

いかに集中力と自覚的意識を保つか


今日は本当に肌寒い1日であり、暖房が自動で入るほどだった。ジークンドーの道場まで走って行っても汗をかくことなどないほどだった。ところが、今日のロビンさんとのセッションでは、汗が滲んできて、想像以上に汗をかいた。これまでのトレーニングの強度から一段ギアが上がったように感じた。おそらくロビンさんが自分の習熟度合いを見てそのようにしたのだろうと思う。セッションの後半では、コンビネーションの技を繰り出す際に随分と息が上がっていた。心拍数が随分と上がっていて、息切れしてしまう場面があった。そうした自分の様子を見て、今後の自主トレーニングでは、よりインターバル的なトレーニングを意識して、心肺を鍛えていく必要性も感じた。もちろん、実際のストリートで自己防衛をする際には、ほんの一瞬で全てが決着するのだが、体力があるに越したことはない。ひょっとしたら、疲弊した状態で暴漢と直面することも考えられるのである。人間は疲弊した状態だと集中力が落ち、動きの精度も落ちる。今日はそれを再確認させられた次第である。そうしたことからも、とりわけ今後ジムに行く際には、より強度を上げたインターバルトレーニングを自らに課してみようと思う。心拍数を上げて、精確に技を繰り出せるように鍛錬していく。


今日のセッションの中で中核を成していたのは、いかに集中力を保つかだった。これは以前からもテーマとして挙がっていたものだが、今日は改めてそれを正面から取り上げることになった。人間は誰しも、常に高い集中力を保つことはできない。状況や活動内容に応じて集中力は変動するのである。ここでもカート·フィッシャーのダイナミックスキル理論を借りれば、人間には変動性があるのだ。集中力という能力もまた変動性の性質から逃れることはできない。重要なことは、自分の集中力の度合いがどれくらいのあるかを絶えず把握しておくことであり、特定の状況においてはあるレベルの集中力を維持し続ける力を養っておかなければならない。例えば今日のセッションの中では、ロビンさんに言われた通りにコンビネーションの技を出したことに満足してしまって、その後にすかさず繰り出されるロビンさんのカウンター攻撃に対処できないことが多々あった。自分が技を繰り出した後に、自分の集中力がプツリと途切れてしまっていたのである。そこを突かれて完全な形でバックフィストを2度食らった。その延長線で興味深かったのは、状況をロビンさんにまんまとコントロールされていることに無自覚なまま自分がいた場面があったことである。その時には、ロビンさんと自分は円を描くようにグルグル回っていたのだが、それはロビンさんが仕掛けたことであることに一切気づかなかった。同様に、ロビンさんがわざと後退するステップを何度かしたことによって、自分が勝手に前に出ることを引き出されている状況もあった。これは、相手の動きを引き出す高等技術である。自分の動きがまさか無意識的にロビンさんに引き出されているとは思わず、そうしたことにも自覚的になる必要があると言われた。身体的に反射をすることは自然なのだが、その反射が意図的に引き出されているものかもしれない可能性が絶えずあり、仮に反射が起こっても、すぐさま自分のリズムやペースに意識を戻すことが重要だという教えを受け、そこからのセッションの中ではそれがうまくできるようになっていた。これはロビンさんのフィードバックがスキャフォールディングになっていたから一時的にできるようになっていただけだと思われるので、集中力と自覚的意識の保持は今後のセッションでも意識し続けるべきことであり、自主トレーニングでもその点をなんとか工夫して意識したい。相手の意識と身体操作を巧みに操ってしまう技術があることもジークンドーの奥深さであると痛感させられた。道のりは果てしなく無限に続いている。それを心底嬉しく思う。フローニンゲン:2022/5/29(日)16:32


8515. ジークンドートレーニング110:良き師の恩恵/

本日のセッションで習った技について


今日はロビンさんとのプライベートレッスンがあったこともあり、早めに入浴をして、早めに夕食を食べようと思う。今日のセッションがすこぶる充実していたこともあり、夕食はいつも以上に美味しく感じられるだろう。


さて、今日のセッションについて引き続き振り返っている。やはり、ロビンさんという師がいるのといないのとでは、ジークンドーの習得の進度が大違いであることを痛感する。そこから、箏の演奏においても、オンラインでいいので誰かその道のプロに師事したいと思う。これは真剣に検討するべきことである。実際のところ、これはジークンドーや箏に留まるのではなく、学術研究においても当てはまることだ。これまで自分は良い先生に恵まれる形でこれまでやってきたのである。今後の学術研究においても、良き師との出会いを祈りたい。


今日のセッションでは、新しい技は実はほとんど学んでいない。これまで習ったことを条件や課題レベルを変えて行うことがメインであり、その学びが実に多かったのである。セッションの残りの20分ぐらいを使って、いくつか新しい技を習った。1つは、フロントスラストキックである。この技については、すでにランク1の際に、フロントスナップキックの1つとして習っていた。なので今回は、ジークンドーではあまり見せないジャンプの動きを加えて行うフロントスラストキックを習った。ロビンさんも述べていたが、ジャンプの動きは次の動きを難しくさせたり、モーションが大きかったりするので、実践ではあまり好んで使わないとのことだが、一応技のレパートリーを広げる意味でジャンプを伴ったものを教えてもらった。ただし、ジャンプと言っても上に飛び上がるものではなく、相手に向かって飛ぶ動きを伴うものである。イメージとしては、プッシュステップをジャンプして行うようなイメージだろうか。そのような形でジャンプして、足を水平方向に出す形でスラストキックを放つ練習をしていたった。蹴り技はどれも好きなのだが、このジャンプの動きが最初のうちは難しく、慣れるのに時間がかかった。その後、2種類のフックキックを習った。足の甲を使って行うフックキックと、足の脛を使って行うフックキックの2つを習った。これについても単体で行うとさほど難しさを感じなかったのだが、セッションの最後に、右と左のジャブからのフックパンチ、そしてそこにフックキックを加えるというコンビネーションにおいては精度が下がっていた。途中のフックパンチの精度も下がっていて、そうなってくると形がおかしくなって手首が少し痛くなってしまった。ここからもコンビネーションの難しさを知るとともに、1つ1つの動作の精度を高めて組み合わせていく練習をする必要性を痛感した。最後に、ランク2の技ではなく、ランク3で習う技を先取りする形で、バーニングフットサイドキックというものを習った。「バーニング」という言葉にあるように、地面がまるで灼熱の炎であるかのようなイメージを持って、利き足を地面につけたらバーニングステップを伴ってサッと足を上げてサイドキックを繰り出すものである。ここでも改めて、サイドキックを構図上弱い股関節ではなく、臀部の筋肉を使って行うことの大切さを確認した。明日からは、今日の振り返った内容をもとに、また創意工夫のもとにジークンドーの鍛錬に励みたい。ロビンさんという良き師がいるだけでこれほどまでに稽古が充実したものになるのだと知る。良き師がいることの有り難さと恵みに深く感謝したい。フローニンゲン:2022/5/29(日)16:48

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