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8486-8494: フローニンゲンからの便り 2022年5月27日(金)



No.3687 宇宙の重なる円_Overlapped Circles of the Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1557, Duration and Blissfulness

I became a certain duration.

Tremendous blissfulness followed it.

Groningen; 11:02, 5/27/2022


No.1558, A Soft Voice of the Evening

I can hear a soft voice of the evening.

Now is one of the most beautiful moments in a day.

Groningen; 19:46, 5/27/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8486. ELSAの面白さを感じながら

8487. 今朝方の幾つもの夢

8488. 今朝方の夢の続き

8489. 分身が現れる夢

8490. 未分化の世界に溶け込んで/克己と鍛錬

8491. 失われた豊かな時間を求めて

8492. 豊かな持続

8493. 持続の相互作用とフラクタル構造

8494. 瞑想的な意識の中で


8486. ELSAの面白さを感じながら


時刻は午前6時半を迎えた。今、朝日が輝き始め、朝の世界がここからの躍動に向けて準備を始めている。この時間はとても冷えていて、足元から寒さを感じる。もう6月に入ろうとしているのだが、依然として室内では暖かい格好をしている。今日の最高気温は14度までしか上がらず、午後にジムに行く際には、上に何かを羽織っていく必要がありそうだ。


今、小鳥たちの鳴き声が聞こえ始めた。いつものように連続して鳴き声を上げ続けているのではなく、一度鳴いてしばらくしてから次の鳴き声を上げるというような形で鳴いている。小鳥たちもどうやらその時の気分や天気の状態に合わせて鳴き方を変えているようだ。彼らもまた人間と同様に、コンテクスト依存性があることがわかる。置かれているコンテクストによって発揮されるものが異なるというのは、何も人間固有の特性ではなく、生命全ての特性なのだろう。


昨日は、一昨日と同様に、英会話アプリのELSAを7時間ぐらい使っていた。毎日の使用時間のデータも自ずと取られていて、1日の終わりにそれを確認したときに、自分が7時間もそのアプリを使っていたことを知った。一昨日と昨日は、それぐらいに英語の発話能力の鍛錬に時間を充てていた。英語の学習をもはや単独で切り出して行うことなど久方なかったのだが、今は英語の発話能力を集中的に見直す時期にいることを実感している。英語の発話能力の鍛錬に特化した学習をしていると言っても、ELSAのコンテンツがカバーする領域は豊富であり、そうした魅力的なコンテンツのおかげで、楽しく新しい事柄を学べているのは嬉しいことだ。しかし、この2日間でコンテンツを相当にやり込んだので、新しいコンテンツがもはやほとんどないような状況である。残っているのは、外部と提携した形でのコンテンツのうち、ペンシルヴァニア大学ビジネススクールのアントレプレナーシップに関するものぐらいとなった。こうしたビジネスコンテンツも久しぶりに学んでみると、意外と面白いものである。もちろん、自分としては、社会科学や自然科学などの学術系のコンテンツの方が嬉しいことは確かだが、それらのコンテンツはまたどこかのタイミングで新たなコンテンツが入ってくるだろう。今日は7時間ほどは使わないにしても、幾らかの時間を取ってELSAを活用する。新たなコンテンツが枯渇してきたこともあって、昨夜は少々復習がてらすでにやり終えたコンテンツを再び覗いてみたところ、意外と学びが多く、また過去の自分の発音の記録も残っているため、自分の変化を知るという意味でも大変学びが多いことに気づかされた。そうしたことから、今日もまた過去にやり終えたコンテンツを再度取り組んでいこうと思う。特に、いくつか改善がまだ必要な発音記号に焦点を当て、それらの口の形の動画を見て、そこから発話練習に励みたいと思う。ELSAのアプリを使ってから、自分の発音上の思わぬ盲点に気づくことができ、また毎日使えば使うだけ、確実な進歩が見られることは嬉しい限りである。英語の発話能力の成長にも終わりがないことを改めて知れたことは嬉しく、自分が実際にまだまだ発話能力を伸ばしているという変化の様子を見れていることもまた嬉しいことだ。フローニンゲン:2022/5/27(金)06:46


8487. 今朝方の幾つもの夢


時刻はまだ7時を迎えておらず、今はそよ風もないほどに無風の世界が目の前に広がっている。今日は少し雲が多く、ちょうど今は朝日が大きな雲に覆われてしまっている。晴れ間が広がるのはもう少し後からになるようだ。


今朝方は随分と多くの夢を見ていたので、それらについて順に振り返っておこうと思う。夢の中で私は、「満足」の意味について改めて考えていた。それは、「足が満たされる」ことなのだということにはたと気づき、それがどういう意味なのかを考えていた。地面に足が着き、大地からエネルギーを受け取っているような感覚が満足感の本義·根幹にあるような気がして、それに気づいたとき、自分の中で満足感が芽生えた。その満足感がまさに、足元からもたらされるような強いエネルギーであった。足がエネルギーに満ち、喜びに満たされることは、満足感を感じる上でなくてはならないものなのだという気づきがやってきた夢をまず見ていた。


次に見ていたのは、私は外にいて、地面に何かを落としてしまった。それは食べのものような感じもしたし、そうではなくて何か大切な物のようにも思えた。いずれにせよ、自分が何を落としたのかは定かではなく、何かを落としたことは確かだった。落としたそれをすぐに拾おうとすると、その周りに蟻がたくさんついていてびっくりした。相当な数の蟻が群がっている様子を見てギョッとしてしまったのである。私は、それらの蟻を恐る恐る払い退けながら、落とした物を拾ってみたが、蟻がその物の奥からどんどんと湧いて出て来たので、君が悪くなって、その物を拾うのを諦めた。それは蟻たちにあげようと思って、その場から後にすることにした。


その他にも、大学にもう1年通うことを決断した自分がいた夢を見ていた。それは留年という形だが、単位が取れなくて留年したのではなく、もっと積極的な意味があった。すでに卒業要件を満たす単位を取得していながらも、大学でまだ学び足りないことがあったので、もう1年大学に残って、自分が学びたいことを思う存分学びたいと思ったのである。大学にもう1年残るにあたっては、両親に授業料を負担してもらうのではなく、自分はすでに働いていて、お金を随分と持っているようだったので、授業料は自分で払うことにした。学びたいことをゆっくりと学ぶ上で、もう1年大学に残る選択をしたのは、我ながら賢明かと思った。そこで夢の場面が変わった。


さらにもう1つ覚えているのは、自分が裸になって、中年の男性マッサージ師からマッサージを受けている夢である。マッサージを受けていた場所は、マッサージ店ではなく、少し奥まったところにある建物の外の通りだった。奥まった場所にあるとは言え、ごくたまにだが人が通ることは確かにあったので、そうした場所で裸でマッサージを受けるのは最初抵抗があった。しかし、人間とはある意味恐ろしい生き物で、そんな環境でも慣れてしまうのだ。また、マッサージが非常に気持ち良かったので、人に裸を見られていようがいまいが全く気にしなくなったのである。マッサージを受け始めてすぐに、知人の画家がやって来て、マッサージの感想を聞いて来た。彼女に自分の裸を見られるのは最初抵抗があったが、彼女も全く気にしてないようだったので、自分も気にすることなく、マッサージの感想だけを述べた。特に、腰の両脇のツボにマッサージを受けることがとても気持ち良く、マッサージ師の全力のツボ押しは痛気持ち良かった。そこで私はハッと目覚め、目覚めた自分の腰を思わずさすった。すると、夢の中で受けていたマッサージの気持ち良さが、現実世界の自分の腰にまだ残っていることを感じた。改めて、夢の中の身体と現実世界の身体のつながりを感じた次第だ。フローニンゲン:2022/5/27(金)07:03


8488. 今朝方の夢の続き


今日はいつも以上に気力で満ち溢れている。先ほどの夢の振り返りにあったように、足が満ち足りているという意味での満足感に近いものに包まれている感覚がする。こうした感覚を常に大切にしながら毎日を生きていこう。常に確認するべきは、自分の頭の中の思考だけではなく、こうした感覚である。むしろ、感覚をより優先にしていき、感覚に沿ってそれを育みながら毎日を生きていこう。感覚を磨き、感覚に導かれる生活が実現し始めていることは嬉しい限りである。この気力に満ちた今の状態をもたらしてくれたのは、ひょっとすると、夢の中で受けていたマッサージも要因としてあり得る。夢の中の出来事が、現実世界に影響を与えるというのはつくづく興味深いことだ。だが、夢も現実も1つのリアリティとして捉えると、両者に繋がりがあって相互に影響を与えているというのは、何ら不思議なことではないことがわかる。充実感を感じるべきは、現実世界の自分だけではなく、夢の自分もだ。これからは、夢の中の自分がどれだけ充実感や生の喜びや実感を得ているのかにも着目してみよう。


そのようなことを考えていると、今朝方の夢の続きを思い出した。今日は本当にいろいろな夢を見ていた。夢の中で私は、大学時代のサークルのメンバーと一緒に草サッカーの試合に参加していた。相手は見知らぬチームであり、彼らもまた大学生のようだった。こちらのチームは、大学1年生から4年生までの様々な学年のメンバーで構成されていて、多様性に富んでいた。私はツーセンターバックの一角を任され、相手からは鉄壁のセンターバックと恐れられていた。実は最初試合に出ていた私は、私の分身であり、分身元の私は試合を河原の土手の上から眺めていた。センターバックを務める自分の守りは確かに固く、見ていて安心感があった。試合を眺めていると、自分の体が疼いて来て、自分も試合に出たいと強く思ったので、土手を降りていき、コート脇のベンチに向かった。そこで交代出場を告げ、私は私の分身と交代して試合に出場した。出場した瞬間に、ちょうど相手にフリーキックのチャンスが与えられた。距離としても直接狙える距離であり、ピンチであった。私は壁の右端に入った。キッカーは、相手のチームのキャプテンであり、フリーキックに自信があるようだった。彼がキックをする前に、お互いに少し会話を交わしていた。私たちのチームは、キーパーと2人のセンターバックがキーマンであるとそのキャプテンは述べていて、3人に対して賛辞を送っていた。しかし勝つのは自分たちであると述べ、勝つためにはこのフリーキックがとても重要になると述べていた。私は、彼の利き足とゴールまでの距離と位置から、自分が壁に入った場所の上をボールが通り抜けていくだろうと予測した。なので、自分が思いっきりジャンプすれば、フリーキックを防げると考えたのである。いざ相手のキャプテンが助走に入り、ボールを蹴ると、予想外に弾道が低く、自分の隣にいたもう1人のセンターバックの友人にぶつかり、彼はすかさずボールをサイドに大きくクリアした。どうやら相手のキックは失敗に終わったようだった。この試合一番の危機を回避した私たちのチームは勝利を確認し、相手は意気消沈した様子だった。フローニンゲン:2022/5/27(金)07:17


8489. 分身が現れる夢


今、雲間から朝日が差し込み始めた。やはり朝は朝日を拝むことに勝るものはないと感じる。今朝は足元から冷えるので、朝日が拝めるだけで気持ちが温かくなる。今日はそれほど気温が上がらないので、午後にジムでサウナに入ることは賢い選択だろう。サウナには関しては季節を問わず、真夏であっても入ろうと思っていて、それほどまでにサウナでかく汗はいいものなのだ。身体的なデトックスだけではなく、精神的なデトックスも促してくれるのがサウナの良さだろう。


先ほどまで今朝方の一連の夢について振り返っていた。すでに随分と多くの夢について振り返っていたように思うが、起床する直前に見ていた夢についてはまだ振り返っていなかった。それを振り返ってから、今日の活動を本格的に始めようと思う。


夢の中で私は、山の麓にいて、これからロープウェイで山頂に向かうことになっていた。その山は観光名所であり、随分と多くの人がいた。日本人が大多数だったが、それでも外国人もちらほらいたことは確かである。ロープウェイのチケットについては、すでにスマホから予約をしていて、あとはその予約情報をチケット売り場で提示することによって、物理的なチケットがもらえる仕組みになっていた。チケット売り場に向かおうとすると、地面に不思議な物体が動いていることに気づいた。それは少し大きめのおしゃぶりだった。おしゃぶりが地面の上を意思を持って動いている姿に私は驚いた。そして、そのおしゃぶりをよくよく見ると、小中高時代の親友(HO)だということに気づいたのである。どうやら彼が変身して、おしゃぶりになっているようだった。残念ながらおしゃぶりになった彼は話すことができなかったが、その動きで意図を示してくれた。地面を動き回るおしゃぶりは、はたから見て結構可愛らしくもあり、面白かった。チケット売り場に到着すると、少し重たい雰囲気があった。どうやらまだコロナウィルスが収束していないらしく、確かにもはや誰もマスクをつけてはいなかったが、お互いに距離を取って列に並んでいて、その列が長蛇の列になっていた。人々が長蛇の列で待つ苛立ちが少し嫌な重たい雰囲気を作っているようだった。列の前方を見ると、どうやら事前にチケットを予約している人が優先的に並べる列があるらしく、そちらはとても空いていた。というよりも、自分が見た時にはそこに誰も人がおらず、ラッキーだと思った。いざその優先列に向かったところ、そう言えばそこでもまた自分の分身がすでに物理的なチケットを受け取っていて、先に山頂に向かっていたことを思い出した。すでにチケットもらっているが、もう1枚もらえるのか気になるところであり、その点についてチケット売り場の係員の女性に聞いてみようと思った。その女性の表情は少し暗く、いざ事情を話そうとしたところで夢から覚めた。この夢についても色々と気になるシンボルが現れているが、今朝方見ていたその他の夢と同様に、ここでも自分の分身が存在していたことが関心を引く。それはドッペルゲンガーなのだろうか。あるいは、何かより違った意味を持つ現象なのだろうか。この点については関心を持ち続け、新たな気づきや知識が得られるような状態に絶えずしておきたい。フローニンゲン:2022/5/27(金)07:31


8490. 未分化の世界に溶け込んで/克己と鍛錬


現代文明を支配する合理性や計測可能性から解放され、それらの外側で生活を形作ろうとしている自己がいる。現代文明の外には全くもって未分化な世界が広がっていて、そうした世界そのものに合一化しようとしている自己がいる。未分化な世界に入っていくことは、極度な混沌による混乱を自己にもたらしかねないが、今の自分の自己はそれを養分にする逞しさがある。未分化な世界と接触すると、自己は分化の働きを緩め、超越的な未分化な状態に寛ぐことができる。今の自己を描写すると、そのような記述になるだろうか。


時刻は午前10時を迎えた。早朝に見えていた雲は随分と消えていて、今は朝日が地上に降り注いでいる。この様子だと、日光浴を楽しみながら午後にジムに行けそうである。今朝方もいつものようにELSAを用いて、英語の発話能力の鍛錬を行なっていた。ここ最近は使用時間を増やし、朝も30分ではなく、1時間ほどしっかりと時間を取って発話の鍛錬をしている。自己は克己と鍛錬によってどこまでも磨かれていく。英語の発話能力という小さな能力を取ってみてもそうである。午後に鍛錬する武術の能力もまたそうだ。さらには、箏の演奏能力もそうであるし、学術研究の種々の力もそうである。それらは全て、克己と鍛錬によってどこまでも成長を続けていく。


静けさと落ち着きが形作る今の生活。世間を見渡してみると、現代社会では不穏なことが色々と起きているが、日々のこうした生活はなんとしても自ら死守·涵養していかなければならない。結局のところ、自分にできることをやっていくしかないのである。もちろん他力の力も借りながら行わなければならないことも多々あるが、自力があっての他力であることを忘れてはならない。朝の世界がゆったりとした時間の中で穏やかに進行していく。フローニンゲン:2022/5/27(金)10:16

8491. 失われた豊かな時間を求めて


定量化されていない豊かな時間を感じてみよう。それと一体となって過ごしてみよう。そうすれば、大きな至福感と充実感の波がやって来る。そのようなことを今目の前に見えるそよ風の動きが伝えてくれている。また、小さく鳴いている小鳥たちもまた同様のことを教えてくれている。現代人が時間に追われ、時間のなさを嘆いているのは日常茶飯事となった。それが常態化されてしまったのである。本来そうした在り方や生き方は異常なものだったはずなのに、異常なものが日常なもの、平常なものになってしまったことに驚きを隠せない。そして、とても残念な気持ちになる。人々が時間に追われ、時間を嘆いている状態というのは他人事ではないのである。確かに自分は日々、たっぷりと豊かな時間を享受して生活を営んでいる。だが、人は絶えず誰かの支えがあって生活を営むことが可能になるのであって、周りの人たちが時間によって苦しめられているのは自らの生活に直接的に影響を与えることなのだ。


そこでふと、果たして現代人は本当に時間がないのだろうかと考える。ミヒャエル·エンデの『モモ』でいうところの時間泥棒に時間を奪われてしまっているのだろうか。確かに、現代文明を覆う種々のシステムは、私たちから時間を奪っている側面があるのは確かだ。時間が金銭価値に換算され、時間とマネーが一体化された形で取り引きの俎上に上げられることによって物やサービスがやり取りされている。しかしながら、現代人が時間によって苦しめられているのはそれだけではないだろう。本質的には、時間に対する感性そのものが劣化してしまったことに大きな理由があるのではないだろうか。確かに、そうした感性の劣化をもたらしたのも文明の複合的なシステムの影響によるだろうが、注目するべきは私たち1人1人の時間に対する感性であり、それを取り戻すことが急務なのではないかと思う。現代人は本当に忙しいから時間のなさを感じるというよりも、百歩譲って文字通り忙しかったとしても、その活動そのものの中に豊かな時間を見出すことに失敗していることが時間がないことへの焦りを生んでいるのではないかと思うのだ。


ここでふと、プルーストの『失われた時を求めて』の作品を思い出す。やはり私たちがやるべきことは、日々の生活の中の1つ1つの活動の中に内包されている豊かな時間を、私たちの内側の感覚を通じて掴むことなのだ。それを出発点にして、活動と時間を切り離すのではなく、いかなる活動の中にも豊かな時間が泉のように絶えず流れているということを感じることから始めなければならない。現代文明においては、時間が客体化·対象化され、それが切り売りされる形で取り扱われるようになってしまったがゆえに、現代人は時間と諸々の活動を分離してしまう。本来は、時間と活動は不可分の関係を結んでいる。時間に関する分離の病を癒していくことが個人と社会に求められ、それを通じて時間と活動は本来の関係性を取り戻す。そうすれば、人々はもう一度豊かな時間の中を生きられるようになるかもしれない。時間は引き続き自分にとって極めて重要なテーマである。フローニンゲン:2022/5/27(金)10:35


8492. 豊かな持続


現代においては、時間は機能的な形で画一的に計測されている。それから脱却してみよう。本来時間は、ある個別具体的な事物や現象の持続によって表現されるものだったはずである。例えば、太陽が昇って沈むまでの持続や、種が芽を出す持続、懐胎から誕生までの持続、ある能力が発達するまでの持続などである。すなわち、時間を一緒くたに計測の遡上に上げるのではなく、個別具体的な事物の持続の中に時間を感じてみるようにしてみるのだ。そうすれば、より豊かな時間感覚が得られるだろうし、それはますます豊かな時間感覚を養ってくれることにつながるだろう。とにかく、多様な事物が内包する固有の時間の豊かに着目し、その持続と一体化してみるのである。決して標準化された数値的時間によって時間を測るのではなく、持続を通じて時間を感じるのである。それが真の意味で時間を味わうことなのではないかと思う。一体誰が、今聞こえて来る小鳥の鳴き声の秒数を計算するだろうか。そんな小賢しく無意味なことをするのではなく、純粋に小鳥の鳴き声の持続そのものに自己を明け渡してしまえばいいのだ。そろそろ現代人は、画一化された時間の牢獄から脱出しなければならないのではないかと思う。現代の時間はとても暴力的だ。顔がなく、絶えず暴力を奮っている。厄介なのは、標準化された時間の方にはその自覚がないことであり、それでいて人間や自然に対する影響が甚大では無いことである。時間の暴力に屈するのではなく、むしろそうした画一化された時間を癒していくことに取り組むのである。時間は本来多様で豊かだった。それを取り戻す試みに従事していくのだ。そのための小さなアクションとして上記の事柄がある。ある現象に固有の持続になってみるのだ。持続を外から眺めるのではなく、持続の内側に入り、持続になってみるのである。そうした試みを通じて、徐々に私たち本来の時間感覚を取り戻していくことができるだろうし、時間が本来持つ宝石のような輝きに気づくことができるだろう。そのようなことを考えていた自己は、考えという現象の持続になっていた。その持続から外に出た時に、今度はまた雲の動きの持続と化した。全ては持続体験の連続だったのである。ある豊かな持続から別の豊かな持続に移り変わっていくこと。自己は、持続のカメレオンないしは持続の万華鏡だったのだ。持続の時間は本当に長短様々だ。それが感じさせてくれることも見せてくれることも無限に多様だ。この世界そのものが持続の多重奏を常に奏でていて、自己はある旋律に調律していく。自己はそのようにして持続に関する音楽的存在だったのだ。ある豊かな持続が終わりを告げ、また新しい豊かな持続が始まりを告げた。フローニンゲン:2022/5/27(金)10:48


8493. 持続の相互作用とフラクタル構造


日々は持続であり、人生は持続である。成長も発達もまた持続の産物である。長短様々な持続を発見し、それらと一体となってみること。そうした体験を楽しむこと。1つの大きな持続としての豊かな人生は、そうした試みによって初めてもたらされる。それぞれの持続は、個別具体的な現象それぞれ独立的だが、それらは全て相互に影響を与え合っている。また、全ての持続はフラクタル構造を持っている。ゆえに、人生のような大きな持続を捉えようと思ったら、小さな持続を捉えることができなければならない。その逆も然りの場合もあるだろう。いずれにせよ、全ての事物に内包されている独立した固有の持続に気づくこととと、それらが織り成している相互作用に気づくこと。そして、持続のフラクタル構造を発見することが重要になる。持続のフラクタル構造が捉えられるようになって来ると、無限の長さを持つ長大な持続と一体化することが可能になる。それが永遠を経験するということであり、永遠になるということなのだ。永遠を味わうためには、永遠のフラクタルとしてのより小さな事物が持つ持続のフラクタルを捉えられなければならない。宇宙大の持続を感じられるようになった時、自己はもう小さな自我の檻から完全に脱却していて、脱自的な形で永遠の持続に寛ぐ。その安心感と心地良さは言葉に表すことができないほどである。


時刻は間も無く正午を迎える。今日もまた午前中の時間が充実感としてゆっくりと過ぎていった。この静謐な時間感覚をどこまでも大切にしていこう。今日は予定通り、午後からジムに行く。ジムの帰りには2軒ほどスーパーを梯子して、食料品を購入しようと思う。ジムに行くことも、買い物に行くこともまた固有の持続という充実した時間を持ったものとして知覚される。とにかく自分の内側の感覚を絶えず見つめていき、事物のそれぞれの固有の持続を捉え、それらと同一化するように心掛ける。そうすれば、いつかもはやそれを意識することなしに、自分を通じて現れたその瞬間の固有の持続として生きられるようになるだろう。フローニンゲン:2022/5/27(金)11:58


8494. 瞑想的な意識の中で


静かな夕方の世界が瞑想的な意識に誘う。どこか深い瞑想をしているかのような意識状態にある。そよ風の動きを眺めているだけでも意識はさらに瞑想的なものになる。聴こえて来る箏曲の音もまた深い瞑想を誘う。今、自分はこの瞬間に留まり、この瞬間の持続の中にいる。その幸福感を深く味わっている。ただあるだけで幸せというのは、こういうことを言うのだろう。一方で現代社会は、私たちの注意を奪い、注意を搾取する形で経済活動の大車輪を回している。現代は、注意欠陥症の人間で溢れている。それは精神疾患的な意味というよりも実存的な意味でである。現代の経済活動は、人々の注意を搾取し、商品化することによって拡大の一途を辿っている。この傾向に抗わない限りは、多くの人は今この瞬間を味わうことなど到底できないだろうし、今を生きる人生を謳歌することなどできないだろう。


時刻は午後4時半を迎えようとしている。空には雲が多くあるが、それは雨を降らせるようなものではなく、時折晴れ間をもたらしてくれている。先ほど、ジムと買い物から帰ってきた。今日もまた、ジムでは集中してジークンドーの鍛錬を行うことができた。外の気温は低かったが、ジムまでジョギングをしていたこともあり、ジークンドーの鍛錬の最中には汗が滲んでいた。トレーニング後のサウナもまた格別であり、今日は2人の男性と一緒にサウナに入ることになった。1人でサウナを楽しむこともいいが、複数人で楽しむことにもメリットがある。以前書き留めていたように、集合的な瞑想実践がそこで行われていて、1人でサウナに入る時よりも深い瞑想的な意識状態に入ることが可能になることがある。それは複数人でサウナに入ることの1つの醍醐味かと思う。また、何気ない挨拶を交わすというコミュニケーションもまた心を穏やかなものにしてくれる。人と言葉を交わすことは、一種のファーマコンであり、それは毒薬にも良薬にもなることを改めて思う。さて、午前中に引き続き、テクノロジー哲学者のバーナード·スティグラーの書籍を読み進めていき、再読が終わったら、再びELSAのアプリを通じて英語の発話能力の鍛錬をしようと思う。フローニンゲン:2022/5/27(金)16:28


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