No.3662 朝の神秘的抽象(その1)_Morning Mystical Abstraction (Part 1)
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1544, A New Door
A new door is open now.
My soul enters a new world willingly.
Groningen; 09:38, 5/21/2022
No. 1545, A World Dance
The world is always enjoying a dance.
On the other hand, humans don’t often notice it.
Even worse, they forget how to enjoy a dance.
Groningen; 10:16, 5/21/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8446. 今朝方の夢/ガウディの建築群に改めて感銘を受けて
8447. 朝の一仕事を終えて
8448. 表現活動と生活/幸福への意志
8449. 余暇と自給自足について
8450. 変貌を遂げ続けるアルカディア/大学教員になることについて
8451. 病の中にある光を見出すこと
8452. 日記を綴るように音楽を生み出すこと/過去半年のデジタル絵画を眺めながら
8453. 新鮮さの里程標/変化で成立する自己同一性/輝きと闇/泡沫として現代文明
8454. シンプルさを求めて/メタバースと和服への関心/絶え間ない生と死を繰り返す内面宇宙
8446. 今朝方の夢/ガウディの建築群に改めて感銘を受けて
時刻は午前4時半を迎えた。今朝は、いつもより少し早く起床した。今、小鳥たちが澄み渡る鳴き声を上げている。辺りはまだ真っ暗なのだが、彼らの鳴き声が一つ筋の光のように聞こえて来る。先週のフローニンゲンは、初夏を感じさせる暖かさがあったが、今日からまた気温が少し低くなる。今日は、最高気温が17度、最低気温が6度との予報である。明日と明後日は、最高気温が20度に達するが、そこからまた最高気温は17度前後の日が続く。最低気温についても8度前後なので、随分とひんやりした感じの日が続きそうだ。
小鳥たちの鳴き声を聞きながら、今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、自分が幼少期に流行っていた冒険格闘アニメのキャラクターたちと一緒にトレーニングに励んでいた。しばらくトレーニングを行っていると、破壊を司る神が現れ、彼の友人を自分に紹介してきた。その友人の方を見ると、人相が悪く、極悪人かと思ったが、話をしてみると、案外性格が良かったので、お互いに打ち解けることができた。私たちがトレーニングをしていたのは、南の島である。そこは都市文明からは隔離されていて、時間の流れもゆったりだった。店のようなものは一切なく、食事は島の生命を自分たちで採る必要があった。生命といっても動物ではなく、野菜や果物などの植物である。今朝方の夢で覚えているのはそれくらいだろうか。今朝は夢の世界が落ち着いていた。
昨日、久しぶりにガウディの画集を眺めた。すると、3年前にバルセロナを訪れた時の記憶が自ずから思い出された。サグラダファミリアを含め、ガウディの建築物をいくつか見て回った時の記憶がありありと思い出されたのである。そんな記憶に浸りながら、改めて画集を眺めてみると、ガウディの建築の偉大さを再確認した。ガウディの建築群は、霊的な世界を体現していて、そこに大きな感銘を受ける。3年前においては、ガウディの建築群に霊的なものをそれほど強く感じなかったが、今はそれが強く感じられる。これは自分の霊感が高まったからなのだろうか。この3年間の学習と実践を通じて、霊的なものを捉える知性が高まったのかもしれない。今日は、バルセロナを訪れたときに足を運んだミロ美術館、ピカソ美術館、ダリ美術館で購入した画集を眺める。画集を眺めていると、色々と霊感を受け、自分にとって大きな刺激と養分になるので、時折集中的に画集を眺めることをしたいし、日々こまめに画集を眺めたいと思う。ガウディの建築からはまだまだ多くのことを汲み取れそうな気がしたので、画集を眺めた後に1階に仕舞うのではなく、2階の書斎に置いたままにしておくことにした。フローニンゲン:2022/5/21(土)04:50
8447. 朝の一仕事を終えて
時刻は午前10時半を迎えた。今朝は、午前4時に起床し、いつもより早く起きたこともあって、朝の活動が捗っていた。これまでのところ、アントレプレーファクトリーさんと運営しているADITIというコミュニティに向けて3時間を越す音声ファイルを11本ほど作っていた。前回のセッションの動画を見て、それに対して自分の方で色々と補足·共有させていただきたいことがあり、気がつくとそのような時間及び数の音声ファイルを作っていた。朝の一仕事を終えたという感じがする。今日はこれから、書物を読んだり、画集を眺めたりして過ごそうと思う。
昨日、微分音を駆使して、宇宙の音楽を作りたいという思いが湧いてきた。平均律では表現できない音の機微を微分音で汲み取りながら、微分音を駆使した作曲と演奏をしていきたいという思いを持ったのである。箏の演奏が実現するのは、まだ箏が届いていないので将来のことになるが、音楽を通じて開示される宇宙に触れ、それを自分なりの形に表現していきたいという強い思いがある。箏曲の作曲と演奏に向けた勉強及び実践に関して努力を怠らない。そのような在り方を継続していきたいと思う。
土曜日のフローニンゲンの朝はとても穏やかだ。爽やかな風が流れていて、朝日も空に輝いている。気温は少し低く、肌寒さがあり、今日は室内でも半袖で過ごすことはできない。パーカーを着て、靴下もちゃんと履いて、暖かい格好をしている。ゆったりとした時の流れに身を任せながら、これから読書を楽しもう。1つ1つの学習と実践が、自分の確かな肥やしになっているのを実感する。フローニンゲン:2022/5/21(土)10:53
8448. 表現活動と生活/幸福への意志
自分の表現活動があって自分の生活が存在するのではなく、あくまでも自分の生活があって自分の表現活動があるのだという関係性を見て取る。そこに、人生の営みに深く根を下ろした表現活動を見る。本来表現というのは、自分の人生や生活と切っても切れない関係にあるのではないだろうか。表現の根元及び根源にある己の思想というのは、自らの生活から生み出されるものであるし、育まれるものでもある。そうなってくると、表現が日々の生活と遊離してしまうというのは何かおかしいのではないかと思う。少なくとも自分は、表現と生活が不二一体の関係を結びながら進んでいくことを望んでいるし、そのように表現と生活を営んでいきたいと思う。
時間の経過と共に立ち現れてくる自己を認識すること、時間を通じて育まれていく自己を認識すること。そうした認識を大切にしつつ、生を謳歌する時間の中で自己として進展を続けていきたいという思いが生まれてくる。時間を生の喜びを通じて測ること。それ以外は時間の計測手段になり得ない。
生の発露としての芸術作品及び表現行為。それらを通じて、生の喜びを失った人々の意識や在り方を静かに、しかし確実強固に変えていくこと。それが本質的な革命なのかもしれない。逆に言えば、それ以外の革命は、過去の歴史が証明しているように、また人間の内在性質から敷衍できるように、権力に堕してしまい、本質的な革命は実現されないのではないかと思う。感覚や感性を含めた意識の変容的革命に、自らの創作表現行為を通じて関与していくこと。その役割を積極的に担っていく。
種々ある意志の中で、確か昨日は芸術への意志について書き留めていたように思う。芸術への意志に加えて、幸福への意志というのは最も尊重されねばならず、絶えず育んでいくべきもののように思える。現代社会の中で、幸福への意志というものがいかに蔑ろにされ、搾取されていることか。幸福への意志を尊重し、それを育んでいくための実践的な処方箋をこの社会に提示せねばなるまい。それに向けて、まずは自らが幸福への意志を深く尊重し、それを絶えず育んでいくことに従事しよう。そうすれば、自分という個人に当てはめてみてうまく機能した実践から、広く多くの人に当てはまる実践を導いていくことができるのではないかという期待と希望がある。自分を起点にして全てを出発させ、それを全て他者に還元していくこと。それを絶えず心掛けたいと思う土曜日の朝だ。フローニンゲン:2022/5/21(土)11:24
8449. 余暇と自給自足について
大学教員になると、学生と同じくたっぷり長い夏季休暇があり、冬にも休暇があることを考えると、時間的な観点では大学教員は恵まれた側面があるなと思うことがある。しかし今の自分は、完全に自由の時間を享受していて、大学教員でさえも時間的拘束の強い職業だと思ってしまう。だが、諸々のことを考えてみると、今後どこかのタイミングで大学教員として活動する時期がやって来るのではないかという予感がする。それがやって来るまでに、今の自由を享受し、充実した余暇の中でしか深められないこと、生み出せないことを形にしていこうと思う。それに邁進する形で自分の時間は過ぎていく。そして、自分はそうした密な時間と化す。本当に自由な余暇とは、自分を充実した時間そのものにしてくれるのである。
形を生み出すということで言えば、実際に自分が口にするものを自らの手で育てたいという考えが最近よく芽生える。本来、我が国も古くは自給自足をして成り立っていたはずなのだが、ある時を境にして、自給自足では成り立たないような社会になってしまったことは嘆かわしい。日本は主権国家たり得ないと言われることがよくあるが、それは単に米国に従属しているとか国際社会の場で発言が表明できないとかそうした次元の事柄だけではなく、もっとシンプルに自給自足できない社会であることも、そのように言われるゆえんかと思う。現在の国際状況を見ていると、自国を防衛することの重要性がより高まってきているように思われ、その際に軍備の拡張という点だけではなく、自給自足の問題ももっと真剣に議論されて然るべきではないかと思う。食料という人間生活と社会の根本基盤になっているものを蔑ろにしてしまっては国防もあったものではなく、その他の全ての試みが無駄になってしまう危険性さえある。自分や家族が、そして村や社会が生存するために食料を自ら生み出し、確保するというのは、本来最も自然なことだったはずなのだ。そうした路線から日本はいつからか大きくはみ出してしまい、食料自給率は低下していく一方である。日本社会のマクロで起こっていることは、日本人であるミクロの自分にも起こっていて、自らの手で食糧になるものを育てるということをやっていない自分がいることにはたと気付かされる。そうしたことに気づき、そこに問題意識を持ち始めているがゆえに、今何かを育ててみようという気持ちになっているのだろう。両親はマンション暮らしをしているが、バルコニーで野菜や果物を育てていて、父方の祖父母の家には畑があり、祖父母は畑で野菜や果物を育てていたことを思うと、自分にも自給自足を行う血が流れているのかもしれないと思う。夏の季節に合った野菜か果物を調べてみて、それを育ててみようかと思う今日この頃だ。フローニンゲン:2022/5/21(土)11:48
8450. 変貌を遂げ続けるアルカディア/大学教員になることについて
自分にとってのアルカディア、すなわち理想郷は、日々の創作活動を通じて絶えず新たなものに変貌している。それは固定されたものではなく、日々創作活動に従事すればするだけ、新たなものとしてより明瞭な姿を現しながらも、汲み尽くせないような深さを持っているものである。自らの精神的な成長と絶え間ない創作行為を通じて、アルカディアも変貌を遂げていくらしい。
無限に広がる青空に白い雲が浮かんでいる。どこにゆくとも知れずゆっくりと進行していく雲をぼんやりと眺めている。午前中に、近い将来に大学で教鞭をとるかも知れない可能性について言及していた。今の自分にとっては毎日が夏休みのようであるから、大学教員になったときに得られる夏休みなどはたかが知れている。だがそれでも大学の場に自己を置くことに何かしらの意味を見出すとするならば、自分の探究を客観的な場のもとに行うことにあるように思う。今の自分は在野の研究者として日々粛々と人知れず研究活動を続けているが、その効能も体験を通じて知りながらも、同時に限界についても分かっている。少しフェーズが変わり、今の自分はやはり客観的に自らの研究をより進めていける学術機関に戻ることが正しい道のように思えるのだ。そうした理由に加え、大学で授業を受け持つことになれば、若い学生たちと交流できることも魅力の1つである。アメリカで教育関係の仕事についていた時に、子供たちと触れ合う日々は刺激的であり、若さと活力を与えてもらっていたように思う。そうしたものを享受させてもらえることも若い世代の人たちと触れ合うことを可能にする大学の良さである。それに加えて、個人的な便益だけではなく、社会的な意味として、次世代を担う若者たちの教育に関与することにも前向きな自分がいる。彼らの成長を促す触媒として、彼らの成長の跳躍台としての役割を担うことに意義を見出している自分がいるのだ。そのような自分がもう少し成熟を遂げ、何かの巡り合わせがあれば、大学教員として仕事を始めている可能性は十分にある。青空に浮かぶ雲を眺めながらそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2022/5/21(土)13:59
8451. 病の中にある光を見出すこと
幸いにも、これまで自分は大きな病を患うことなく生きて来れているが、人間というのは何があるか誰にもわからない。そんなことを考えながら、改めて現代社会を眺めてみると、種々の身体的·精神的な病気が跋扈している状況に驚いてしまう。現代は、医療の進歩によって病気を治す速度よりも、新しい病気を作り出す速度の方が早いのではないかと思えてしまうほどに病気で溢れている。社会が病気で溢れているだけではなくて、この社会そのものが病的なのだろう。そんな中で、やはり1つ解せないことは、病気というものを過度に否定的に捉え、それを闇としてしか捉えていないことである。多くの人が、病気が持つ光の側面に気づけていないことを残念に思う。ヨガの世界においては、「病は最良の師である」という考え方があり、病気は私たちに何か大切なことを気づかせてくれる存在として肯定的な側面を持っている。病を通じて私たちが何を学ぶかが重要なのだ。病が私たちに投げかけてくれている光を見出すことをしなければ、闇はさらに深まり、新たな闇をもたらす。そして人間は深い絶望的な闇の底に落ちてしまうのではないかと思う。長く続いているコロナウィルスについても、それがもたらしてくれた光の側面は何だろうか。実はそれは、個人としても、社会としても随分と光をもたらしてくれたのではないかと思う。コロナウィルスによって、社会の文化的·構造的な問題が浮かび上がってきたこともまた、ある意味それが持つ光の性質によるものだったのではないかと思う。陰陽の発想を引き合いにするまでもなく、事物には必ず光と闇の側面があるのだ。今私たちが闇だと思い込んで疑わないものの中にある光を見てみること。それはこうした情勢にある現代社会において非常に重要な実践的態度ではないかと思う。人間の眼は、本来光を見るようにできているのではなかったか。心の眼、魂の眼もそうした性質を持つはずである。静かな眩い光を放つフローニンゲンの土曜日の午後の世界が、闇の中に光を見出すことの大切さをそっと教えてくれている。フローニンゲン:2022/5/21(土)14:14
8452. 日記を綴るように音楽を生み出すこと/過去半年のデジタル絵画を眺めながら
日記を綴るように曲を書きたい。その方法を長らく模索している。今はまだ自分の曲とは言えないものを通じて作曲実践を日々行っている。いつになったらやって来るのかわからないが、まるで日記を綴るかのように、自由に自分の内側の形を希求するものを曲の形にしていくことができるのか。その日の到来に向けて日々探究と努力を怠らない。音楽的日記を書くことの楽しさと必然性がもっと深いところから現れて来るまで、今は辛抱の時期である。
自分という存在がいるからこそ在らしめられる宇宙があり、開示される宇宙がある。そこに自己の存在意義を見て取るし、創作活動の意義を見て取る。またそれらの価値もそうしたところにありそうだということが見えて来る。自分が宇宙の中にいるというよりも、自分もまた宇宙そのものであり、この宇宙の担い手なのだということが見えて来る。今、自分の目の前には自分の宇宙が広がっていて、それが他者の宇宙と交流·交差している。この日記を読んでいる人がこの地球上に仮にいるとすれば、その人の宇宙と今こうして交流·交差しているのだ。
上記の文章を書いてから少し時間が経った。現在、時刻は午後3時半を迎えた。ここ最近、ウェブサイトのアートギャラリーにうまく画像をアップロードできなくなり、どうやらアルバムに所有できる容量を超えたようだった。データ量としては1000MBまでしかアルバムに収めることができず、2021年の11月のフォルダで限界に到達したようだった。なので、改めて12月から現在にかけての画像を再度アップロードし直している。その過程の中で、この半年以内に描いてきた自分のデジタル絵画を眺めてみると、色々と気づきや発見があった。また、画集を眺めているかのような純粋な楽しみもあった。今日はもう画集を眺める必要がないほどに、自分の過去の作品を楽しむことができた。作業はもう少し残っているので、今日中にそれを完成させたい。今後同じことが起こると思うので、目安としては、アートギャラリーを作り始めた2020年4月から2021年の11月までの合計3038枚のデジタル絵画をアップロードできたことを記録しておこう。目安としては3000枚であり、時間としては23月分の2年弱の絵画なら1つの大きなアルバムに保存できることを書き留めておこう。それではもう少し時間を取って、過去の作品を眺めることを楽しみながら作業をしたい。フローニンゲン:2022/5/21(土)15:36
8453. 新鮮さの里程標/変化で成立する自己同一性/輝きと闇/泡沫として現代文明
改めて過去半年に生み出した自分のデジタル絵画を見ていると、こうも多様なイメージが精神空間の中で生まれて来ることに驚く。何か創造の泉とでも呼べるようなものがやはり1人の人間としての自分の中に確かに存在しているようなのだ。これからもその泉が枯渇しないように、絶えず泉を生み出す根元かつ根源と繋がりながら、それらに養分を与え続ける生活をしていこうと思う。また、創造の泉は本質的に、創造をすればするだけ喜びを得て、泉からどんどんとまた新たなものが湧き出て来るという特徴を持っている。その性質を弁えて、どんどんと新たなものを日々創造していこうと改めて思った次第である。自分が生み出した創造物を眺めているだけで、日々がどれだけ新しいものなのかということにも気づく。創作物は、自分にとって、日々の新鮮さのマイルストーンである。
全く同じ日記や全く同じ曲を作ることがないとの同じく、日々生み出されていく絵画も絶えず新しいものである。ここに絶えず生成と変化を続けている自己を見る。全く同一のものが生み出されないというのは、アイデンティという自己同一性と矛盾した性質ではなく、むしろ自己は絶えず変化を通じて自己同一性を保つ。それはまるで、コマが絶えず動的に回転運動を続けながら定位を保っているかのようである。毎日弛まず創作を続けていると、自己に関する発見、人間存在に関する発見は本当に多い。その発見は底の見えない井戸ぐらいに深く、宇宙の深淵を覗き込んでいるかのようである。
自己は太陽に匹敵するぐらいの輝きを放ちながらも、根幹では根暗なことをよく知っている。根暗なのだが、太陽を凌ぐぐらいの光を放っていることも知っている。光と闇は本当に表裏一体なのだと思う。自己を構成する極大の光と闇。そのどちらにも敬意の念を持っている。それら両者があってこその自己である。2つで1つ。そう、全ては2つで1つなのだ。それはこの自己も例外ではなく、自己こそ不二一体の産物であることがありありとわかる。
つくづく人間というものが、法律という拭けば飛ぶようなものの傘下の中で社会秩序を保っていることに驚く。しかし、結局いざという時になったら、人間は法律など関係なく暴走するような性質を内在した生き物なのだということを忘れてはいけない。法律を無視して本能剥き出しで生きるような有り様が異常状態なのではなく、むしろ法律を大人しく守っている今の世の中の有り様の方が、人間の内在的野蛮さからすると異常状態なのだと思う。そんな異常さの中で奇跡的に社会秩序が保たれているのが現代文明なのではないかと思う。それは儚き泡沫のようなものだと弁えた方がいいのではないかという思いが沸々と湧き上がる。フローニンゲン:2022/5/21(土)17:05
8454. シンプルさを求めて/メタバースと和服への関心/
絶え間ない生と死を繰り返す内面宇宙
意外と自分が本当に表現したい音楽は、とてもシンプルなものなのではないかとふと思った。複雑な音楽構造を持つ必要はなく、とても簡素明晰な形で自分の表現したいことを表現できるのではないかと思った。複雑さではなく、単純さの追求に向けた学習と実践をより意識してみよう。シンプルなのだが、自分が表現したいことがくまなく表現されている音を目指してみよう。俳句や短歌にある構造のシンプルさを参考にしよう。自分の内側には、そうしたシンプルな表現形式を愛でた日本人の血と精神が流れているのだから。
先ほど、ようやく半年分のデジタル絵画をアップロードし直すことを完了した。その作業を終えてみると、ミロ的な絵画世界に通じるものを発見した。自分の内側に、ミロが表現しようとしていた世界と親和的なものが存在していることを感じ、改めてミロの画集を眺めてみようと思う。また、マヨルカ島にあるミロ美術館にもぜひ足を運んでみたいと思う。半年分のデジタル絵画を全て一通り見ると、そこに変化のプロセスを見て取った。この半年間という時間軸の中で、自分は確かに変化の歩みを着実に歩んでいたようなのだ。それを実感できて嬉しく思う。ここからもまた、デジタル絵画を含めて、自分が形として残したものを通じて、自分の変化の軌跡を眺めていこうと思う。形が残っていることがとにかく重要であり、それを後から振り返ってみて初めて、自分がどれほど変化したかを知ることができるのだ。
近い将来メタバースの世界を探求してみて、そこに自分のデジタル絵画や音楽を所蔵する美術館のようなものを作りたいと思う。さらには、そこに英文詩も工夫して記録的に展示しておきたい。そうした大きな構想があり、あとはどのメタバースが自分にとって望ましいのかを吟味し、どこかのタイミングでメタバースの世界に実験的に参入してみよう。テクノロジー神学の探究をする上でも、最新のテクノロジーが導入されたメタバースの世界は、自らの体験をもとに色々と触れてみる必要があるだろう。
夕方にふと、神道や箏に関心を持って以降、日常何気なく身に付けている洋服に違和感を感じ始めている自分がいることに気づいた。そこから和服への関心が増し、今年の秋に一時帰国した際には和服のオーダメイドをしてみようかと思う。ちょうど京都を訪れる際に、京都にある和服のオーダーメイド店に足を運んでみたい。そのようなことを考えていた。明日もまた、雑多なことを考えながら、そしてそれらを書き留めながら1日が過ぎていくだろう。そうした雑多なことが訪れることそのものが奇跡的なことなのだ。それは常に新しい。日々新たな想念がやって来ては消えていく様子を見ていると、そこでも思念というものが生と死を繰り返していることがわかる。内面で生じている感情もまたそうだ。なるほど、内面世界では常にこうして生と死が無数に繰り返されていたのである。こうした気づきもまたある瞬間において奇跡的に誕生したものであり、それはまた消えていく運命を担っている。とにかく自分の内面宇宙に現れたありとあらゆることをできる限りの表現手段で形に留めておくのである。自分はそれに取り憑かれていて、それしかできないし、それだけができることなのだから。フローニンゲン:2022/5/21(土)20:47
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