top of page

8435-8445: フローニンゲンからの便り 2022年5月20日(金)



No.3659 宇宙の仮面_A Mask of the Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1535, A Feather of Hope and Freedom

Arrows of sorrow and lamentation are pulled out.

A feather of hope and freedom suddenly appears.

Groningen; 06:46, 5/20/2022

No.1536, To Create and to Know

To create is to know myself and the world.

To know myself and the world is to create them.

Groningen; 07:31, 5/20/2022

No.1537, My Pyramid

All of my daily activities are to lead to accomplishing making my own gigantic pyramid.

Everything and everyone can reside in it peacefully and joyfully.

Groningen; 07:38, 5/20/2022


No.1538, Your Kami

Find your own kami.

Be your own kami.

Or you may not need to do it.

Because you are always already your own kami.

Groningen; 08:01, 5/20/2022


No.1539, Mutual Findings

The universe finds itself within us.

We find ourselves within the universe.

Groningen; 11:07, 5/20/2022


No.1540, Creation and Story

The more I create something, the more the story of myself is unpacked.

Groningen; 11:14, 5/20/2022


No.1541, Open and Close Your Eyes

Close your eyes in order to open your other eyes.

Open your eyes in order to close your other eyes.

If you do so, you can obtain more sophisticated and brilliant eyes.

Groningen; 11:23, 5/20/2022


No.1542, Silence

Silence knows where you are.

Silence knows who you are.

Silence knows everything.

Groningen; 11:25, 5/20/2022


No.1543, Listen to the Voice of Our Soul

Our mind is likely to want more than it has.

Our mind may be greedy.

Our soul knows how much we are fulfilled.

We need to listen to the voice of our soul to overcome our greed.

Groningen; 11:29, 5/20/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8435. 輝く朝焼けを眺めながら

8436. 今朝方の夢

8437. スウェーデンとフィンランドのNATO加盟の表明を受けて

8438. ルドルフ·シュタイナーとディラン·トマスの詩集を読みながら

8439. シューベルトからの刺激/現実と芸術

8440. 音楽愛と芸術への意志

8441. 今ここを生きること/模倣品化を促す潮流に抗って

8442. 生命と美/個の牢獄を超えて/子供心

8443. 日々の新しさをもたらす死の存在/音楽と存在の入れ子

8444. ジークンドーの鍛錬と箏の演奏/日本音楽史の研究と微分音の創出に向けて

8445. ルドンの画集/神経と感覚の鍛錬


8435. 輝く朝焼けを眺めながら


時刻は午前5時を迎えた。今、2階の両側の窓から、2種類の異なる小鳥たちの鳴き声が聞こえて来る。窓から流れ込んでくる小鳥たちの鳴き声は透き通っていて、耳に大変心地良い。自分もまた、彼らの鳴き声のように透明感を獲得することができるだろうか。そのようなことをふと考える。今、目の前には赤紫色に輝く朝焼けが見えている。筋状の雲に昇って来る太陽の光が反射して、そのように見事な色を作り出している。赤紫色に輝く朝焼けを見るのは久しぶりかもしれない。昨日は午後に、少しばかり雷を伴う雨が降った。そのおかげか、今朝は涼しい。今日の夕方にも雨が降るようだが、今日は午後にジムに行ってこようと思う。雨が降る前になんとか戻ってこられそうかと思う。


今日の読書計画について書き留めておくと、今日はマネー神学やテクノロジー神学の探究に向けた読書をするのではなく、詩集を読み進めていきたいと思う。心が詩集を欲しているようなのだ。心が望むもので言えば、画集も挙げることができる。昨日ひっぱり出して来たオディロン·ルドンの画集をまず眺め、そこからレオナルド·ダ·ヴィンチやラファエロの画集を眺めようと思う。詩集と画集に並行して、八橋検校を取り上げた和書の再読の続きに取り掛かろう。それは昨夜就寝前にベッドの上でも行っていて、残り半分ほどである。その書籍の再読が終われば、『箏と箏曲を知る辞典』の再読を始めたい。今日はマネーやテクノロジーというテーマから一旦離れ、芸術関係の文献ばかりと触れ合うことになるだろう。それが今日の自分の魂の望みのようだ。


早いもので明日からは再び週末を迎える。今週末にでも、7月のスウェーデン旅行に関する各種予約を済ませておこうかと思う。この間、6月の旅行の予約を済ませたばかりのように思えるが、毎月旅行に出かけていると、予約を完了するのも早くなった。航空券については、自分の都合の良いフライトの時間帯というのはおおよそ決まっているし、ホテルについても、宿泊場所として選ぶ諸々の基準が明確である。意思決定上の基準が明確であるがゆえに、予約がスムーズなのだと思う。今回訪れるスウェーデンの3都市は、いずれも見ものが多い。ストックホルムには数年前に訪れたことがあるので、今回はマルメとヨーテボリで見るべきものをちゃんと見て来たいと思う。そうこうしているうちに、6月の旅まであと20日となった。フローニンゲン:2022/5/20(金)05:25


8436. 今朝方の夢


小鳥たちの合唱は止むことを知らない。時刻は午前5時半を迎えようとしていて、彼らの鳴き声は依然として透明感のあるままだ。その響きは、波紋のように辺りに広がっていて、その波紋に自己が包み込まれている。


今朝方の夢についていつものように振り返っておこう。自己創出される夢もまた、自己の養分となる。夢が現れ、それが引いていくその箇所を捕まることによって、夢は自己にとっての養分に変わる。


夢の中で私は、バスケットコートの上にいた。コートの上を見ると、人気漫画の『スラムダンク』の主要な登場人物が揃っていて驚いた。私は、彼らと一緒にバスケの試合を楽しんでいた。漫画の中の彼らと同様に、実際の彼らもまたバスケがすこぶる上手く、一緒にプレーするのはとても楽しかった。仲間のポイントガードからのパスは見事であり、自分が次のプレーをしやすい場所に届けられる。そのおかげで、スリーポイントシュートを連続で何本か決めることができた。それによって、こちらのチームに勢いが出て来て、一気に相手チームとの点差を広げた。すると、相手はオールコートプレスを仕掛けて来た。これが厄介であり、相手のチームのプレスは激しく、最初は上手く突破できずに何回か捕まり、得点を奪われてしまった。しかし、自分もボールを運ぶことに加わることにしたことによって、プレスを突破し始めた。すると、相手は再び戦術を変え、オールコートでプレスをかけることをやめた。そこからはまた、自分たちのペースで試合を運ぶことができ、少しずつ点差を広げていった。そのような夢を見ていたのを覚えている。これ以外の夢としては、高校時代のクラスメート(HS)が出て来る夢があった。彼とは高校2年の時に同じクラスとなり、彼と教室の後ろで何かについて話をしていた。それは授業の話でも、進路の話でもなく、他愛のないものだったように思う。彼と話をしている時に、お互い笑顔が絶えなかったことが印象に残っている。今日はその他にも、何か重要な夢を見ていたように思うが、それはもう記憶の彼方に去っている。捕まえることのできず、飛び去ってしまった夢についても、それを再び思い出そうと試みてみることによって、案外時間が経ってからふと思い出すことがある。それに期待しようか。フローニンゲン:2022/5/20(金)05:35


8437. スウェーデンとフィンランドのNATO加盟の表明を受けて


5/18に、スウェーデンとフィンランドがNATOへの加盟を公式に表明した——両国が正式に加盟するためには、NATOの現在加盟国である30か国全てが賛同する必要があるらしく、トルコがどのように出て来るかに注目が集まる——。これによって、欧州の安全と国際情勢はどのように変化するのだろうか。政治経済的なパワーバランスもどのように変化していくのだろうか。地球という1つのダイナミックシステムの中で、政治や経済といったダイナミックシステムが形成されていて、今回の2国のNATO加盟によって、それらのダイナミックシステムにどのような影響がもたらされ、それらがどのように変化していくのかが気になるところである。ダイナミックシステムにおいては、1つの変数のパラメーターが少し変わるだけでも、その挙動が大きく変わり、システム全体が変容することがあるのだ。今回のスウェーデンとフィンランドのNATO加盟は、そうした点においても注目に値する。


先日バルト三国旅行に行った際の帰りの機内で知り合ったフィンランド人のエエティのことを思い出す。彼はフィンランドで長く軍事トレーニングを受けていて、軍事に関して知識が豊富だったので、政治と絡めて色々と質問をする中で、フィンランドのNATO加盟の可能性についても言及していたのを思い出す。旅から帰って来て2週間後に、本当にフィンランドはNATOに加盟した。ロシアに近く、かつてロシアと戦争をしたことがあるスウェーデンとフィンランドが同時にNATOに加盟することになるとは予想していなかった。エエティの考えでは、フィンランドがこれまでNATOに加盟しなかったのは、ロシアを刺激しないためという理由が大きなものとしてあるとのことだったが、今のロシアの横行を見ると、そうしたことも言っていられず、他国と軍事同盟を結び、自国と世界の安全を確保することに踏み切ったのだろう。ちょうど7月にスウェーデンに行くのだが、その時に、何かNATO加盟の影響を見て取ることができるだろうか。スウェーデンはNATO加盟国であるという認識を持って旅をしてみれば、何かに気付けるかもしれない。今後フィンランドを訪れる際にも、その観点を持っておこうと思う。テクノロジーの領域に関して、色々と革新的なものが出て来る昨今であり、経済における変化は本当に激しい。同様に、国際政治に関しても、何か怒涛のような動きがこれから起こるかもしれない。そんな変化の激しい世界に自分が生きていることを改めて実感する。それでは、今から呼吸法のエクササイズと動的ストレッチをしようと思う。それが終われば、朝の活動を本格的に始めよう。フローニンゲン:2022/5/20(金)05:49


8438. ルドルフ·シュタイナーとディラン·トマスの詩集を読みながら


引き続き小鳥たちが清澄な鳴き声を世界に響かせている。朝日も燦然と輝き始めている。朝の穏やかな時間を、ルドルフ·シュタイナーとディラン·トマスの詩集を読みながら過ごしている。至福の時間がゆったりと過ぎていく。その中で、自分はまた少し変容の歩みを進めている。トマスの詩を読みながら、ウェールズにあるディラン·トマス記念館にいつか足を運んでみたいという思いが湧き上がって来る。画家や作曲家だけではなく、詩人に所縁のある場所や記念館にもこれから積極的に足を運んでみよう。


ディラン·トマスの詩集の巻末に、トマスのインタビューが掲載されていることを発見した。それを読み進めていると、色々と興味深いことがわかった。トマスはフロイトから影響を受けていて、彼にとって詩を作るということは一種のシャドーワークだったようだ。自らの心の闇、魂の闇を直視し、それを詩的言語を通じて形にし、明るみにすることによって、心と魂の治癒と救済を図っていたことがわかった。自分の日記も英文による詩も、確かにその側面がある。


トマスの詩が音楽的な要素を含んでいるためか、ふと、数年前に購入したシューベルトの歌曲を分析した全集“Franz Schubert: The Complete Songs”を久しぶりに読んでみようかと思った。これは2500ページを超す大著で、イェール 出版から出版されたものだ。自宅に届けられた日が全集の最初のページに記されていて、見ると、1年間ほど本書を眠らせていたことがわかった。自分にとって大切な書物というのは、しかるべきタイミングで必ず目覚めてくれる。シューベルトの歌曲の歌詞——ゲーテ、シラー、ハイネなどの偉大な詩人の詩がシューベルトの歌曲で用いられている——に触れ、創造的な刺激を得たいと思ってこれを購入していたのだが、まだ全巻全てに目を通した訳ではないので、今の気持ちを大切に、全巻を眺めていこうと思う。本書を眺めていると、ウィーンで訪れたシューマンハウスの記憶がきっと蘇るはずだ。


音楽、詩、そして絵画。それらの芸術に絶えず包まれた生活。そして、自然と絶えず触れ合う生活。そうした生活を通じて、自分はますます自己を育み、人間性を深めていく。そして、いつか人間性を超え、超越性を獲得するだろう。フローニンゲン:2022/5/20(金)08:00


8439. シューベルトからの刺激/現実と芸術


朝の静謐な雰囲気の中で、“Franz Schubert: The Complete Songs”を久しぶりに読み進めている。2500ページを超す全3巻にハードカバーの本書は、専用の箱に入って届けられ、届けられてから目を通したのは最初の巻だけだった。今、第2巻と第3巻を眺めながら、シューベルトが積極的にゲーテ、シラー、ハイネなどの詩を用いて歌曲を作っていたことに注目をした。自分も、ルーミー、フリッチョ·シュオン、そしてカリル·ギブランなどの神秘主義的な詩を参考にして箏曲を作っていきたいという思いを持った。これはぜひ実現させよう。


なんだか最近は、敬愛する辻邦生先生が見ておられた境地が自分にも少しずつわかるようになって来ているように感じる。特に、現実と芸術との関係について、以前にはない考えが芽生えていることに気づく。芸術よりも現実の方が重みがあるのではないかという考えは、長く辻先生を苦しめていた。しかし、今の自分も辻先生と同じく、芸術と現実は等しい重みを持っているという感覚を持っている。また、現実が芸術を含んでいるのではなく、芸術が、人間の創造が現実を含んでいるという認識。それも最近火を見るよりも明らかになっている。現実を超越し、現実を含む芸術世界。それをどれだけ豊かなものにしているかが、現実をより平穏かつ豊かなものにしていくことにつながってくれないだろうか。


辻先生もまた自分と同じく、ヨーロッパでの生活を通じてヨーロッパに出会った。昨日突然読みたくなった『夏の砦』という作品は、まさに日本人がヨーロッパと出会う体験の本質が描かれている。ヨーロッパを通じてヨーロッパに出会い、再び日本と出会った自己。ここに再び来年からアメリカでの生活を再開させることになったら、自己は今度は何と出会い、何を考え、何を感じるのだろうか。当然ながら、そこではアメリカとの再会と、深層的な出会いが待っているだろう。以前アメリカで暮らしていた時には見えなかったことがきっと見えて来るに違いない。前回のアメリカでの生活から、1年の日本での生活があったし、ヨーロッパでの7年間の生活があった。そのような時を経て再びアメリカに戻ってみた時に自分の中に起こる変化を見てみたい。そして、アメリカでの生活を再び始めることによって初めて、このヨーロッパでの7年間の生活を通じて自分に起こった変容を知るだろう。フローニンゲン:2022/5/20(金)08:48


8440. 音楽愛と芸術への意志


今、ジブリの楽曲に関する箏曲を聴いているのだが、このように美的なものに感応する自己の根源に思いを馳せる。美に感応し、美を享受する自己はどのように形成されたのだろうか。そのようなことに思いを寄せながら、美というものが目の前の物質と同じぐらいに、いやそれ以上にありありとこの世界に存在していることを感じる。美というものが確かに存在しているという確かな手触りが自分の中にあるのだ。その確かな感触は、自分を美の享受と創造に衝き動かす。自分は絵画芸術ももちろん愛しているが、音楽に対する愛はやはりそれ以上かもしれない。当然ながら、絵画も全感覚を刺激し、全感覚の中に入っている。しかし、自分の場合は、音楽の方がよりその力が強く感じられる。これはもちろん個人差があるだろう、絵画は視覚から入って来て、それ以外の感覚を刺激し、音楽は聴覚から入って来て、それ以外の感覚を刺激する。いや、音楽は音の振動という観点において、聴覚だけではなく、触覚にも最初に入って来るように感じられる。なるほど、そうだから音楽によって生み出される美をより手触り感を持って感じられるのかもしれない。芸術の美神に酔いしれること。ひょっとしたら、美による酩酊状態の中で人生を営んでもいいぐらいだ。そうでもしなければ、この虚構の夢に満ちた現代社会で魂を奪われてしまう。そうなるぐらいだったら、美神に魂を明け渡し、美神と一体となることによってこの社会を生きていく道を自分なら選ぶ。清らかな箏の音色が天高く舞い上がって行く。それにつられて、自分の魂も果てしなく天高くまで舞い上がる。


どんなものも形として表現し、形として残したいという激しい衝動は、芸術への強い意志なのかもしれない。自分の内側にそのような意志があったとは。以前からそうしたものが自分の内側にあることは気づいていたが、それが芸術への意志だと知ったのは今である。今この瞬間に開かれる真実。それを絶えず形にしていきたい。今このように日記を執筆しているのもまた、芸術への意志の現れなのだ。美的世界に溶け込んでいき、全てをよしと受け止める極大な寛容的精神を持って、自分は絶えず形を生み出していく。芸術への意志と共に歩み続け、いつか芸術への意志そのものと化すまで歩みを止めることをしない。いや、自己と魂はすでに芸術への意志そのものに他ならないのだから、その意志をより逞しいものに育んでいく歩みを無限に一生続けて行く。フローニンゲン:2022/5/20(金)09:12


8441. 今ここを生きること/模倣品化を促す潮流に抗って


全細胞を開き、全感覚を通じて感じているだろうか。今ここを生きるというのは、この瞬間においてこの世界が私たちに差し出してくれる豊ものを全身で受け止めることなのだ。目に映るもの、聞こえて来るものの全てが、この世界からの贈り物であり、それを全感覚を広げて受け取らせてもらうこと。それが今を生きるということに他ならないのではないかと思う。今、世界で進行している悲惨な状況は、そうした形で生きることを忘れた人間のつけなのではないかと思う。現在進行形で起こっている種々の悲惨な事柄は、誰か特定の人間の責任ではなく、歴史を通じて人類全体が背負ってきた責任であり、同時に1人1人の個人の責任であるはずだ。世界からの贈り物を感謝の念を持って受け止めてこなかった全員の罪が、このような形で現代社会で吹き荒れている。


標準化され、模倣品化された生活を止めること。模倣品化された生を生き続けている限り、今ここを真に生きることはできない。自分固有のオリジナルな生を見つけること。それを回復し、それを育んでいくこと。この当たり前のことをしない限り、社会は破滅への道をひた走る。すでにそれが起こっているではないか。すでにその傾向を強めているではないか。それは明々白々な事実として、私たちの目の前に立ちはだかっている。コピーにまみれた生活を止めること。オリジナルに触れ、オリジナルを自ら生み出していく生活を行うこと。そうした生活への舵取りを多くの人が行ってくれればと思う。その後押しとして、少なくても自分は模倣品化された生を生きない。絶えず自分に固有の人生を生きて行く。模倣品の誘惑で満ちたこの社会の中で、自らの人生や自らの存在そのものが模倣品と化す潮流に徹底的に抗っていくこと。それは極めて重要な実践だ。私たちの命は、絶えずオリジナルなエネルギーを求めている。命はそれを通じて輝き、そして燃焼する。フローニンゲン:2022/5/20(金)09:28


8442. 生命と美/個の牢獄を超えて/子供心


本気で生きている人の姿は美しい。今ここを真に生きている人の姿は美しい。そこには何物にも代えがたい輝きがある。人が美を見出すのは、生命の本質的な特性なのかもしれない。生命そのものが美しく、美の化身であり、ゆえに生命は美をこの世界に美を作り出し、美を見出すのかもしれない。生命の正体は美だったのだ。美の正体は生命だったのだ。それがわかって来ると、美と死と永遠が結びついて来る。生命が内在的に持つ無矛盾的な死と永遠。生命は、死と永遠の双方を抱き抱えている。その様子がまた美を生む。死と永遠は、美の原動力なのかもしれない。絶えず死と永遠を見つめること。絶えず死と永遠と化すこと。あるいは、死と永遠を止揚したものと存在をピタリと一致させた形で生きること。それができれば、生命の輝きと美しさが確かなものとして顕現するだろう。


今を生きること。それは個の牢獄を超えて、大いなる存在と一体化することである。個を超越して大宇宙と一体となることが今を生きることの本質である。なるほど、現代は歪んだ個人主義が声高に叫ばれていて、人々は個の牢獄にしがみつき、むしろその牢獄をより堅牢なものにするという愚行を犯している。その愚行に気づき、個の牢獄から脱却し、無限に広がる世界そのものと究極的な一体化を遂げること。それが難しければ、まずはちっぽけな個人的牢獄から外に出てみよう。そうすれば、今を生きるという本当の意味と感覚がわかって来るはずだ。


子供の心で生きること。それは退行的な意味ではなく、進歩的な意味で。子供は常に世界と一つとなり、嬉々として世界と戯れている。子供が子供心を略奪され、大人化することを強制されていることはひどく嘆かわしい。そして、大人が子供心を忘れてしまっていることもまた、同じくらいに嘆かわしい。自分は、そうした嘆きの声を元にして探究と実践を躍動させていく。自分から生み出されるものは、自分の嘆きの声の現れなのかもしれない。いや、単なる嘆きの声ではなく、生を真に謳歌する誘いの声の現れとしての側面もあるはずだ。むしろ、現状を嘆くだけではなく、今とは違った生き方があるということを、もっと喜びに満ちた深く味わい深い生き方があることをこの世界に共有したい。フローニンゲン:2022/5/20(金)09:50

8443. 日々の新しさをもたらす死の存在/音楽と存在の入れ子


死というものの捉え方に相転移が起こった。死は、めくりめく日々に新しさをもたらしてくれるものだったのだ。死があるからこそ、日々が新しく感じられるのではないかという考えが届けられた。それを受け取ったのはつい今し方のことだった。日々の新しさは、死というものが私たちに見せてくれる贈り物なのではないかと思ったのだ。日々やって来る朝ごとに生の新しさがあり、それをもたらしてくれているのが究極的な終着点である死だったとは。いや、ひょっとすると、死は通過点なのかもしれない。川面神道神学において言われているように、天命は死後の世界においてもあるのだ。そのように考えてみると、死とは何かと何かを架ける橋のようなものなのかもしれない。何かと何かとは、この世界に存在する対極的なもの全てを含みうる。


この世の中で音楽が響くのではなく、音楽の中でこの世が響くようになること。それを強く希求する自分がいる。自分の人生もまた、音楽の中で奏でられるものであって欲しいと望む。創作活動が、自己との対決を通じて神的なものを見出す道になっている。この道を立派に歩んだ先人は数知れない。バッハは好例だろう。作曲を通じて、自らとの対決を通じて神を見出していったバッハ。バッハから得られることは無尽蔵である。トーマス·マンはかつて、「美とは感覚を通って精神に至る道だ」と述べたが、美とは感覚を通って神に至る道だと言い換えることができるかもしれない。美には、精神を超えて、神に触れ、神と一体になる力があるように思えるのだ。


音楽には、存在の入れ子の全てが存在している。そこには肉感があり、心感があり、魂感があり、霊感がある。そうした重層的な性質を持つところにも音楽の魅力がある。究極的な美とは、存在の入れ子のそうした感覚を全て一挙に私たちに与えてくれるものなのかもしれない。それを受け取った私たちは、自らの存在の入れ子に自然と意識が向かい、それを育む道を歩むことにつながっていくかもしれない。存在の入れ子に気づかせ、それを育む誘いをする音楽は、まるで魔法のようである。清々しいそよ風と穏やかな朝日が、見事な協奏曲を奏でている。自分はその聴衆であり、演奏者であり、指揮者でもある。そして何より、自分はその協奏曲に他ならない。フローニンゲン:2022/5/20(金)10:08


8444. ジークンドーの鍛錬と箏の演奏/日本音楽史の研究と微分音の創出に向けて


幸いにも雨が降る前にジムから戻って来ることができた。どうやらもう少ししたら雨が降り始めるようだ。今日は暑くもなく、寒くもなく、涼しげな気候であった。ジムに行くために自宅の扉を開けたところ、ちょうど隣人のマークが庭に水やりに来ていた。そこで少し立ち話をした。来月の旅行で訪れるアイントホーフェンとデンボスの印象についてマークに尋ねてみた。オランダ人は思っていることを素直に述べてくれる傾向にあり、オランダ人がそれぞれの町に対してどのようなことを考えているのかを聞くのは面白い。マーク曰く、アイントホーフェンは工業の町とのことであり、やはりフィリップスの創業の地であり、アイントホーフェン工科大学という名門の工科大学もあることからもマークの言葉にはうなづけるものがある。また、デンボスは歴史のあるお洒落な町というのも、事前に調べていた印象と重なる。マークと立ち話をし後にジムに行き、ジークンドーのトレーニングで汗を流し、さらにサウナに入ってさっぱりとしてきた。ジークンドーのトレーニングもサウナに入ることも長時間行っているわけではないが、週に2回ぐらいジムに行くことはとても良い気分転換になる。ジムのオーナーやトレーナーとちょっとした会話をしたり、サウナで同席した人とコミュニケーションを図ることは精神衛生上も良い。サウナに入った後、シャワーを浴びている際に、ジークンドーの鍛錬と箏の演奏は、これからの自分にとって大変重要な実践になるだろうと思った。どちらか片方ではダメであり、両方行うことによる相乗効果がありそうなのだ。どちらも異なる実践領域に属しているがゆえに、統合的実践の観点からすると、両方に従事することが望ましいのだ。ジークンドーの鍛錬と箏の演奏は、極めて重要な自己の癒しと変容をもたらす。そんなことを考えていた。


そう言えば、ジムに行く前に、神道研究に加えて、日本音楽史の研究も行おうと閃いた。両者は必ず深層的につながって来る。夏に、日本音楽史に関する書籍を一括注文することに加えて、神道芸術に関する洋書を注文したい。神道芸術については和書も購入しよう。日本音楽史と神道に関する授業を欧米のどこかの大学院で受け持つことを想像している自分がいた。


午前中に箏に関する書籍を読み進めていると、箏においては、半音よりも狭い音程である微分音を調弦できるとのことであり、自分の音を見出していく楽しみがそこにありそうだと思った。微分音はどのように楽譜に表現できるのだろうかと考えてみたときに、既存の五線譜上だと表現が難しく、独自の表記法や楽譜を作っていく必要があるかもしれないということを思った。自分の望む微分音を奏でられるようになり、それらを組み合わせて演奏できるようになってくれば、自分の音楽は無限の広がりを見せるだろう。この宇宙のように。フローニンゲン:2022/5/20(金)15:44


8445. ルドンの画集/神経と感覚の鍛錬


先ほど、シトシトとした雨が降り始めた。雨は地上に優しく降りてきて、しばらく降って今は少し雨が落ち着いている。夕方のとても静かで涼しい世界が広がっている。


もちろん原画の力には到底敵わないが、それでもルドンの画集には平穏さと癒しを受ける。画集は、感覚をこれ以上ないほどに養ってくれる。今夜はまだ時間があるので、夜にはダ·ヴィンチやラファエロの画集を眺めよう。そして明日は、久しぶりにキリコの画集を1階から引っ張り出してきて眺めようと思う。


自己の存在が永遠なのは、この大宇宙が永遠の階層構造を持っていることと関係しているだろうか。自己は緩かに発達を続けていくが、それは大宇宙の果てしない階層構造の則ったものとして行われる。宇宙の進化の速度はいかほどなのだろうか。それがふと気になる。


本日ジムでジークンドーのトレーニングをしていると、ジークンドーは神経を細やかに鍛えてくれるということを改めて思った。武術は、それとの向き合い方によって、微細な身体意識を育むのにうってつけの実践である。箏の演奏もきっとそうなのだろう。箏の演奏もまた、音楽を通じて、微細な感覚を養ってくれるに違いない。それはもう確信めいている。箏の演奏においては指先を細かく使っていくであろうから、それそのものが1つの身体実践であり、同時に脳をユニークに刺激してくれるに違いない。自分の中で、ジークンドーの鍛錬と箏の演奏が違いに相互作用する姿が見える。神経と感覚を研ぎ澄ませてくれる実践として、2つの実践には一生取り組み続けたいものだ。


朝から箏の演奏を聴いている。音楽は言葉で語らせてくれないものを語らせてくれる優れた表現手段だとつくづく思う。音楽の演奏も作曲も、言葉で表現することが憚れるものを自由に表現させてくれる。タブーをタブーとして放置するのではなく、タブーを形にして外側に表出するあたりにも音楽の意義を見出している。現代は、個人に自由な表現を許容しているようでいて、それは単なる表面上の構えに過ぎない。実際のところは、個人の自由な表現を抑圧しているのだ。自由に表現できないことに窒息してしまう前に、各人は自分にあった表現手段を見つけていく必要があるだろう。既存の表現手段で良いものがなければ、自分なりの表現手段を作ってしまえばいいのである。さもなければ、魂はますます息苦しさを覚え、表現の喜びを喪失してしまうだろう。それは早晩、魂の死をもたらす。多くの現代人の魂が瀕死状態にあることを見ると、その集合的症状はもうすでに末期にあるように思う。そうした状況に一石を投じること。自分なりの表現手段を通じて表現を続けていくことによって、それを実現していこう。それが1人の表現者としての社会的役割に違いない。フローニンゲン:2022/5/20(金)17:08

Comments


過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page