No.3636 言霊_Kotodama
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1510, Poetical and Musical
My music is always poetical.
My poems are always musical.
All of my creations are poetical and musical.
Groningen; 16:30, 5/11/2022
No.1511, My Flying Soul
My soul can fly wherever it wants.
It is the apotheosis of absolute freedom.
Groningen; 19:50, 5/11/2022
下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。
本日の3曲
全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。
楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。
タイトル一覧
8368. 今朝方の印象的な夢
8369. 今朝方の夢の続き
8370. 芸術的な建物を取り巻く夢
8371. 今朝方の夢の続きを思い出して
8372. 自己表出と自己顕現を望む自己/古代遺跡への関心
8373. 創造的基盤と絶えず繋がる日々
8374. 儚き存在と儚きものの共感的共鳴
8375. 自己客体視について/ジークンドートレーニング104:ドロップシフト
8368. 今朝方の印象的な夢
時刻は午前7時半を迎えた。今、いつもと同じように穏やかな朝の世界が広がっている。自分はいつもこの朝の世界に迎えられる。穏やかな朝に迎えられることで、自分の心も心底落ち着き、穏やかさと化す。そして、穏やかな心を持つ朝の世界と穏やかな心を持つ自己が共鳴し合う。そんな現象が毎朝起こる。
今朝方はいくつか印象的な夢を見ていた。夢の中で私は、どこか見たことのある部屋の中にいた。それは母方の祖母のマンションのリビングのようだった。リビングは和室とつながっていて、和室の襖(ふすま)が開いていて、和室の畳が見えた。見るとそこに、高校時代のクラスメートの友人がいた。彼は布団の上に寝転がっていたのだが、寝ておらず起きていた。すると、部屋に見知らぬ小柄な中年男性が現れた。部屋に不審者が現れたことを私は全く驚いておらず、その男性は危害を加えるような人間ではないと一瞬で見抜いたからか、彼と話を始めた。すると、その男性は英語の教師のようであり、友人はその男性の教え子のようだった。その男性としばらく話をしていると、友人がスッと話に入って来た。そして、小声でその男性に話しかけ、何かを手渡した。どうやらそれはお金の入った封筒のようだった。いや、よくよく見ると、彼が手に持っていたのはご祝儀袋を解体した1枚の紙のようだった。どうやら友人は、そこにその男性に金額を書いてもらい、それを支払うことを考えているようだった。一体友人の彼は何のためにその男性にお金を払おうとしているのだろうかと思った。そこから3人で少し話をすると、英語教師の中年男性は部屋を後にした。
友人と2人になった私は、彼に先ほどの行動の意味を尋ねようと思った。どうやら彼は一念発起して、日本の大学院に入り直すことを決心しているようだった。それほど勉強好きではない彼が、東大の博士課程に進学することを真剣に検討しているようだったので驚いた。そこからそのわけを尋ねようと思ったら、彼の方から口を割って話をしてくれた。彼はまず、先日受験した英検の話をしてくれた。英検の試験を終えて自宅に帰って来たら、彼の母親が彼に試験の出来を尋ねたそうだ。その時に彼は、まあまあだったと答えたらしいのだが、それに対して彼の母親は少し落胆したようだった。彼の母親は優しいので、落胆した表情を表立って浮かべなかったが、彼は母親の気持ちをすぐに察したそうだった。どうやら彼の母親は、彼はやればできるということを信じているようであり、その信頼の念が彼に伝わったそうだ。実際にそうなのだ。彼は勉強をすれば、できる男だということは自分もよく知っていた。しかし、彼が大学院の進学を志したのはそれだけが理由ではないような気がした。すると彼は話の続きをしてくれた。
彼は少し間を置いて、言葉を探しながらまた話し始めた。英検を終えた後、彼は彼女と遊ぶ約束をしていたそうだった。その時に、彼は彼女とドラッグを用いてトリップして楽しもうとしていたらしく、その時に手持ちのドラッグを半分半分お互いに摂取したそうだ。ところが、彼女に渡した方の半分は劣化していたらしく、それを摂取した彼女は死んでしまったとのことだった。しかも、彼女は大量に血を吐いて苦しみながら死んでしまったと彼は教えてくれた。その話をしながら彼は泣いていて、彼から深い反省の念を感じた。どうやら彼は、彼女の死を償うためにも一念発起して自らを変えようと決意したようだった。それが大学院への進学、すなわち学者になって世の中に貢献するという道を開いたようだった。彼は彼女の死をまだ乗り越えておらず、話を終えてもしばらくずっと泣いていた。すると、リビングの床に敷かれた布団に、彼の妹が寝ていて、彼は妹に抱きついて、こんな兄で申し訳ないと号泣し始めた。私はその姿を見て、彼はきっとこれから大きく変わるだろうと思った。もし変わらなければ、彼との友人関係を解消しなければならないと思った。フローニンゲン:2022/5/11(水)07:59
8369. 今朝方の夢の続き
今、小鳥が飛び跳ねるように元気な鳴き声を上げた。自分の体はそれに反応し、活動エネルギーを注入されたような感覚があった。ここ最近の自分は、外界、とりわけ自然との感応の度合いが目覚ましい。自然と感応することを通じて、自己はまた新たな自己に向かっている。それは純化のプロセスの一環なのかもしれない。本来自然である人間が自然に還っていくということ、それは至極当然のことなのかもしれず、発達のプロセスで必ず生じる本質的な現象なのかもしれない。
今日もまた創作活動と読書に明け暮れよう。昨日の段階で、先日届いたほぼ全ての書籍の初読を終えた。あと初読が残っているのは天皇論に関するものだけだ。それについても今週中には読み終わるだろう。その書籍が読み残しの状態のまま、今日は神道と経済学を架橋させた書籍を再読したい。それを読み終えて時間があれば天皇論の書籍の続きを読む。そのような計画を立てている。
先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだまだ続きがある。母方の祖母のマンションで友人と話していた場面の次に見ていたのは、同じく母方の祖母のマンションが舞台になった夢だった。夢の中で私は、トイレと浴室が一体化した部屋にいて、どういうわけかそこで寝ていた。うとうとし始めると、部屋が変化し、トイレと浴室の組み合わせではなく、普通の部屋になった。どこか見覚えのあるその部屋は、叔父の部屋と似ていた。ベッドの上で横たわっていると、朝を迎えた。まだ朝早く、自分以外の誰も起床していないと思っていたところ、母がふらっと部屋の前にやって来た。それに気付けたのは、部屋のドアが半分ほど空いていたからであり、母の気配と共に母の独り言が聞こえたからだった。母は私がまだ寝ていると思ったらしく、私の睡眠を邪魔しないようにスッと部屋の前から立ち去った。私は単に寝ているフリをしていただけであり、実際には起きていて、家全体に意識を張り巡らしていた。自分の意識は拡張していて、家の中で起こっていることは全て見透かせるかのような能力が発揮されていた。
起床した母は静かに活動を始めたようであり、少し早いが自分も起床するか、それとも二度寝してもっと睡眠を取るかを迷った。すると、私は本棚にあった叔父の本を1冊手に取った。叔父は大変勉強熱心な人で、本棚には色々な本があり、私が手に取ったのはある小説家のエッセイ集だった。それは春夏秋冬ごとに巻が分かれていて、私は夏の巻を手に取っていた。書籍を開くと、そこにはたくさんの付箋と書き込みがなされていて、改めて叔父の勉強熱心な姿勢に感銘を受けた。私は書籍の内容よりも、叔父の書き込みに関心があり、それをつぶさに見ていった。すると、自分がよく行う書き込みと似ていることがわかり、叔父とはやはり血が繋がっているのだということを実感した。その感覚がやって来た時、夢の場面が変わった。フローニンゲン:2022/5/11(水)08:12
8370. 芸術的な建物を取り巻く夢
洗濯機が回る音が聞こえている。静かな音で回っているところを見ると、洗濯にはもう少し時間がかかりそうだ。小鳥の鳴き声の周波数に脳が共鳴している。彼らの鳴き声が刺激となって、脳が発育されているのを感じる。大人になっても脳というのは変化と発達を遂げていく。それは脳の容量の拡大を意味しておらず、シナプスやニューロンの質的な変化·発達を意味する。神経細胞のネットワークがより密なものなっていくことを毎日実感している背後に、小鳥の鳴き声もまたその触媒的刺激になっていることを発見する。
今朝方の夢を先ほど2回に分けて振り返っていたが、夢にはまだ続きがある。夢の中で私は、欧州の歴史ある街の郊外にいた。そこは歴史的建造物が残存している隠れた観光名所だった。そこで私は、数人の日本人の友人と一緒に観光を楽しんでいた。敷地内を歩いていると、3つの建物に目を奪われた。三方それぞれに立ち並ぶそれらの建物の外観は、芸術作品で彩られていた。1つの建物は写真で彩られていて、残り2つの建物は絵画で彩られていた。それは別に写真や絵画が飾られていたのではなく、建物全体にいくつもの写真や絵画が内側から浮かび上がっていたのである。そのような建物はこれまで見たことがなかったので、それは不思議な感じがした。実はこの作品は、私が以前師事していたオットー·ラスキー博士が手がけたものだった。建物を建築したわけではないが、写真と絵画がラスキー博士の作品だったのだ。私はすぐにそれに気づき、まるで観光ツアーのガイドのように友人に説明した。私たちはしばらくその荘厳な建物を眺め、しばらくして建物の中に入った。建物の中もたくさんの芸術作品が展示されていて、大変見ものだった。しばらく作品鑑賞を楽しんでいると、突然ゲームセンターのようなスペースが目の前に現れた。そして、何やらピアノ名演奏がいきなり聞こえて来たので、そちらに駆けつけた。すると、友人の1人が音楽ゲームの前の席に腰掛けていて、ピアノの演奏をしていたのである。名演を行っていたのは、なんと彼だったのだ。私は彼がピアノの演奏をできるなんて知らなかったので、心底驚いた。せっかくの名演を録画に残しておこうと思い、手持ちの録画機器を使い、彼の演奏を録画した。せっかくなので、建物の中の雰囲気を撮影しておこうと思って、録画を回したまま歩いていると、外国人の若い男性の係員とすれ違い、すれ違いざまにこの建物の中では写真は許可されているが、ビデオ撮影は禁止されていると言われた。すぐに動画のデータの削除を求められるかと思ったが、それは求められず、とは言え後からそれを言われる可能性があると思って、私は足早にその場を去った。建物からも早く離れようと思ったが、トイレに行きたくなり、トイレに立ち寄った。すると、そこで数人の友人と遭遇した。私はトイレを済ませたらすぐにでも宿泊先に帰りたいと思っていたが、友人の彼らはまだこの建物内に残り、夕食もこの建物内で摂りたいと考えているようだった。なので私は自分1人でも帰るということを彼らに伝えた。すると、友人のうちの1人が、自分も長居はしないので、帰ってから夕食を食べようと思っていると述べた。そのため、もし私が帰りに何か夕食を購入するのであれば、ついでに自分の分も購入しておいて欲しいと述べた。私はそれを承諾し、すぐさま建物から出ようと思った。ところが私も考えが変わり、今いる建物からは離れるが、隣の建物をまたゆっくりと見学しようと思った。なので、彼にはやはり夕食は自分で用意して欲しいとスマホのメッセンジャーを通じて連絡した。フローニンゲン:2022/5/11(水)08:32
8371. 今朝方の夢の続きを思い出して
気がつけば、時刻はもう午前10時半を迎えていた。時の歩みは本当に早いものだ。時の流れを早く感じられるのは、起床からこの時間まで充実していた証だろうか。
今朝方は随分と夢を見ていて、それらについて全て書き留めておいたように思ったが、まだ書き留めていないものがあることに気づいた。その夢もまた何かしらの観点で、自分にとって非常に重要なものだと思われるので、それについてもきちんと書き留めておこう。夢は記録されることによって、その意味と効能をさらに強めてくれるのだから。
夢の中で私は、英検を受けることになっていた。その会場は、なんとフローニンゲン大学の歴史あるメインキャンパスだった。そこはかつて入学式や卒業式が行われた場所であり、自分にとっても大変思い入れのある場所だった。会場に到着して、自分の受験番号に対応した部屋を探していると、やはり厳かなキャンパスに改めて感銘を受けるものがあった。自分はかつてこうした歴史ある大学に所属していたのだという思いが湧き上がって来て、再びこうした歴史ある大学に所属して研究をしていきたいと思った。
自分の受験番号に対応した部屋を見つけたので、そこに入ろうとしたところ、そこは部屋というよりも、階段の踊り場だった。そこは単なる階段ではなく、人が10人以上横一列ぐらいになれるぐらいの広い階段で、階段には華やかな絨毯が敷かれていた。まさに王宮の階段のような場所である。その階段の踊り場が自分の試験会場だった。試験会場に到着して自分の席を見つけようとしていたところ、試験官の姿が目に入った。するとなんと、私が一年目にお世話になっていたプログラム長のルート·ハータイ教授がそこにいて、私は嬉しさのあまり興奮した。久しぶりにハータイ教授と会えたことに喜びの感情が芽生えたのである。私たちは同世代でもあったことから、いつも気軽に話をしていた仲である。ハータイ教授に挨拶をしに行こうとして驚かせるように声を掛けたら、ハータイ教授はスマホで誰かと電話中のようだった。それを知って私は、突然大きな声で驚かせて悪かったと思い、電話が終わるのをその場で待とうと思った。するとすぐに教授は電話を終え、笑顔で挨拶をしてくれた。電話の最後に、電話の先の相手の声が聞こえて来て、実はそれが日本人の私の知人であることを知って驚いた。どうやらその知人もフローニンゲン大学に進学して研究をしたいという意欲を持っているらしく、話の中で私の名前が出て来たとハータイ教授は言った。私はぜひ、知人の彼にフローニンゲン大学に来て欲しいと願った。そこで夢から覚めた。
今朝方はそのような夢を見ていた。今朝方見ていた一連の夢について、色々と考えさせられることがあり、それらについては今からまた改めて内省をしたいと思う。フローニンゲン:2022/5/11(水)10:56
8372. 自己表出と自己顕現を望む自己/古代遺跡への関心
夕方の時間が静かに流れている。そよ風は爽やかで、目に映る生命たちが喜びの歌を口ずさんでいる。先ほど、無性に箏の演奏をしたいという思いが溢れて来た。未だ箏は到着しておらず、箏の到着を心待ちにしている自己がいる。箏の演奏を通じて、自己表出と自己顕現を望む自己の存在を内側に見る時、そうした自己は大いなる自己に連なる重要な自己の側面であることがわかる。それは生きているという実感をもたらしてくれるかけがえのない存在なのだ。それを抜きにしては、この生を謳歌することはできないだろう。それほどまでにそれは重要な存在として自己の内側にある。
神道の研究に従事していると、日本の古代遺跡にも自然と関心が向かい、特に縄文時代の古代遺跡に関心を持ち始めている。今年の秋の一時帰国の際には、青森や秋田を訪れる予定であり、その際には古代遺跡を巡ることも大きな楽しみである。古代遺跡と触れることによって、また何かが自分の中から開かれて来るだろう。そんな予感がする。古代遺跡に眠る目には見えない土地の記憶、あるいは風土の記憶を感じることは、きっとこれからの自分の研究と実践において重要な役割を果たすように思える。
これからの旅においては、時間の重みに耐えて来た様々なものに特に注目していこうと思う。長大な時間の重みに耐えた共通性質を見出すことによって、それが自らの仕事に体現される道を探っていきたい。伝統と呼ばれるものは、等しくそうした性質を持つだろう。形骸化した因習ではなく、時間の重みに耐え、人々の心と行動の調和を図る伝統に触れる旅をこれからより意識していきたいと思う。
人生も世界も、味わわれるために存在しているという直観が降って来た。本来、人生も世界もそれに資するものである。それらが味わえなくなっているというのは、個人と社会の側に問題があるのではないだろうか。その問題の所在はすでに明瞭なものとして知覚されている。問題の構造のより深い分析と共に、問題に対する具体的な処方箋を提示すること。それに向けた学習と実践を日々怠らず行っていくこと。おそらく自らが人生と世界を深く味わい続けることは、それ以上にない具体的処方箋の提示だと言えるかもしれない。フローニンゲン:2022/5/11(水)16:44
8373. 創造的基盤と絶えず繋がる日々
確かに顕現する種々多様なものは煌びやかで目を奪われることが多々あるが、それらに注目するというよりも、それらを生んでいる創造的基盤に目を向けたい。そして、それと一致したいというのが自分の願いのように思えて来る。創造的基盤と合一化することによって、絶えず創造活動に従事したいという思いが沸々と湧き上がって来る。創造的基盤と一体化するためには何かが必要だろうか。少なくとも、小さな自我のさもしい計らいに囚われてはならないだろう。そうした計らいから解放され、純粋に喜びと楽しさと一体化し、生を謳歌することは最低限の条件かと思われる。そして、絶えず創作活動に従事するということもまた、創造的基盤とのパイプを太いものとし、そこと絶えずつながった状態を維持させてくれると言えるかもしれない。このあたりは全て仮説であるが、これまでの経験に基づく確証の高い仮説だ。後は実際に自分の身を通じて実験し、その仮説を検証するまでである。一個人に当てはまることをすぐさまに普遍法則に昇華させていくことはできないが、少なくとも自分に当てはまらないことが原理的法則にはなり得ない。まずは自分が創造的基盤と上記の方法によって繋がれるのかを日々確かめていく。
日々の何気ない生活の中に滲み出ている詩情を汲み取ろう。それもまた創造的基盤と繋がるために大切な事柄である。詩情を見出し、それに対して理性を働かせるのではなく、詩情をまずは感じてみることが重要である。そして、自己を詩情の中に溶け込ませることがさらに重要になる。それができれば、もう創造的基盤と繋がったも同然である。ゆえに、まずは日々の生活の隅々に詩情を見出すことから始めてみよう。それはそれほど難しくないはずだ。なぜなら、世界は本来詩情で満たされているのだから。
世界から詩を汲み取ることと同様に、世界から音楽を汲み取ることも行いたい。それは全く同様の原理と理由による。この世界は音楽的なもので満ち溢れている。遍満する音楽を聴き取ることができるかどうか。それもまた創造的基盤との繋がりにおいて極めて重要である。そうであるならば、この世界に絵画を見て取ることができるかという点も浮上して来る。このように考えてみると、およそこの世界は芸術的なものであることが自ずから見えて来る。芸術的なもので満ちた世界を五感を通じて生き、芸術的なものを汲み取り続ける形で毎日を生きたいものである。そうすれば、絶えず創造的基盤と繋がることができ、創造する喜びと楽しさに包まれた形で毎日を生きれるのではないかと思う。フローニンゲン:2022/5/11(水)16:58
8374. 儚き存在と儚きものの共感的共鳴
儚く過ぎゆくものに心が奪われ、そこに美しさを見出すのはなぜだろう。それは魂の内在的性質が儚さでできているからだろうか。儚き存在は、儚きものを友として共感の情を覚えるのだろうか。そうした共感的共鳴が自分の中にあることを見る。おそらくこうした共感的共鳴もまた大切にされるべきものである。その感覚を育み、絶えず儚きものに対して共感的に接することによって、日々はより美しく、充実したものになるに違いない。私たちの人生を形作っている種々の変化というのは、結局のところその本質に儚さを持っているのではないだろうか。儚さに疎いということは、変化に疎いということなのかもしれない。おそらく、そうした人には自己を深めてくれる真の変化は残念ながらやって来ないだろう。また、季節の変転のように私たちを刺激してくれる変化が感じられない人生は、きっと物寂しく、味気のないものになってしまうのではないだろか。
どんどん内面的なものの重要性が自分の中で高まってくる。今日は午前中、神道と経済学を架橋した書物を読んでいた。その中で、自分がかつて欧米経済学を学んでいた学徒であり、その時には経済現象の外面記述と数学的モデリングに関心があったことをふと思い出した。実際のところは、その性向はフローニンゲン大学での発達研究に従事している際にも見られたが、今となってはその傾向は極めて薄い。もちろんここでは、数学を駆使した客観的経済学の価値を否定しているわけではないが、その過剰さが現代の歪な経済を生み出していることは確かであろうし、今の自分はやはり経済の内面的な性質、とりわけ経済思想というものをより豊かなものにしていくことに関心がある。その際に、経済学の歴史において切り捨てられてしまった道徳や倫理、そして霊性を懐古的に復権させるのではなく、まさに「含んで超える」という精神で、すなわち退行的にそれらを経済学に取り戻していくのではなく、これまでには見られない次元でそれらを経済学に溶け込ませていくことに関心がある。今細々と進めている神道の研究、経済思想の研究は、その実現に向けた道である。
そのようなことを考えながら、自分の関心がますます内面的なものに向かっているのを感じる。しかし、対象そのものは経済や社会といったこれまでには扱って来なかった広範なものになっている。とにかく今は、人しれず自分の関心を温め、研究を進めていくだけである。いつかそれが公的な実りをもたらすことを祈りながら、自分にできる学習と実践を日々積み重ねていく。フローニンゲン:2022/5/11(水)17:11
8375. 自己客体視について/ジークンドートレーニング104:ドロップシフト
なるほど、自己を客体視するというのは、ある種の自殺行為でもあるのだ。自己を超越するために不可欠なのは、既存の自己をある高みから見つめることであるが、それはある意味自殺行為だったのだ。発達とはまさに死と再生のプロセスなのだが、自己を客観的に見つめるということが、見つめられたその自己の側面を死に追いやり、再生をもたらすことに繋がるということにハッとさせられた。もちろん、自己を客観的に見つめることの全てが自殺的行為になるとは限らない。ただし、自己を変容させ、死と再生をもたらす自己省察というものには、絶えずそうした自殺的な自己客体視が付き纏うということを見逃してはならないだろう。そうでなければ、世間一般で声高に叫ばれている自我を肥大化させるような自己内省で留まる。
先ほど、夕方のジークンドーの鍛錬を終えた。今日は、ドロップシフトという中段への攻撃手法を練習した。この技においては、ジークンドーの他の技と同様に、いかに自分の体重を技に乗せられるかが鍵を握る。特にこの技においては、かがむ動作が加わるため、重力の落下力を技に乗せることが大切になる。自分の体重に加えて重力を乗せると、技の威力は極度に増す。この技を発動させる際に、いかに足の力を即座に脱力できるかが鍵を握る。しゃがみ込んで大腿四頭筋を活性化させるのではなく、むしろ足の筋肉はほとんど使わない形で、ストンとしゃがみ込む形で重力を拳に乗せることが重要だ。そのようなことを意識しながらしばらくこの技の練習をしていた。今週の金曜日にまたジムに行く際には、サンドバックを実際に叩いて練習をしてみようと思う。その威力を確認したいし、どのようにすればさらに威力が増すのかの研究もしたい。ジークンドーの稽古も日々の習慣になって来た。あとは箏が到着し、箏の演奏もまた日々の習慣になる日がやって来ることを楽しみにしている。フローニンゲン:2022/5/11(水)17:37
Comments