No.3633 朝の顕現(その2)_Morning Revelation (Part 2)
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1503, Morning Joy
I can hear a gentle voice of morning joy.
It brings tender breezes to the world.
Groningen; 09:39, 5/10/2022
No.1504, One and Two
One creates two.
Two return to the one.
Groningen; 11:12, 5/10/2022
No.1505, Existence and Words
Our existence emerges from words.
Words embody our existence.
Groningen; 11:24, 5/10/2022
No.1506, Black and White
Our eyes consist of black and white.
Lack of either one, our eyes could not exist.
Groningen; 11:38, 5/10/2022
No.1507, Void and All
The self is on the way of becoming absolute void.
Once the self accomplishes it, the self becomes all.
Groningen; 13:34, 5/10/2022
No.1508, Collective Meditation
Taking a sauna with someone else is a collective meditation practice for me.
It deepens my consciousness more than solo meditation does.
Groningen; 15:18, 5/10/2022
No.1509, Let’s Make Poems
Let’s make poems from everything.
Because poems are omnipresent in our world.
Groningen; 17:00, 5/10/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8361. 言霊学の探究を緩やかに始めて/公民の欠如を憂いて
8362. 今朝方の夢
8363. 日本語の内奥
8364. 一者の顕現世界/終末を知る者
8365. 霊感の泉としての旅/純粋無に向かう自己
8366. 魂の蘇生
8367. 楽しみと今
8361. 言霊学の探究を緩やかに始めて/公民の欠如を憂いて
時刻は午前8時を迎えた。フローニンゲンもようやく暖かくなってきて、今日もまた最高気温は20度を終える。今日は少しばかり雲があるようだが、それでも気温が温かいのは何よりだ。ここからしばらくは、最高気温が20度前後、最低気温が10度前後の日々が続く。とても清々しい日々が続くことを嬉しく思う。
昨日から、言霊学に関する書籍を読み始めた。昨日の段階ですでに2冊ほど初読を終え、その概要を掴んだ。細部に関しては、それらの書籍を再読していく形で詰めていこうと思う。また、言霊学の創出に多大な貢献を果たした小笠原孝次氏の三部作のうち、残り2冊が未読なので、今日は残りの2冊を読み進めていきたい。
言葉によって事が起こるとする言霊学の考え方に則ると、今このようにして言葉を通じて綴っていることが確かに何かしらの形で現実になっていることを思う。言葉の中に潜んでいる生命力の探究。とりわけ日本語の言葉に潜んでいる生命エネルギーについて、これからゆっくりと時間をかけて探究していこうと思う。この研究は緊急度合いの高いものではなく、言葉に関心を持っている自分にとっては、できるだけ気長に取り組みたいテーマである。今日の2冊の書籍に関する読書においては、細かな点を理解しようとするのではなく、昨日と同様に、まずは全体感を把握することに努めよう。
昨日は言霊学に関する書籍以外にも、天皇論に関する書籍を読んでいた。ここ最近は、天皇に関する書物をよく読んでいるのだが、それらの書籍を読んでいると、日本という国は天皇と公民によって成立していたはずなのに、現在においては国籍上の国民はいても、公の心を持つ人が酷く少ないように思えてならないことに憂慮する。この問題を含め、日本国憲法や天皇に関しては、現在全くもって門外漢だが、自分なりに勉強し、将来において何か関与していく必要性をひしひしと感じる。国民と公民を分ける性質に、自我の問題もあることは間違い無いので、そのあたりはこれまでの専門性の観点からも色々と分析と提言ができるだろうか。フローニンゲン:2022/5/10(火)08:18
8362. 今朝方の夢
そよ風が優しく木々を揺らし、木々の枝は返礼として葉を揺らして踊りを披露している。朝の世界は静かで平穏でありながら、そのようなやり取りがなされている。そこには自然のドラマがあり、自分はそれを微笑ましく眺めている。そして、そうした光景に感謝の念を抱く。
今朝方は、非常に断片的な夢を見たように思う。それらはどのような関係性を持っているのだろうか。あるいは全く関係性を持っていないのだろうか。1つの無意識から生まれて来る夢は、やはり全て関係性があるのだろうか。そのようなことを考える。
夢の中で私は、革命に向けた秘密会議に参加していた。それは何の変哲もないマンションの小さな一室で行われていた。会議を引っ張っていたのは、血気盛んな中年の男性であり、どうやら私はその人と知人の間柄だったようだ。彼は確かに血気盛んに演説をしているが、その話の内容を冷静になって考えてみると、随分と的を射たことを述べていた。彼の次に参謀役の男性が演説を始め、リーダーの述べたことを補足しながら、その案をどのように実行に移すかの非常に具体的なことを述べていた。この会議に参加していたのは、私を含めて数人程度であり、さてこの数人でどのようにして国を動かしていくことができるだろうかと私は考えていた。しかし、それは大きな心配ではなく、演説をした彼らの考えのもと、必要な手順を踏んでいけば、どうやら革命をうまく起こせそうだと思った。ただしこの革命は決して左翼的なものではなく、保守の復権に不可欠なものになると私たちは確信していた。
そのような夢を見た後に、ある見知らぬ女の子と話をしている場面があった。私たちは街の公園のベンチに腰掛けて、一休みしながら話をしていた。彼女はとても伸び伸びとした自由な発想をしていて、彼女と話をするのは私にとっても楽しかった。これからも何ものにも囚われない形で自由に伸び伸びと生きてほしいという思いと共に彼女と別れた。そのような夢を見ていたことを思い出す。それ以外にも、自分よりも少し若い大人の女性とも話をしていた場面があったことも確かだ。彼女とは、スペインかどこかの欧州の街のカフェで話をしていて、お互いに気兼ねなく話をすることができ、とても打ち解けていたのを覚えている。フローニンゲン:2022/5/10(火)08:29
8363. 日本語の内奥
様々な領域の探究と実践を行き来しながら、今またしても政治や経済といった卑近ながらも非常に重要な領域への関心が高まっている。それらの領域における具体的な事象は形而下での出来事だが、それらは人々だけではなく、多様な生命の生殺与奪権を持っている。そうしたことから、自分なりの方法で政治や経済に関する探究と実践を細々とだが着実に進めている。現在においてはまだ実践と呼べるようなものではないが、とりあえずはそれらの領域に関する自分なりの観点と方法論で世の中の構造的問題に対する研究を進めている。具体的かつ実行的な処方箋の提示にはもう少し時間がかかるだろう。
今このようにして用いている日本語を霊性言語学的に少しずつ探究している。先ほど読んでいた言霊学に関する書籍は、その一環として重要な書物である。これと同様のことを英語に対して行う気があまりないのは、やはり英語が母国語ではないからだろうし、日本語に対してそれを行おうとするのは、自らの存在の髄にまで染み込んだ母国語が日本語だからだろう。日本語に潜む神秘性は汲み尽くすことができないほどである。普段何気なく用いている日本語の向こう側にある世界に絶えず眼差しを向け、日本語が持つ霊的性質を明らかにしていこう。それは神道研究とも繋がるものである。
ここ数日間、無意識的に君が代を口ずさんだり、鼻歌を歌ったりしている自分がいる。それをもたらす内的変化はどのようなものなのだろうか。先日、エストニアのタリンに行った時、街の古書店で楽譜を探している際に、エストニアの国歌の楽譜に目を奪われた。国歌もまた母国語と同じく、深奥なものがそこに横たわっていることを直感的に感じ取った体験だった。ここからの自分の探究と研究がどのような形で結実していくのかわからないが、日々魂からの呼びかけに応じながら探究と実践を愚直に続けていこう。フローニンゲン:2022/5/10(火)10:56
8364. 一者の顕現世界/終末を知る者
偉大な芸術家や宗教家が参入する一者の顕現世界は、それは1つの分け隔てることのできない共通世界だが、その世界で知覚されることや体験されることは人それぞれ異なることが興味深い。まさに、一者即多者の原理がそこに体現されていることが窺える。私たちが一者の顕現世界に参入すると、そこでは私たちという1人の固有の人間を通じた固有の知覚と体験がもたらされる。それが例えば芸術作品のような形になると、そこに一者と多者の双方を見ることができる。
ここ最近、自分の世界認識のあり方に変化が見られる。虚像と実像が一致するかの如く世界を捉えられるようになってきていて、世界の実相がパッと開かれるような形で世界を認識している自分がいる。そのレンズを自己に向けると、自己に対しても同様のことが起こる。この認識方法はいったい何なのだろうか。また、認識方法のみならず、それを行っている認識主体に対しても自ずから関心の矢が向かう。
真に終末を知る者は、真に気概を持った者なのかもしれない。終末を知り、真の終わりを知っているがゆえに、日々を十全に生き、社会に深く参与することが可能になるのかもしれない。そんなことをふと思わせてくれたのは、先般の旅行で見た風化しかけた建築群の思い出である。それはまたアテネの旅行のことを思い出させてもくれ、アテネに今も残る美しき廃墟の残像が、終末を知ることを自分に促し、気概を持って事に当たることの大切さを教えてくれるかのようだ。
もう少し読書に勤しんだ後、少々仮眠を取り、ジムに行こう。今日も鏡のある部屋でジークンドーのトレーニングをし、サウナで寛いでくる。ジムから戻ってきたら、夕食までまだ時間があるので、引き続き読書に励みたいと思う。午後の風は柔らかで、自分を呼んでいるような気がする。フローニンゲン:2022/5/10(火)13:18
8365. 霊感の泉としての旅/純粋無に向かう自己
創作にとって不可欠な霊感の泉としての旅。旅は、日常生活で凝り固まった思考や在り方にひびを入れてくれ、非日常世界に誘う。そしてそこで私たちに、創造的な種々の霊感を授けてくれる。旅は、魂に新鮮な息吹をもたらす。まさに旅は、神的なものの呼吸であり、それが私たちに息吹を与えてくれるのだ。それが“inspire”の語源なのだろう。旅というのは何も物理的に遠くに出かけていくことを意味するだけではなく、近場の旅もある。重要なことは、私たちの精神がどれだけ飛翔するかということであり、そのためにはいつまでも若く瑞々しい想像力が必要となる。旅は、私たちの魂を若返らせてくれる働きもあるように思える。新たな刺激が精神に若々しさをもたらし、精神がどこまでも遠くに自由に羽ばたく時、精神は輝きながらにして若返りを果たす。そんな姿が脳裏をかすめていく。
到来してはどこかに消えていく雲たち。彼らは、自分の脳内の雑念のように、寄せては返し、現れては消えを繰り返す。雲も雑念も、あるがままである。それらは生じるべくして生じているように思えるのと同時に、因果律を超えた形でその場に顕現しているようにも見える。そんな彼らの存在に敬意を表しながら、同時に彼らに囚われないようにすることが賢明だろうか。そうすれば、彼らの自由な生成の運動の邪魔をすることなく、彼らは自由であり続けられる。それによって、自分もまた自由な存在であり続けられるように思うのだ。目の前の雲は、そんな実践道を示してくれている。このように考えてみると、自分の目に映る、そして心に映る万物は学びの宝庫であり、実践を示してくれる師でもある。万物は自分にとって師なのだ。師からの教えを汲み取りながら、自分もまた万物の師としての役割を果たすべく、自分の道を歩んでいく。
自己が本当に純粋無に帰する時、大いなる遊戯が始まる。自己は本質的にそのような遊戯を行う存在であり、それをつとに望んでいる。その望みを叶えるために、自己は純粋無になるための道を歩んでいる。それは無を通じて全てになるプロセスである。自分にできることは、そのプロセスを邪魔しないことであり、促進していくことである。そんなことを思う穏やかな昼下がりだ。フローニンゲン:2022/5/10(火)13:31
8366. 魂の蘇生
——木の実が実って、自然に落ちるような、その人に固有の豊かな死がある——リルケ
穏やかな夕方が今日もまたやって来た。空は少しばかり曇っているが、それでも優しさの本質が体現された空であることに変わりはない。夕方のそよ風に木々が揺れ、風は木々に生命を潤わす養分を与えているかのようだ。
先般のバルト三国旅行を通じて、魂が蘇生し、また力強い歩みを開始したことを実感する。旅の効能として、魂の蘇生、そしてそれをより逞しくさせる働きがあるようだ。
静かな充実感の中にいる自己。迸るようなエネルギーの底にある静かな流れに自己一致しながら毎日が穏やかに流れていく。このような毎日を送れることに心底感謝する。その無形の感謝の念を自分は有形の形にしていくことでこの世界に恩返しをしていく。
先ほど、ジムから戻って来た。今日のジムでのジークンドーの自主トレーニングもすこぶる捗った。ジムの鏡の部屋での鍛錬は、まるで時が止まったかのような静寂さの中で鍛錬ができている。鍛錬の時間はまた身体動作を通じた瞑想実践でもある。
トレーニングを終えた後のサウナもまた格別の時間だった。午後3時前ぐらいからサウナに入ったのだが、今日は2人の男性と一緒にサウナを過ごした。そこでふと、サウナを誰かと一緒に入ることは、集合的な瞑想実践だと思った。それは1人称的な実践ではなく、2人称的な誰かと時間と場所を共有する形での実践だと思ったのだ。そのおかげか、サウナに入っている最中の意識の深まりは普段以上だったように思う。改めて、実践を誰かと共にすることの意義を感じた次第だ。
それではこれから夕食までの時間を使って読書に励もう。読みかけの書物を読み終えたら、先日届いた川面凡児の『祖神垂示:天照大神宮』の初読を進めていこうと思う。今、自分が従事する全ての学習と実践が、自分の肥やしにつながっている。フローニンゲン:2022/5/10(火)15:59
8367. 楽しみと今
今に生きる楽しみ。楽しみの中にいるから今が楽しいのか、今の中にいるから楽しいのか。おそらくそのどちらもはまるような気がしている。楽しみと今というのは同種のものなのかもしれない。楽しさは今であり、今は楽しさであること。仮に楽しさを感じられないであれば、それは今を生きているとは言えないのかもしれない。だが、この世界を生きるにあたって、楽しさの感情だけでは割り切れない種々の出来事がある。しかしながらそれらはひょっとすると、今から逸脱することによって生み出されたものである可能性がある。楽しさを感じられない悲痛で残虐な事柄の本源を辿っていくと、そこには楽しさとは一切関係ない感情が渦巻いている可能性がある。そうであればやはり、私たちは今一度自らの生に楽しさの感情を回復させる必要があるのではないかと思う。まずは自分がそのように生きてみよう。日々楽しさと同一化する形で今と化すのである。あるいは、今と同一化する形で楽しさと化すのである。そのような形で日々を生きていく。
気がつけば、今日もまた夕方の時間を迎えていた。今日は朝からそよ風が吹いていたが、今は無風の世界が目の前に佇んでいる。自分はそこにもまた楽しみを見出す。無風の世界の中にある楽しみ。それは静寂さそのものが持たらす喜びの感情とも関係している。また、静寂さが破れる瞬間がやって来て、そこから世界は動きを伴った躍動的な感情に染められていく。そんな世界の様子を眺めることは楽しく、またそうした世界と一体となることもまた楽しい。世界はこんなにも楽しさで溢れていたのだ。
世界からもたらされる種々の事柄を形にしていくこと。世界は常に創作の宝庫であり、絶えず創作的霊感を自分に与えてくれる。それを様々な表現手段を通じて形にしていくことは自分の使命であり、それもまた楽しみでもある。夕食前に、この夕方の世界に佇む中で喚起された事柄をもとに作曲をしよう。一曲作ってまだ時間があれば、引き続き川面凡児の神道神学に関する書物を紐解こう。フローニンゲン:2022/5/10(火)17:30
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