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8343-8412: フローニンゲンからの便り 2022年5月16日(月)



No.3642 朝の内的シンボル(その1)_A Morning Inner Symbol (Part 1)


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1525, Water

I became water.

My existence is a mirror to reflect everything transparently.

Groningen; 08:54, 5/16/2022

No.1526, The Astounding Universe

It is astonishing that there is a variety of existence in this world.

Yet, it is more astounding that there is no identical existence in this universe.

This universe is constructed by both diversity and uniqueness.

Groningen; 10:16, 5/16/2022


No.1527, Knowing Myself by Others

I cannot know me by myself.

I need others to know myself.

Subjectivity is ensured by objectivity, and vice versa.

Groningen; 10:30, 5/16/2022


No.1528, Spirit Resonance

I see.

I’m inspired by nature because it has an own spirit.

My spirit and nature’s spirit resonate with each other.

That’s why I’m impressed by nature.

Groningen; 10:33, 5/16/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8403. マヨルカ島に惹かれて

8404. 今朝方の奇妙な夢

8405. 夢の洞察と今朝方の夢の続き

8406. テクノロジーとマネーの探究の再燃

8407. この世界の神秘/実即虚・虚即実

8408. スピリットの共鳴・感応/同根一体と神人不二

8409. 詩の顕現/人間と宇宙の相似形

8410. 本質的な孤独/記憶と感覚/旅と生の喜び

8411. 旅の恩恵/日常と旅の一致に向かって

8412. 倫理と道徳


8403. マヨルカ島に惹かれて


時刻は午前6時半を迎えた。今、朝の世界が黄金色に煌めいている。煌めく朝の世界の中で、小鳥たちが鳴き声を上げていて、彼らの鳴き声もまた煌めいているように感じられる。どうやら今日は昼過ぎまで天気が良いようで、午後には小雨が降るらしい。今の天気の様子だとそれが想像できないが、午後には雲が現れるのだろう。フローニンゲンもようやく暖かくなって来て、ここ数日間は部屋の暖房がもう自動で入らなくなった。室温が19度を下回ると自動で暖房が入るようになっているのだが、それがもうここ数日は働くことはなく、部屋の温度も上がっていることに気づく。今日は最高気温が25度近くまで上がるようであり、明日からも数日間はそれくらいの最高気温になる。今週末には再び最高気温が20度前後、最低気温が10度前後という形に落ち着くようだ。いずれにせよ、これからのフローニンゲンはとても過ごしやすい気温になる。


昨日、少し気が早いが、年末年始で過ごすモナコ公国について調べていた。その後、せっかくなのでモナコ公国を訪れた後に、フランスのマルセイユかスペインのマヨルカ島に行ってゆっくりするのもいいかと思った。最初に閃いたのはマヨルカ島であり、次にマルセイユを思いつき、どちらについても調べてみたのだが、それぞれに良さがあり、今回でないにせよ、どちらも訪れたみたい場所だった。マヨルカ島は街並みが美しく、周りの自然も豊かであることから、マヨルカ島に行ったら美術館や博物館を巡ることはあまりせず、街並みを楽しんだり、自然を楽しんだりして過ごそうかと思った。ところが、色々と調べてみると、マヨルカ島にも魅力的な美術館が博物館が多いことがわかり、もしマヨルカ島を訪れるのであれば、それらの美術館や博物館にもぜひ足を運びたいと思った。マヨルカ島は単に風光明媚な島であるだけではなく、文化も発展しているようだった。美術館においては、以前バルセロナを訪れた時に感銘を受けたミロの作品が多く所蔵されているFundació Miró Mallorcaにはぜひ足を運びたい。また、完全に忘れていた音楽史上の事実として、フレデリック·ショパンとジョルジュ·サンドは、1838年の冬にフランスを離れて、マヨルカ島で過ごしていたことを思い出したのである。それを記念して、マヨルカ島にはショパンミュージアムがあり、ぜひそこにも訪れたい。以前ポーランドのワルシャワを訪れたときに、ワルシャワのショパンミュージアムに行き、随分と刺激を得たことを覚えている。ショパンは敬愛する作曲家の一人でもあるため、このピアノの詩人に所縁のあるマヨルカ島をやはり今年の年末年始の訪問候補に入れたい。順番としては、マルタ公国に先に行き、年明け早々にマヨルカ島に移動するのが良いだろうか。そのような計画を立て、今年の年末年始がますます楽しみになって来た。フローニンゲン:2022/5/16(月)06:44


8404. 今朝方の奇妙な夢


時刻はゆっくりと午前7時に近づいている。朝日が燦然と輝いていて、世界は光に包まれている。自分の身も光に包まれ、光と化している自分がいる。小鳥たちも引き続き清澄な鳴き声を上げていて、彼らの鳴き声がこの世界に波紋のように伝播している。


ここ最近は、箏の音色がピアノの音色以上に自分を寛がせてくれるようになった。この変化には自分でも驚く。以前はピアノ曲ばかり聴いていたのだが、今では箏曲ばかり聴いている。今の自分にとっては、箏曲が自分の魂により響き、魂をより安らかなものにしてくれる。箏へ関心を持ったことと、神道に関心を持ったことがほぼ同タイミングであったことも興味深く、その背後にはきっと深い意味があるはずだ。その意味については、これからの探究と実践を通じてゆっくりと紐解いていけばいい。そのようなことを思う。


今朝方は2つほど印象に残る夢を見ていた。最初の夢は、少し恐怖心を感じるものだった。夢の中で私は、見慣れない一軒家の中にいた。そこには2人の中年女性がいて、何やら居間で写真を眺めていた。2人に話しかけると、何やら心霊写真があるとのことであり、2人はその写真について話し合っていたようだった。2人は私にもそれを見せようとしたが、私はあまりそういうのは好きではなく、最初断った。2人は無理に私に写真を見せようとはせず、まずはその心霊写真の話から始めた。話だけであればまだ大丈夫かと思ったので、2人の話を聞くと、背筋が凍るかのような感覚に陥り、その写真に対して無性に恐怖心を覚えた。恐怖心の出所は分からず、自分でもなぜ心霊写真1枚に対してこうも怯えるのだろうかと思った。同時に、きっとその写真には、自分には手に負えない何かがあるのだとも思った。しばらく2人から話を聞いた後、誰か訪問客がやって来た。声からすると、それは若い男性のようだった。しかしその男性は姿を見せず、居間にやって来ることはなかった。男性に対応した片方の女性が再び居間に戻って来て、そこから再び心霊写真の話になった。彼女たちの話を聞いていると、恐る恐るではあるが、せっかくなので実際のその写真を見たいと思った。覚悟を決めて2人にその写真を見せてもらうことにした。すると、片方の女性がアルバムを手渡してくれた。そこには結構な数の写真が収められていて、どれが心霊写真がすぐにわかるから、最初から順番に見ていくのがいいと述べた。私はそれに従って、順番に写真を見ていった。ページをめくる手は恐る恐るであり、いつ心霊写真が出てくるか分からない緊張感と恐怖感があった。そのアルバムに収められているのは、2人の子供の記念写真が多く、子供たちが笑顔で遊んでいるものや、子供たちが創作したものが写真に収められていた。アルバムをめくる手がふと止まった。そこには、子供が作った不思議なオブジェが写されていて、その形が妙に自分の心を惹いた。それは心霊写真ではなく、単に自分の心に響く何かがあったのだ。しかもそれは、美しさが自分の心に響いたのではなく、ある種の異様な感覚が自分の心に響いていたのである。そうした形で自分の心が奪われることはなかったので、とても不思議な感覚であった。そして次のページをめくるとき、直感的に次のページに心霊写真があると思った。いざページをめくると、2人の女性はニヤリと笑い、そこには2人が飼っていた犬が写っていた。しかし、その犬の顔をよくよく見ると、犬の顔が変に思え、顔の中にまた別の犬の顔があり、その犬の顔もまた歪んでいて不気味だった。私はこれが心霊写真であることはすぐにわかり、1ページ前の子供の創作物とは違う形で異様な感覚に包まれた。確かに恐怖心もあったが、それよりも異様なものに対する不気味な関心とでも言えるような感情と感覚が内側に満ちていて、私の目はその心霊写真に釘付けだった。そこからは、写真を開いたまま、3人でその写真について色々と話し合った。まずはそのような夢を見ていた。実はそこで一度目を覚ました。すると、時刻はまだ深夜12時だった。眠りに落ちてすぐに見たのがそのような夢だった。今改めて書き出してみて、書き出す中でも背筋が凍るような感覚があった。写真そのものだけを見れば、不気味な霊が写っていたわけではないのだが、それでも本当に奇妙な不気味さがあり、それが今でも自分の内側に感覚として残っている。この感覚の正体と、あの心霊写真の正体は、さらに内省が求められるかと思う。フローニンゲン:2022/5/16(月)07:06


8405. 夢の洞察と今朝方の夢の続き


朝のリズムが少し変化を見せ、小刻みな時が進行していくようになった。ここから朝の世界はより活動的になっていく。このように、世界のリズムを感じ、そのリズムに呼応する形で自己が活動していることを嬉しく思う。そこにはお互いのリズムの感応と調和がある。今この瞬間の自分の内側のリズムはとても心地良い。魂のリズムは活き活きとしていて、活力に満ちている。


先ほど、今朝方の夢について振り返っていた。心霊写真を見たあの夢の恐怖感は、今は少し落ち着いている。あの夢を再度想起しても、夢の中ほどには恐怖心を覚えない。夢を書くことによって客体化したことが、恐怖心を緩和したことにつながったのかもしれない。しかもそれは単なる客対化ではなく、夢に関する洞察を自らにもたらす形で、恐怖を引き起こした自己の何かしらの側面を癒す働きがあったのだと思う。ひょっとするとあの夢は、高次元の霊的世界への誘いと、同時にその世界に入っていく際の恐怖心を象徴していたのかもしれない。心霊は1つのモチーフとして登場し、それは今の自分には理解できないものやまだ見えていない何かを示唆していたように思えてくる。確かに今の自分は、確実にまた1つこれまでとは違う次元に歩みを進めている実感がある。新たな認識世界の扉がもう見えているかのようであり、あとはその扉の向こうの世界に怯えることなくその扉を開けるだけである。


今朝方はもう1つ別の夢を見ていた。夢の中で私は、豊かな畑の脇にある道を歩いていた。しばらく道を歩いていると、向こうに背の高い外国人の友人の姿を見つけた。私は嬉しくなって彼のところに駆け寄り、後ろから彼に挨拶をした。彼は振り返り、すぐに私のことに気づき、彼もまた笑顔で挨拶をしてくれた。どういうわけか私は、彼と出会ったことがよほど嬉しかったのか、大きな体の彼をおんぶして目的地まで連れて行きたいと思った。そしてすぐにそれを実行すると、彼は自分のことを信用してくれていて、突然おんぶされたにもかかわらず、完全に安心して身を任せてくれているようだった。彼をおんぶをして走り出すと、家のオーナーのフレディさんに出会った。フレディさんは私たちの姿を見て微笑み、言葉を掛けてくれ、また後でゆっくり話そうと述べて別れた。そのとき私は、友情の素晴らしさと人との縁の素晴らしさに感動してしまい、突然涙を流した。それは自然と頬を伝わっていく静かな涙だった。同時に、私はそのとき初めて、自分の涙の美しさに気がついた。涙がまるで虹のように輝いていたのである。純粋に感動し、感謝の念を持って泣いた時の涙は、こうも混じり気なく無垢で美しいのだということを初めて知ったのである。


気がつくと、私はもう彼を目的地まで運んでいて、彼はどこかに消えていた。私は高校の体育館の前にいた。すると、野球部の友人が小走りで体育館の方に走って行こうとしていたので、彼に声を掛けた。すると、今から県大会に向けた壮行会があるようだった。それは学校を挙げての行事であり、OB·OGも駆けつける賑やかな会だった。体育館の中を覗くと、もう随分と人が入っていた。在学生と卒業生で埋め尽くされた光景は圧巻であり、私も自分のクラスの席に向かった。すると、自分のクラスメートはまだあまり来ておらず、列に人がまばらにいるような状態だった。私はとりあえず席を確保し、両隣の女子に話しかけたところ、突然校歌斉唱となり、周りに負けじと、私も大きな声で校歌を歌った。溌剌として歌われる校歌は耳に心地よく、魂を揺さぶるものがあった。フローニンゲン:2022/5/16(月)08:02


8406. テクノロジーとマネーの探究の再燃


先ほどふと、テクノロジー哲学者のバーナード·スティグラーが生涯をかけて執筆し続けていた“Technics and Time”の続編がどのようなものであったのか気になった。残念ながらスティグラーはそれを完成させることなくこの世を去ったが、既刊3巻までの内容は非常に刺激的であり、テクノロジー哲学に関する自分の眼を大きく広げてくれた。スティグラーの構想では第7巻まで執筆する予定だったらしい。しかも後半には、テクノロジーと霊性を扱った巻も構想されていたらしく、それが完成しなかったことが残念である。ただし、多産なスティグラーのその他の書物を丹念に紐解いていけば、スティグラーがどのような形でそのテーマについて執筆しようとしていたのかを想像することならできる。その想像をもとに、自分がそのテーマを引き継ぐ形で研究をしたいという思いが湧いてくる。昨年の夏はテクノロジーとマネーに関する書物を随分と読み込んでいて、今、それらを改めて再読していこうと思っている。昨年と違って今回は、神道の観点を自分が持ち合わせているということだ。ここからはこの観点に磨きをかけていく。理想は、神道の観点からテクノロジーとマネーを扱い、研究を進めていくことである。そして、その研究の成果を社会へ処方箋として提供することが実現されればという思いがある。幸いにも、キリスト教神学であればその道を開拓してくれている先駆者がすでにいる。例えば、テクノロジー神学でいうと、フランスの神学者のジャック·エラルがキリスト教神学の観点からテクノロジーについて論じている。マネーで言えば、イギリスのフィリップ·グッドチャイルド、そしてナイジェリアのニミ·ワリボコがキリスト教神学を通じてマネーについて論じている。彼らの書籍はほぼ全て購入し、すでに初読を終えている。ここからは、彼らの書籍を丹念に読み解いていくことを通じて、神学をどのように応用すれば、テクノロジーやマネーの内在性質と現代の構造的な問題を論じることができるのかを参考にしていく。確かに、テクノロジーやマネーについて細かな知識を習得していくことも重要だが、それ以上に重要なことは、彼らの研究方法ないしは問題へのアプローチの仕方である。それらを彼らの書籍を読み進めることによって明らかにしていき、彼らの方法論を習得していく。それができてようやく、論文や書籍の執筆に取り掛かることができ、実践的な処方箋を提供する段階に至るだろう。今年の夏は、神道、テクノロジー、マネーの3つを深く研究していこう。テクノロジーとマネーについては昨年に引き続いての2巡目の文献読解になるであろうから、昨年よりもその理解は深まっているだろう。このように、重要なテーマを時間を置いて何度も行き来することによって、それらのテーマに関する深い理解を獲得したい。フローニンゲン:2022/5/16(月)08:31


8407. この世界の神秘/実即虚・虚即実


この世界は多様性に溢れている。しかし、この世界に同一のものが存在しないことは驚くべきことである。これだけ多様性が溢れているのに、同一の人間や事物が存在しないというのはどういうことだろう。そこに創造の秘密があり、創造神の神妙な力がある。後にも先にも唯一無二の存在が目の前に顕現しているということ。それを思うだけで、畏怖心に包まれる。自分もまた同一の存在を持たない唯一無二の存在である。世界は、そうした同一の存在を持たない無数の存在者が相互に影響を与え合って存在している一大宇宙である。この巨大な宇宙は、多様性と固有性によって構築され、そして絶え間ない運動を続けている。それはこの世界の神秘である。


昨日考えていたことがふと思い出された。実即虚、虚即実なのであるから、この人生を夢の如しと説くというのは実を単に虚とみなしているようなものであり、人生が持つ虚実の両側面を捉えていないのだ。それゆえに、人生を儚き夢と説く考え方は、不必要に虚無的なあり方に人を追い込んでしまう。重要なことは、人生が持つ虚実の両側面を一束に捉えることである。この世界は夢であると単にみなしてしまうこともまた片手落ちの世界認識である。世界は夢であり、同時に現実なのだ。また、世界は現実であり、同時に夢なのだ。コインというのは表と裏を持つ。それで初めてコインとなる。コイン全体は表を超えていて、裏を超えていて、表裏を超えている。表裏を超えているからコインという全体が成り立つのである。そのように考えてみると、この世界もまた現実を超え、夢を超え、現実と夢の両側面を超越したものだとみなせるのではないかと思う。これまでの自分の認識は、事物の両側面をまずは片側から見て、そしてもう一方を見るという形で機能していた。ところが、ここ最近の変容を経て、事物を一束として両側面を瞬時に把捉し、同時に両側面を超えた事物の本質を直観的に把握することができるようになっているように思える。これは大きな認識機能の転換である。ある事物の全体がパッと一瞬にして捉えられてしまうのだ。そこから片方ずつの面を見たり、両方の面を見たりすることに降りていける。こうした認識機能が芽生えたことに自分でも驚く。あとはそうした認識機能が発揮できる対象を増やしていくことである。今は全ての事物に対してそのような認識機能を発揮できているわけではない。こうした一挙全体把握的認識機能が働くためには、土台となる知識や経験が必要であり、それらを引き続き獲得していくことに精進する。日々の学術研究と実践は、その精進の1つの姿であり、それを続けていけば、この認識機能は遍く対象に対して発揮されるだろう。そのような予感と確信がある。フローニンゲン:2022/5/16(月)10:23


8408. スピリットの共鳴・感応/同根一体と神人不二


なるほど、自分が自然に共感し、感銘を受けるのは、自然にもスピリットが宿っているからなのだ。自分のスピリットと自然のスピリットが互いに共鳴し、呼応することによって、自分に霊感が降りてくるのだ。自然への敬意も、自然が持つスピリットへの敬意と繋がっていて、スピリット同士はそのようにお互いを尊重し合う特徴を持っているのかもしれない。もちろん、自然の内面は人間の内面とは同じではないが、自然にも内面があって、それは固有のスピリットによって支えられている。そんな自然観が湧き上がって来た。


自己の存在が自然の内側に入って行き、そこでお互いの内面が感応し、融合を果たす。その時に、人間側の自己は自然への深い共感と愛情の念を持つ。これは自我の壁が溶解していないと生じない現象である。自我に囚われている限りは、自然との一体感は得られない。時に自然は、自我を驚嘆させる形の美で自我を包み込むことによって、自我の壁を破壊してくれる。あるいは、自然の脅威によって自我は死の恐怖を感じさせられ、それがある次元を超えると、同様に自我は壁を破って外に出ざるを得なくなる。世の中を見渡してみると、そのような現象はよく見られるし、自分の過去の体験を振り返ってみても、そのような体験があったことを思い出す。


自己と自然は同根一体であること。自然も含めて、万物と自己は同根一体なのだ。ここで、自己が自らを深く知る際には、自己の境界を超えた他者の存在が重要になる。自分を知るというのは、ある意味、自分と世界との境界線を引く作業でもあるため、その線引きをするためには自分の存在だけではそれは行えない。線引きというのは、肯定も否定の意味もなく、自己を定位させることである。それは自己の存在証明であって、そこに肯定·否定の意味はない。自己をこの世界の中で定位させ、自己の存在証明をする際に、自己と世界との境界線を知る必要がある。そのためには、自分1人の存在ではそれは行えず、必ず他者の存在が不可欠なのだ。自己認識というのは、他者の存在があって初めて成り立つものなのである。万物他者へ敬意を表し、こうした形で自己認識を深めていくと、いつか自己は万物に融即していく。その境地が神人合一の状態なのだろう。もともと自己と万物、そして神は一体のものだったのだ。神人合一に至って、神人不二の境地を知り、そこで初めて深い愛情と共感の念を持って万物と接することができるのかもしれない。その境地への道のりは長く険しい。だが、そこに向かって歩みを始めている自己がここにいる。フローニンゲン:2022/5/16(月)10:47


8409. 詩の顕現/人間と宇宙の相似形


詩が織り込まれた時間がゆっくりと流れている。その流れに従って、織り込まれた詩が紐解かれている。時の進行とは、詩の顕現だったのだ。逆に、世界から詩が顕現することが時の進行だったのだ。非常に興味深く、重要なことに気づいたものである。世界には絶えず詩が体現されていて、世界は詩で構成されている。時間と共に開かれゆく詩をどれだけ認識することができるか。そこに毎日の充実感と至福さの鍵がある。


人間と宇宙は相似形を成していて、人間は宇宙を写しているのだから、人間性が崩壊の一途を辿っている現代社会は、宇宙の崩壊を予感させる。宇宙の平穏を実現させるためには、人間性の回復は不可欠であり、まずは自らを省みるところから出発させなければならない。宇宙というところまで認識を広げることが難しければ、社会と人間が互いに写し鏡になっているところから考えを始めるべきだろう。そして、実践においてはまずは個人として実践できることから出発させていくことが賢明だろうか。いずれにせよ、人間が社会や宇宙と相似形を成していて、同根であるということは忘れてはならないように思える。


時刻はゆっくりと夕方に向かっている。目の前の世界はこれから夕方の世界に入っていく。天気予報を見ると、朝方の予報から変化があり、小雨はもう少し後になって降るようだ。激しい雨ではなく、どうやら優しい雨がやって来る感じがする。目の雨の空の様子を眺めていると、それがわかる。


今日は昼過ぎから、協働者の方々と今水面下で進行しているプロジェクトに関してのミーティングを行った。結局2時間ほどのミーティングとなり、ジムに行くのは明日に回すことにした。明日は天気が良いようなので、逆に明日に回して正解だと思う。ここから引き続き読書をし、今日もまた充実感と至福さと共に終わることができたらと思う。魂の自由な歩みに寄り添い、自由溌剌とした喜びに包まれながら、この地上に永遠を実現させていければと思う。そんなことを考えさせてくれる夕方の世界の中に自己がいる。フローニンゲン:2022/5/16(月)15:49


8410. 本質的な孤独/記憶と感覚/旅と生の喜び


本当の孤独を味わうというのは、人間がこの世に生きることとは何かという本質的な問いと向き合うことに他ならないのだろう。また、真の孤独がやって来るのは、真に1人の固有の人間としての目覚めがやって来たということに他ならないように思えてくる。誰かと一緒にいられなくて寂しいというのは低次元の孤独感であり、本質的な孤独とは、人間とは何か、人生とは何かという深い問いを突きつけてくるものなのだろう。人はそうした孤独感を得て初めて、自分が何者であるかを知り、自己の宿命を知る。自己の存在と宿命を鋭く露わにするのが、真の孤独なのだろう。


自己という存在は実に捉え難いものなのだが、自己というものが記憶と感覚によって成り立っている側面を最近は強く感じる。ここのところ特に、日本で長らく生活していた際の記憶が蘇って来て、それが自己を強く構成していることに気づく。また、日本で触れていた諸々の「日本的な感じ」が自己形成に途轍もなく大きな役割を果たしていることにも気づく。今の自分は、様々な手段を通じて、そうした日本にまつわる記憶と感じをゆっくりと紐解き、新たに結び合わせることによって新たな自己に向かっているように感じる。記憶と感覚。それは今の自分にとって大きな関心事項である。


ここのところはさらに、旅についてもよく考えている。それは単に、今年と来年に行う旅の計画について考えているだけではなく、むしろ旅そのものが自分にもたらす事柄や、旅の意義や価値について考えが及ぶ。旅というのは自分にとって、間違いないく変容の担い手となっている。それは変容を呼び込み、変容を実現させてくれる跳躍台であり、刺激でもあり、養分でもある。旅の最中には、普段考えないようなことを考えさせてくれたり、普段見落としている事柄に気づかせてくれるのは本当に大きな意味を持つ。普段の生活で盲点になっていることを浮き彫りにしてくれることは、1つ旅の大きな意義だろう。もし仮に、旅が喜びに満ちたものであれば、日頃の生活を改める必要があるのかもしれない。本当は、旅での喜びと日常生活での喜びを一致させることによって、喜びを通じた生が完成するのであって、旅に強い喜びを感じるというのは、まだ道半ばなのだろう。日常で感じる生の喜びが希薄であるがゆえに旅の喜びが強く感じられてしまうのである。自分の場合はどうだろうか。幸いにも、これまでの旅は確かに生の喜びを感じさせてくれるものだったが、その度合いは日常とほぼ変わらず、むしろ違った角度や観点から生の喜びに気づかせてくれるという点で意義を持っているように思う。自分の生き方にはまだ盲点があり、その盲点に気づいていくことが、神人不二の境地で溢れんばかりの生の喜びを享受しながら生きることにつながるのだろう。来月の旅も、再来月の旅も、そしてそこからの旅も、その確かな礎になることを確信している。そんな確信がやって来た後、ふと松尾芭蕉のことを思い出す。彼は、深川に閉じこもった独居生活では自らの創作活動に限界があることに気づき、草庵から外に出て、激しい衝動に導かれて旅立ちを決意した。それが松尾芭蕉の晩年の旅を通じた創作人生を実現させたのである。芭蕉を先人として、自らもその生き方に連なる形で人生が進行しているのがわかる。フローニンゲン:2022/5/16(月)16:26


8411. 旅の恩恵/日常と旅の一致に向かって


旅は、日々の単調な感覚によって麻痺されてしまっている自己の存在に潤いと刺激をもたらす。麻痺された状態から脱却し、今一度自分自身や生きることについて新たな息吹をもたらしてくれるのが旅の良さだろう。また、旅を通じて、実はこれまでの日常生活もまた彩りに満ち溢れたものだということに気づかせてくれることも大きな意味を持つ。感覚の麻痺だけではなく、私たちは普段の単調な生活によって、世界を見る目が曇らされてしまっているのである。その曇りを取り除いてくれるのもまた旅の意義だろう。旅を通じて、日常の当たり前のことが当たり前でないかのように貴重で愛おしいように見えてくるのもまた、旅が持つ大きな力であり、その力の恩恵に時機を見て預からせてもらうというのは大切なことのように思える。とにかく旅は、私たちの感覚や感性を瑞々しく保ってくれるためになくてはならないものであり、そのおかげで感覚や感性がまた新たな方向に育っていくのだと思う。自分にとって旅は、日常、そして自己の存在も世界も、光に満ち溢れていたことに気づかせてくれるという点において、これ以上ない重要性を持っている。だからこそ自分は、頻繁に旅に出かけているのだと思う。


さらには、日常を旅と化すことができないか、旅が日常と化すことができないかと考えている側面もある。それは大きな企てであり、大きな理想である。日常と旅を限りなく一致させるような生活。そして、そのような生活によって刻まれていく人生。そうした人生を歩んでいくことを望んでいる魂がある。旅の最中では、毎日が極大な新しさを持ってやって来る。それと同じだけの極大さを持って日々を新しく生きたい。目に入るもの、感じられるもの、それら全てが極大な新しさを持って押し寄せて来る毎日をただただ生きたい。日々というのは、そして世界というのは、本質的にいつも常に極大的に新しいのだから。フローニンゲン:2022/5/16(月)16:42


8412. 倫理と道徳


倫理は内側から外側に形となって現れ、それが徳を形成していく。個別具体的な事象としては、マネー倫理とテクノロジー倫理に関心を置き、それらの道徳を社会的·世界的に形成することに向けて研究と実践を進めていきたいと改めて思う。引き続き、マネーとテクノロジーは最重要項目として探究を進めていく。様々な学問領域からそれらの探究を進めていくが、中核として宗教、とりわけ神道神学を軸に置きたい。これからの日々の探究は、明確な目的と、今はまだ姿を表していない潜在的な目的に沿って力強く進行していくだろう。


道徳というものが倫理と密接に関係し、倫理が外側に発露して形成されるものであるならば、道徳もまた内からの力を必要とする。一方で、法律というのはあくまでも外側からの働きかけを私たちに行うものであり、倫理道徳と法律の双方が必要な世の中にあって、現代は後者の力に依存しすぎなところがありはしないだろうか。人々から内発的な倫理·道徳が欠落していて、法律の奴隷であるかのように、外側からの働きかけによって行動を行う傾向に偏っているように思うのは自分だけではないだろう。世の中の傾向としてそちらに寄っている姿が明瞭なものとして見えて来る。内と外の働きかけの双方が重要だが、現代においてはやはり内発的な力を取り戻していかないといけないだろう。とりわけ倫理と道徳においては、外から強制されるのではなく、それらが内発的に生まれて来るような教育が大人と子供の双方に求められるように思う。さて、このあたりの教育をいかなる内容でどのように施すのかについても考えていかなければならない。教育というのも本来は内発的なものであって、内側からの力を開花·発育していくべきものだが、現代においては教育さえも、むしろ教育こそが外側から強制されるものに成り下がってしまっているのだ。非常に厄介な問題ばかりが降りかかっているのが現代という社会だが、それらの個別具体的な課題に対して、大きな全体観の元に自分にやれることをやっていく形で実践を続けていく。フローニンゲン:2022/5/16(月)17:47

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