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8338-8345: フローニンゲンからの便り 2022年5月6日(金)



No.3630 顕現(その1)_Revelation (Part 1)


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1497, Evening Gentleness

The world is filled with evening gentleness.

Everything smiles back to it.

Groningen; 19:23, 5/6/2022


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本日の3曲


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タイトル一覧

8338. 今日の計画

8339. 今朝方の夢

8340. 天使性と悪魔性の両極

8341. 世界全体との一体感を感じる脱自的体験の増加に伴って

8342. 土地に織り込まれた詩・歌・絵画を求めて

8343. 道ゆく人々の流れを眺めながら

8344. ジークンドートレーニング103:サウナの瞑想効果と共に

8345. メルヴィンとの対話から/精神・情念・霊性伝達/脱自的な創作活動


8338. 今日の計画


時刻は午前7時半を迎えた。今、少しばかり霧がかかっているが、今日は天気に恵まれるようだ。霧が晴れたのちは、雲がほとんどないような快晴に恵まれるという予報が出ている。今日は最高気温が19度まで上がるらしいので、随分と温かい日になるだろう。午後にはジムに行き、ジークンドーのトレーニングをし、サウナにゆっくり入ろうと思う。そして、そこからメルヴィンの店に行き、髪を切ってもらうというのが今日の外出予定だ。いつもは午後2時から髪を切ってもらうようにしていたのだが、今回は他の予定と重なってしまったので、予約の時間を変更してもらう形で今日の夕方に時間を変えてもらったのである。さて、今日もまたメルヴィンとどのような話をするのか楽しみである。


昨日、無事にこの秋の日本への一時帰国の航空券を予約することができた。今週末には、6月初旬のクラクフとカウナス旅行の旅程も立ててしまおうと思う。そして可能であれば、航空券とホテルの予約を済ませておきたい。アムステルダムからクラクフまでは直行便があったと思うので、移動の疲れなどを考慮すると、最初にカウナスに行き、その次にクラクフに立ち寄るのが良さそうである。今のところ、カウナスに4泊5日、クラクフに3泊4日滞在することを考えている。クラクフの見所がもし多そうであれば、もう1日滞在を伸ばしてもいいだろう。先日のバルト三国旅行の際に、パソコンのデスクトップ上の論文を読み終えたので、クラクフとカウナス旅行の際には、ロイ·バスカーの書物を持参しようかと思う。バスカーが霊的転回を果たした後の書物が今回の旅にふさわしいという直感がある。


現代は、個人も社会も、精神的·霊的跛行現象に苛まれている。そうした状態を正常なものに回復させ、再び健全な歩みができるように関与をしていく。バスカーの書物を読み、それを元に実践につなげていくことはその道につながる。


ここ最近は、先日届けられた一本歯の下駄を履きながら書斎を歩き回る形で本を読んでいる。こうすると、姿勢を正して本を読めるのだ。また、丹田に力が充足した形で読書ができていることも実感する。一本歯の下駄は、単にマーシャルアーツの鍛錬のために活用するというよりも、このような形で日々行っている読書と組み合わせることで、より生活に馴染んだ形での鍛錬につながっているように思う。フローニンゲン:2022/5/6(金)07:53


8339. 今朝方の夢


うっすらとした霧がかかっている朝もまた風情がある。そのようなことを思わせてくれる景色が広がっている。「景色」という観点で言えば、先日のバルト三国旅行で訪れた国々の町もそうだし、フローニンゲンもそうなのだが、実に「景気」が良いと思った。残念ながらこの言葉は、現代において経済的な好調さを表すことだけに用いられがちだが、景観の気が良いという意味でこの言葉を用いることも可能なのではないかと思った。ひょっとしたら、本来はそのような形で用いられていたのかもしれないとすら思う。


6月のクラクフとカウナス旅行を筆頭に、そこから年末にかけて毎月何処かに旅に出かけていく。そこで感じるのは、きっと景気の良さだろう。素晴らしき景観の中に自己を溶け込ませながら、自らも景観と化したいと思う。おそらく人間は最終的に、その命を終えると、他の全ての存在者の景観と化すのだろう。そのための準備として、旅を通じて景観と化すことを1つの実践としてみよう。それは、死への最良の準備の1つになるように思われる。


今朝方は、旅に関係する夢を見ていた。昨日、日本への一時帰国に向けた航空券を予約したこともあってか、夢の舞台は関空の近辺だった。実際の関空近辺とは少し異なり、もう少し明るい印象があり、近くにはディズニーランドのような遊園地があった。私はこれから欧州に戻る予定であり、フライトの前日は空港近辺に宿泊し、ホテルでゆっくりしてから欧州に帰る予定だった。宿泊予定のホテルに到着し、受け付けに行くと、そこに品の良さそうで端正な顔立ちをした日本女性がいた。彼女は日本人女性のように見えるが、そのオープンな心から察するに、ハーフかあるいは海外で生活をしたことがあるのではないかと思った。人生の中で日本を一度でも離れて海外で生活をしたことがある人に共通の囚われのなさを感じたのである。私はその点をとても好ましく思い、また同時に共感もしていたので、その女性と受け付けでしばらく話をしていた。会話は予想以上に盛り上がり、会話の中で彼女がピアノの演奏を好んでいることを知った。中でもモーツァルトのピアノ曲を弾くのが好きだとのことであり、今度彼女の演奏を聞かせてもらうことになった。また、そのタイミングで一緒に食事に行くことも約束した。


彼女との楽しい会話を終え、ホテルの部屋に戻り、荷物を置いた。時計を確認すると、まだ時間があったので、近辺の散策に出かけようと思った。部屋を出て、再び受け付けに降りていくと、彼女は2人の女性旅行客に親切に近辺の地図の説明をしていた。その様子を微笑ましく思い、近所の散策に出かけた。ホテルの近辺は空港近くであるから、一般的には何もなかったり、無機質な感じが漂っていることが多いのだが、ここは心が休まるような雰囲気があった。しばらくそのような雰囲気の中、散歩を楽しみ、ホテルに再び戻ってきた。すると、先ほどの受け付けの女性はどこかに消えていて、部屋に戻ると、1匹の蜘蛛が目の前に現れた。私はそれを外に逃がそうとしたところ、その蜘蛛は受け付けの女性が化けたものだとわかった。それに気づくと、彼女は蜘蛛の姿のまま、心を通じて私に話しかけてきた。私は蜘蛛を外に逃すのを一旦やめて、再び部屋に戻し、そこからしばらく彼女と心の中で会話をして楽しんだ。フローニンゲン:2022/5/6(金)08:09


8340. 天使性と悪魔性の両極


人間の内側に潜む天使性と悪魔性の両極について思う。天上世界を感じさせる芸術を好んでいることを持ってして、その人を天使だとみなすのは浅はかである。大量殺戮をしたアウシュビッツの看守たちもまた、夜には天上世界を感じさせるバッハの音楽を聴いたり、そうした世界を描いた文学や詩集に触れていたのだから。天使と悪魔の二面性を絶えず私たちが帯びているということにもう少し自覚的になるべきかもしれない。そうしなければ、人間の本質を見失うばかりか、この社会で起こっていることの本質を見失いそうである。また、現代を覆う種々の問題に対する処方箋を提示する際にも、そうした二面性への感度と理解がどれだけあるのかがその処方箋の効力を規定するように思えてくる。


いつもは午前中にメールを確認することはないが、明日のジークンドーのプレイベートレッスンに関してロビンさんに連絡をしておいた。次回のセッションの日時も決めたかったこともある。すると残念なことに、ロビンさんはインフルエンザに罹ってしまったらしく、明日のセッションはキャンセルとなった。ロビンさんの大事を願いつつ、次回のセッションは今月末の日曜日に行われることになった。ジークンドーの鍛錬も焦ることなくゆっくりと勧めていこう。ゆっくりと定着させていくことが何より重要であり、むしろゆっくりでない形で自分の内側に入ってきたものは簡単に風化·劣化する。それをこれまでの学習·実践体験から痛いほどわかっている。ゆっくりでないものはむしろ受け入れないようにするぐらいの気構えが重要だろうか。


明日のセッションがなくなったことに伴い、明日は読書に励もう。先日届いた神道関係の書籍を読み進めていき、小笠原孝次が提唱した言霊学に関する一連の書物も近々読み解いていく。とりわけ後者は、川面神学と同じぐらいに深めていきたい領域であるから、それらの書籍は何度も丁寧に読むことになるだろう。ここでもまた、丁寧に読みながらにしてゆっくりと自分の内側に読書内容を定着させていこうとする姿勢を窺うことができる。もちろん、全ての分野に関してこのような姿勢で読書をしているわけではないが、少なくとも自分にとって極めて重要な分野の読書はそのように進めていきたいと思う次第だ。明日と明後日にかけては、6月初旬の旅行の日程を確定し、航空券やホテルも予約できたら幸いである。フローニンゲン:2022/5/6(金)10:54


8341. 世界全体との一体感を感じる脱自的体験の増加に伴って


朝の太陽の光が徐々に力を増していき、今は地上の生命たちを勇気付ける朝日が降り注いでいる。その恩恵を受けて、地上では様々な生命たちが躍動の踊りを踊っている。


この世界全体との一体感を感じる脱自的体験の頻度が増えている。それに伴い、自己はますます純化のプロセスを辿っていることがわかる。こうした体験は、自我の付帯物を削ぎ落としていき、意識をさらに飛翔させ、拡張させていく。


人間というのは自然と二分法的に捉えられるものではなく、またそのように対置されるものでもない。本来、人間と自然は一なるものである。そのように考えてみると、仮に目に映る自然が美しくないというのは、人間の側が美しくないのだ。人間は自然であり、自然は人間であるという自然感が自分の中に育まれているのを感じる。この自然観は、神道的な自然観とどのような繋がりがあるだろうか。それもまた1つの探究テーマである。いずれにせよ、景観の美は、人間側の美を反映しているということを忘れてはならないように思う。そのようなことを考えながら、人間と自然は一なるものでありながらも、超越性の観点から言えば、自然は人間を含んでいながらもそれを超えたものだと言えるかもしれない。これは何も自然優位主義的な発想を取っているわけではなく、万物の成り立ちからすると、人間が自然を超えているというよりも、自然が人間を超えていると捉えた方がごく自然であり、自分にとっては納得感がある。


実際に自然界では、人間の理性を超えたことが絶えず起こる。自然界の力やそこでの運動は、人間の理解では到底及ばないものばかりである。そのように考えてみても、自然はやはり人間を含みながらにして超越したものだと言えるのではないだろうか。


そのような考えから、人間も自然も含んでいながらにして超越した世界全体を思う。そう、冒頭で書いていた脱自的体験というのは、自己をそうした世界全体の中に溶解させ、世界全体と一体化させるものをいう。そうした体験をここ最近はよくしているからこそ、人間を超越したものについて自然とよく考えるのだろう。フローニンゲン:2022/5/6(金)11:15


8342. 土地に織り込まれた詩・歌・絵画を求めて


自分を旅に駆り立てる衝動は、止むことを知らない。それは、今上空に燦然と輝く太陽のようであるかのように力強さを持って自分を旅に向かわせようとする。こうした旅への衝動に自己を完全に明け渡すこともまた、脱自的体験のように思える。だからこそ、自分は旅の中で良き出会いと遭遇するのかもしれない。すなわち、小さな利己的な自我が旅を企てるのではなく、自我を超越した促しに自己を委ねることによって旅を敢行することを通じて、利己的な自我にはやって来ないような良縁が旅の最中にもたらされるのではないかということである。きっとそうだという確信めいたものがある。そうでなければ、先般のバルト三国旅行での種々の出会いも説明できないし、これまでの旅での良縁も説明ができない。


自分にとって旅を通じて方々を歩き回ることは、その土地に根差した詩や歌を味わうことなのだと思う。実際に様々な場所に出かけて歩き回ってみると、色々な詩や歌が聞こえてくる。また、土地には固有の絵画が体現されているとも言える。なので、方々を歩き回る旅は、絵画鑑賞をするかのように自分にとって体験されるのである。


我が国にはかつて、松尾芭蕉という詩人がいた。彼の作品のほとんどが旅の中で生まれたものであることに注目する。彼は旅を通じて自己の魂を見つめ、自己の存在を見つめ、人間存在と人間の人生について深い内省的思索を行い続けた。彼はまさに旅を通じて自己を深め、自己開眼の境地に至ったと言っても過言ではないだろう。今、旅に駆り立てられる形で世界の様々な場所を訪れることによって、芭蕉と同じことが自分の中にも起こっていることがわかる。今度の旅もまた、人間存在を深く見つめることに連なるものであり、脱自的な体験になるだろう。それによって、自己はまた旅の前よりも一歩深められ、旅での良縁を触媒にして、その成熟の道をさらにそこから歩んでいくことになるだろう。土地に織り込まれた詩や歌を聴きに行こう。土地に織り込まれた絵画を見に行こう。そんな感情もまた芽生えるのが今日この頃の自分である。フローニンゲン:2022/5/6(金)11:39


8343. 道ゆく人々の流れを眺めながら


時刻は午後4時を迎えた。今日のフローニンゲンの天気はすこぶる良い。町全体が喜びの声を上げていて、人々の表情もとても明るい。今この日記を普段とは違った場所で書いている。街の中心部の市場近くにあるカフェでこの日記を綴っているのである。今日は17時半からの予約でメルヴィンに髪を切ってもらう。いつもの時間にジムに行って、ジムから出てもまだ十分に時間があると思ったので、メルヴィンの店の近くのカフェで寛ぐことを当初予定していた。中央市場の近辺には選ぶのに困るほどカフェがあり、今日はまだ一度も足を運んだことのないカフェに来ることにした。カフェに来る前はコーヒーではなく、何か紅茶を飲もうと思っていたのだが、来てみると、温かい飲み物よりもスムージーが飲みたくなり、ほうれん草のスムージーを飲むことにした。ジムで汗を流したこともあり、とても美味しく感じる。今日は金曜日であるからから、街の中心部の人の数はとても多い。もうコロナも完全に終息していると感じさせる。どうやら日本ではまだマスクをして外出しているような状態だと先日友人から聞き、信じられないと思った。日本人はまるで「マスク人」であり、いつからそんな人種になってしまったのだろうかとはたから見て思う。友人とも話していたが、日本の集団圧力と知性の劣化は著しい。憂国の思いが増すばかりである。


道ゆく人たちを眺めているのは、どこか流れゆく雲を眺めるかの如くで楽しい。もちろん、個人的には雲のゆったりとした流れの方が好きなのだが、それでも多種多様な見知らぬ人たちが道を行き交う様子は壮観であり、彼らの表情や歩く姿を見ていると、様々な人生模様を思う。そうした無数の人生模様が現代という時代を形作っているのだろう。


ジムからカフェに向かう途中、何か事故か事件があったようであり、道が封鎖されている箇所があった。あれは何だったのだろうか。何かニュースになるような出来事であったら、メルヴィンとまた色々と話をするかもしれない。


フローニンゲンでの生活もあともう少ししたら7年目を迎えるが、この街にはまだまだ知らない表情があるようで、毎回外に出かけるたびに小さな発見があるのは面白いことである。フローニンゲンと言っても実は面積として広く、自分が生活しているのはとても狭い圏内だという自覚がある。そうした圏内から外に出てみると、また新たな驚きと発見があるであろう。以前、隣人のサハルに自転車を借りて、フローニンゲンの中心部を離れてサイクリングをした時に、牛や馬が放牧されている長閑な光景を見ることができ、それは大きな癒しであった。そうした長閑な場所がフローニンゲンの街を囲っているということもまた、この街の何とも言えない安堵感を醸成しているのかもしれないと思う。backWERK@フローニンゲン:2022/5/6(金)16:25


8344. ジークンドートレーニング103:サウナの瞑想効果と共に


カフェの窓から道ゆく人たちを観察するのは、意外と自分の性に合っているのかもしれないと思う。普段カフェで寛ぐことはさほどなく、旅の合間に立ち寄ることがあるぐらいか、誰かと会って話をするぐらいしか最近はカフェを利用していない。カフェ以上に自分の自宅が寛げる場所だというのもその理由だ。


今日はジムでジークンドーのトレーニングを行った後、いつものようにサウナに入った。その時に、ちょうどジムのオーナーも他のスタッフと受け付けを交代して一緒にサウナに入ることになった。その時に少し会話をし、サウナを上がるタイミングも同じだったので、体を冷ましながらしばらく会話をした。ジムのオーナーはとても気さくな方なので、非常に話しやすい。この間は旅行の話をし、今日はジムの改修と今週末のお互いの予定について話し合った。ジムの休憩室には以前ブッダの絵画作品が壁に掛けてあったのだが、いつの間にかそれが取り外されていて、壁の雰囲気も変わっていた。壁は単にペンキを塗ったのではなく、特殊な塗装を施したとのことであり、結構な出費になったそうだった。しかしそのおかげで、シックな雰囲気となり、サウナを上がった後により寛げるようになったとオーナーに伝えた。


今日サウナに入りながら、改めてサウナに入るというのは、発汗作用を通じた浄化と共につくづく瞑想実践でもあると思った。毎週2、3回サウナに入ることは、発汗によるデトックスと深い瞑想実践として位置付けてもいいぐらいであり、これを味わうためにジムに来てもいいぐらいである。


さて、今日のジークンドーのトレーニングであるが、いつものように短い時間集中して稽古をした。今日は気温が上がっていたこともあり、ジョギングがてらジムにやってきた頃には程よく汗が滲んでいるような状態であり、稽古をしながらもうっすらと汗をかいた。今日もサンドバッグをいつものように素手で叩いていると、右手の人差し指の第二関節の上の皮が少し剥がれてしまった。幸いにも血が出るようなものではなかったが、ここ最近はサンドバッグを叩く回数も増えているので、この間ロビンさんにもらったグローブをつけて今後はトレーニングをしようかと思う。MMA用のグローブだと大きすぎるため、復活祭の翌日にロビンさんからプレゼントしてもらったそのグローブはちょうどいい。今日自宅に帰ったら、忘れないうちにそれをリュックの中に入れておこうと思う。気がつけばメルヴィンの店に行く時間が1時間を切り、ここからは持参した書物でも読んで過ごそうと思う。backWERK@フローニンゲン:2022/5/6(金)16:42


8345. メルヴィンとの対話から/精神・情念・霊性伝達/脱自的な創作活動


時刻は午後8時を迎えた。今、穏やかな夕暮れ空を拝んでいる。今日は本当に天気が良く、街では半袖の人を多く見かけた。自分もその1人であり、ジムのいく際には半袖となって太陽の光を存分に浴びた。夕方にメルヴィンの店に行き、髪を切ってもらった。今日もまたメルヴィンと色々なことを話したのだが、今日は自分の都合によって当初とは異なる日時に髪を切ってもらうことになった。実際にはもう店が閉まる時間にわざわざメルヴィンは自分のために時間を作ってくれたことに感謝したい。どうやらメルヴィンも今年の10月に自分と同じタイミングで日本に行くかもしれないとのことだった。ただし、今の日本政府の規制では、外国人のメルヴィンは日本に入ることができず、それが緩和されるのを祈っているとのことだった。仮にメルヴィンと同じタイミングで日本にいることができたら、どこかで合流し、一緒に観光しようと話し合った。京都か伊勢で一緒になれたらいいねと述べたのを覚えている。それが実現されれば、今年の秋の一時帰国はより充実したものになるだろう。


午前中に考えていたことを思い出している。そう言えば、これからも執筆を続けていく日記にせよ、学術論文にせよ、それらに共通して、それらは単に情報伝達をすることが目的ではないということについて考えていたのを思い出した。自分にとって重要なことは、情報伝達ではなく、精神伝達ないしは情念伝達であり、あわよくば霊性伝達を実現することである。それを今一度ここで自分に確かめる形で言葉にしておきたいと思ったのを覚えている。その思いに偽りはない。


何かを創り出すという行為そのものが脱自的なものだということが明瞭なものになり始めている。創作活動の中に発達効果が含まれているというのはそういうことだったのだ。すなわち、創作活動には自己超越を促す働きがあったのである。創作活動の最中においては、アランが言うところの自己の自己に対する対立や、パスカルの言う自己の自己に対する承認という現象も生じており、それらをひっくるめて創作行為は自己を既存の自己から脱却させてくれる。自己が既存の自己から外に出ていく時、そこに治癒や変容がもたらされる。人間とは不思議なもので、以前の自分から離れていく形で治癒や変容していく生き物らしい。含んで超えながらにして癒しと変容が起こるということ。その原理と創作活動の本質は奇妙なほどに合致している。今日も随分と雑多なことを考えていた。今夜はまだ時間があるので、もう少し書物を読みたい。今日はジムで汗を流し、日光も十分に浴びたため、今夜はぐっすり眠れるだろう。フローニンゲン:2022/5/6(金)20:23

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