top of page

8330-8337: フローニンゲンからの便り 2022年5月5日(木)



No.3622 捧げ物(その1)_Offering (Part 1)


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1495, Like a Little Bird

I’ll create as a little bird sings a song.

If I do so, consummate happiness and joy will come.

Groningen; 11:27, 5/5/2022


No.1496, Evening Brightness

I’m worshipping evening brightness.

It brings divine lights to the world.

Groningen; 20:43, 5/5/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8330. クラクフとカウナス旅行に向けて

8331. 今朝方の夢

8332. 充足感の器として/人間とユーモア

8333. 自同律への健全な批判の眼差しと発達/光明眼と万華鏡眼の覚醒/時の経過について

8334. これからの旅の予定と旅について思うこと

8335. 小鳥たちが歌うように/書くことと深みに向かう晴朗感

8336. 意識の分化と純化のプロセス/真正の自己とリフレクション

8337. 一時帰国に向けた航空券を確保して


8330. クラクフとカウナス旅行に向けて


時刻は午前7時半を迎えた。今朝も上空にはうっすらとした雲が広がっているが、昨日同様に、ここから雲が晴れていき、今日も晴れるようだ。今天気予報を確認したところ、今日と明日は最高気温が17度を超え、来週になると20度を超える日が出てくるようだ。長かった冬も完全に終わり、フローニンゲンも新たな季節を迎える。それは短い春とも言えるし、初夏とも言えるかもしれない。


昨日、6月の頭にポーランドのクラクフとリトアニアのカウナスに行くことに決めた。6月になるとさらに気候が良くなっているであろうから、ポーランドの京都と言われるクラクフの雰囲気はとてもいいだろう。また、先日のバルト三国旅行を通じて、バルト三国に対してとても良い印象を持つことになり、リトアニアの首都ヴィリニュスで出会った芸術家のチュルリョーニスの絵画作品が多数所蔵された国立チュルリョーニス美術館を訪れにカウナスに行く。カウナスは、杉原千畝がビザを発行した場所としても有名でもあり、その記念館にも必ず足を運びたいと思う。方々に旅行に出かけていく熱量が、今非常に高まっている。それは内側からの促しであり、その促しに身を任せることによって、自己は旅から限りなく養分を汲み取っていくだろう。旅で訪れる様々な場所からアフォードされ、自己はその土地固有の精神的な栄養を摂取していく。


クラクフとカウナスの旅行に関する種々の予約は、もう今週末にしてしまってもいいかもしれない。気がつけばもう5月に入っているので、ちょうど1ヶ月後をめどに旅の予約をしよう。クラクフからカウナスに移動する日を月曜日にすれば、月曜日は美術館や博物館が休みの日が多いのでちょうどいいかもしれない。移動日を月曜日にするようにして、その他の日にできるだけ動き回るようにする。


その他にも、今日は日本への一時帰国の航空券を手配したいと思う。日本への一時帰国も半年を切っていて、そろそろ航空券を確保しておいて良いかと思う。日本はどうやら欧州とは違ってまだコロナでてんやわんやの状態のようであり、さらには入国もやたらと厳しいので、幸か不幸か日本に行く人などほとんどいないであろうから、航空券は確保しやすいだろう。今回は、ヘルシンキ経由ではなく、フランクフルト経由で日本に向かいたい。というのも、先日エストニアのタリンのギャラリーで出会った画家のアレックス·サロウ氏の作品が所蔵されている美術館がフランクフルトにあるからだ。フランクフルトにはその他にも様々な美術館や博物館があり、日本から欧州に帰って来た時にフランクフルトに数日間滞在することにしたい。そう考えると、秋の一時帰国と合わせて、約4週間ぐらいの長い旅になりそうだ。フローニンゲン:2022/5/5(木)07:47


8331. 今朝方の夢


朝の世界はとても静かで、とても清らかである。静謐さと清浄さに包まれた世界の中で、今朝方の夢について振り返っている。


夢の中で私は、欧州のどこかの国の街にある宮廷博物館にいた。そこは歴史ある宮廷が博物館となっていて、私は小中高時代の女性友達(NI)と一緒にその博物館を巡っていた。博物館巡りをしていると、彼女がふと妙なことを口にした。何やら、この博物館の地下に彼女は長らく閉じ込められていたとのことだった。最初それを聞いた時、まさかそんなことがあるはずはないと思ったが、彼女の顔は真剣だったので、それを信じることにした。すると、彼女は実際に彼女が監禁されていた場所を案内してくれると述べたので、その場所に行ってみることにした。何やらそこは、秘密の儀式を行うような暗く怪しげな雰囲気があり、松明の光が不気味に灯っているような場所だった。彼女はぼんやりと松明の光を眺めていたので、私も松明の揺らめく光を眺めていると、意識の状態が変わり、彼女が監禁されていた時の情景が脳裏に流れ込んできた。彼女の監禁生活は過酷なものであったことがわかり、脳内の映像とは言え、とても生々しく、その辛さに耐えかねて再びこちらの世界に意識を戻した。


すると、いつの間にか彼女は姿を変えていて、中南米系の恰幅の良い女性になっていた。そこからは彼女と一緒に博物館を巡ることになった。彼女もまた日本語が話せたので、彼女との会話は日本語で行った。


しばらく博物館巡りを続けていると、館内にアナウンスがあった。どうやら、あと少しで閉館のようだった。ところが横にたその女性は、係員に見つからないように博物館の中に隠れていようと述べたのである。実は、それはこの博物館に恒例の悪ふざけの行事のようなものらしく、他の客たちもちらほら同じことをしようとしているようだった。なので、彼女の提案に従う形で、博物館の中に潜伏していようと思った。ただし、私たちの場合は、本当に見つからないように隠れるのではなく、自分たちがいたい場所にそっと潜んでいるという形にしようと思った。なので、2階から庭が望める場所が噴水もあって雰囲気が良かったので、私たちはそこに向かった。そして、暮れゆく夕方の空を眺めながら、係員に見つかるまでそこに静かにとどまって、時が緩やかに流れていくのを味わうことにした。今朝方はそのような夢を見ていた。その他にも何か夢を見ていたような感覚があり、手元のノートにももう少し断片的な事柄が書き残されている。それ以外にも何か思い出せないかを今から試みてみよう。フローニンゲン:2022/5/5(木)07:59


8332. 充足感の器として/人間とユーモア


満たされているという充足感を感じている自己。それが今ここにいることに有り難さと感謝の念を持つ。自分は絶えず充足感に満たされているのだ。そこから様々なものが溢れて来て、自分を通じて形になって外側に姿を現す。自分は充足感の器であり、その器を通じて、この世界への感謝を継続していく。


人間(human)の核にある性質として、ユーモア(humor)というのがあるということを先ほどふと思った。この性質は極めて大切なものとして自分の中にあり、世間ではどうしてこの性質がうまく発露されないのだろうかと思わず首を傾げてしまう。なるほど、ユーモアの発露が難しいほどにこの社会は非人間的なものになってしまっているのだろうし、現代人はますます非人間的なものに向かっているということがわかって、独り合点した。しかし、そうした社会的状況は由々しき事態かと思う。ユーモアの復権を通じた人間性の回復。世の中は人間中心主義と言われるが、その中心となっているものがもはやおよそ人間とは言えないような生物なのだから、本来は非人間中心主義的な形でこの社会が運営されていると言った方がより正確なのではないだろうか。そうしたことを考えると、ユーモアの回復を通じて人間性を取り戻した上で、そこから人間中心性を脱却していくというのが辿るべきステップのように思えて仕方ない。


そのようなことを考えていると、今朝方の夢の世界に引き戻される感覚がやって来た。そう言えば、今朝方の夢の中で、不思議な博物館で出会った中南米系の女性と一緒に、ドライブに出かけた場面があった。博物館を後にしようとしていると、博物館の駐車場に見慣れない車があった。それは2人乗りのオープンカーのような姿をしていて、近未来的なボディをしていたのでとても面白く思った。最初彼女が運転をしようとしていたが、運転をしてみたいという思いが出て来たので、私が運転することになった。いざ運転をしてみると、ハンドル操作はとてもスムーズなのだが、どうもブレーキがないことに気づき、まずはそこに動揺させられた。しかし、ないものはしょうがないと思い、ハンドル操作で速度を落とせるような仕組みになっていたので、それを駆使してスピードコントロールをすることにした。幸いにも、街中の車道において信号機に捕まることが全くなく、青信号ばかりが続いていたので、停車する必要がなかったことは有り難かった。しばらく運転を続けていると、なんとか無事に目的地に到着することができ、彼女とはそこで別れた。そのような夢の場面があった。この夢の舞台になっていた欧州の街はとても美しかった。それはまだ見ぬ街並みのように思えたし、中央や東欧の旧市街地の街並みのようにも思えた。今、緩やかに今朝方の夢が自分の無意識の深い層にまた帰って行こうとしている。フローニンゲン:2022/5/5(木)10:11


8333. 自同律への健全な批判の眼差しと発達/光明眼と万華鏡眼の覚醒/時の経過について


自分はかくかくしかじかな存在である、ということを保留し、建設的な批判の眼差しを向けること。それは自我の発達上極めて重要なことである。「XはXである」という自同律に対して、それを一歩立ち止まって内省対象に上げられるかどうか。そして、そうした内省を絶えずできるかどうかが、自我の絶え間ない発達を支える。逆に言えば、自同律に対するそうした建設的な批判的内省ができないのであれば、自我の発達など実現し得ない。そして重要なことは、こうした自同律への批判的内省は、多分に出発点は生理的なものなのではないかということである。あるいは、それは身体感覚的なものだと言えるだろう。自同律への不快を持てることは、発達上、極めて健全なことなのではないだろうか。むしろそうした不快の感情を持てないことに、現代の未成熟な人間と社会を見る。


日々、音楽芸術にせよ、絵画芸術にせよ、あるいはマーシャルアーツにせよ、1人の人間が彫心鏤骨の精神で作り上げたものに触れていると、励ましと肥やしを分け与えてもらっているような感覚になる。彼らは自らの才能を引き受け、そして絶え間ない克己の精神によって実践を継続させていき、そのような素晴らしい形を生み出していった。


天恵的才能は、背負った業のようなものである。そのような考え方に基づいて偉大な芸術家の作品を見ていると、業を通じた人間存在の可能性というものもまた自然と浮かび上がってくる。


一昨日に日本から来た友人と過ごした時間の中で、自分はある種「光明眼」というものを獲得したようである。同時に、「万華鏡眼」というものも副産物として獲得されたようなのだ。前者の光明眼とは字の如しである。それは、万物の根源である光を捉え、また万物のそれぞれに内在している光を捉える眼である。後者の万華鏡眼とは、瞬刻ごとに千変万化するこの世界のありとあらゆる多様で微細な変化を捉えることのできる眼のことを指す。そのような眼が開花したことを有り難く思う。それに伴う嬉しさや全能感のようなものはなく、開かれたがゆえにそれを有り難く受け止めるという非常に慎ましい気持ちで満たされている。


過去にあった自分でも、未来にありうる自分でもなく、今というこの瞬間にありうるべき自分に意識が向かい、それが時間の経過と共に紐解かれていく感覚。いや、それは時の経過と共にというよりも、この瞬間の自己の可能体が紐解かれていくことが自分固有の時を刻み出していると言えるかもしれない。なるほど、個人に内在する固有の時というのはそういう性質を持っていたのである。それは単に所与として自分の内側に流れているようなものではなく、現実の可能体が紐解かれていくことが時として形となり、刻まれていく形で時間になるのだ。時を刻んでいるのは紛れもなく、現在ありうる自分の可能性の発露だったのだ。だから私たちは、時が刻まれたとわかるのである。今の自分の可能性が開かれたことにより、瞬刻前の自分との差分を確かめることができる。それが時の経過に他ならないのだ。今この瞬間においても、自分はまた自分の可能体として、自己の可能性の海を泳ぎながら、ありうるべき最善の自己に向かって歩みを進め、それが自分固有の時としてこの人生に刻まれていく。フローニンゲン:2022/5/5(木)10:45


8334. これからの旅の予定と旅について思うこと


今日は午後にでもこの秋の日本への一時帰国のための航空券を手配しようと思っている。今回の一時帰国では、いつものように日本でまだ訪れていない場所を中心に、日本の方々を旅行しようと思っている。いつも実家に帰ると、実家を起点にして両親と愛犬とも一緒に旅をすることにしており、今回は九州の阿蘇方面に出かける。実家に戻る前に、青森と北海道に足を運ぶ予定だ。北海道に関しては、函館と札幌で見たいものがあるので、それらの町に少々滞在する。そこから協働者の方と京都旅行をご一緒させてもらう。京都から実家に戻り、九州に旅行に出かけ、もう少し実家で滞在した後に、今度はその足で伊勢に向かう。伊勢神宮を中心として、伊勢の街の雰囲気を十分に堪能する形で数日伊勢に宿泊する。ひょっとしたら、京都には山口県から帰ってから向かうかもしれず、そのあたりは協働者の方のスケジュールに合わせよう。伊勢神宮を訪れた後に成田に向かい、そこからオランダにすぐに帰るのではなく、フランクフルトで4泊5日ぐらい滞在しようと考えている。フランクフルトに滞在する形で時差ぼけを解消させ、フランクフルトをゆっくり観光しようと思っている。


こうした旅が秋に控えているのだが、そこまでに毎月どこかに旅に出かけて行く予定だ。具体的には、6月の頭にポーランドのクラクフとリトアニアのカウナスに行き、7月にはスウェーデンのヨーテボリ、8月の頭には日本から来られる2人の知人と一緒にオランダ国内旅行を数日行って、8月末にはアイスランドとアイルランドに行こうと思っている。そして、9月にはスイスのアスコナとドルナッハで寛ぐ計画がある。このように、今、自分の内側で旅に向かわせるとても静かな促しがあることを嬉しく思う。この促しに導かれる形で、欧州にいる間は、とにかく積極的に旅に出かけていく。人生のある時期に、こうした形で集中的に旅をするというのもいいものだ。むしろそれは必要なものなのだとすら思う。ここからの旅においては、現実上の地図に頼るというよりも、自分固有の地図の上を歩きたいと思う。いや、実際にはこれまでの旅においても、すでにそのような形で自分固有の地図上を歩く形で旅が実現されていたのだと思う。自らの地図を歩み、自分の宿命という筆によって地図はまた書き足されていく。そうした作業が営まれることに、自分にとっての真に肥やしとなる旅の条件を見る。これからもそのような形の旅が続いていく。自分の魂は常に旅を求めている。旅する魂と共に自己は、常に今ここにある。その強い確信で満ち満ちている。フローニンゲン:2022/5/5(木)11:16


8335. 小鳥たちが歌うように/書くことと深みに向かう晴朗感


内省と瞑想と追憶が織りなす神秘的な形而上学的世界がゆっくりと形成されていく。それは緩やかな時の発酵過程に晒されながら、じわじわと領域を広げ、深められ、輝きを増していく。そのような世界が1人の人間の中に無限に拡張を続ける形で存在していることに改めて驚く。しかし、それは実際には驚くに値しないのだろう。なぜなら、宇宙の内面世界はそのように絶えず無限のものなのだから。自分という1人の存在は、そうした宇宙の内面世界の中にいて、そこに参画している存在なのだ。


小鳥たちが歌うように、自分もまた言葉を紡ぎ出すことができるだろうか。小鳥たちが歌うように、作曲も絵画の創作もできるだろうか。そのようなことを思わせてくれる時間と世界が今目の前に広がっている。


自分の内奥から湧き上がってくるものが、必然的な形となって現れてくること。それは表現における最も重要なことなのかもしれない。自分の小さな度量衡や自我の判断基準に任せるのではなく、内奥の何かが必然的な形となって現れてくることを見守りながらにして創造上の通路になることが表現者には求められるのかもしれない。


自分にとっては書くことは、何か情報を伝達するような行為のことを指しているのではなく、尽く内面の深みに向かうための充足的行為なのだということがわかる。自分の記憶に立ち現れるものや、感覚に立ち現れるものを頼りに、それらを辿りながら自由に言葉を紡ぎ出していくことによって、内面の深みに向かう道ができていくのがわかる。それは道を作りながらにして道を歩むことなのだということもわかる。


深みに向かう晴朗感。最近はそうしたものをとみに感じる。深さに向かう過程において暗さはなく、それは光に満ちている。暗さの背後には必ず光があるのだ。そんな道を今、自分は毎日歩んでいるような気がする。フローニンゲン:2022/5/5(木)11:40


8336. 意識の分化と純化のプロセス/真正の自己とリフレクション


死というものは、あらゆる活動の母体であり、あらゆる省察的行為の根幹であるということが見えてくる。おそらく、死から始めなければならないことが自ずから明らかになってくる。


意識が分化作用を経ながら純化していくプロセスに注目している。意識は分化され、統合され、純化していく。この10年半の欧米生活において、自分の意識は随分と純化されてきているのをこの頃強く感じる。それでは意識の何が純化されているのだろうと考えてみると、それはもちろん、意識に付着している社会的な枠組みなどの障害物や汚れだろうか。およそ自分という固有の存在の可能性を抑圧する諸々のものが剥がれ落ちていくことが、純化のプロセスで起こることである。そのようなプロセスがこの10年半の欧米生活の中でゆっくり進行していたことを、今ようやくある高みから捉えることができるようになっている。この純化のプロセスは、これからも緩やかに進行し続けていく。それは宇宙の内面世界の進化と波長と歩調を合わせる形で緩やかだが確かな形で進行し続けていく。


内省の鏡に写っている自分と、内省をしている自分。ひょっとしたら、後者を真正な自己と捉える傾向があるかもしれないが、鏡に写っている自分のさらに背後に真正な自己がいるとしたらどうだろう。きっと真正な自己とはそうしたものであるに違いない。自己は絶えず純化のプロセスを通じて真正な自己に向かっていることを考えてみると、鏡に写っている自分や鏡のこちら側にいる自分が真正な自己であるはずはないのだ。確かにそれらもまた真正な自己の一部ではあるかもしれないが、どこまでいっても虚構物か過去の自分の遺物でしかないようなものなのだろう。鏡に写っている自分、鏡のこちら側にいる自分、そして鏡を生み出している自分を超えたものこそが真正な自己なのである。そのように考えてみると、昨今のリフレクションの実践というものは、果たして何をリフレクションし、何に向かおうとしているのかと懐疑的な目を向けざるを得ない。鏡に写った自分を見てはしゃぐことなど、下等動物でもできそうなことである。真正な自己に向かうリフレクションというものが、およそ世間一般で言われているリフレクションとは一線を画すものであることが自ずから理解される。フローニンゲン:2022/5/5(木)11:52

8337. 一時帰国に向けた航空券を確保して


時刻は午後8時を迎えた。小鳥がいつもより大きい鳴き声を上げ、夕方の喜びを表現している。今日はとても穏やかな天気であった。気温も寒くなく、いつもより少し薄着で過ごせる時間帯が午後には多くあった。明日も今日と同じぐらいなので、とても有り難い。明日はメルヴィンの店に行き、髪を切ってもらう。その前にジムに行ってトレーニングをし、髪を切ってもらう時間までカフェで読書でもしようかと思う。


今日は夕方に、秋の一時帰国に向けた航空券の予約を完了した。無事に、日本への航空券を手配できたことを嬉しく思う。いつもの一時帰国と同様に、今回もJALさんにお世話になることにした。どういうわけかオランダから日本へのビジネスクラスの料金は、他の地域に比べて少し割安な印象があり、いつも正規価格で航空券を手配することが多かった。マイレージを使ったとしても、アップグレードをする形で航空券を手配していたが、今回はマイレージが随分と溜まっていたので、その溜まったマイレージを利用する形で航空券を手配した。やはりビジネスクラスだと特典航空券としての席が少ないのか、行きに関しては自分の望む日の便は1席しか空いておらず、帰りの便は3席しか空いていなかった。行きも帰りもフランクフルト経由にしようと思ったが、行きはフランクフルトである必要はなく、結局いつものように愛用しているヘルシンキ国際空港を経由することにした。アムステルダムからヘルシンキに向けての航空券は、今すぐに予約する必要はなく、また追って予約をしようと思う。


結局今回は、1ヶ月間ほど日本に滞在することにした。東京でも國學院大學博物館など見たい場所があり、東京に数日滞在した後は、秋田、青森にそれぞれ2泊する。そして、函館で3泊、札幌で4泊し、実家の山口県に行く。両親と九州旅行を楽しんだ後、実家にさらに数日滞在し、そこから京都、伊勢に滞在し、日本を後にするというのが今回の大きな旅の流れだ。そして、帰りはフランクフルト空港に行き、そのままオランダに帰るのではなく、フランクフルトで4泊ほど滞在して、フランクフルトの様々な場所に足を運ぶ予定だ。今回の秋の旅も非常に充実したものになることが予感される。ここから秋に向けても、まだまだ欧州内での旅が続くことを考えると、今年と来年は、自分は旅を通じてたっぷりと養分を得ることになりそうだ。それを嬉しく思い、それに感謝しよう。フローニンゲン:2022/5/5(木)20:16

Comments


過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page