No.3620 優しさの跡_A Trace of Tenderness
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1492, Transparency and Unity
My existence became transparent.
Then, I united with the entire world.
Groningen; 10:52, 5/4/2022
No.1493, Authentic Unity
Only after the observing self dissolves into the observed, authentic unity comes.
Groningen; 11:36, 5/4/2022
No.1494, The Same Underlying Principle
Martial arts training, playing the koto, practicing English, music composition, and drawing a painting are based on the same underlying principle for me.
Once I find it, all of them start to co-evolve.
Groningen; 14:48, 5/4/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8320. 太陽と化したこと
8321. 優しさ/感覚と感性
8322. 感動の涙を流す夢/友愛を通じて世界と1つになる夢
8323. オットー・ラスキー博士との久しぶりのやりとりを通じて
8324. 典雅な時間と共に/生の永遠性/羽
8325. ジークンドートレーニング102:黙想的な意識の中で
8326. 純化のプロセス/創ることと歩むこと
8327. 文体の美しさ
8328. 錬金術的存在かつ積分的存在/道
8329. 転調と変容/情熱と受苦/場の力
8320. 太陽と化したこと
朝がやって来た。ある1日が終わり、ある朝がやって来るということ。この寄せては返す静かな波のような日々はなんだろうか。これを日常と言うのだろうか。だとすれば、それはとても尊く、愛しいものだと思う。
時刻は午前6時半を迎え、辺りは随分と明るい。今はうっすらとした雲が空を包んでいて、太陽のお出ましはこれからである。
無風の中に凛として佇む新緑の木々。昨日、日本からやって来た友人曰く、オランダの新緑の色は日本と違うとのことだった。言われてみては確かにそうだなと思い、日本の力強く青い新緑と異なって、この土地の新緑は淡く優しげである。そして、柔らかくもある。そう、この土地の新緑は、触れれば柔らかいのだ。これは何も物理的な柔らかさだけを指しているのではない。精神次元で柔らかいのである。そのことに一体どれだけの人が気づくであろうか。それに気づいた友人の感性はさすがである。
昨日は友人と午前11時から午後11時近くまで一緒に過ごし、随分と長く対話を重ねていた。ここでその詳細は記述しないが、掛け替えのない時間であったことは間違いない。友人と過ごしていた時間の中で、自分の体が黄金色に包まれる瞬間があった。それは間違いなく太陽の原型的エネルギーであり、それが自分の内側に流れ込み、自分はもはや太陽と化していた。
万物の根源かつ万物の創造を司る太陽と化したことは、自分にとって大きな意味を持つように思う。この体験を通じて、自分は根本的なエネルギー次元、身体次元、精神次元で大きな変容のきっかけを得たようである。とりわけ、今後の変容に向けて、これまでとは全く次元の異なる霊的エネルギーが自分の中に充満したのを実感した。それは決して目減りするようなものではなく、汲みしがたいほどのエネルギーであり、自分がこの世界に関与すればするだけ増大していくような類のエネルギーのように思えた。それは自分を含め、他者や世界を治癒と変容に導く無限大かつ無尽蔵のエネルギーなのだと思われる。
昨日友人と過ごした時間の中で自分が体験した事柄については、また改めて文章として書き留めておきたい。だが今は、昨日の時間そのものをまだ味わっていたいのだと思う。ここでも、何か昨日の時間というものに感傷的に浸るというのではなく、昨日の時間を再度今この瞬間生き直すという意味での時間との向き合い方を述べている。
無尽蔵に流れ込む気づきというよりも、遥か遠方、遥か高次元の気づきの塊が自分に降って来て、それを受け止めながらにして気づきと同一化する体験を昨日は何度かしていた。
気づきというものが気づくということによってもたらされるのではなく、成ることによってもたらされると知っている人がどれほどいるだろうか。またこの意味をわかってくれる人がどれほどいるだろうか。気づきというのは気づくというのではなく、成るものであり、それが深層的な気づきなのだ。フローニンゲン:2022/5/4(水)06:55
8321. 優しさ/感覚と感性
優しさが溢れている感覚。自分の内側には深い優しさが流れていて、自分は優しさと化している。深い慈愛の感覚が自分の内側に体現されていて、今それが少しずつこの世界の中で活動する際に具現化されて表に現れつつある。この道をゆっくり歩くこと。慈愛として生き、自らの発言と行動の全てが慈愛に満ちたものであること。そこに向かってゆっくりと歩みを進め始めている自分がいる。
自分の中で感覚と感性を磨き、高めていくというのはとても大切なテーマとして浮上していて、そのテーマに向かって日々知らず知らず意識的かつ無意識的に様々なことをしていることに気づく。感覚と感性を練磨させていくことは、強迫的に行っているわけでは決してなく、悲壮がることも肩肘張ることもなく、自然体でそれを行っている自分がいる。自己は思考というよりも感覚·感性であるということ。これを自分は長らく気づいていなかったように思う。「我思うゆえに我あり」というよりも、「我感じるゆえに我あり」という方が自分の存在規定にふさわしい表現なのだ。
感じるということは最初のうちは意外と難しいかもしれない。感じようと思うことがすでに考えることになってしまうことが多いからだ。また、現代においては、多くの人は感じるための身体を喪失しつつあり、感覚を察知するためのアンテナやセンサーのものがひどく弱体化してしまっている。
現代は確かに、およそ理解しがたいほどの低次元の浅薄な思考によってこの世界が動いているが、それ以上に問題なのは感覚と感性の貧困化なのではないかと思う。絶望度合いでいけば、こちらの方が問題である。
眺めている。今、書斎の窓から新緑の木々を眺めていて、鳥が飛び立つのを眺めていた。
聞いている。今、近くの木々に休んでいる小鳥たちの鳴き声を聞いている。
このような感じ。このような感じなのだ。このような感じを一体どれだけ多くの人が理解してくれるのだろうか。ここで自分は他者の理解を求めていない。それはゼロである。求めているのは、どれだけ多くの人が自分が無感覚症·無感性症に陥っていないかを内省し、今この瞬間目の前で、いや存在の現前で起こっていることを感じようとしてくれるかということである。
十全な日々と人生、さらには他者と世界と深くつながるには、感覚·感性の回復と涵養は必須のことなのではないかと思う。それは自分の考えから生まれたものではなく、自分の感覚·感性から生まれた気づきのような感覚である。あぁ、気づきはやはり感覚であったか。感覚が先であり、言葉が後だったのだ。言葉が先に来ると思っていた節のある以前の自分は、静かに後方に立ち去っていき、今この瞬間に、自分はまた新たな自分になった。フローニンゲン:2022/5/4(水)07:14
8322. 感動の涙を流す夢/友愛を通じて世界と1つになる夢
完全に過ぎ去ってしまう前に、形として残しておきたいものがある。自分の全ての創作の原点にはそのような思いがある。今朝方見ていた夢を書き留めるというのもまた、その思いに連なるものである。なるほど、自分の日々の全ての活動は、畢竟、その広大な山脈に脈々と連なるものだったのだ。
昨日友人と過ごした充実した時間が夢の世界に流れ込んでいた。今朝方の夢は、言葉で把捉することは難しいような形で現れた。まず覚えているのは、夢の中で感動の涙を流していた自分がいたということである。そこには愛犬がいた。そして両親がいた。まずは家族の愛おしさというものを深く感じ、それが感動の涙として表出していた。その次に、親友たちのことが自然と想起され、同種の愛おしさを感じていた。最終的には、自分を取り巻く全ての人たちの存在そのものに対する感謝の念が溢れて来て、それが大きな感動の渦と共に涙をもたらしていた。
そのような夢が去った後、仲間の尊さを感じる夢があった。ここでも大きな感動がやって来たことを覚えている。「仲間と団結する」という表現を超えていた感覚。団結するというのは、構成員としての1人1人が依然として分断された個なのだ。自分が感じていたのはそうではなくて、仲間と一体化するという感覚であった。もっと言えば、仲間と一体化し、この巨大で無限な世界そのものと一体化するという感覚があったのだ。それは決して自分1人で味わえるような体験ではない。必ず他者が必要であり、仲間が必要なのだ。自分という唯一無二の個以外の唯一無二の他者が絶対不可欠なのだ。唯一無二の個と個が出会い、混じり、融合するとき、互いの個は1つの大きな存在になる。仲間という観点で言えば、それこそが友愛がもたらす重要なことなのではないかと思う。真の友愛は、小さな自我を溶解させ、他者と世界そのものと一体化させてくれるのだ。世間一般で言われる友人関係や交友関係の浅薄さをここで論じることは不必要かと思う。なぜなら、ここで述べようとしていることは世間で言われている友人関係や交友関係、そして実際に行われているそれらとは全く次元の違うものなのだから。
夢から覚めた時、朝の世界はすでに優しさを表に現しつつあった。自分はその優しさに包まれ、優しさに抱擁される形で起床した。フローニンゲン:2022/5/4(水)07:28
8323. オットー・ラスキー博士との久しぶりのやりとりを通じて
現在、ある企画のためにオットー·ラスキー博士にコンタクトを取っている。数日前に数年ぶりにこちらから連絡を差し上げたところ、ラスキー博士はすぐに返信をくださった。今年で86歳を迎えたラスキー博士が元気でやっているようで何よりであった。メールで提案した事柄に対してとても肯定的に受け止めてくださり、うまくいけば8月の後半あたりで企画が実現されそうである。
今回久しぶりに連絡したこともあり、ラスキー博士も喜んでくださったのか、ラスキー博士のこの数年間の仕事に関するアップデート情報を色々ともらった。その中で大変興味深く思ったのは、自分が昨年熱を上げて探究していたフランスのテクノロジー哲学者のバーナード·スティグラーの仕事にラスキー博士も注目し、自身の理論モデルにスティグラーの思想体系を組み入れていたとのことだった。さらには、これまた昨年に探究していたイギリスの社会学者のマーガレット·アーチャーの仕事に関してもラスキー博士が参照していて、彼女の思想体系もまた自身の理論モデルに取り入れていることがわかった。自分はラスキー博士を通じて、ロイ·バスカーの仕事を知ったのだが、ラスキー博士も継続してバスカーの思想の理解に努めているようであった。このように、見えないところでラスキー博士と関心がつながっていたことを嬉しく思う。
8月の企画に向けて、自分の方ではラスキー博士のここ数年の仕事を追うだけではなく、改めてバスカー、スティグラー、アーチャーの書籍を読んでいこうと思う。幸いにも、それらの3人の思想家の書籍はほぼ全て持っている。8月あたりまでは川面凡児の全集に取り掛かることが多くなることが予想されるので、その合間合間にでも彼らの書籍を繰り返し読んでおきたい。また、ラスキー博士の最新の論文にも必ず目を通しておこう。
今日はバルト三国旅行から帰って来て初めてジムに行ってこようと思う。ジークンドーのトレーニングをした後に、サウナにゆっくり入りたい。先日のファスティングによって随分とデトックスが完了したところに、さらにサウナによるデトックスを追加しよう。
ジムの帰りには、近所のおもちゃ屋に立ち寄り、日本から届けられた書籍を受け取る。神道関係の書籍、言霊学に関する書籍、そして川面凡児に関する書籍が届けられたようなのだ。てっきり箏が届いたのかと思ったら、まだのようであり、箏は来週か遅くとも再来週に届くようだ。ここからの全ての学習と実践が楽しみでしょうがない。日々は楽しみで満たされている。フローニンゲン:2022/5/4(水)08:48
8324. 典雅な時間と共に/生の永遠性/羽
音楽は消えゆく音の連続的行進によって、その美しさを刻んでいく。時もまた同様に、儚く過ぎ去っていく一瞬一瞬の連続的な歩みを通じて典雅な時間を刻んでいく。自分はそうした時間と同一のものとして今ここにいる。
今日のフローニンゲンは、うっすらとした雲が空を覆っている。それは嫌な雲では決してなく、どこか温もりと優しさのある雲である。先ほどは、少しばかり雲の隙間から太陽の光が降り注いでいた。
誰かがふと思い出してくれる限りにおいて、その人はずっと生き続けている。生の永遠性というのはそういうものなのだろう。人は死ぬが、決して死ぬことはないというのはそういうことなのだ。この世界の片隅で、誰かがふとある人のことを思い出す時、そのある人は新たに生き直されるのである。
自分の過去や無意識と和することによって、自分はまた新しい自己として新たな世界に羽ばたいていく。今、まさにそれが起こっている。バルト三国旅行を終え、そしてファスティングを終えて、自分はまた違う次元の扉を開け、違う世界に入ったことを実感している。このプロセスとこの道に終わりはなく、今の自分は全くもって求道者的な切望感は一切なく、至って自然体の中でそのプロセスと道に参与している。今、自分の背中に生えている大きな羽は、自由を体現した軽やかな羽のようだ。
物だけを残すのではなく、精神を残す文化や社会を求める自分。物だけを作ろうとするのではなく、精神を創る文化を社会を強く望む自分がいる。
1匹の猫が庭の地面でじっといている。そして、辺りを見渡している。自分もまたじっとその猫を見つめている。その猫の内面世界に想像的に入っていくと、猫の眼を通して世界が見えてくる。すると、自分に戻って来たときに見える世界が幾ばくか変化している。世界認識というのは、このようにしてその変容プロセスを深めていくのだろう。そうした小さな積み重ねが、いくつか大きな認識の変容をもたらす。大きな跳躍台を求めるのではなく、小さな一歩の積み重ねが、自ずから大きな跳躍を生むのである。世界はそれを静かに教えてくれている。フローニンゲン:2022/5/4(水)11:15
8325. ジークンドートレーニング102:黙想的な意識の中で
時刻は午後4時半を迎えた。先ほど、ジムと買い物から帰って来た。バルト三国旅行があったことにより、久しぶりにジムに訪れた。すると、受け付けでジムのオーナーが久しぶりだねと声を掛けてくれ、そこからしばらくバルト三国旅行の話となった。オーナーのオランダ人男性は、バルト三国についてあまり知らないようであり、隣人もバルト三国については同様の反応だったので、それらの国は日本人と同じぐらいにオランダ人にとってもあまり馴染みがないのかもしれない。そのようなことを感じながら、オーナーにも次の旅行の予定の話を聞くと、何やらアメリカのマイアミかシンガポールに行くことを考えているとのことだった。とにかくヨーロッパから離れてゆっくりしようというのが彼の考えのようだった。
さて、今日は久しぶりにジムの鏡のある部屋でジークンドーの鍛錬をした。部屋に入った瞬間に、戻って来たという感覚があった。この部屋はいつも貸し切り状態であり、幸いにも1人で使わせてもらっている。静まり返った部屋の中では意識を集中させ、研ぎ澄ますことが容易であり、半ば瞑想的な意識状態の中で鍛錬に励むことができているのは嬉しい限りである。
今日の鍛錬においては、ランク1とランク2の技を一通り全ておさらいをした。まずは鏡と対峙して、自分のフォームを確認しながら一連の技を行なった。その後、サンドバッグを叩きながら技を1つ1つ確認していった。このところ、ジャブやクロスに重みが出て来ているのを実感している。サンドバッグを叩いた時の感触と音が以前のものとは歴然と異なるのである。このあたりに進歩を感じる。感覚として、ジャブやクロスにうまく体重が乗っていることが大きいだろうか。当然ながら、ジャブもクロスもまだまだ磨きをかけることができ、それには終わりがないので、これからも検証と工夫を凝らしながら技の錬磨に励んでいく。
トレーニングを終えた後、久しぶりにサウナに入った。久しぶりだったこともあり、今日は無理をせず、10分強の時間を2セットほど行うだけにした。いつもは3回サウナに入っているが、今日は1回減らしたのである。2回入ってサウナをあがってみると、3回の時と同じぐらいに体の芯から温まっていて、ジムからの帰りは半袖になって帰ることができた。帰りがけに近所のおもちゃ屋に立ち寄って、日本から届けられた書籍を受け取った。これから箱を開け、早速届けられた書籍を読んでいこうと思う。フローニンゲン:2022/5/4(水)16:38
8326. 純化のプロセス/創ることと歩むこと
ずっと自分は内面の深化の過程を歩んでいると思ったら、どうやら純化の過程を歩んでいたようなのだ。なんという取り違いをしていたことだろうか。確かに、ある側面から見れば、それは深化のプロセスだった違いないが、大半においてそれは純化のプロセスだったのだ。自己や世界を深く観察したり、物事を深く洞察しながらにして体験を深く味うことなどは、内面の深化の現れであろうが、実はそれの基礎に内面の純化があったことを絶対に忘れてはならない。
今、自己と世界がある明瞭性を持って捉えられるようになって来ているのは、純化のプロセスを自分がこれまで時間をかけて歩んできたからだったのだ。このプロセスは果てしなく長く続く。というよりも、それには終わりはない。純化の極致に向かって自己はゆっくりと進んでいき、究極的にはそこで自己と世界は完全なる融和を果たすだろう。そのようなビジョンがちらついている。
この時期の夕方のフローニンゲンの太陽はすこぶる美しい。優しさと力強さが均衡を成している。自分はその均衡点を感じながら、太陽の光とエネルギーに沐浴している。
午前中にふと、明日からは再びバッハの曲を参考にすることに戻ろうかと思った。一旦チュルリョーニスやラトビアの民謡、そしてエストニアの民謡から離れてもいいかもしれない。あるいは民謡についてはもう少し触れ続けてみようか。そのあたりは明日からの感覚に相談せねばなるまい。
創るということは無限大の宇宙における歩みであり、無限大の宇宙を歩むというのは創るということなのだ。創ることと歩むことの深く明瞭な関係性が自然と開けてくる。自分はその関係性に自己を明け渡し、その関係性そのものになる。さすれば自己は、創ることと化し、無限大の宇宙の絶え間ない歩みと化す。フローニンゲン:2022/5/4(水)16:58
8327. 文体の美しさ
文体の美しさというのは、絵画芸術における美しさに匹敵するのではないかと最近よく思う。そうしたことから、西洋と東洋を問わず、美しい文体を持つ著述家の文章を、まるで絵画集を眺めるかのように眺め読むことを日々の日課としている自分がいる。
美しい文体を持つ人たちはおそらく皆、文章を書くという鍛錬を長大な時間続けることによって、自己の純化を遂げていったのだ。その純化が美しい文体として結実しているのである。それは純化した自己から湧出した形だと言ってもいいかもしれない。
自分は純粋に、鍛錬を通じて純化された自己からもたらされた美しい文体が好きなのだと思う。あわよくば、自分もそうした著述家の系譜に続いていきたい。そのためには、自己を純化させていくプロセスをやめてはならない。このプロセスは意識的にどうこうできるような次元のものではないが、そのプロセスに絶えず刺激を与え続け、プロセスを漸次的に前進させていくことならできるのだ。それは先般の旅のように、異国の地への旅や、日々美しいものに対して感性を開き、小さな感動体験を得ることなどが挙げられる。いずれにせよ重要なことは、やはり感覚や感性の問題なのだ。それらをいかに磨き続けていくか。その努力は惜しみたくないものである。
自己純化のプロセスは、老いの深みをもたらしながらも同時に、永遠なる若さももたらしてくれるように思う。老いながらにして純粋な存在になっていくこと。純粋な存在になりながらにして老いていくこと。どうやら純粋さに裏打ちされた若さをもたらす老いというのがあるようなのだ。そうしたものが見えてくる。フローニンゲン:2022/5/4(水)17:16
8328. 錬金術的存在かつ積分的存在/道
発達とは、錬金術的なものなのかもしれない。まるで非金属が金属に化けるかの如く、およそ想像を絶するような形で新たなものになることが発達の本質なのだ。また、発達とは積分的累積によって生じるものだとも言える。瞬間瞬間の変化量が累積し、そこからある大きな面積を持つような形で新たな存在になることが発達なのだろう。そのように考えると、発達を遂げていく私たちは、錬金術的存在かつ積分的存在だということが見えてくる。
読んでは書き、書いては読む。感じては書き、書いては感じる。そのような行為の連続の中で、黙想的な時間が過ぎていく。今自分が住んでいる家は、僧院であるかのようだ。そこは別に俗世と隔離されているわけではないのが、聖域としての静かさが確保されている。そんな環境の中で自分は、書きながらにして読み、読みながらにして書き、書きながらにして感じ、感じながらにして書いて日々を綴ることによって、緩やかな歩みを毎日行なっている。
今自分が歩いている道は、どうやら荒漠とした砂漠ではないことがわかる。確かにそれは広漠ではあるが、荒漠はしていない。そして、砂漠というよりも何か瑞々しさに溢れているような気がするのである。そうした道には当然ながら、それが道であるがゆえの障害物はある。しかし、そうした障害物が気にならないぐらいに、道に湧き立つ水を汲みしながら前に進んでいるのが今の自分の有り様を最も精確に描写しているように思える。
道は水に満ち満ちて、自己は生気と精気に満ち満ちた形で己唯一の道を歩んでいる。その道は自分だけに与えられた道だが、その道は他者に共有可能な道でもある。しかし、人はそれぞれ別の道を歩まなければならない。それが唯一無二の魂を持つ私たちの宿命なのだ。ゆえに、他者の道を時折歩ませてもらいながらも、結局その時においてすら、自分の道を忘れてはらなず、自分の道もまた同時に歩いておかなければならない。魂の迷いというのはひょっとすると、自分の道を見失ってしまうことから生じるのかもしれない。本来は、見失うことがないぐらいに明々白々に固有の道が一個の魂に与えられているのだが、人はそれを見ようとせず、ついつい別の魂の道に目移りしてしまう。それによって、魂は本来の道を見失ってしまうのだ。自らの魂が歩むべき道を確固として歩いていくこと。さすれば、道は堅牢なものとなり、他者を招き入れ、他者に休息と養分をもたらすことが可能になるだろう。他者に与えるのはそれらのものだけで、究極的には、他者をその道の上に歩ませないような本当の意味での優しく激しい厳しさが道の創出と開拓に求められるのではないだろうか。それが人と人とが協働して生み出す大道なのだと思う。フローニンゲン:2022/5/4(水)17:35
8329. 転調と変容/情熱と受苦/場の力
時刻は午後7時半を迎えた。この時期のフローニンゲンはまだまだ明るい。日暮れの時間はずいぶん延びたものである。
自己が転調箇所を迎える感覚をひしひしと感じる。変容の瞬間は、転調の瞬間である。今、自己はその瞬間を迎えている。そして、また次の転調の瞬間に向かって、ここから少しずつ地道で確かな歩みを積み重ねていく。
情熱と受苦が同じ語源を持つものだということを本日知った。情熱に駆られて日々自分の取り組みに従事している自分は、何かしらの運命を背負っていて、それは受苦的なものなのかもしれない。だが、それは何か悲壮感の漂うような苦が伴うものではなく、実存的かつ霊的に何かを引き受けることに伴う必然的な痛みのようなものなのかもしれない。その痛みをなんと表現したらいいのか今の段階ではわからないが、自分に固有の情熱を引き受けたということは、自分の存在を引き受けたということであり、それに伴う責任感のようなものだと表現できるかもしれない。情熱と受苦については引き続き考えを深めていく必要がありそうだ。
バルト三国の1つ1つの国に滞在することによって、間違いなくそれぞれの国からもたらされるものが異なっていた。ここからもそれぞれの国が違うアフォーダンス作用を自分にもたらしていたことがわかる。自己の変容は、必ず場のアフォーダンス作用を必要とする。自己と場は密接不可分に繋がっている。精神と場は、非常に深いところで関係しているのだ。それを今回のバルト三国旅行でも痛感した。精神と場との繋がりについては、それぞれの土壌の上で固有の文化が花開いていることを見れば一目瞭然である。
この10年間、自分は様々な場所からアフォーダンスされて来た。旅で訪れた場所を除けば、アメリカとオランダでの生活を通じて、それぞれの国から多大なアフォーダンスを受けて来たことがわかる。JFK大学やフローニンゲン大学という学術機関に所属することを通じても固有のアフォーダンスの恩恵を受けて来た。自らの学術研究において、場がもたらすアフォーダンスの力は馬鹿にできず、むしろ独りよがりな研究を乗り換えていく際には、他者からの建設的な批判と意見交換に開かれた場としての学術機関がもたらすアフォーダンスは必須のものなのではないかと最近思い始めている。それが再び学術機関に所属しようと思っている理由の大きなものであることが見えてくる。学術機関に所属することによって、様々な研究者や学生との交流を通じて、自分はその場から多様な養分を汲み取っていく。そして場と一体化することを通じて、場によって自己が育まれていく。場の持つ力というのは私たちが思っている以上に大きく、多様性に開かれた大きな場が持つ変容の力の大きさを改めて考えさせられる。まさに人間と場は身土不二の関係性を結んでいるのだ。フローニンゲン:2022/5/4(水)19:58
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