No.3603 降り注ぐ抽象_Falling Abstraction
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1486, Heaven
Heaven is falling on the earth.
We must protect the heavenly earth.
There is no time to war against each other.
Groningen; 18:14, 5/1/2022
No.1487, Normativity
Normativity is collapsing in this society.
We should reexamine what it means.
Groningen; 18:16, 5/1/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
8304. 今朝方の夢
8305. ファスティングの回復食/今朝方の夢の続き
8306. 既視感/自己と一体化する街
8307. 緩やかに進行する一大事業
8304. 今朝方の夢
時刻は午前9時を迎えた。今朝は雲ひとつない快晴に恵まれている。風もなく、とても穏やかな日曜日の朝の世界が広がっている。早いもので今日から5月を迎えた。依然として寒さが残るフローニンゲンだが、天気が良い日が増えているのは嬉しい限りだ。今も朝日が燦然と輝いていて、後ほど日光浴をしたいと思う。
朝日を拝みながら、今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、薄暗い場所にいた。時刻は昼ごろだったので、その薄暗さは時間のせいではなく、場所のせいだった。そこは、街の郊外にある芸術家の大きなアトリエであり、アトリエは太陽の光を遮る洞窟のような建物の中にあった。そこで私は、知人の画家を含め、何人かの人たちと一緒に絵画のワークショップに参加していた。私はその知人と久しぶりにあったので、積もる話をゆっくりしていった。
しばらく話をすると、そこに有名な社会学者の先生とこれまた有名なジャーナリストの方が現れた。2人は何やら、今回のワークショップの取りまとめをしてくださっているようであり、ワークショップ中に完成した作品に対する意見交換会をファシリテーションしてくれることになっていた。私は久しぶりに油絵を描き、そのプロセスそのものが楽しかったので、どのような絵を描いていたかは自分でもわからなかった。参加者の作品が並べられた時に初めて自分の絵が分かったのである。
画家の知人の絵はやはり圧巻の作品であり、プロの画力を見せつけられる形となったが、不思議と引け目は全くなく、他の参加者も同じような気持ちを抱いているようだった。全ての作品が並べられた後、各々の作品に対して自由に質問ができる時間となった。そこで私は、画家の知人に対して2つほど質問をしようと思った。1つは、ここ最近の画風に何か変化があったかというものである。彼女の絵を見た時に、これまでとは少し雰囲気が違うように思えたので、そのような質問を考えた。もう1つの質問は、自分の絵に対して刺激や養分を与えてくれたものとして、ここ最近何があるかというものだった。それらの質問をする前に、社会学者の先生が彼女の絵に対してどのような感想を持っているのかも気になるところだった。
改めて彼女の絵を眺めると、絵の中の炎が揺らめいていて、とても印象的だった。絵というのは2次元のものだが、炎が揺らめいてみるという3次元の力を持っていることはとても驚きだった。他の参加者たちも、彼女の絵の中の炎に釘付けになっていた。フローニンゲン:2022/5/1(日)09:25
8305. ファスティングの回復食/今朝方の夢の続き
時刻は午前9時半に近づこうとしている。ファスティング3日目を迎え、好転反応は収まり、体調は随分と良くなった。もちろん、固形物を何も摂取していないので、身体の動き自体は緩やかだが、喉の痛みや鼻水が止まったことは嬉しい限りだ。今のところ、今夜にファスティング を終了しようと思う。ファスティングの回復食は、いつもの夕食であり、芋を含めた野菜が中心であり、タンパク質としては豆腐を食べる。今日控えておこうと思うのはゆで卵と刺激物のキムチである。いつもは納豆とキムチを和えたものを食べていたが、回復食としてはキムチは刺激が強すぎるので、ゆで卵を含めてそれらは避けたい。今夜の回復食は、食事の有り難さを実感させてくれるだろうし、食べ物が本来持つ旨味を実感させてくれるだろう。
回復食について考えていると、今朝方の夢の続きについて振り返っていないことを思い出した。起床直前に、実際に通っていた中学校のグラウンドにいた夢を覚えている。そこでは友人たちとサッカーをしていて、自分はロングシュートの練習をしていた。意図的にキーパーの友人が取れるようなシュートを放ったり、また逆に意図的にキーパーが取れないギリギリのシュートを放ったりしていた。
しばらく練習をしていると、チャイムが鳴ったので、練習を切り上げることにした。その時に、サッカー部には監督がおらず、チーム力を上げるためには監督がいた方が良いのではないかとふと思った。メンバーもその考えに同意しているらしく、自分はキャプテンを務めるのではなくて、監督になろうと思った。キャプテンは誰か別のメンバーに任せ、自分が監督になる方向で道を探してみようと思った。そのためには学校に届け出が必要であり、キャプテンと監督の違いや監督が必要となる理由についてもう少し精査する必要があった。グラウンドから靴箱に引き揚げようとすると、野球部の2人の友人が靴箱近くの体育館脇にいて、手招きをして私を呼んだ。ちょうど1人は生徒会に入っていたので、サッカー部の監督の件を打診してみると、いくつか条件があるとのことであり、その条件を満たしているのかを尋ねられた。
それは事前に想定した事柄だったので、彼にはうまく説明することができ、生徒会を通じて学校に掛け合ってくれることになった。監督の件で少し話をした後に、どういうわけかその場でトランプゲームをやろうということになった。そのゲームのルールについて私はあまり知っておらず、その場の流れを通じてルールを理解していくことになった。直感的に自分の手札はものすごく強いことがわかっていたので、勝つチャンスを逃さずに上がりたいと思った。1人の友人が最初に場にカードを出し、次の自分のターンで3組の8、9、10のペアと10、11、ジョーカーのペアを出すことができ、1周回った次のターンで自分はもう上がれるのではないかと確信した。フローニンゲン:2022/5/1(日)10:09
8306. 既視感/自己と一体化する街
既視感(デジャブ)を引き起こす不思議な作品。それがタリンのギャラリーで購入したAlex Salaueu氏の原画”Caryatid”である。この作品は本当にどこかで見たことがある気がするのだ。それをどこかで見たかは定かではないのだが、今もこの作品を眺めていると、強烈な既視感がある。ギャラリーでこの作品を見た時にもこうした強い既視感に囚われたことは確かである。
この作品を購入した1つの動機として、この不思議な既視感があることは紛れもない事実である。2体の女性像と太陽をモチーフにしたこの作品は、既視感のみならず、そこに内包されている意味が実に深い。それが訴えかけてくる感情的な深みは汲みすることができないほどだ。ギャラリーのオーナーが述べていたように、こうした作品は長い年月をかけて向き合うことによって、少しずつその意味が紐解かれていく。この作品は、自宅の目に入りやすい場所に飾っているので、これから毎日この作品と向き合うことを通じて、少しずつ作品の意味が紐解かれていくだろう。そしてそれはすなわち、自分自身の存在の意味が紐解かれていくことでもあるのだ。
存在に溶け込んでいる街、フローニンゲン。この街は自分の存在の一部となっていることがわかる。身体が拡張し、街は大きなサトルボディと化している。場とはそのように機能するものらしいことが実感を伴ってわかってくる。だからこそ土地は重要なのだ。
今日はもう少し読書をしたら、近所のスーパーに買い物に行く。今のところ、今夜にファスティングを終える予定であり、回復食として食べる野菜類を購入しに行く。その道中に通るノーダープラントソン公園の雰囲気を味わおう。今日は天気に恵まれているので、夕方の散歩はきっと心地良いものになるに違いない。スーパーに行く道もまた自分の存在の写し鏡である。この街のことを大切に思う感情は、街と自分の存在との一体感から醸成されている。第二の故郷とも言えるフローニンゲン。この街に対する愛着は増すばかりである。フローニンゲン:2022/5/1(日)14:04
8307. 緩やかに進行する一大事業
緩やかに進められている一大事業がある。それは、自己の内面世界に関する探求である。とりわけ、意識の古層に堆積しているものを1つ1つ発見·精査していくことは、長大な時間を要する一大事業であることは想像に難くない。ヨーロッパでの生活も間も無く7年目を迎えることになる。まさか自分がオランダの地に7年間もいるとは思ってもみなかったことなのだが、今から思うと、それは必然だったのだと思う。ヨーロッパでの生活を通じて、それはアメリカ時代にはなかった形での内省を強いられた。それによって、自己の新たな側面が次々と露わになり、自分はより真正な自己に近づいていったことがわかる。
ヨーロッパに根を下ろして生活することは、そうした意味を持っていたのである。仮にこの地でこれだけの時間生活をすることがなければ、きっと自分は真正な自己に辿り着けなかったのではないかと思う。もちろん、今もまだその道の途上にいるが、自己理解と世界理解の深まりは、この地での生活が自分にとっては絶対的に不可欠であった。ヨーロッパの方々を旅することもまた自己探求を促すものであった。先日までのバルト三国旅行しかり、この7年間において、随分とヨーロッパ諸国を巡ったものである。この旅はまだまだ続いていくものである。自己を発見する旅に終わりがないのと同様に、世界を旅することにも終わりはないはずだ。
自分によって諸国を巡ることは、決して新しい知識や情報を得ることを意味しない。そのようなことは二の次である。最も重要なことは、旅の刺激を通じた自己内省なのだと思う。それを通じて、自分の中にあるまだ知らない自分の側面が自ずから開かれていくこと。それが自分にとって旅をすることの最大の意味なのだと思う。
今のところ、来年からはまたアメリカに戻りたいと思っている。そこでどれだけ暮らすことになるかはわからないが、今度のアメリカ生活は前回の4年よりも長いものになるだろうという予感がある。そして、いつかまたヨーロッパのどこかの国に戻ってきて、自分はヨーロッパの地で永住するのではないかという気がしている。それは好むと好まざるとにかかわらず、自分にとっては必然的な流れのように思える。
自宅の前の庭に、見事なたんぽぽが咲き誇っている。新緑の緑とたんぽぽの黄色が輝きを発している。ここからの自分もまた生命力に満ち、輝きに満ちた形で日々の生活を営んでいこうと思う次第だ。フローニンゲン:2022/5/1(日)14:45
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