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8157-8164: フローニンゲンからの便り 2022年4月9日(金)



No.3500 宇宙の出現_The Emergence of the Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1412, Koto

I was called by the koto all of a sudden.

It was a spiritual moment to me.

I decided to start to play the koto.

Groningen; 05:42, 4/8/2022


No.1413, Koto Music

Koto music permeates my soul very gently.

It has my spiritual roots.

Groningen; 20:40, 4/8/2022

下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8157. 神道について発表する夢

8158. 川面凡児のコスモロジーと霊魂観の研究に向かって

8159. 箏の演奏に呼ばれて

8160. 運命の循環構造に感謝して

8161. 柱のある箏/アイルランド最後の吟遊詩人オキャロランとの再会

8162. 霊的な良縁について

8163. ウクライナの支援に向けて5つのNFTを購入して

8164. ジークンドートレーニング95:ステップの組み合わせ/ 「水そぎ」と「火そぎ」の実践


8157. 神道について発表する夢


時刻は午前4時に近づこうとしている。今日はいつもより少し早く目覚めた。小鳥たちよりも目覚めが早かったようであり、この時間帯はまだ彼らの鳴き声が聞こえない。静けさと暗闇に包まれた朝の世界の中で、今朝方の夢について振り返っている。


夢の中で私は、アメリカの大学のカンファレンスルームにいた。その会場にはアメリカ人がたくさんいて、客席に座っている人たちの年齢層は高かった。もちろん若い人もちらほらいたが、全員が成人であり、多くは年配の人だったことは確かだ。


私も客席に座って聴衆の1人として発表を聞いていた。あるアメリカ人女性の発表が終わった時、次に発表を担当するのは自分だと気づいた。そう言えば、今日は神道に関する紹介をすることになっていたのである。それをすっかり忘れていて、聴衆気分で随分と呑気にしていたものである。


完全に発表のことを忘れていて、私は全く準備をしていなかった。そのため、即興的に話をしようと思った。というよりも、そうするしかなかったのである。


発表時間は10分程度と短いこともあって、何をどのように話そうかと少し考えた。前の発表を終えると、学会発表のボランティアスタッフが黒板を消して次の発表の準備を始めた。


私が席を立とうとすると、後ろの中年男性から声を掛けられた。自分でも気づいていたが、自分が座っていた列の席が前の列の太った女性によって圧迫されていて、立ち上がるスペースがなかったのである。後ろの男性はそれを微笑みながら指摘したのである。


私は前の列に座っている女性に声を掛け、こちらの列のスペースをもう少し確保してくれないかとお願いした。その女性は本当に太っていたので、苦しそうにしながら体をなんとか縮めて細くして、こちらの列のスペースを作ってくれた。それでようやく列から抜け出ることができた。


さて、自分の発表についてであるが、神道が現代の日本文化にどのような影響を与えているかについて言及しようかと思った。映画やアニメの話をしたら、聴衆のアメリカ人たちにも響くものがあるかもしれないと思ったのである。


発表については全く何も準備をしていないと思っていたが、手元には発表用の資料があった。それは自分のプレゼン内容をまとめたものではなく、最近日本で公開された邦画の案内パンフレットだった。その映画は神道の影響を受けていたのでそのパンフレットを持ってきていたのだ。しかし、問題があった。実は私はその映画をまだ見ていなかったのだ。


見ていない映画について詳しく説明することができないだろうと思ったので、その映画について話すことはやめ、いよいよ即興で話をせざるを得ないことになった。壇上に上がると、私の次に発表する2人も壇上に上がってきた。その間に、前の方に座っている聴衆の若い女性2人が神道とは何かについて話をしていた。片方の女性が、“Shinto is the path of the gods(神道は神の道よ)”と述べていたが、厳密には “the way of the gods”であり、そこから話をしようと思った。


いざプレゼンが始まると、堰を切ったように淀みなく言葉が出てきた。西洋人が誤解しているであろうこと、そして日本人ですら知らない神道の側面を1つ1つゆっくりと紹介していくと、オーディエンスのアメリカ人たちは興味深そうな表情を浮かべて話を聞いてくれた。発表のウケはとても良く、最後に1つ何かを話そうとしたところで夢から覚めた。フローニンゲン:2022/4/8(金)04:14


8158. 川面凡児のコスモロジーと霊魂観の研究に向かって


昨日、神道研究の方向性が定まったことについて書き留めていたように思う。もちろん、大きなテーマとしてはエコロジーと神道、そして神道の死生観を取り上げたいと思っている。一方、個別の神道家に関する研究としては兎にも角にも川面凡児である。


神道界のこの巨人の功績を辿りたいという強い思いがある。彼に憑依をされてしまったかのように、自分の内側から迸るエネルギーが込み上げていて、それが彼の思想研究に向かわせる。


川面のコスモロジー(宇宙論)は、現代社会が直面する地球環境問題に一石を投じるものになるだろう。いや、それは単なる一石ではなく、非常に重要な貢献をしうるものになる予感がしている。少なくとも、神道の側からの地球環境問題に対する関与として非常に重要な問題提起をなすであろうし、実践的な処方箋も提示してくれるに違いない。川面は非常に実践的な神道家であったことからも、その可能性が窺える。


川面の霊魂観についても深く研究したい。ちょうど今注目している全10巻の全集のうち、最初の2巻は川面の霊魂観を真正面から取り扱っている。この全集は希少価値の高いものであり、今はもう新品では発行されておらず、古書しかない。


偶然にも昨日古書で出回っているものを見つけ、すぐさま古書店に問い合わせた。少し尋ねたいことがあったので、それについて質問し、今はその返信を待っている。良い返事をいただけたら、すぐにでも注文をしようと思う。


川面の霊魂観は、平田篤胤のそれとはまた違ったユニークさを持っている。現代における霊魂観の貧困さを見た時に、いずれの神道家の霊魂観も重要な役割を果たすと思ったが、より現代に近い川面の霊魂観の方が現代人に受け入れやすい側面もあるかと思った。


それは直感的に思っただけであり、何かもっと重要なことがありそうだ。霊魂観の貧弱な現代人にも響くであろう何かがそこにありそうであり、その何かを特定していくことは自分の研究が果たすことの1つである。


日本はこれからますます高齢化を進めていき、臨終に関するスピリチャルケアの重要性がますます高まるだろう。その時に、今のような霊魂観のままだとスピリチャルケアもままならないように思える。霊魂観を育むことは何も死に関するスピリチュアルケアだけに関わることではなく、広く社会の様々な事柄に影響を与えることかと思われる。成熟した豊かな霊魂観を持つことの現代的な意味と意義についてもより考察を深めていかなければなるまい。


全集10巻を丁寧に何度も読み込んでいく過程において、その考察は徐々に深まっていくであろう。今から全集を読むことが楽しみで仕方ない。川面の全集を文献学的かつ解釈学的に縦横無尽に紐解いていこう。フローニンゲン:2022/4/8(金)04:29


8159. 箏の演奏に呼ばれて


昨日は川面凡児の思想研究に関して方向性が定まったこと以外にも大きな出来事があった。それは何かというと、箏との出会いである。


数日前に、ふとピアノの音ではなく箏の音で作曲がしたいと思い、実際に箏の音で作曲をし始めた。それは突然のことであり、特に意味を考えることなく直感ないしは霊感に従うままそのようにした。


すると昨夜ふと、箏の音を使って作曲するだけではなく、箏を自分でも演奏してみたいと思ったのだ。無性に演奏したいという気持ちが湧き出てきて、それを抑えることができなかったので、昨夜は随分と箏について調べていた。


そもそもで言えば、箏と琴の違いもわかっていないような状態であったから、色々と発見があった。箏には様々な種類があるが、パッと連想されるように、それは意外と大きく、引っ越しの多い今の自分にとって、大きさは1つ問題だった。


ところが詳しく調べてみると、長さ6尺(182cm)ほどの箏を半分の大きさにした「文化箏」というものがあることを知ったのである。これは従来の本筝と形状も弾き方も変わらず、単に大きさが半分にされたものであり、重さもさほどではなく、持ち運びにも便利であり、練習を積み重ねていけば、何かの機会に発表できることもあるかと思った。


そこからも箏の音色を聴きながら、色々と調べていた。すると、箏の楽譜は数字譜であり、五線譜よりも読むのが圧倒的に楽であることも演奏上のメリットかと思った。何やら箏に触れたその日から弾く楽しさを味わえるとのことである。


文化箏には13弦があり、1から10までの横書きの数字譜と、11、12、13を表す漢字を覚えるだけで楽譜を読み解くことができ、演奏のハードルもそれほど高くないように思えた。もちろん、どんな楽器も熟達度合いがあり、達人の領域となると長大な練習量とセンスが必要であろう。


その他にも気になっていたこととしては、音域や音階についてである。13本の弦しかないから13個の音しか出せないかというとそうではなく、どうやらピアノなどの鍵盤楽器と同じぐらいの音域と音階を持っていることもわかった。それであれば演奏できる曲の幅も広いと思って嬉しくなったのである。


早速箏曲用にアレンジされた楽譜をいくつか探してみたところ、J-POPやアニメソング、ジブリ映画の曲、さらにはクラシック音楽の曲が箏曲用にアレンジされた楽譜を見つけることができ、日本の流行歌やバッハの曲を箏で演奏してみたいという強い思いが現れた。自分の魂に染み入る曲を自分で演奏できることは、何にも代え難い喜びであろう。


曲を作るだけではなく、曲を演奏する楽しみも味わってみたいと長らく思っていたのだが、それが実現されようとしている。いくつか手頃な値段で購入できる文化箏を見つけたので、もう少し調べてみて、バルト三国旅行から戻ってきたら日本に注文して取り寄せたいと思う。箏の演奏が日常の中に加わると、日々の生活はまた彩り豊かに充実したものになるだろう。フローニンゲン:2022/4/8(金)04:48


8160. 運命の循環構造に感謝して


運命。自分はそれを信じる。今自分がオランダにいることも運命の綾であり、これまでの自分が探究してきた事柄も運命的な出会いだった。作曲を始めたこともデジタル絵画の創作に乗り出したことも、英文詩を書き始めたのも運命の導きだった。


それで言えば、ジークンドーとも運命的な出会いを果たしたと言える。そして今、神道と箏と運命的な結びつきをしたと感じる。運命が様々な良き出会いを手繰り寄せ、自分は良き運命に導かれているという実感。それは自分の魂を心底安心させ、いつでもこの瞬間に寛げるのはそのおかげだ。


先ほど、昨日お伺いしていた川面凡児全集の件で古書店から返事があった。端的には良い返事だった。


偶然なのだが、少し前に日本に一時帰国した際に東京神保町の古書店で立ち寄り立ち寄りたい店について書き留めていたように思う。まさにそのリストの1つにあった、神道関係の書籍が充実している東陽堂書店さんと今回出会いがあった。


川面凡児をきっかけにして東陽堂書店さんとの出会いがあったと言えるし、東陽堂書店さんをきっかけにして川面凡児との出会いがあったと言っていいかもしれない。両者について以前から知っていた自分にとってみれば、そのどちらもが正しいのだろう。運命の結びつきは相互依存関係にあるのだ。


昨日、川面凡児全集を見つけた時、運命的なものを感じざるを得なかった。そもそも、八幡書店から出版されたこの全集は、出版年がちょうど自分が生まれた年だったのだ。そこに何か運命的なものを見出した。


また、この全集はすでに発刊が終了していて、全10巻が揃った形で世に出回ることはそれほどないであろうことを考えると、昨日の夕方に偶然調査していた時に目に止まったこともまた大きな偶然と言わざるを得ない。


人生においては、このような偶然が重なることがあるのだ。自分の人生は、素晴らしき偶然に恵まれているのだ。良き偶然によってもたらされた素晴らしき出会いで満たされた人生。ただただそれに感謝する。


感謝の念が深いほど、良き偶然はまた別の良き偶然をもたらしてくれる。何かそのような循環構造が私たちの人生の中にあるように思えて仕方ない。


取りあえず、川面凡児全集を入手できることになって今はとても嬉しい。心底嬉しい。それは今後欧米の神学大学院での研究になくてはならないものになるだろう。


川面凡児の全集を読み解く過程の中で、自分はまた新たな自分に気づくだろう。そして、その過程の中で、良縁が良縁を呼ぶという循環的円構造はより強固で充実したものになるに違いない。そのような直感がある。フローニンゲン:2022/4/8(金)06:17


8161. 柱のある箏/アイルランド最後の吟遊詩人オキャロランとの再会


時刻は午前9時を迎えた。つい先ほどまで、川面凡児や箏に関する音声ファイルを作成していた。結局2時間近く話をしていたように思う。それだけ熱いものがあったのだろう。


日々魂が寛いでいると、魂は良い意味で無防備になる。そこにスッと入ってきたのが川面凡児であり、箏であった。運命の波に乗り、良き出会いを得るためには魂は心底寛いでいなければならないのだ。それを強く実感する。


改めて箏と琴の違いについて調べていると、絃の下に立てて音程を変える柱(じ)がないのが琴であり、それがあるのが箏である。神道に関心を持っている自分としては、柱があるのとないのとでは印象が随分と違う。というのも、神道において柱(はしら)は、神様を数える単位だからだ。


柱がある箏に感じる魅力の1つはまさにそこにある。魂が真に寛ぎ、無防備になった魂に雅楽的な箏の音は染み入るように響く。


そこからふと、アイルランドの伝説的な盲目のハープ奏者かつ作曲家のターロック·オキャロランのことを思い出した。オキャロランは「アイルランド最後の吟遊詩人」と言われていて、今から4年半前の日記でもオキャロランについて言及していたことを思い出した。その時も旅を頻繁に行っていたように思え、今もまた旅の頻度が高まっているので、オキャロランのように旅を生業にしていた生き方に思うところがあったのだ。


オキャロランは18歳の時に天然痘のために失明するという不幸に見舞われたが、その不幸が幸に変わり、オキャロランはアイルランドの各地を旅しながら、ハープ演奏と作曲を行い続けるという人生を歩んだ。


偶然にもこの夏はアイスランドとアイルランドを訪れようと思っていて、せっかくなのでアイルランドに訪れる際にはオキャロランにゆかりのある地を訪れたいと思った。少なくとも、National Museum of Irelandにオキャロランが使ってハープが所蔵されているようなので、ぜひ訪れてみたいと思う。


自分はこれからも世界を旅しながら、様々な表現手段で人生を綴っていく。4年前にそうした生活に憧れを抱いていたが、気がつけばそれが実現している自分が今ここにいる。フローニンゲン:2022/4/8(金)09:20


8162. 霊的な良縁について


時刻は午後2時に近づこうとしている。今日は幸いにも天気に恵まれ、朝と正午には日光浴をしながら読書をすることができた。太陽の恵みに大いに感謝したい。


仮眠前に、本質的な出会いの言語超越性について考えていた。本質的な出会いとしての霊的な良縁は、言葉で説明することはできない。それは自然言語を超えたものなのだ。仮にそれを言葉で表現しようとするのであれば、音楽言語や詩的言語のようなものを用いなければならない。


本質的な出会いというものが言葉で説明できないというのは、例えばこの両親のもとになぜ生まれてきたのか、なぜこの子供が自分のもとに生まれて来てくれたのかを説明できないのと同じである。それと同じことがここ最近の自分には度重なるようにして起きている。


ジークンドーとの出会いしかり、川面凡児との出会いもしかりである。そして、昨日の箏との出会いいもまたそうだ。


自分にとっては、マーシャルアーツは一生涯にわたって取り組む実践である。芸事としてもう一つ、箏の演奏もまた一生涯にわたって取り組むものになるだろう。神道の研究もまたそのような長大な年月を掛けて取り組むものである。これらは3つの実践は、全くもって終わりがない。人間の短い人生では到底極められない事柄をここ最近において3つも始められたことは、本当に感謝してもし尽くせない。この感謝の念を天に捧げながら、自分の取り組みを着実に前に進めていこう。


川面凡児も霊的実践というのはゆっくりであればあるほど望ましいと述べていたのだ。それは成長·発達の要諦である。


幸いにも川面凡児の全集を購入することが今朝方できた。購入させてもらった東陽堂書店さん曰く、航空便がないとのことであり、船便での郵送になるそうだった。到着まで2ヶ月ぐらいかかるかもしれないということだったが、気長に待とう。待つこともまた成長·発達の要諦である。


バルト三国から帰って来てからか、あるいは旅の最中で時間があれば、文化箏をオンランで購入しようと思う。箏の音を通じて音楽を作るだけではなくて、実際に箏を演奏したくなったのだ。


以前より母に楽器の演奏を進めてもらうことが度々あったが、その時にはまだ自分はどの楽器にも呼ばれていなかった。今、ようやくその気が熟し、箏に呼んでもらえたのだ。


文化箏を携えて、世界の様々な場所で演奏をしている自分がいつか現れるかもしれない。そのきっかけになったのは、昨夜の箏からの霊的呼び掛けによるものだ。


その呼び掛けの声を聞き取ることができたこと、そしてその声に基づいてアクションを取ったことが運命の分かれ道だったといつか言えるかもしれない。フローニンゲン:2022/4/8(金)14:03


8163. ウクライナの支援に向けて5つのNFTを購入して


先ほど、保有し、応援をしている暗号資産のSymbolのプロジェクトの一環として、ウクライナの支援に関するNFTが発行されていることを知った。先日は、旅行の予約の際か何かに見かけた寄付のプログラムに参加したのだが、その時は法定通貨であるユーロ建てでの寄付だった。


今回は、自分が保有しているSymbol(XYM)で少額ながら寄付をした。合計で5つほどのNFTと交換する形での寄付となった。このように、法定通貨ではなく暗号資産を通じて寄付ができる世の中がいつの間にか到来していることに驚く。


今回は、ウクライナの支援ということでNFTを購入する形で寄付をしたのだが、NFTの中には共感できない絵柄のものもあり、自分の思想に合致するようなNFTだけを選んで寄付をした。自分にとってNFTを取得することは初めてのことであり、暗号資産を経由した寄付も初めての経験となった。


ウクライナではまだ戦争が継続していて、依然として寄付を募っているようなので、当該寄付のプロジェクトの情報を書き留めておくことにした。


こちらのウェブサイトから寄付のプロジェクトに参画することができる。https://symbol-ukraine.org/

フローニンゲン:2022/4/8(金)14:34


8164. ジークンドートレーニング95:ステップの組み合わせ/

「水そぎ」と「火そぎ」の実践


時刻は午後4時半を迎えた。つい今し方、今日のジークンドーのトレーニングを終えた。今日のトレーニングは、もっぱらステップだけに焦点を当てて行った。


バウンスステップ、そしてペンデュラムステップを改めて復習し、そこからステップを組み合わせる練習を行なった。それはバウンスステップとペンデュラムステップの組み合わせだけではなく、ステップアンドスライドとシャッフルステップを組み合わせる練習も行なった。


特に後者に関しては、相手との間合いを詰めたり、相手との距離を図る上で非常に有効な組み合わせかと思った。このように今は、これまで習ったステップを色々と組み合わせることを意識して行なっている。


明日もまたステップに焦点を当てた練習をしたい。ブルース·リーも再三述べていることだが、ジークンドーにおいてはとにかくフットワークが重要なのだ。それを肝に銘じてフットワークに磨きをかけていきたい。


ジークンドーのトレーニングの前には、川面凡児の神道思想に関する書籍を読み進めていた。この神道家は本当に巨人である。6つの重要な実践と、霊的覚醒の8つのプロセスは洞察に溢れていて、前者の実践に関しては早速取り入れてみようと思うものがあった。後者に関しては、霊的思想家のルドルフ·シュタイナーの神秘体験のプロセスと相通じるものがあり、シュタイナーと川面の思想を比較してみることも面白いだろう。


川面の古神道的実践において、禊は非常に重要な位置を占めている。この禊には実は2つのタイプがあり、それは「水そぎ」と「火そぎ」に分かれる。一般的な禊としてイメージされるのは、前者の水そぎ方だろう。これは文字通り、冷たい滝の水に打たれたり、海や川の水で身を清める実践のことを指す。後者の火そぎはここでは詳しく書かないが、特殊な呼吸法によって太陽のエネルギーを内側に取り入れる実践を指す。


水と火が補完し合う形で川面の禊の行は成立しており、水と火の陰陽の関係は、『鬼滅の刃』の主人公炭治郎を彷彿とさせるし、『NARUTO -ナルト-』の主人公のナルトを思わせる。どちらも水と火をモチーフにするような対極的な性質を兼ね備えていたことを思う。


そこでふと、自分にとって日光浴は火そぎの実践でもあると思った。そこでは別に特殊な呼吸法をしているわけではないが、日の光に当たることによって、太陽のエネルギーを通じて浄化が実現され、細胞の活性化につながっていることを強く実感する。川面凡児の実践技法についてはこれからさらに精査していき、自分の実践にも積極的に取り入れていこうと思う。フローニンゲン:2022/4/8(金)16:41

 
 
 

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