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8066-8074: フローニンゲンからの便り 2022年3月23日(水)



No.3428 光の守護神_A Guardian of Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1372, Life and Religion

Life is invisible.

One of the most important roles of religion is to provide us with insights of life.

Here, life means not only our life but also life of all sentient and non-sentient beings.

Groningen; 10:31, 3/23/2022


No.1373, Being and Life

Being means life.

Life means being.

Therefore, any beings including non-sentient beings have life.

Groningen; 10:53, 3/23/2022

No.1374, Death

Death means that we just rerun to someplace as a new being.

In fact, it constantly happens all the time, of course, even at this moment.

Groningen; 20:12, 3/23/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8066. 神無月/昼間の星空/活魚の話

8067. マルクス、シュタイナー、神道のエコロジー思想の比較研究に向けて

8068. エコ神学の探究に向かって

8069. 存在と命

8070. 先が見えないことの幸福/天人合一·地人合一

8071. 今朝方の夢

8072. ジークンドートレーニング85:脱力のエクササイズ

8073. TOEFL本番に向けた準備が整って

8074. 人の姿をした人でないもの/死について/北斎の画集から


8066. 神無月/昼間の星空/活魚の話


時刻は午前8時を迎えた。この時間帯になると、もう辺りは明るく、朝日の輝きが見える。


この時間帯はまだ冷えているが、今日もまた昨日と同じくらいに日中の気温が上がる。最高気温は19度ほどのなるとのことなので、半袖で動けるぐらいの気温だ。今日は書籍の受け取りのために、近所のショッピングモールに行くかもしれず、その時に暖かさを味わおう。


昨日、自分が生まれた10月が「神無月」と呼ばれることについて考えていた。これは神が無い、神が不在という意味ではない。諸説あるらしいが、「無」は「な」と読むのではなく、「の」と読み、「神の月」という意味があるという説がある。そして、神祭りの月という意味があるらしいのだ。


また、日本全国の神々が出雲大社に集まって、出雲以外の国々はその月に神がいなくなるという意味から、「神無月」と呼ばれたという説がある。出雲では「神在月(神有月)」と呼び、その他の地域においては「神無月」と表記するらしい。


自分が生まれた月は日本の神々とゆかりがあったことを知り、運命的なものを感じた。同時に、神道を通じて日本の神々と接することは宿命的なものでもあることを思った。ここ最近は日本に一時帰国するのは10月であり、それもまた偶然では片付けられないものがある。


昨日はその他にも雑多なことを考えていた。昼間空を眺めていたときに、昼間においても星は絶えず空に浮かんでいることを思った。昼の星は太陽の光によって見えなくなってしまっているのだ。


光に照らされることによって見えるものもあれば、光があることによって見えなくなってしまうものもあるということ。闇の中にいるからこそ見えるものがあるということを思う。


これは自分自身を見つめる際にも、社会を見つめる際にも大事なポイントのように思える。認識の光を照らすことによって明らかになることもあれば、その瞬間に見えなくなってしまうものもあるのだ。そして、認識の光が及ばない暗闇にいるときに、ふと何かが見えることがあるというのは誰しも経験していることかもしれない。


光から出発することもできる一方で、闇からも出発できるということ。そのような示唆がある。私たちはどちらからも出発できるのだ。


活魚を運搬するときに、異質な魚を水槽に入れておくと、緊張感で活魚が死なないという面白い話を昨日聞いた。それは、異質な存在との共生の大切さを示唆しているように思える。また、多様性の重要さについても示唆しているように思えるのは自分だけではないだろう。


同質的な環境の中で生きることは人間を駄目にしてしまう可能性がある。現代人から活力が失われてしまっているのは、異質な存在の排除によるところも大きいだろう。


多様で異質な存在たちとどのように共存共生を図っていくか。それは現代人に求められている重要なテーマではないだろうか。


自分は率先して多様で異質な存在がいる環境でこれからも生活を営んで行こう。それは一つの重要な実践である。フローニンゲン:2022/3/23(水)08:21


8067. マルクス、シュタイナー、神道のエコロジー思想の比較研究に向けて


朝はまだ冷えるので、湯たんぽを使って背中やお腹を温める日々が続いている。例年であれば、朝と夜の寒さは5月の中旬ぐらいまで続く。湯たんぽにはそれくらい長く付き合ってもらう必要があるかもしれない。


昨日、全く繋がりが見出せないかもしれないが、マルクスのエコロジー思想と神道のエコロジー思想を比較した研究をしてみたいと思った。そう思った時、全く繋がりが見出せないはずはないと直感的に思った。


また、昨年の夏から秋にかけて集中的にマルクスのエコロジー思想関連の書籍を読んで得た事柄を思い出すと、神道のエコロジー思想と通じるものがあることに気づいた。そこから、マルクスだけではなく、シュタイナーのエコロジー思想も改めて探究をしたいという考えが芽生え、マルクスのエコロジー思想よりもシュタイナーのエコロジー思想の方が神道のエコロジー思想との共通性を見出すことは容易だろうと思った。


なにせシュタイナーは霊性思想の大家の1人であり、シュタイナーのエコロジー思想には彼の霊性観で溢れていて、それは神道のエコロジー思想との共通性を容易に想起させる。神道のエコロジー思想と大きく括って研究することもできれば、特定の神道家に焦点を当てて、その人物のエコロジー思想を掘り下げていくという方向性もある。


現代社会を覆っている根深く重要で喫緊の課題である地球環境問題に対して重要な洞察をもたらすであろうマルクス、シュタイナー、そして誰か1人の神道家に絞って、3者のエコロジー思想を比較するような研究も念頭に入れてこれからの探究を進めていこうと思う。


この研究に着手する際には、改めて自分がすでに持っている文献を読み返してみようと思う。そして、さらに追加で読むべき文献を洗い出していこう。この時に、資本主義と環境問題という形で文献を探すと、色々と重要な文献が見つかるはずだ。


試しにそのような観点で調査をしてみたところ、すぐさま10冊ぐらいすぐに読みたい書籍が見つかり、検索された書籍の中にはすでに自分が持っていたものもあったので、以前からこのテーマに対する関心の芽が存在していたのだと知る。今、その芽がようやく表に現れつつあるようなのだ。


芽が現れるまでには時間を要し、その間に様々な探究をしながらゆっくりと水と養分を与え続けてきた。今それがようやく形となって現れてきたのだろう。


引き続き神道に関しては全般的な知識を得ていきながらも、個別具体的なテーマ設定としてはエコロジー思想、そして死生観に焦点を当てたいと思う。このように日々気づいたとことや思いついたアイデアを書き留めることによって、徐々に自分の向かうべき方向性が明らかになってきている。


とにかく絶えず書き続けること。綴り続けることによってゆっくりとした歩みを絶えず続けていこうという思いを新たにする。フローニンゲン:2022/3/23(水)08:52


8068. エコ神学の探究に向かって


エコ神学(ecotheology)。自分の究極的な関心はそこにあるのかもしれない。


自分の名前には自然にゆかりのある漢字が1文字入っている。大海原を表す「洋」という文字。


海は母なる地球そのものであり、地球にとってなくてはならない血液のようなものである。海の汚染を含めて、母なる大地の汚染が進行する姿を黙ってみてはいられない自分がいる。次世代に何かを優先して残すことができるとするならば、それは自然との共存共生を通じた住み良い環境なのかもしれない。


エコ神学という言葉を聞いて以降、それぞれの宗教がどのようなエコロジー思想を持っているのかに関心が向かい、文献を調べてみた。仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教のそれぞれの宗教が持つエコロジー思想を取り上げた書籍を見つけたが、残念ながらそこには神道の姿はなかった。


神道にも必ずやエコロジー思想があり、それは他の宗教にはない独自の貢献を果たす洞察を含んだものもあるはずだ。しかし、世界に向けた発信をしていないためか、エコ神学という学術分野においては神道の存在感は極めて薄い。このあたりに自分の果たすべき役割があるように思えてくる。


おそらく、世界の諸宗教はエコロジーに関して共通する観点を持っていながらも、同時に各宗教に固有な観点もあるはずだ。まずはそれぞれの宗教のエコロジー思想についても探究していこう。それをしなければ、何が真に神道に固有の観点なのかが見えてこないだろう。


以前文献リストに入れていたエコロジーと宗教に関する論文が多数収められたハンドブックを2冊購入しよう。それはルートリッジ出版とオックスフォード大学出版から出版されたものである。また、各宗教のエコ神学思想に関する書籍も個別に購入していこう。


エコロジー思想の研究をする際には、結局のところ生命観や死生観を理解しないといけないのではないかと思う。また、人間存在とはなんなのかという問いとも向き合う必要があるだろう。


他の生命や地球という生命体をどのように捉えていくのか、その意味づけを行うには、やはり各宗教の生命観や死生観を理解し、そこから普遍的なエコ神学を構築して実践につなげていく必要があるのではないかと思う。


マルクスの生命感や死生観を取り上げた文献はあまりなさそうなので少し難しいかもしれないが、少なくともシュタイナーや神道における生命観や死生観をまずは掘り下げていこう。エコロジーへの関心の高まりからか、この夏のヨーテボリの旅行に際しては、自然博物館に足を運びたい。


春の陽気に包まれ、生命が躍動する季節に後押しされる形で、自分の意識は拡張し、宗教を通じたエコロジー思想の探究に向かい始めた。フローニンゲン:2022/3/23(水)10:12


8069. 存在と命


イスラムの神秘思想を改めて眺めていると、そこには神道に通じるような生命観が見出せる。どうやらイスラムの神秘思想においても、人間以外の生物に対する深い洞察があるようなのだ。


命というのは目には見えないものであり、それを考えるというのはまさに宗教の果たすべき一つの大きな役割である。同時に、目には見えない命に意識が向かわないというのはまた、知性の未熟さを物語っているように思える。


もちろん、人間と他の動物は知性の発達という観点において違いはある。しかし、等しく命を持った存在であるという点は誰の目にも明らかだろう。また、非生物に関しても命を持っていると捉えるのはあながちおかしなことではない。


命というものがそこにそれを在らしめている働きだと思えば、非生物にもまた命があるのだ。存在することはすなわち命があるということであり、命があるということは存在するということなのではないだろうか。存在と命というのはそのように繋がっていたのである。


自らの生命観を見つめ直していかなければならないというお告げがやって来る。存在と命について考えを深めていこう。命とは何かについてもっと突き詰めて考えていこう。それはエコロジーの問題と直結しているように思える。


命の問題と地球環境の問題は表裏一体の関係なのだ。命の問題について考えるというのはすなわち、死について考えることでもある。


自分のこれからの探究領域の輪郭が明瞭なものになりつつある。命、死、そして地球環境。それらは三位一体を成していて、それら1つ1つを丹念に探究していきながら、それらを一体のものとして捉える認識の枠組みを醸成していこう。そうすれば、命の問題や死の問題、地球環境の問題に対して意味のある実践的な処方箋を提示することができるのではないかと思う。


最後に、地球という生態系もそうだが、現代のデジタル社会の様子を眺めていると、ビッグデータによって新たに生まれた「デジタルエコロジー」について考えていく必要があるように思えて来る。この領域については暗号資産の隆盛に伴って以前より細々と探究を進めていたこともあるので、新たに誕生したこの生態系を含めて、リアリティに存在する種々の次元の生態系の治癒と変容に向けた研究と実践により焦点を当てていこうと思う。フローニンゲン:2022/3/23(水)10:51


8070. 先が見えないことの幸福/天人合一·地人合一


天からの恵みとしての太陽光が地上に降り注いでいる。今、それを全身に浴びながらこの日記を書いている。


太陽と地球がうまく共存共生しているように、人間もまた人間以外の存在たちとうまく共存共生できないのだろうか。そのような問題意識が頭をもたげ続けている。


先が見えることの幸福というよりも、先が見えないことの幸福というものがあるかもしれない。人は何かに駆り立てられるように未知のものに向かって飽くなき欲求に基づいて行動をしがちである。それは先が見えないことの幸福を噛みしめることができていないことの現れかもしれない。


多くの人たちは先が見えないことの幸福さを感じることできず、見えないはずの先をなんとか見ようとしながらも、結局それが見えないがゆえに不安に駆られ、その不安を埋め合わせるかのように欲求に基づいた行動を続けてしまうのだ。


自分の中で天秤をかけてみると、先が見えることの幸福よりも先が見えない幸福の方に軍配が上がる。自分は先が見えないことの幸福を味わい、それを楽しみながら毎日を生きているのだ。


先ほど、『蟲師』というアニメの全26話を見終えた。これは大変素晴らしい作品だった。人と目には見えないものとの交流と共生を見事に描いていて、今の自分の関心テーマに関していくつもの洞察と発見をもたらしてくれた。


目には見えないもの。それは私たちの周りに無数にある。私たちの命もそうであるし、私たちの考えや感情もそもそも目には見えない。


目には見えないものを客観的に把握することには限界がある。目には見えないものをそれとして受け止めることの大切さ。決してそれらを排斥したり、無視したりするのではなく、それらの存在をありのままに受け止めていくことの大切さを思う。


主人公のギンコが背負った宿業と彼のあり方には共感するものがある。目には見えないものを調査し、それらと人間がうまく共存共生できるように研究と実践を重ねていく旅。自分もまたそうした旅に従事している旅人だ。


自分が旅人だという意味はそういうところにもある。文字通り、この地球上を旅しながら、目には見えないものへの敬意と畏怖の心を持って探究と実践を重ねていくこと。そんな日々をこれからも過ごしていく。


それにしても今日もまた太陽の光はとても優しく、力強い。生命に活力をもたらしてくれる太陽のような存在に自分もなれないだろうかと自ずから考える。自然によって考えさせられる事柄こそが、真に即興的かつ創造的な考えなのかもしれない。


天人合一·地人合一。自分の生き方はそうあるべきものにますます近づいて行く。フローニンゲン:2022/3/23(水)13:15


8071. 今朝方の夢


時刻はゆっくりと午後3時に近づいてきている。今日も朝と正午に日光浴を存分に楽しんだ。そのおかげで、全身の細胞が喜びに満ち溢れているかのようだ。細胞が活性化されて来ると、それは心身に非常に良い影響をもたらす。


普段は朝に夢を振り返っているが、今朝方はエコロジーと宗教について色々と思うことがあったので、夢について書き留めるのを忘れていた。取り急ぎ、夢について書き留めておこう。


夢の中で私は、フットサルの大会に出場していた。それは小中高時代の友人が一斉に介して、メンバーがごた混ぜになる形で大会が開催されていた。


自分のチームにはサッカー経験者とそうでない人が半々いて、経験者のメンバーはサッカーがうまかったので、順調に勝ち進むことができた。いよいよ決勝戦まで来たところで、決勝のチームのメンバーは全員がサッカー経験者だった。


彼らの決勝までの戦いは危なげなく、たいてい大差で圧勝していたので、決勝は厳しい戦いになると思った。優勝の可能性は低いかもしれないが、全力で試合をしようと思ったところで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、英語の文章をミスがないように読み上げている場面があった。何か手元の紙を見ながら英文を読み上げていたのではなく、自分の頭の中に次々に湧き上がって来る英文を淀みなく、それでいてミスなく読み上げることをしていた。


場所は、アメリカの名門大学の教室であり、そこには世界から様々な著名な学者が集まっていた。私が話をしていた内容は世界の宗教に関するもので、それぞれの宗教の本質にある普遍的な性質について、まるで天から言葉が降ってきたような形で自動口述をしていた。


参加者の教授たちは黙って私の話に耳を傾けていて、自分はまるで神託を受けた人間であるかのように感じられ、その役割を全うしようと思った。


気がつけば私はスピーチを終えていて、元メジャーリーガーの有名な日本人の方に飲み物を提供していた。誰か別の人がその方に飲み物を出した時、もう氷が溶けていたので、私は新しくその飲み物を入れてその方に持って行った。すると、その方はそれをとても喜んでいて、私にお礼を述べた。


それ以外にも、小中学校時代に住んでいた社宅の自室で布団を敷いて寝ている場面があったことを思い出す。畳の上に、神々しいまでに輝いている2種類の布団を少しだけ重ねるように横に敷いて、その上にうつ伏せになって寝っ転がっていた。


うつ伏せになって目を閉じていると、布団の輝きが瞼を通じて目の内側に入ってきて、それはとても眩しかった。光り輝く布団の中で、そこから私は深い眠りの世界の中に入っていった。フローニンゲン:2022/3/23(水)14:57


8072. ジークンドートレーニング85:脱力のエクササイズ


時刻は午後5時半を迎えた。先ほど、ロビンさんと連絡を取り、次回のプライベートレッスンの時間の開始を少し早めることに同意した。いつものように午後3時からセッションを開始するのではなく、午後1時15分から開始することにした。


少し細かな時間設定となったが、その後にロビンさんは他の生徒の実技試験があるらしいので、そのような時間からセッションを開始することに合意した。それに合わせて、次回のレッスンのスケジュールも打診しておいた。


今週末のセッションでは、いよいよランク2の技に入る。ロビンさんからまだ直接は防御·カウンターの技の9番から21番について学んでいないのだが、メールを見ると、すでにロビンさんはそれらの技を教えたと思っているようだった。


確かに、動画を送ってもらっていて、そこから毎日9番から21番の技を練習していたので、むしろそのような認識でいてくれた方が有り難い。というのも、次回のレッスンの際には一気に9番から21番までを確認させてもらい、それに加えて新しくいくつか手技と足技を教えてもらうことができると思うからである。いつもロビンさんには柔軟にレッスンの日時や内容について対応してもらっていて、それに本当に感謝している。


ロビンさんとのやり取りの前には、脱力の鍛錬をしていた。マーシャルアーツにおいては何よりも脱力が大事であり、これはマーシャルアーツだけに限らず、この緊張を強いる現代社会においては、脱力は日常生活の様々なところで本来重要になる。しかし残念ながら、私たちは脱力の仕方をわかっておらず、自分が実は緊張していることに気づけない場合が多い。


そのため、マーシャルアーツの鍛錬を通じて、脱力の仕方を身体を通じて覚えていくというのはすごく重要なことかと思う。ただし注意が必要なのは、脱力と力が完全に抜けた状態を区別しなければならないということだ。これはよくシステマでも指摘される点だ。


理想的な脱力は、無駄な力が入っておらず、身体にはエネルギーが満ちている状態のことを指す。一方で、腑抜けた脱力状態というのは、身体にエネルギーが通っていないような状態のことを指す。言うまでも無く、マーシャルアーツで述べている脱力とは前者の方を指す。


先ほどの脱力の鍛錬では、いったん身体の特定の箇所を緊張させてから一気にその緊張箇所を解放させることを行っていた。とりわけ、腕の重みを脱力を通じてエネルギーに変換する方法を練習していた。これは是非とも毎日の習慣にしたい。


朝日光浴をしながらそれを行ったり、夜寝る前にも行おう。また、ジムでのジークンドーの練習の前にも、この脱力の鍛錬をしようと思う。


いずれにせよ重要なことは、一度身体の特定の部位を緊張させてから、それを一気に解放することを繰り返し行うことだ。上記の脱力エクササイズをやってみてから打撃の技の練習に入ってみると、技の速度や威力が随分と上がっていることに驚いた。ここにも脱力の力を見る。フローニンゲン:2022/3/23(水)17:44


8073. TOEFL本番に向けた準備が整って


いよいよ明後日にはTOEFLの試験に向けて会場近くのホテルに宿泊することになる。当日は午前10時ぐらいをめどに自宅を出発し、昼過ぎからアムステルダム国立美術館に行き、所蔵品をゆっくりと鑑賞してからホテルのチェックインをしたい。


国立美術館からホテルまでは歩ける距離なので、アムステルダム散策を兼ねて、散歩を楽しもう。当日は、天気が良いようなので何よりである。


TOEFLの本番に向けた準備は申し分ない。今日は、リスニングの問題を2題解き、リーディングの問題を1題解いた。そして毎日の習慣として行っていたように、スピーキングの問題を1セット解いた。


いよいよ明日が実質的には最後の対策の日となる。ひょっとしたら、明後日の朝に早く起床して、スピーキングに関しては1セット問題を解いておきたいと思う。


本日改めてリーディングの問題を解いている時に、リーディングパッセージも呟くように音読をして読み進めた方が集中力を保てると思ったので、本番においても、全文を音読するような形ではないにせよ、呟きながら本文を脳に印象付けながら読み進めていこうと思う。さらには、問題文や選択肢もサッと呟きながら内容を瞬時に理解していこうと思う。


やはり1時間近くリーディングの問題を解くことになるので、集中力を高く維持することは工夫なしには難しいので、パッセージや問題文、そして選択肢を小さく呟くというのは意外に重要な工夫かと思う。


今日はその他にも、過去に自分が回答したライティングの回答例も音読していた。それを通じて、自分の文章の定型表現の確認をしていった。


本番においては、ライティングのintegrated taskにおいて250字以上を目安にし、多くても300字程度ぐらいに収まるように回答しよう。一方で、independent taskに関しては、最低でも400字を目安にし、450字前後に収まるようにしたいと思う。


independent taskに関しては、自分の主張するポイントを3つ挙げると、それぐらいの字数に到達しやすい。スピーキングのindependent taskにおいても、主張のポイントは2つぐらいあれば、十分に量を確保して話すことができるので、問題文が表示された瞬間に、少なくとも2つのポイントを脳内で瞬時に思いつきたいと思う。それができれば、26点を超えるような内容の回答ができるのではないかと思う。


先ほどの脱力のエクササイズと同様に、試験本番においても脱力を絶えず心掛ける。TOEFLは新制度に移行したことによって時間が短くなったとは言え、長丁場であることに変わりはないので、各セクションごとに一息ついて脱力し、リスニングとスピーキングの間の小休憩は何よりもリラックスを心掛けよう。フローニンゲン:2022/3/23(水)17:57


8074. 人の姿をした人でないもの/死について/北斎の画集から


時刻は午後8時を迎えた。今、辺りは闇に包まれている。


人は人でないものに近づいていくと、知らず知らずのうちに本当に人ではないものになってしまう。現代社会は人を物化·データ化する方向に加速しており、人としての本質を骨抜きにするような仕組みと風潮で溢れ返っている。そんな中、人はますます人でないものに日々刻々と近づいている。結果として、人の姿をした人でない存在が増産されることになる。


漆黒の闇の世界は、昼間の光に満ちた世界と同じく優しげな微笑みを浮かべている。死というのは、単に私たちが今の自分でなくなるというだけであって、私たちはまた別の場所に別の新たな存在として還っていくだけなのだ。そうであれば、それは日々刻々と行っていることであり、自然に起こっていることなのではないかと思う。


絶え間ない生まれ変わり、そして生と死の連続的なプロセスというのは私たちの日常と切っても切り離せないものなのだ。おそらくこの当たり前の事柄に気づけないことが現代人の死への過剰な不安と異常なまでの逃避を生じさせているのではないかと思う。


一つの処方箋は、私たちは瞬間瞬間のうちに絶えず死に、絶えず生まれ変わっているということに気づくことだろう。それに気づくためには、自らの霊的な感覚を涵養していかなければならない。その手段については無数に存在しているのでここではあえて列挙しない。おそらく自分の役割は、そうした手段を紹介していくだけではなく、現代人の霊的感覚を蝕んでいる構造的問題を特定し、それを解決していくことなのだと思う。


夕方に、葛飾北斎の画集を眺めていると、春画においては性の奥義が見事に描かれていて、武術を描く北斎漫画の中には武術的身体操作の奥義が見事に描かれていることに改めて驚いた。


絵画というのは何気無く眺めていると見過ごしてしまう重要な洞察がいくつも含まれている。また、自分の側に知識や問題意識がないと、そこにありありと描かれているものが見えなくなってしまうのだ。


これは絵画の顕教的かつ密教的な性質を物語っている。引き続き、絵画を含めた芸術作品から、この世界の神秘を紐解いていこう。


いよいよ今週末にTOEFL試験があり、それが終わったら、ご褒美がてらバルト三国に旅行に出かけようと思う。気候も良くなってきたので、充実した旅が実現されるのではないかと思う。


この旅行には神道の用語集を持っていきたい。神道の用語集を、まるで英語の単語帳を覚えるかのように、何度も繰り返し読み込んでいきたい。日を空けずに短いスパンで何回も確認し、全ての用語を自分の言葉で説明できるようにする。そんな楽しみがこれから待っている。フローニンゲン:2022/3/23(水)20:21

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