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7959-7966: フローニンゲンからの便り 2022年3月6日(日)



No.3358 シンプルな入れ子(その1)_A Simple Nest (Part 1)


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1310, The God & Learning

Today, I had a private lesson of Jeet Kune Do.

It was very profound and insightful as always.

Yet, one thing that I noticed specially today was that the God is leaning and that any leaning is the God.

Both are omnipresent.

Groningen; 17:35, 3/6/2022


No.1311, Freedom Within Us

Where does freedom exist?

It doesn’t exist outside of ourselves.

Instead, it always exists within us.

Groningen; 20:05, 3/6/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7959. 構築されていく新たな脳神経回路

7960. 夢の世界のゲシュタルト/今朝方の夢

7961. 終末論的な夢

7962. ジークンドーの芸術性について

7963. ジークンドートレーニング65:ランク1の試験を終えて

7964. ジークンドートレーニング66:気づきの意識の維持とパッションのこもった打撃

7965. ジークンドートレーニング67:脳と身体の再教育に向けて/学びとしての神・神としての学び

7966. ジークンドートレーニング68:動きの無駄を削ること


7959. 構築されていく新たな脳神経回路


時刻は午前7時を迎えた。今朝も穏やかな朝の世界が広がっている。風はなく、今辺りは随分と明るくなっていて、これから朝日が昇るのが見えるだろう。


今の気温は0度と低いが、今夜はもっと冷え込み、マイナス3度まで気温が下がる。朝夕は寒い日が続くが、幸いにも日中は太陽の光のおかげで暖かさを感じることができる。


このような気候が5月末近くまで続くのがフローニンゲンの特徴だということを思い出してきた。もちろんここから少しずつ朝夕においても気温が上がってくるだろうが、気候の雰囲気としはそのような感じである。


今日は午後からジークンドーのプライベートレッスンがある。ロビンさんに事前に確認していたように、今日はこれまで習った技を総復習し、きちんと習得できるようであれば、次回からは次のランクに移行し、新しい技を習っていくことになる。


今日のレビューに向けて、今一度午前中にいくつかの技を確認しておこうと思う。晴れてランク2に入ることができたら、事前にランク2の技の一覧のPDFをプリントアウトしているので、それとロビンさんの動画を合わせてカウンターの技については予習をしておきたいと思う。


パンチやキックの技は、最初はそれ単体として扱うのである程度行いやすいが、カウンターの技はどうしても複数の手技の組み合わせになるため、初見でそれを実践するのはかなり難しい。そうしたこともあり、カウンターの残りの9番から21番までを明日から何回も動画を見ながら1人で練習をしておきたいと思う。それによって、また新しい脳神経が構築されていくだろう。


マーシャルアーツの鍛錬は本当に面白いもので、普段自分が使っていない身体の部分を使ったり、これまで未開発だった神経回路を開発させてくれる。脳内が若返り、同時に発達をし続けていく感覚がある。


昨日は結局、学術書を100冊ほど購入した。午前中から午後にかけて吟味することによって、まず洋書を50冊ほど購入した。この際ということもあり、和書についても吟味したところ、和書も50冊ほど購入することになった。


和書に関しても、神道、古武術、修験道に関する書籍を主に購入した。神道に関しては、かなり本格的な学術書の和書を何冊か見つけることができ、それらを購入することができたことは有り難い。これにて一旦書籍の一括注文をしばらくやめ、もし必要であれば夏頃にまた書籍を注文することにしよう。


ここからは、届けられた100冊ほどの学術書を何度も繰り返し読んでいく。そして、すでに過去に届けられたマーシャルアーツ関係の書籍も繰り返し読んでいくことにする。夏までの読書はそのように進めていこう。


ここからの読書もまた実りの多いものになっていくに違いない。新しい分野の探究に乗り出したことに伴い、それによってマーシャルアーツの鍛錬と同じく、脳が刺激され、新たな脳神経回路が構築されるだろう。フローニンゲン:2022/3/6(日)07:23


7960. 夢の世界のゲシュタルト/今朝方の夢


今日も空が青い。遠くの空には少し雲があるのが見えるが、それは決して雨を降らせるような雲ではない。今日もこの調子だと朝と正午過ぎに日光浴ができるだろうか。


今朝方はいくつか小さな夢を見ていた。それぞれが断片的な記憶として留まっているのだが、それらのピースを書き留めることによって何か1つの大きな絵になるかもしれない。


無意識の世界においてもゲシュタルトがあり、夢を書き留めることによって、ゲシュタルト療法的な形で、新たなゲシュタルトの構築や既存のゲシュタルトの治癒が実現されるかもしれない。夢を書き出す効能にそのようなものを見出す。


夢の中で私は、見知らぬ若い男性とジークンドーに関する話をしていた。彼はジークンドーに興味津々のようであり、私はそれが嬉しく、彼と一緒にジークンドーのいくつかの技を練習することにした。


そこから彼はどういうわけか自分を先生のように思い始めた。私はまだそのようなレベルに達していないのだが、初心者でもいくつか教えられることがあり、それは技術的なことだけではなく、ジークンドーの面白さを含めたものである。私は特に後者を中心に教えたいと思っていた。すると、その通りになり、彼はジークンドーの面白さにハマっていき、今度日本のどこかの道場に通って本格的にジークンドーを習ってみようと思うと述べてくれた。


次の夢の場面では、私はある知人の女性と話をしていた。彼女は私よりも少し年上だが、まるで同い年ぐらいの感覚で話がすることができる。


彼女はアメリカの大学と大学院に通っていたことがあり、今私と同じく神学大学院への進学を考えているようだった。そのため、お互いに共通の目標があるので、お互いに情報交換をすることにした。


自分はとにかく古神道を中心に探究したいと考えていて、それに付随する形で神道や仏教の観点からマーシャルアーツを研究することも行いたいと思っていた。彼女はまだ研究テーマを見つけていないようだったが、自分の話が刺激となり、彼女も何か研究テーマにつながるようなヒントを得たようだった。


3つ目の夢として見ていたのは、街の上を飛ぶものである。その街は見慣れない場所で、海を埋め立てたような場所のように思えた。そこには新しい家がたくさん建てられていて、住宅地が果てしなく広がっていた。


私は街の上をしばらく飛んだ後、住宅地まで高度を下げ、地面すれすれを高速で飛びながら移動することにした。すると、私の姿を見た子供たちがはしゃいでおり、後をついてこようとしていたが、私の飛ぶ速度は早かったので、ついてこられず、彼らは声援を私に送ってくれていた。


住宅地の道はうねっていたので、飛ぶ際には技術が求められた。しばらく気の向くままに飛んでいると、目の前に突然マクドナルドの店が現れ、壁に激突しそうになった。そこを私は間一髪、壁を蹴ることによって壁に激突しないで済んだ。そこからは再び高度を上げて、街全体を見下ろして空を飛んでいた。フローニンゲン:2022/3/6(日)07:36


7961. 終末論的な夢


つい今し方、今朝方の夢を3つほど書き出した。それによって、夢の世界のゲシュタルトに何かわずかばかり変化が生じたような感覚が生まれた。


夢の世界にもゲシュタルト構造があるということはこれまであまり意識してこなかったように思う。表出された夢を書き留めることを通じて、ゲシュタルト構造を修復したり、変容したりすることが可能になる道が見えている。


実は先ほど書き留めた3つ以外にも、もう2つほど夢を見ていた。今朝方は随分と夢を見たものである。残り2つのうちの1つは、とても印象に残っている。それは終末論的なものであり、この世の終わりを示唆するものであった。


夢の中で私は、小高い山を切り開いて作られた住宅地にいた。時刻は夜であり、辺りは真っ暗ながらも、星空が広がっていてとても美しかった。


私は小中高時代のある親友(HO)と一緒にその住宅地を歩いていた。具体的には、山をくだるようにして住宅地を下りて行っていた。


住宅地からは広大な海が展望できる。時刻は夜だったので、海は真っ黒に見えた。寄せては返す静かな波の音が真っ暗な海から聞こえてきて、それは耳に心地良いものだった。


すると突然、辺りが一瞬にして一気に明るくなった。何事かと思って辺りを見渡すと、遠くの空に見慣れないエネルギー体が浮かんでいた。それは白色が混じった薄く緑色の強烈な光を発していた。


私はそれを見た時、あのエネルギー体は地球を滅ぼすものだと直感的に理解した。エネルギー体それそのものは何か否定的な力を発していたわけではないのだが、直感的にそのエネルギー量は悪魔的に巨大であり、地球に触れたら即、地球は滅びることを確信した。


そのエネルギー体は、まるで太陽がゆっくりと地平線に沈むかのようにゆっくりとした動きをして、地球に接しようとしていた。あのエネルギー体の正体が何か掴みたかったし、より全貌を見たいと思ったので、親友と私は住宅地の山道を引き返し、上の方に行ってみることにした。


すると、エネルギー体のある海側の遠い空とは反対側の空に幾筋もの光の帯を見た。それらもまた一見するととても綺麗であり、エネルギーの輝きが見られたが、やはり不吉な予感を引き起こさせた。


一体地球に何が起こっているのだろうかと思った。エネルギー体にせよ、エネルギーの無数の帯にせよ、それは地球で発生したものというよりも、地球外で発生して、それが地球にやって来たと見る方がいいだろうか。


ただ、自分の中の考えとしては、地球での活動の何かがそれらを地球に引き寄せてしまったと捉えていた。人間がこれまで蓄積してきた業が閾値を超え、それらを引き寄せてしまったのだ。そして、地球はこれから滅びようとしている。そのようなことを予感させる夢だった。


もう1つの夢は、トランプゲームをしているものだった。私は、見知らぬ男性2人と1人の女性と一緒に、トランプゲームに興じていた。


手札が配られた時、私はその瞬間に勝利を確信していた。というのも、手札があり得ないぐらいに強かったのだ。


出だしはとても順調であり、ゆっくりと勝利に向かって行こうと思ったら、インドネシア系オランダ人と思われる少しガタイのいい男性が一番最初に抜けて行った。彼はどうやらこのゲームを熟知しているようで、手札としてはそれほどでもなかったのだが、見事な戦術で一番最初にこのゲームから出て行った。そこから私は本気を出し始め、少なくとも2番目にこのゲームを抜け出そうと思った。フローニンゲン:2022/3/6(日)07:53

7962. ジークンドーの芸術性について


時刻は正午に近づいてきている。今日も雲ひとつない青空が広がっている。外を歩く猫たちも気持ちようさそうに見える。


今日の午後からのジークンドーのプライベートレッスンに向けて、午前中は少しばかり技の確認をしていた。その中で、ジークンドーの面白さは芸術鑑賞のそれと似ていることを思った。


ブルース·リーが生み出し、そして残してくれたアートとしての技や動作を、目で見て鑑賞するというよりも、実際に自分の身体を通じて味わうことができる点に、ジークンドーというマーシャルアーツの芸術性を見る。


もちろん目で見て鑑賞することも面白いが、それ以上に自分の身体を通じて表現することは何倍もの面白さがある。芸術鑑賞の本質は、ひょっとしたら単に視覚的にそれを味わうのではなく、身体を通じて表現的追体験をすることにあるのではないかと思う。


ジークンドーの代名詞の1つであるストレート·リードは、物理学、生体力学、格闘科学の研究成果に裏打ちされた、非常に芸術性の高い技だ。午前中はそれに関する書籍を読んでいて、その中で他の技に応用できる点を数多く発見した。ストレート·リードの構成要素やエッセンスは、ジークンドーの他の技や動きにおいて有効な非常に汎用性のあるものなのだ。


今日も朝日を浴びながら、防御とカウンターの8つの技を何回か復習していた。これまで習ってきた防御とカウンターの技術と、これから習うそれらの続きの技術は、実践上非常に有効であると改めて思い、それらの技を毎日鍛錬して磨いていこうという気持ちを新たにした。


状況に応じて反射的に適切な防御とカウンターが繰り出せるようにしていきたい。そのためには適切な動作を何度も繰り返し行うことであり、単に反復するのではなく、内的感覚を感じながら、繰り返しを通じてその感覚をより微細かつ精密なものにしていく必要がある。


明日からはまたステップに立ち返り、ロビンさんからまだ習っていない応用的なステップを自主的に学んでいこうと思う。その際には手持ちの教則DVDが役に立つ。


自分のように小柄な身体を持っている者にとってみれば、フットワークは攻撃の際にも防御の際にも要となる。極端に言えば、パンチやキックの技は二の次で、フットワークの練習だけ徹底的にやり込んでもいいぐらいだ。


フットワークが研ぎ澄まされてくれば、相手の攻撃を受けることもなくなるだろうし、適切なタイミングで技にもうまく自分の体重を乗せることができ、技の威力も自然と高まってくるだろう。それぐらいにフットワークが重要であることを改めて肝に銘じたい。フローニンゲン:2022/3/6(日)11:55


7963. ジークンドートレーニング65:ランク1の試験を終えて


時刻は午後4時半を迎えた。先ほど、ロビンさんとのプライベートレッスンを終えて自宅に戻ってきた。今日は、これまで習ったランク1の技を全てレビューするだけではなく、自分がどれだけその技を習得したのかを試す試験の日だった。


元来、ジークンドーにはランクはなく、試験などもないのだが、ロビンさんのスクールでは生徒が順序立てて技を学んでいけるように便宜的にランクと試験が設けられている。ロビンさんは後慣習的な発想を体現している人であるから、いつも私にランクと試験は単なるラベルに過ぎず、ラベルに囚われることがないようにと強調している。


過去ロビンさんのプライベートレッスンの生徒の中には試験を受けることをせずにトレーニングを続けていた人がいるようだが、自分の場合は、試験をこれまで習ったことの総復習の良い機会だと捉えて受けることにした。


これから70分に及んだ試験について書き留めていくつもりだが、結論から述べると、無事に試験に合格した。もちろん最初からロビンさんは私のこれまでの練習の積み重ねを知っているので、事前に合格証を用意してくれていて、それが落とすような試験では決してないことを物語っていた。いずれにせよ、これでまた新たな技を次回から学んでいけるようになると思うと嬉しい限りだ。


合格証を見ると、自分の登録番号が2201だと明記されていて、ロビンさんはこれまで32年間ほどジークンドーを教える中で2000人を超える生徒がいたことを物語っている。30年以上も何かを教え続け、2000人以上の生徒を累積に持つというのは改めてすごいことだと思う。自分にはまだそのような実践は1つもない。


いつものように道場に到着すると、ロビンさんの出で立ちがいつもと少し違った。ウェアがいつもと異なっていて、それは試験用のものなのかと思った。


道場に入って挨拶を交わし、そこからは少し雑談をした。すると、自然と試験に入っていて、まずは口頭試験として、「自分にとってのジークンドーとは何か?」という問いが出題された。


ロビンさんから事前に、ジークンドーの定義について試験で問われると聞いていたが、実際の試験で問われたのは、教科書的な定義ではなく、今の自分がジークンドーをどのように捉えているかを問うものだった。そこで私は、自分にとってのジークンドは身体を通じた自発的かつ創造的な自己表現であると述べた。


ロビンさんはその回答にうなづき、ロビンさんからいくつかの観点を提供してもらい、そこからジークンドーとこの試験の役割や意味などについて意見交換をした。しばらく口頭試験が続いた後、実技試験に入った。


実技試験においては、ロビンさんがいつも強調している「あなたの(自分なりの)ジークンドー」という側面が体現されていて、何をどのように試験していくのかの裁量権は全て自分にあった。


私はまず最初に、防御とカウンターの8つの技から始めてもらうことにした。それが一番難解であり、集中力と体力が最もある最初の段階でやっておきたかったのだが、ロビンさんは笑いながら、自分の意図を読んでいた。


後から考えてみると、準備運動がてら得意のキックから始め、体が温まってから防御とカウンターの技をやった方が良かったかと思うが、実践においては何がどのように始まるか分からないので、何から始めても良かったのだと思う。このように、試験は程よい緊張感と和やかな雰囲気の中で始まっていった。フローニンゲン:2022/3/6(日)17:03


7964. ジークンドートレーニング66:気づきの意識の維持とパッションのこもった打撃


今日のロビンさんとのプライベートレッスンについてはまだまだ振り返りたいことがたくさんある。思いつくままに書き留めていこう。


今日の試験の中では、てっきり型通りに技を見せて終わりかと思ったが、全くそうではなく、各技のポイントについて解説することが求められ、同時にロビンさんがその場で即興的な動きを見せるので、それに対応することに意識が向いてしまい、普段の練習通りに動けない場面が何度もあった。ここに、練習と実践のギャップを見た。


練習においても、絶えず現実世界を想定しているつもりなのだが、それはつもりで終わっていたようだ。実際にロビンさんと対峙すると、当然ながらロビンさんの威圧力もあり、心を平常心に保つことにも負荷がかかり、同時にロビンさんの予想しない動きに対処する必要があって、普段通りの動きを見せることが難しかった。これは最大の学びの1つである。


試験の場においても平常心は比較的保たれていたが、やはり予想しない動きなどを見せられると、それにどのように対応していいのかと体を動かす前に一瞬考えてしまう癖があるようだった。その隙をついてロビンさんはグローブをはめた手を出して自分の頭にパンチをヒットさせることが何度もあった。


グローブをつけてではあるが、このような形で殴られることは初めてのことであり、その衝撃に慣れるのにも時間を要した。この試験で特徴的だったのは、とにかく程よい緊張感を維持することであり、絶えず気づきの意識を維持することだった。


つまり、自分が何かの技を出し、それがうまくいったとしても、そこで技が終わりではなく、自分が一瞬でも気を抜いたら、ロビンさんはすかさず自分にパンチを繰り出してきた。これが最初のうちはよく当たってしまい、その頻度は減っていったが、最後の最後までロビンさんから打撃をもらうことになった。


ロビンさんもこの点は学習が必要だと指摘し、身体に覚え込ませていくことが大切であり、焦る必要はないと述べてくれた。脳と神経回路をプログラミングしていく必要があるということを改めて実感した次第だ。


殴られることに慣れていないだけではなく、殴ることにも慣れておらず、それについてもロビンさんは指摘してくれた。印象的だったのは、相手の顔にバックフィストやパワージャブを当てる必要のある技を行っている時に、最初のうちはロビンさんは自分の攻撃をグローブをつけた手で防御していた。


だが、途中から防御する素振りを見せず、私は戸惑った。それだと顔に攻撃が当たってしまうと思ってしまったのだ。


そこでロビンさんは笑いながら、顔に攻撃を当てる真剣さが自分から伝わってこないと指摘したのである。だから防御をする必要もないと述べたのである。そこで私はハッとした。


以前からロビンさんは、私のことを優しいと述べていた。フォーカスミットを叩く時でも、もっと強く叩いていいところを、何か遠慮しているとよく指摘していたのだ。


今回は、ロビンさんがガードをするまでもないと身をもって示してくれ、それは初めてのことだったので最初は何が起きているのか分からず、私は攻撃の手を止めてしまった。ここでロビンさんから学んだのは、打撃を実行する際には、本当にそれを相手に当てる気迫を持って行わなければならないということだった。


ロビンさんはあえて気迫という言葉をつかわず、パッションという言葉を当てていたが、自分には打撃にパッションが一切込められていなかったのだとハッとした。確かに、日々の練習において、パッションが打撃に込められていなかったことを反省した次第だ。


明日からの、いや今夜からの練習において、いかなる打撃においてもそれを繰り出す際には、気迫ないしはパッションを込めていこうと思う。ひょっとすると、それが技に念を通すということなのかもしれない。念が通り、念が体現された技を繰り出す練習を日々積み重ねていこう。フローニンゲン:2022/3/6(日)17:18


7965. ジークンドートレーニング67:脳と身体の再教育に向けて/

学びとしての神・神としての学び


楽しさがある。楽しさという言葉が最適か分からないが、それ以上に良い言葉がなかなか見つからないのが、ロビンさんとのプライベートレッスンだ。


ロビンさんとのレッスンは、毎回ユーモアと創造性に溢れていて、毎回が発見の宝庫である。それは単にジークンドーの技や動作に関する発見だけではなく、自分の思考の癖や身体の癖などにおける発見が無数にある。


今日の試験の最中にも、ロビンさんがあえて深くカウンターの打撃を打ってくることがあり、その時に自分が無意識的に取った動作は、足は一切動かさず、上半身を後ろに傾けるだけの防御方法だった。もちろんそれでストレートのパンチを交わすことはできるのだが、仮にロビンさんがステップインしてきて深く懐に入ってきた場合には、自分はなすすべなく攻撃されてしまう。


この無意識的な動作を少し見直す必要があり、ロビンさんはプッシュステップでステップバックすることやペンデュラムステップを使って一気に相手との距離を取ることを提案してくれた。早速その提案を取り入れようと思っていても、試験で要求される技をやりながらだと非常に難しかった。


このあたりも、脳と身体への再教育が必要だと思ったことだ。今改めてロビンさんのカウンターの打撃を思い出してみると、自分はどうも防御の手が先に出るよりも、体を動かすことが先行し、それそのものはいいのだが、それがステップにつながっていないところに問題があるようだ。


マーシャルアーツでよく言われる居着きの状態になってしまっていることが問題かと思う。また、防御の手が出ないことについても、改善の余地をそこに見出す。


先ほど書き留めたように、絶えず相手からの攻撃がないかを意識し続けるというのは過度な緊張状態であり、同時に平和ボケした形で完全に気を抜くと思わぬ時に全く体が動けなくなってしまったり、相手にすぐさま攻撃されたりする。両者の中庸、すなわちその中間の意識状態として、気づきの意識状態を維持しておくことが普段から大切だということを学ばされる。


このあたり、インテグラル理論や各宗教において気づきの意識の大切さは強調されることだが、それを日々の生活の中で体現することがいかに難しいかを改めて知る。まさにマーシャルアーツの良さは、それを身を持って知らせてくれることだ。


今、右足の鼠蹊(そけい)部に少し痛みを感じる。これは笑えることである。というのも、今日の試験の中でサイドキックを繰り出す際に、そのポイントをまずロビンさんに解説し、サイドキックの力は決して鼠蹊部から発動させてはならず、臀部から発動させることを自分で説明していたのにもかかわらず、何回かのキックは鼠蹊部から行っていたかもしれないからだ。


それがたたって鼠蹊部の痛みが生じている。この痛みも教師のようだ。痛みを通じて、自分の動作が何かおかしかったことを教えてくれている。


本当に全ては学びなのだ。学びはありとあらゆるところに遍満していて、それは水や空気のような存在であるかのように思える。いや、おそらく学びとは神であり、神とは学びのことをいうのかもしれない。そんな洞察が降ってきた。フローニンゲン:2022/3/6(日)17:33


7966. ジークンドートレーニング68:動きの無駄を削ること


神と学びは等しく遍満しているということに気づけたこと。ひょっとしたら、それが今日のロビンさんとのプライベートレッスンにおける最大の発見だったかもしれない。そのようなことを思う。


次回のプライベートレッスンがもう待ち遠しくなっているほどに、ロビンさんとのレッスンは面白い。次回のレッスンは、TOEFLの試験を受けた翌日だ。その日は両親とも話をする日でもある。色々と楽しみのある日となりそうだ。


夕食前に最後の振り返りとして、防御とカウンターの技を今後練習する際に、より無駄のない動きを実現していく必要があると思った。ロビンさんから今日指摘されたこととしては、例えば防御とカウンターの4番目の技の際に、右手でタンサオをして左手でパワージャブを相手の顔面に入れる際に、自分の場合はパワージャブの初動から腰を捻っていて相手にすぐに気づかれてしまうということがあった。


ジークンドーにおいては、とにかく相手に動作の起こりを気づかせないノンテレグラフィックモーションが大事にされていて、自分の動きはそれに反したものだったようだ。自分の場合は、ロビンさんよりも身長が低く、リーチも短いので、腰を捻って相手に手を届かせる方が良いのではないかと無意識的に思っていたようなのだ。


そこでロビンさんは、最終的な到達地点は実は腰を捻っても捻らなくても同じであることを示してくれた。威力に関しても、スナップを利かせることや脱力によって、腰を捻って左手のパワージャブをする意味がないことがわかった。


また、リーチの短さをカバーするために、プッシュステップで相手の中に入り込んでそのカウンターの技を繰り出そうとしていたようであり、この点も指摘された。もちろん、プッシュステップで相手の中に入り込んでいくことが必要な場面もあるが、それが不要なのに相手の中に入り込んでいくのはカウンターをもらう危険性が高まるので避けた方が良いということを学んだ。これも重要な点であり、これからの練習においては絶えず意識していきたい。


その他に細かな点で言えば、3種類のビルジーのうち、フリックするタイプのものにおいて、もっと掌を大きく広げた方が良いというフィードバックを受けた。大きく手を広げることによって、相手の顔に当てる面積が拡大するというのがその理由である。その他にも今日の試験の中で学んだことがまた見つかるかもしれないので、それが見つかり次第、しっかりと書き留めておこう。


最後に、今日のレッスンを終える頃に、次のプライベートレッスンの生徒がやって来た。私よりも一回りぐらい歳が上の男性が道場に入って来た。彼の名前はリックというらしく、リックさんは202cmほどの大男であった。リックさんもとても人が良さそうな雰囲気であり、いつかロビンさんのプライベートレッスン生だけで集まって交流ができればと思う。フローニンゲン:2022/3/6(日)17:49

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