No.3232 第一のチャクラ_First Chakra
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.1195, A Shining Body
My skeletal bones are shimmering with joy.
Their joy resonates with all of my muscles.
My whole body is a shining star.
Groningen; 05:14, 2/1/2022
No.1196, Japanese Wisteria
Oh, I knew now that my last name (藤) means Japanese wisteria.
That’s why wisteria gives me a loving feeling.
Groningen; 08:54, 2/1/2022
No.1197, A Somatic Magician
I’ll be a martial arts and a somatic magician.
My purpose is to let people know through my movements how much profound our body is.
Groningen; 12:00, 2/1/2022
No.1198, Harmonious Unity with My Body
I just end today, appreciating my body.
It has worked with me or as me very much.
My body and I always harmoniously unite with each other.
Groningen; 20:08, 2/1/2022
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本日の3曲
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タイトル一覧
7786. まろやかな心/今朝方の夢
7787. ここから春にかけての計画/平穏な心の同調と自然体の浸透
7788. 細部への意識と細部の連動/丁寧に生きること
7789. 植芝盛平の神秘思想と神道への関心の高まり/身体を使ったマジシャンのように
7790. 中今を生きること/マーシャルアーツの現代的な意義と価値/水月移写の実践
7786. まろやかな心/今朝方の夢
時刻は午前3時半を迎えた。今朝の起床は幾分早かったが、大変素晴らしい目覚めだった。
昨日はジムに行き、ジークンドーのトレーニングをした後にサウナに入っていたこともあって、質の良い睡眠が実現したのだろう。マーシャルアーツのトレーニングを始めてからというもの、身体が軽やかになっていることに加え、心がまろやかになっていることを感じる。
人間の発達というものがある種の円環螺旋運動であることを考えると、心の角が取れ、丸みを帯びて来ているというのは大変喜ばしいことである。尖った心ではなく、まろやかな心。それは全てを包み込む包容力を持つ。そしてそうした心の姿は、さらなる成長発達を呼び込む。
今朝方の夢をいつもながら振り返っている。夢の中で私は、小中高時代の親友(SI)と一緒に不思議な空間にいた。そこは観葉植物がたくさん置かれている大きな家の中庭のようであった。
作りとしては、中庭を取り囲むように部屋がたくさんあった。その中庭では、戦いが行われていた。誰と誰が戦っていたのかというと、幼少期に見ていた格闘アニメの敵のキャラクターと姿の見えない人である。
どうやら親友がアニメの敵キャラクターを操作しているらしく、それはさながらゲームをしているかのようであった。私は彼に、なぜそのキャラクターを選択したのかと尋ねたところ、偶然そのキャラクターを選択して遊んでみたところ、その強さに惹かれたからとのことだった。そこから私は、親友が操作するそのキャラクターと姿が見えない人が戦う様子を眺めていた。
その次に見ていた夢は、合気道の様々な技に関して洞察を得るというものである。私は、古びた書店の中にいて、そこにはマーシャルアーツ関係の書籍が充実しているだけではなく、マーシャルアーツのトレーニングができるスペースもあった。なので、書物から得られたことをすぐさまその場で試すことができたのである。
それは私にとって大変好都合で、私は手当たり次第文献を読み漁っていき、その都度技を試していった。すると、実践に勝るものはないというのはこのことを言うのであり、色々と実践して試していると、様々な閃きが降ってきて、特に合気道の技に関していくつかブレークスルーがあった。
そうしたブレークスルーを自分の中に留めていてはもったいないと思ったので、近くにいた人たちにそれを伝えると、少しずつ人が集まってきて、その場に人だかりができた。過去の偉人的な達人の身体操作を書物を通じて継承し、それを今を生きる人たちに伝承することは自分の役目なのだとその時に悟った。フローニンゲン:2022/2/1(月)03:53
7787. ここから春にかけての計画/平穏な心の同調と自然体の浸透
時刻は午前4時半を迎えた。先ほど、呼吸法のエクササイズと動的ストレッチを行なった。これによって体が随分と温まり、1日の活動を始めるための最適な状態が整ったと実感する。
気がつけば今日からもう2月だ。来月はバルト3国に行くか、ベルギーに行きたいと考えている。まずはベルギーに行き、バルト3国は春の楽しみとしようか。
旅へ想いを馳せていると、神学校へのアプリケーションの準備に向けて、TOEFLを久しぶりに受けることも忘れないようにしようということも思った。今年は神学大学院への進学に向けた準備の年であり、念入りな準備をしたい。
念入りな準備と言っても大学院の情報を集めることと、SOP(Statement of Purpose:志望動機書)の作成が主な焦点であり、TOEFLに関しては英語力が落ちているとは思えないので、感覚を取り戻すぐらいの対策をして臨めばいいだろうか。
確かスピーキングの問題内容が自分がTOEFLを受けていた頃と少し変化があったようなので、ETSのウェブサイトから模擬試験のようなものは必ず受けておこう。10年前のようにTOEFLの各セクションごとに点入りに対策をしていく必要はもう有り難いことになく、重要なのは形式に慣れておくということだ。
先ほど、動的ストレッチを終えた後に、平穏な心の同調現象が広く社会で起こればと願う自分がいた。言い換えれば、穏やかな心の在りようが社会に共鳴·伝播していくことを願う自分がいたのである。
現代社会を覆っているどこか不穏な波長を危惧する自分。人々が充実感と幸福感を感じられる波長が社会の隅々に行き渡っていくための研究と実践を行なっていこう。
本来自然体を通じて生きることが当たり前の人間が、いつのまのか自然体で生きることが困難になり、相当な努力をしなければ自然体で生きられなくなってしまったというのはなんという悲劇であろうか。
マーシャルアーツの鍛錬は、そんな自然体を忘れた人間が自然体を取り戻すための優れた機会を提供してくれるように思う。それはあくまでも機会であり、その機会を掴んで自然体を通じて生きられるようになれるのは少数の人間かもしれないが、マーシャルアーツにはそうした現代的な意義と価値がある。その点を踏まえて研究と実践を積み重ねていく。
マーシャルアーツに従事する者は、最終的には利他的な精神に基づいて社会へ関与していくことを使命とするのではないだろうか。利己的な強さのみを求めるのは愚の骨頂であり、それはマーシャルアーツの真の従事者ではないだろう。
単純に己の強さを求めるというのは暴漢の域を出ず、小さな自我の折の中に閉じ込められた小人が考えることである。大きな人というのは、自我の囚われから脱却し、広く大きな心で自己と他者を、そして社会を労われる人間のことを言うのではないだろうか。フローニンゲン:2022/2/1(月)04:56
7788. 細部への意識と細部の連動/丁寧に生きること
時刻は午前7時半を迎えようとしている。辺りはまだ真っ暗だが、今日はいつもより早く起床したこともあり、90分ほどの時間をかけて先ほどマーシャルアーツの身体操作のトレーニングを行った。
確かにどのようなマーシャルアーツにも型のようなものが存在するが、重要なことは運動の型を表面的になどる形で何度も練習することではなく、その運動を成り立たせている細かな要素を分析し、そしてそれらの要素を身体で感じながら体で表現できるかが大事なのだ。
そのための鍛錬として、1つ1つの動きに関与している身体の細部を感じるようにしてみよう。そして、細部を連動させる感覚を養っていこう。
細部への意識が杜撰であると、本来は細部の総和によって生み出されるはずの1つの運動があった場合——大抵の運動はそのようなものだ——、力ないしは運動エネルギーが途中で途切れてしまい、その動作の完遂はままならない。それが技であれば、威力のない技になってしまうのだ。
力が分散されることなく、一点集中的に発揮されるためには、運動エネルギーの流れを途切らせてはならず、そのためには細部への意識と細部を連動させる感覚が求められる。この点が先ほどのトレーニングの最大の学びである。
そこからは、これを具体化させていくことをイメージしていた。例えばジークンドーのトレーニングをするときも、1つ1つの動作や技を成立させている要素を特定し、それに対応する身体の部位と感覚を精度高く感知できるようにしていくことを意識してみる。
そこから改めて、パンチにおいては肘の力みを抜いて、拳あるいは腕を放り投げるようなイメージを持つことや、キックにおいては膝を緩めて、脚を放り投げるようなイメージを持っていこうという注意点を再認識した。
パンチにおいてもキックにおいても、前へ出る推進力が重要になる。そして、拳と脚にどれだけ体重が乗せられるかが重要になる。この時、膝が緩んでいないと、前ももと膝で前方への運動にブレーキをかけてしまい、推進力が働かなくなってしまう。
また、身体の軸が傾いていると、水平方向にうまく体重が乗らず、威力のない打撃になってしまう。このあたりは再度明日ジムに行ってトレーニングする時に意識したい点だ。
今このようにしてトレーニングログでは思考を用いて、意識的に取り組むことを書き綴っている。それはとても大切なことだ。
しかし、実際の身体操作の最中においては、意識を用いてしまうと身体に不要な緊張が生まれることに注意しなければならない。人間の意識作用というのは本当に侮れない力を持つ。それは正の方向にも負の方向にも働くのだ。
意識的に身体動作を内省し、意識的に取り組むことによって精度を上げた鍛錬ができる一方で、意識を身体のある箇所に集め過ぎてしまうと、その箇所が緊張してしまうということも起こり得る。このあたりは本当に匙加減が難しいが、意識の活用については絶えず慎重にならなければならないということを肝に銘じる。
また、相手と相対した時に意識を作用させると、人間には意識が同調するという現象があるので、動作や攻撃に気づかれてしまう。武術においては兎にも角にも初動を気づかれてはならないのだ。なので理想は、意識を媒介させることなく身体を動かせるようにすることである。
意識を沈静化させる形で全ての動作を行えるようになるためには逆説的だが、日々の鍛錬では意識を身体の隅々に巡らしながら、1つ1つの動作を丁寧に行っていくことだ。なるほど、このあたり日々の自分が丁寧に生きているのかを問われているように思う。
自分はがさつな人間であるから、この点は特に意識しなければなるまい。一瞬一瞬を丁寧に生きること、瞬間瞬間の所作を丁寧に行うこと。
なるほど、マーシャルアーツの鍛錬とは本当に生きることにつながってくるのだ。そうでなければそれはマーシャルアーツなどと呼ぶことはできず、思春期の喧嘩稽古に過ぎないものになってしまう。フローニンゲン:2022/2/1(月)07:41
7789. 植芝盛平の神秘思想と神道への関心の高まり/身体を使ったマジシャンのように
時刻は正午に近づいてきている。先ほどは文献調査を行なったのと、午前中のトレーニングの2回目を行なった。
まずなんの文献調査をしていたかというと、合気道の開祖である植芝盛平の神秘思想に関する文献調査と、神道に関する文献調査だ。植芝盛平の神秘思想はどこかシュタイナーを含め、多くの偉大な神秘思想家の思想と相通じるものがあり、改めて植芝盛平の神秘思想に関する文献を探していたのだ。
神道に関して言えば、ふと自己内省をしてみた時に、自分の下の名前に由来のある海のみならず、上の名前の「藤」に由来して、山を愛する自分がいることにも気づき、山を聖なる空間とみなした神道に共鳴するものがあったのだ。
そもそも、日本人としての自分のルーツを探求する上で、神道の理解は不可欠であるにもかかわらず、自分にはそうした理解が欠如していることも神道の探究に向かわせた理由である。
植芝盛平の神秘思想に関する書籍にせよ、神道に関する書籍にせよ、日本から一気に取り寄せようと思う。また、英語空間における学術書を調べてみたところ、両者に関する興味深い書籍をいくつか見つけ、早速文献購入リストに加えておいた。
神道に関して言えば、学術出版社の世界的な権威であるオックスフォード大学出版から“Shinto and the Religions of Japan”と“Shinto: A History”という書籍が出版されていて、それらは必ず購入しようと思う。
マーシャルアーツから派生して、ある武術家の神秘思想へ関心が伸びていき、そもそも植芝盛平の思想の背後には神道的な思想があるため、自分のルーツと密接に結びついている神道へ関心が向かったことは必然的な運命だったのだろう。
さて、先ほどの身体操作に関するトレーニングおいて、色々とまた発見があった。毎日身体操作の探究と実践をしていると、自分の身体の中に、そして人間の身体の中にこうも可能性があるのかと驚かされる。
そこには確かなメカニズムと原理が内在しているのだが、それを知らなければ、そうしたメカニズムと原理で繰り出される動作や技をまるで手品を見ているかのように感じられるだろう。
マーシャルアーツの奥深さを知ってもらうきっかけとして、1つエンターテイメントとして、身体を使ったマジシャンのように、タネのある身体を使った手品的な動きや技を紹介していくというのも面白いかもしれない。
確かなメカニズムと原理に裏打ちされているというのは、実はマーシャルアーツの技だけではなく、ヒーリングの技においてもそうだろう。優れたマーシャルアーティストは優れたヒーラーでもあったという話は決して嘘ではないように思う。
どちらも身体のメカニズムと原理に則って、いかに身体を活用するのかに関係しているのだ。このあたり、上述の学術的な探究に合わせて、引き続き身体のメカニズムと原理を探究しながら、身体の奥深さを伝えていくような試みと、自分の身体と向き合ってそれを治癒·開発していく楽しさを伝えていくような試みに従事したい。フローニンゲン:2022/2/1(月)11:57
7790. 中今を生きること/マーシャルアーツの現代的な意義と価値/水月移写の実践
中今を生きること。永遠の過去と永遠の未来の中間に位置するたった今を生きること。それを大切にしながら、すでにそうした形で生きている自分がいる。それはマーシャルアーツの鍛錬を通じて、日毎に色濃くなっている。
先ほど買い物に出かけている最中に、マーシャルアーツの鍛錬で行う技は、現実世界においては本当に緊急事態でしか活用することはないかもしれないが、そうした鍛錬によって、明らかに肉体が開発され、身体操作が巧みになっているのを実感する。
肉体の開発に伴い、心の開発と精神の開発につながっていることは言うまでもない。元来、存在の入れ子というのはそのようにできている。基礎構造を堅牢なものにしていくことによって、そこから徐々に上部構造が開発されていくのである。
現代において、例えば剣術にせよ、今自分が行なっているジークンドーにせよ、そこで行われている身体動作を発揮する機会があるかと言えば、そのような機会はほとんどないと言ってもいいだろう。むしろそのような機会があったら相当に危険な状況である。
それでは、剣術やジークンドーを含め、現実世界で全く使わないかもしれないような身体動作を学ぶことが無意味かと言ったらそうではない。むしろ、全くもって有意味であり、有意義である。
それは上述のような理由によるところが大きく、それに加えて、鍛錬を通じて自分自身を見つめ、自己とは何か、人間とは何かを考察することに向かわせてくれるのだ。
自己を喪失し、人間が人間ではなくなってきている現代社会において、マーシャルアーツの意義や価値というのはそのようなところにもあるだろう。そのようなことを先ほど買い物に出かけている時に考えていた。
それでは午後の身体操作の鍛錬について思い出してみよう。午後においては、骨の調整に関する身体操作を行なっていた。それは骨を調整し、全身を統一して動かすことを可能にするエクササイズであり、そのうちのいくつかはサウナに入りながらでもできそうだったので、早速明日サウナに入っている時に試してみたい。
その他にも、臨界圧力を維持して肘や腕を動かす練習をしていると、身体の力の流れが見えてきたことは大きい。さらには、全身がつながり、つながりが生み出すエネルギーないしは力がある身体の部分に集まる感覚も感じられ始めている。
逆に言えば、そのような形で特定の部位にエネルギーを凝集するような身体操作が可能になりつつある。例えば仙骨を入れて、仙骨に集めた力をさらに拳や足に流し込むなどができつつある。そうすれば打撃の威力はさらに増すことになるだろう。
最後に、反射をして動くのではなく、相手の意識を感じて反応して動く力を高めていくことをこれからより一層意識していこうと思った。相手の意識に反応するためには、「水月移写」の精神で、こちらの心を空っぽにし、無我の状態で相手の意識とつながり、そこから生まれる感応力を通じて相手の意識に応じてこちらが動いていくのである。
これはマーシャルアーツへの応用だけではなく、日常のコミュニケーションにおいても活用できる事柄だろう。
マーシャルアーツの鍛錬をすればするほどに、人間としてこの世で生きていくことの喜びと楽しさが倍増している。フローニンゲン:2022/2/1(月)16:49
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