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7474-7477: フローニンゲンからの便り 2021年11月10(水)



No.2917 刹那の宇宙_A Momentary Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1022, Shining Hope

I perceived shining hope this morning.

It foretold progress of curing my body.

That soothed my mind.

Groningen; 05:39, 11/10/2021


No.1023, Peacefulness and Tranquility

Peacefulness lasts forever.

So do I.


Tranquility is eternal.

So am I.

Groningen; 19:01, 11/10/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7474. 病気が教えてくれること

7475. 待望/診察を通じた学び

7476. 共同体意識と友愛に溢れた街で

7477. 世界そのものとしてのテクノロジー


7474. 病気が教えてくれること


時刻は午前4時半を迎えようとしている。今朝はいつもより早く目覚めた。この時間帯に目覚めると、1日の活動時間が増え、その日はとても充実したものになる。


昨日は結局、バーナード·スティグラーの書籍の再読を全て終えることができなかったが、残すところ後1章だけとなり、午前中の早い段階で再読が終わるだろう。そこからは、テクノロジー哲学者のアンドリュー·フィーンバーグの“Heidegger and Marcuse: The Catastrophe and Redemption of History”という書籍を音読を通じて再読していく。今日の読書はとても実りあるものにあることが予感される。


今朝方起床した際に、自分の肌の状態を確認した。すると、昨日開業医に処方してもらったステロイドの塗りすぐりが良く効いていて、早速肯定的な変化を見た。


自分は日本にいた時の25年間、ステロイドと付き合って来たので、その効果と使用上における注意点については理解している。ここからしばらくは1日に2回の頻度でステロイドを塗っていき、来週からは1日に1回だけ塗るようにし、さらに次の週は2日に1回と頻度を落としていく。それは開業医に勧められたプロセスでもある。


ステロイドによって炎症が抑えられ、早速赤みが引いて来た。まだ塗り始めて1日しか経っていないので、ここからいったんはほぼ完全に肌を以前の状態に戻し、そこからは肌の乾燥にとにかく気をつけるようにしたい。


持っているワセリンやアトピーに有効な成分を含むクリームなどによって保湿を怠らないようにする。いずれにせよ、開業医に見てもらい、薬を処方してもらったおかげで、間違いなく改善の方向に向かっていることを本当に嬉しく思う。


今回の1件で、改めて何か身体におかしな症状が出たら、すぐに医者に見てもらうことの大切さを思った。今回はまさかアトピーが再発するとは思っておらず、自分で治せると思っていたが、逆にそれによって症状を悪化させてしまったので、下手に素人が素人の判断で対処しない方がいいということも教訓として学んだ。


この10年間完全にアトピーが治っていたことから、ここから肌を以前の状態に直したら、アトピーを再発させてしまったであろう風呂の入り過ぎや保湿に対する対処不足などに気をつけ、もう一度完全にアトピーから脱却した生活を送りたいと思う。


本当に身体は大事なのだ。身体の状態は精神の状態に影響し、それが日々の生活の質を決めていく。


よく病気は教師であると喩えられるが、まさにその通りである。今回の件は自分にとって最良の教師であり、多くのことを学んだ。


そもそもその症状は、自分に対して何かを伝えようとするメッセージであり、そのメッセージをいかに汲み取るかが大事なのだ。


自分の状態が悪くなった時。そこには自分の日々の生活習慣を含め、あり方を見つめ直す大切なメッセージが詰まっている。そのメッセージと向き合っていくこと。それが大切だ。フローニンゲン:2021/11/10(水)04:38


7475. 待望/診察を通じた学び


時刻は午前6時を迎えようとしている。世界が朝を迎え入れようとしているのに合わせて、小鳥たちが鳴き声を上げている。


世界が彼らを迎え入れたのか、それとも彼らが世界を迎え入れたのか。おそらくそのどちらも正しいのだろう。


今朝方は夢を見る前に目覚めた感じだ。午前4時前に目が覚めた時、目覚めがとても良く、夢については一切記憶になかった。こういう日もあって然るべきだろう。


待望。昨日ふと、数年後の自分をふと待望した。


「待望」という言葉の響きはどこか心地良い。ある事柄を待って望むのである。


そうなのだ。待てばいいのである。日々最善を尽くしながら待てばいいのだ。


日々最善を尽くしてライフワークに打ち込んでいれば、何かをもう求めようとしなくていいのだ。それは向こうの方からやって来てくれるのだから。その時を待ちながらにして望めばいいのだ。


今から数年後、きっとそこには新しい自分がいるということが予感される。どんな自分がそこにいるか分からないが、今この瞬間に待望があることだけが確かだ。そうした確かなことを大事にして日々を生きていこう。


昨日、開業医に診察をしてもらい、その過程で色々と英語で医学用語を教えてもらったり、薬のオランダ語の説明書を英語に翻訳していくことによって、オランダ語と英語の医学用語を随分と学ぶことができた。これもまた今回の学びの1つだろうか。


そもそもで言えば、ホームドクター制を体験できたことも学びである。また、開業医から紹介してもらった正規の病院の医師のところに来週のどこかで行くことになる。


開業医と病院は連携していて、こちらから予約の電話をしなくても、病院の方から連絡をくれるらしい。それは郵送による書類を通じてのことだ。


以前、フローニンゲン大学病院で学術研究の手法の1つであるメタアナリシスのワークショップに参加したことがある。そこは一見するとデパートのように華やかで雰囲気が良く、病院とは思えなかった。様々な店が1階にあり、スポーツをするような場所もあり、とても解放的で一般的な病院のどこか暗い雰囲気を思わせなかったのだ。その時は診察を受けることはなかったので、来週はオランダの病院を患者として体験する貴重な機会になるだろう。


紹介してもらった皮膚科は、フローニンゲン大学病院ではなく、駅の南側にあるこれまた立派な病院である。自宅からそこまでは歩いて1時間かかるため、歩いてもいいが隣人のサハルにまたお願いして自転車を借りようと思う。


秋が深まって来ているフローニンゲンは、それはそれで美しい。病院に行くまでの道すがら、通ったことのない場所もあるので、散策の意味も含めて病院に行くことが楽しみである。フローニンゲン:2021/11/10(水)06:04


7476. 共同体意識と友愛に溢れた街で


時刻は午後7時を迎えた。今日はとても充実した1日だった。


そう言えば、開業医の所に行ったのはまだ昨日のことだったことを今思い出した。それはどこかもう遠い思い出のようにすら思える。


開業医に処方してもらった薬のおかげで、早速その効果が現れ、精神的な辛さが和らいだ。アトピーの症状というのはこういう感じであったことを10年ぶりに思い出し、その辛さを改めて理解することになった。


アトピーだけではなく、他人が身体的に辛い状況にあるときにはとにかく優しく親身に接することの重要さを思った。身体の状態が良くないと、人は心の余裕を失う。身体の状態は本当に精神のあり方を大きく左右してしまうのだ。今回の1件を通じた学びはとても大きい。


開業医に処方してもらった塗り薬と飲み薬がよく効いているというのは、逆に言えばその薬が強いものであるから、副作用を含めて、その使用には注意をしなければならない。処方してもらった薬は、正式に皮膚科に診てもらうまでの繋ぎの役割を果たす薬だが、今回は症状がひどかったこともあり、かなり強い薬を処方してもらったようだった。


幸いにも日中は身体の痒みは一切なく、この1ヶ月間の日中の活動に支障をきたすことはなかった。だが、夜寝ているときに突然体が痒くなり、この1ヶ月は熟睡をした日はほとんどないように思う。それが慣れてしまっていたこともあり、また体調も全く良好であったので、開業医に見てもらうまでこれほどまでに時間がかかってしまった。


昨日はようやく体をかくことなく寝れることができ、これがこれまでの自分の睡眠のあり方だったことを思い出した。快眠を取るということもこれまで当たり前だったが、そうした当たり前を一度喪失したことにより、過去の当たり前だったことが突然輝き出したかのようだ。


日々当たり前に享受していることの中に、実は多くの幸せがあるのではないかと思う。安心してぐっすり眠れることの有り難さを噛み締めている。おそらく先ほど摂った夕食についても同様のことが言えるのではないかと思う。


美味しい夕食を美味しく食べられることの幸せ。それは当たり前のように思えて、実は当たり前ではないかけがえのないものだということがわかる。


今日夕方に買い物に出かけたとき、霧のような小雨が降っていた。どこかそれは趣があり、ノーダープラントソン公園の空気もどこか新鮮であった。


6年間過ごした街への愛着は増すばかりであり、ここでこうして穏やかに暮らしを営んでいることにも感謝をしたい。


今年の冬は新居で過ごす最初の冬だ。日常は穏やかに進んでいくが、きっといつか今年を振り返ってみたときに、それがどれだけ特別な一年であったかを知るだろう。


日々は特別であること。日々に感謝を捧げながら毎日を生きたい。


買い物からの帰り道、先日からお世話になっているピザ屋の前を通ると、ピザ屋の女性店主が店の開店に向けて準備をしていた。ちょうど厨房で作業をしている姿が目に入り、通りに面したガラス窓の前を通ると、店主は私に気づいてくれ、笑顔で手を振ってくれた。私も笑顔で手を振った。


共同体意識と友愛に溢れた街。自分にとってフローニンゲンとはそういう街であることをしみじみと感じながら帰路についた。フローニンゲン:2021/11/10(水)19:19

7477. 世界そのものとしてのテクノロジー


今朝は午前4時前に起床したこともあり、今日は随分と充実していた。読書がすこぶる捗り、今日からテクノロジー哲学者のアンドリュー·フィーンバーグの書籍の音読を始めた。今夜はまだ時間があるので、これから小一時間ばかり読書をしたい。


改めて、暗号資産とマネー神学、メタバースとテクノロジー神学の探究をこれからゆっくり深めていきたいと思った。暗号資産とメタバースについては以前より注目している現象であり、それとマネー神学とテクノロジー神学を掛け合わせることによって、独自性のある探究が実現されるだろう。


両者については自分でも触れてみることを通じて、直接体験を積みながら、その体験をもとに学術的な考察を加えていく。そこに今充実感を見出している。


それでは今日の読書を振り返り、夜の読書を再開しよう。


古代ギリシャにおいて、技術(techne)とは、事物の潜在的可能性を引き出すものであり、現代のテクノロジーのようにそれを抑圧したり、歪めたりするものではなかった。この点を踏まえると、解放的テクノロジーの可能性と必要性を考えざるをえない。


現代のテクノロジーにどのようにして古代ギリシャでいう技術の本質を実装していくか。その道を探っていく。


世界の中にテクノロジーがあるのではなく、ハイデガー的な発想で言えば、世界そのものがテクノロジーなのである。あるいは、テクノロジーそのものが世界になっているのが現代社会なのだ。


さらに別の言い方で言えば、世界はテクノロジーを通じて立ち現れてくる。ここで述べているテクノロジーの意味は広い。


紙と鉛筆を使って思考を進めるとき、紙と鉛筆はテクノロジーである。それらを通じて思考が立ち現れ、世界が立ち現れる。純粋に瞑想をするときにも、瞑想が精神的テクノロジーとして機能し、それを通じて世界が立ち現れる。


そのようなことを考えながら、後期マークーゼは、ハイデガーと同様に、テクノロジーを単なるデバイス的な技術と捉えるのではなく、現代社会における経験そのものだと捉えたことを思い出した。


具体的には、テクノロジーを現代人の思考の特性やあり方を規定している超越的な構造として捉えていたということである。そしてどちらの思想家も、テクノロジーによる抑圧からの解放に向けて、美的領域及び美的実践の重要性を説いた。


彼らの思索過程を辿りながら、テクノロジーを通じたテクノロジーの変容、すなわち美的領域とテクノロジー領域を切り離すのではなく、それらをうまく統合させる形で、テクノロジーによる既存の抑圧を美的実践としてのテクノロジー自らが乗り越えていく道があるのではないかと想像する。


古くはアリストテレスが指摘するように、私たち人間は技術的な存在であるから、テクノロジーを抜きにして私たち自身、そしてテクノロジーの変容はなしえないように思う。この点も含めて、上記のテーマは今後の探究の焦点の1つとしたい。


ここでも美学というものが重要になる。それは個人の自由と解放を希求した実践的なものであるから、実践美学と呼ぶにふさわしい。実践美学についてもどこかで本腰を入れて探究していきたいという思いがふつふつと湧き上がる。フローニンゲン:2021/11/10(水)19:28

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