No.2849 導くもの_A Navigator
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.993, The Phoenix
The phoenix within me is reborn.
The energy is radiating.
It is shedding light on the world.
Groningen; 05:34, 10/25/2021
No.994, A Relational Spirit
A spirit exists not only within us but also within our any relationship.
It exists right now in the relationship between us.
Groningen; 17:36, 10/25/2021
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本日の3曲
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タイトル一覧
7438. これからの読書/ベルリン旅行の各種予約を終えて
7439. 発達において重要な「神力」について
7440. 不可能の可能性に向かって/縁としての精霊
7441. 彼岸的・此岸的祈り/国の成熟度を測る試金石
7438. これからの読書/ベルリン旅行の各種予約を終えて
今朝方は午前4時半に起床した。この時間帯に起きることができると、1日の活動時間が増え、色々なことに取り組むことができる。
今日もまたいつものように読書と創作活動に励みたいと思うが、読書に関して言えば、購入した250冊の書籍の山も残り1冊となった。最後に読むのはメラニー·クラインの精神分析思想に関する用語集である。本書は550ページほどがあるが、今日の早い段階に初読が終わるだろう。
本書の初読が終われば、神学とマルクスの経済思想に関する書籍の再読を行っていく。これが今日から数日間は続くだろう。
そこからはバーナード·スティグラー、ギルバート·シモンドン、ジャック·エラル、アンドリュー·フィンバーグといった個別具体的なテクノロジー哲学者の書籍を再読していく。この再読は丁寧に行っていくつもりであり、おそらく数ヶ月は時間を要するのではないかと思う。
テクノロジー哲学の書籍だけを読むのではなく、息抜きとしてフィリップ·グッドチャイルドとニミ·ワリボコのマネー神学の書籍を読んでいこうと思う。そのような読書計画を立てている。
いつものように今朝方の夢について振り返ろうとしているが、今朝方は印象に残る夢を見ていなかったように思う。感覚としてもあまり夢が残っていない。
ただし、夢が自分の無意識の世界を通って行ったという感覚だけはある。とても中立的なその夢は、印象としては何も痕跡を残さなかったが、確かにそれが通り過ぎて行ったという感覚を残している。
昨日、無事にベルリン旅行の各種予約を終えた。先月にボンとトリアーを訪れたことによって、旅の準備を含めて旅行の感覚を思い出すことができ、旅程を組むのも各種予約をするのも早かった。
今回は列車を乗り継いでベルリンに行くのではなく、アムステルダムのスキポール空港まで列車で行き、そこからはKLMの飛行機でベルリンに行くことにした。フライトも午後に出発するものであるから余裕がある。
少し気が早いが、当日の計画としては、午後3時半のフライトの2時間半ぐらい前に空港に到着するようにし、空港のラウンジでゆっくりしようと思う。アムステルダムの空港からベルリンの空港までのフライト時間は1時間ちょっとであるから離陸したらすぐに着陸の準備に入るような感じである。
今回はベルリン1都市に6泊することにした。ベルリンでは足を運びたい美術館や博物館がたくさんあり、それを絞ってなんとか10箇所ほど訪れることにした。それでも毎日2箇所巡っていく必要があるので、滞在中はとても充実した時間を過ごすことができるのではないかと思う。今回の旅でどのような出会いがあるのか、今からそれがとても楽しみである。フローニンゲン:2021/10/25(月)05:04
7439. 発達において重要な「神力」について
起床してから4時間が経とうとしている。時計の針がゆっくりと午前8時半に近づいている。
今、ようやく辺りが少しずつ明るくなり始めている。それを祝うかのように、小鳥たちが小さく清澄な鳴き声を上げている。今週末の日曜日にサマータイムが終了し、いよいよ冬がやって来たという感じだ。
早朝の読書はもっぱら神学に関するものであり、その過程で得られた気づきを書き留めておきたい。超越的な存在を認めないヒューマニズムは、早晩人間肥大主義に陥ってしまうだろう。
以前の自分であればヒューマニズムを推奨していたように思うが、ここまで人間中心主義的な発想で現代社会が動いている姿を見るにつけ、そしてそれがもたらす種々の問題を見るにつけ、ヒューマニズムというものを肯定できなくなっている。
ヒューマニズムを完全に否定するほどの考えを持っているわけではないが、少なくとも神的な存在を考慮に入れないヒューマニズムは必ず自己肥大的な発想に陥り、どこかで崩れる。ここで述べている神的なものとは、私たちの内側に働いている存在の力である。
私たちをあらしめている存在の力。それが神的なものである。
ここからテクノロジー神学の探究を本格的に進めていくにあたり、フランスの神学者のジャック·エラルの神学思想だけではなく、その他の神学者の思想体系を活用したいと考えて調査を続けた結果、20世紀のプロテスタント神学者の中で、カール·バルトと並ぶポール·ティリッヒの神学思想を中心に据えていくことにした。
ティリッヒの書籍はすでに数冊ほど読んでいて、多大な洞察と刺激を得ている。ティリッヒの書籍はまだまだ読んでいないものがあるので、可能な限り購入して読み進めていこうと思う。
人間発達において、自力の道と他力の道の双方が重要であると主張されるが、これもまたまだまだ人間中心主義的な発想から抜け出ていない。ティリッヒは、他者や社会の価値観によって自己を律することを他律(heteronomy)と述べたが、それは慣習的段階のあり方である。
そこから自己の価値観を築き上げ、自らで自己を律する自律(autonomy)の段階があるとティリッヒは述べている。これはまさに発達心理学者のロバート·キーガンの発達モデルで言えば、自己主導段階的なあり方である。
そこからティリッヒは、自律というのはどこかの段階で孤独や虚無に陥ると指摘し、神的な存在を通じて自己を律する神律(theonomy)の重要性を説いた。
端的には、自律のみに従う場合に、人間は存在の根底から疎外される可能性があり、生きる意味や目的を失ってしまうため、神的な存在に自己を委ねることを通じて、自己の存在を回復し、生きる意味や目的を育んでいくことが大切だとティリッヒは指摘した。
そのようなティリッヒの考え方を辿っていると、発達において重要なことは、自力と他力の道の双方のみならず、「神力」とでも呼べるものの力を活用することにあるのではないだろうかと思った。その力を認識し、活用するためには神学的素養が不可欠のように思える。
少なくとも神的な存在を認識に上げる努力をしなければ、神力の恩恵に預かることはできないだろう。フローニンゲン:2021/10/25(月)08:36
7440. 不可能の可能性に向かって/縁としての精霊
時刻は午後8時を迎えようとしている。振り返ってみれば、今日もまた充実感に満ち溢れた1日だった。
今日の探究は神学が中心であった。探究過程で考えていたことを書き留めておきたい。
神学者のカール·バルトは、神ではない人間が神を語ることは本質的にできないが、それでも神学者は神について語らなければならないと述べた。この「不可能の可能性に挑戦する」という発想は、現代社会の種々の問題に取り組む際に重要な構えのように思える。
私たちにとって、現代社会の複雑な問題を解決することはほぼほぼ不可能に見えるが、それでもそれに挑んでいかなければならない。それが不可能の可能性に挑戦するという現代社会的な意味である。
問題の最終的な解決によって人々が救済と解放を得るのではなく、問題に取り組む過程においてそれが実現していくのではないか。そうであれば、なお一層のこと不可能の可能性に挑戦する形で社会の問題と向き合っていく必要がある。
その際には、問題の奥に潜む内在論理と処方箋を分けて考えなければならない。対象となる問題の構造を見誤っていては、いかなる処方箋を施してもほぼほぼ意味はないだろう。
神的な存在を認識し、それを内省できる人間は物事に対して冷静になれるはずである。盲目的·猪突猛進的、そして物事への反射的な現代人のあり方を見ていると、こうした神的な存在を内省することを通じた冷静沈着な態度が重要であることが改めてわかる。
人々が何かに対して躍起になり、半ば狂信的に行動している背景には、神的な存在を通じた自己反省というものが欠けていることが挙げられるように思える。
今日もまた自分の中に神的な存在が絶えず宿っている感覚があった。縁としての精霊、精霊としての縁。神的なものは関係性の中に生まれることを実感する。
固有の存在に神的な何かが宿るだけではなく、むしろ固有の存在同士の関係性の中に神的な何かが宿るのではないか。
私たちは個としても霊性を持ち、同時に関係性の中にも霊性を持つ。後者は「間主観的霊性(intersubjective supirituality)」とでも呼べるかもしれない。私たちは、絶えずそれを通じて生きているのだ。
キリスト教における「地の塩」という考え方に共感するものがある。塩は本来、自分のために存在しているのではなく、他者に働きかけるために存在している。
人間もまたそういう存在だろう。自分も例外ではない。自分は自分のために存在しているのではなく、他者とこの世界に働きかけるために存在しているのだ。本日得られた気づきはどれも自分にとってとても大切なものである。フローニンゲン:2021/10/25(月)19:57
7441. 彼岸的・此岸的祈り/国の成熟度を測る試金石
祈りのような時間がこの瞬間を満たしている。祈りが時を満たし、時が祈りを満たしている。
彼岸に向かって祈りを捧げるだけではなく、現実世界の具体的な問題を直視し、その解決に向けて行動する中で此岸的な祈りを捧げることの大切さを思う。
世間で言われている祈りは、上昇志向的な愛に裏打ちされた、すなわちエロス的な祈りに傾きすぎてはいやしないだろうか。そこには、降り注ぐ愛としての、すなわち彼岸ではなく此岸に向かうアガペー的な祈りが欠けているのではないだろうか。
祈りというのは超越的な世界に向かって行うものだけではない。この地上に足を着けて、地上に向かって行う祈りもあるのだ。
上昇と下降の祈りの両方を大切にする生活。それが真の意味での実践的観想生活なのではないかと思う。
ある国の成熟度を測る試金石として、社会的弱者に対してどのような配慮と仕組みがその国にあるかを挙げることができるように思う。その観点で言えば、日本の成熟度はいかに。
国内の様々な場所で目には見えない形で——あるいはもはや目に見える形で——貧困が点在している。貧困を生み出し、それを野放しにするというのは国家的な犯罪なのではないかと思えてくる。少なくとも人徳に欠く行いであることは確かだろう。
貧困を生み出す内在論理を明らかにし、それを共有すること。人間発達に携わる者は最終的にその活動に従事することが責務のように思える。人間発達と人間解放は表裏一体のものなのだから。
ここから神学を深く学んでいくことを通じて、自分の中に神学言語が獲得されていくだろう。思考する際にある言語が使われるなら、思考はその言語の影響を受けるという「サピア-ウォーフの仮説」を持ち出すまでもなく、神学的な枠組みで発想する際に、自分の思考や感覚は神学的言語の影響を受ける。
それは避けようがなく、むしろその過程の中で、神学的な言語が自分の中で体現されていくのだ。言語の獲得とはそういうものである。
明日も引き続き神学関係の書籍を読み進めていく。それが落ち着いたら、今度はテクノロジー哲学とテクノロジー神学に戻っていく。
薬というものがもはや病の治癒を目的にしたものだけではなく、バイオテクノロジー的な観点で人間を改変·管理するものとしての役割を担い始めている。この問題に対して哲学的にアプローチするのか、神学的にアプローチするのかによって得られる洞察が変わる。
自分はテクノロジーに対してそれら双方のアプローチを採用していく。それによって、現代のテクノロジーに内在的な問題が明らかになってくるだろうし、その可能性と問題への処方箋も浮かび上がってくるのではないかと期待する。
ゆっくりと着実に進んでいくこと。明日もまた数歩、あるいは一歩歩みを前に進めたい。フローニンゲン:2021/10/25(月)20:07
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