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7434-7435: フローニンゲンからの便り 2021年10月23日(土)



No.2845 夢風船_A Dreamy Balloon


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.989, Hope

The outer world is dark now.

It is waiting for daybreak.

I’m also waiting for it.

But I look forward to something else.

The hope opens a new day.

Groningen; 06:35, 10/23/2021


No.990, A Deliverer of Light

The evening sun is smiling now.

It is shedding light on a breeze.

Each breeze is a precious deliverer of light for us.

Groningen; 17:33, 10/23/2021


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本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7434. 昨日と今朝方の夢/ベルリン旅行の計画

7435. 視力を失う夢/監視社会と個性化及び創作実践


7434. 昨日と今朝方の夢/ベルリン旅行の計画


時刻は午前5時半を迎えた。来週の日曜日からサマータイムが終了し、そこから本格的に日照時間が短くなり、寒さが厳しくなっていくことが予想される。


ドイツ旅行から戻ってきて数日間は夢をあまり見ておらず、そこからまた夢を見るようになっていたが、ここ数日間もまた夢をあまり見ていないような状態が続いている。実際には夢を見ているのだが、その印象が薄いのだ。


そんな状態の中、今朝方の夢について振り返っている。そこでふと、昨日思い出すことのできなかった昨日の夢の断片を思い出した。


夢の中で私は、水で侵食した街にいた。そこはヴェネチアのように運河が街を張り巡らしているというような形ではなく、本当に水で侵食していた。


そのような街の中に自分は住んでいて、買い物に出かけるために自宅の扉を開けた。すると目の前に、水で侵食した光景だけではなく、水の上に所々巨大なブロックが浮かんでいた。


どうやらその街の人々はそのブロックの上を歩きながら街を移動するらしかった。早速自分もブロックの上を通っていこうとしたところ、小中高時代の女性友達と出会い、彼女とそこで立ち話をし、向かう方向が同じだったので、そこからは一緒にブロックを渡って目的地に向かい始めた。


そのような夢を見ていたことを改めて思い出す。そこから今朝方の夢を思い出そうとしている。今朝方の夢もどこかの街が舞台になっていたように思う。


今朝方も昨日も、夢の舞台は欧州のどこかの街だという共通項がある。ただし今朝方の夢の場合は、水がモチーフに現れることなく、とても平穏な街が舞台だったように思う。


天候は晴れであり、時間帯は午前中から正午にかけての雰囲気だった。今のところ内容に関しては一切思い出すことができないが、ひょっとしたら今日か明日のまたどこかのタイミングで夢を思い出すかもしれない。


昨日ふと、来月の中旬にベルリンに行ってみようと思った。ベルリンはフローニンゲンからそれほど遠くないのだが、遠くない分これまでまだ一度も足を運んだことがなかった。


先月訪れたボンやトリアーと同じく、ベルリンから呼ばれているような感覚があり、早速ベルリンで訪れてみたい美術館や博物館を調べてみた。すると、ベルリンには美術館や博物館が充実していて、ドイツではベルリンはアーティストがよく集まっている街だということを知った。


いくつか興味深い美術館や博物館があったので、5泊6日ぐらいの旅を来月の中旬に行うことにした。目星のホテルも見つけ、あとは旅程の詳細を詰めるだけである。それを今日と明日にかけて行おうかと思う。


先月の旅をきっかけに、また旅に向かう流れが生まれてきた。その流れに乗りながら、再び旅を通じた日々を過ごしていこうと思う。フローニンゲン:2021/10/23(土)06:03


7435. 視力を失う夢/監視社会と個性化及び創作実践


時刻は午前10時を迎えようとしているところで、今朝方の夢の断片を思い出した。テーマとして、老年期に入って視力を失うという宣告を受けた夢があった。


自分はそれをどのように受け止めていたかというと、意外と肯定的であった。いや、えも言わぬ期待感があった。


どういうことかというと、自分は視力を失ったとしても、それによってこれまで開かれていなかった感覚が開くということを予感し、視力を失うことへの恐怖はほとんどなかったのである。


何かが見えなくなることによって新たなものが見えて来ることに対して期待感があったのだ。そのような夢を見ていた。


この夢は様々な点において示唆深い。人生においてある扉が閉じられることによって、新たな扉が開くことがある。また、精神的な次元において過去の眼が死に、新たな眼が誕生することによって初めて開かれて来る世界がある。そのようなことを考えさせられる。


先ほどふと、日本で根強く存在している他者の視線を気にするという現象は、他者の視線で構成されたパノプティコンの中で抑圧されながら生かされていることを示しているように思えた。


ベンサムやフーコーが提唱した考え方を拡張させると、物理的な意味での監視社会が日本で出来上がっているだけではなく、精神的な次元での監視社会、そしてひょっとしたら魂の次元においても監視社会が出来上がってしまっているのかもしれない。


こうした種々の次元における監視社会で生きていく個人としては、まずは兎にも角にも個人の主観領域を守り、育むことが不可欠に求められているように思える。キルケゴールが指摘した存在の美的領域というものを個人個人が守っていくこと、そしてそれを育んでいくことは非常に重要なのではないだろうか。


しかし、それが何らかの理由でできない個人がいることも忘れてはならない。彼らの内側の砦を守り、育むための支援をすることも併せて求められる。そうした基礎工事的な実践を行いながら、パノプティコンを生み出す文化や仕組みに働きかけていくことが求められるように思える。


そこから美的実践、あるいは創作実践と個性化の繋がりについて考えていた。個性化というのはある種の生理現象であり、そうであれば本来創作実践というのもまた生理現象のように当たり前に行うべきものなのではないかという気がしている。


創作実践に腰が引けてしまったり、それが特別な実践だと思われていることそのものが何か問題なのだ。


人間は生物学的にも差異化と統合化を通じて個性化を遂げていく。この考え方を出発にして、個性化が精神次元でも実現されることを説いたのは発達心理学者のハインツ·ワーナーやジャン・ピアジェ、そしてテクノロジー哲学者のギルバート·シモンドンである。そして魂の次元まで射程に入れて個性化を論じたのはユングの功績である。


人間はこのように様々な次元で個性化を遂げていく生き物である。その個性化を大きく阻んでいるのが上記のような監視社会的風土と仕組みであり、逆に個性化を促進していくのが創作実践である。


なぜなら、創作実践においては絶えず自己産出を続ける内的感覚を出発点とし、それを形にしていく形で差異化と統合化の双方を経ていくからである。そのようなことを先ほど考えていた。フローニンゲン:2021/10/23(土)10:07

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