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7422-7423: フローニンゲンからの便り 2021年10月18日(月)



No.2833 光祭り_A Festival of Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.978, A Song

I can hear a song of a fresh morning.

It not only refreshes me but also invigorates me.

I just want to keep feeling it.

Groningen; 07:38, 10/18/2021


No.979, Words of Silence

I’m fond of words of silence.

Silence always has own words.

I’m wondering how many people know the truth.

Groningen; 11:33, 10/18/2021


No.980, Our Life as the Full Moon

Our life is like the moon.

Don’t you forget that the moon is always full, do you?

Exactly, it always exists as the full moon even if we see it from the earth as a crescent.


Our life is always full.

It lacks nothing.

Groningen; 11:36, 10/18/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7422. 今朝方の夢

7423. 満月としての人生


7422. 今朝方の夢


時刻は午前7時を迎えようとしている。闇に包まれた朝の世界を眺めながら、今朝方の夢について振り返っている。大別すると、今朝方は2つの夢を見ていた。


1つ目の夢としては、私はオランダでの生活に一区切りつけ、再びアメリカで生活することを決めた。アメリカに戻ったのは学術探究上の理由であり、再び大学院で研究を続けることにしたのである。


そこから数年間ほど、およそ7年間ぐらいだろうか、アメリカで探究生活をした後に、私は再びヨーロッパに戻って来た。ヨーロッパからアメリカに再度戻って来たときにもアメリカが新しく見えたが、それと同様に、アメリカからヨーロッパに再度戻って来たときにもヨーロッパが新しく見えた。


ヨーロッパを離れて再びヨーロッパに戻ってくることによって、ヨーロッパを客体化している自分が誕生したようだった。そうした変貌を経て、これから再度ヨーロッパの生活を送ることを楽しみにしている自分がいて、これからの生活はなお一層のこと充実したものになるだろうと思った。


次の夢の場面では、フットサルコートの横で、友人たちと一緒に学校の勉強について話していた。それは中学数学の話であり、大学数学を学んだ自分としては、中学校の数学をあまり数学とは思っていないようであり、どこか中学数学を軽んじているような態度があった。


友人たちとは、この間行われた定期試験の数学の話をしていて、私は1問間違えてしまい、100点でなかったことを自分らしく無いと思った。それを誇張するかのように、今回は自分らしくなかったということを笑いながら述べると、友人たちは自分の自己肯定感の高さがどこから来るのか知りたいと述べた。


私はそれを自己肯定感と取るのか、ナルシスティックな自己愛と取るのかの線引きは難しいと一言断った上で、自己肯定感の高さについて少し話をした。それを聞いている友人たちはふむふむとうなづいていて、私が話終えると、今からフットサルをしようということになった。


私たちはすぐさま隣のコートに移動し、軽く準備運動をして、すぐさま試合を始めた。試合を始めると、同じ学年の女子たちが集まって来て、試合を観戦し始めた。


彼女たちがいると、コート上の全員が彼女たちの視線を意識せざるを得ず、普段以上に緊張感があり、同時に楽しさもあるような形で試合が進んだ。


フットサルをしながら、私はどういうわけかチーズを食べていた。しかもそれはとても濃厚なゴーダチーズだった。


一口で口の中に全て入らないほどの大きさのチーズであり、切られたチーズの元々の円周部分を口の外に出す形でプレーを続けていた。しばらくして、チーズを全て食べ終えたとき、突然体からエネルギーが満ち溢れて来て、そこからはスーパープレーの連続となった。


自分でもどうしてそのような力が湧き上がってくるのか不思議だったが、全てがイメージ通りのプレーとなり、仲間へのパスも冴え渡り、そして決めたいだけ得点を決めることができた。それはとても爽快であり、爽快さの中で目覚めた。フローニンゲン:2021/10/18(月)07:14


7423. 満月としての人生


月曜日の午前中の世界が静かな踊りを踊っている。午前中は読書に勤しみ、その過程の中で色々と考え事をしていた。


私たちは自分の人生が絶えず満月であるということを忘れがちである。そのような考えが浮かんだ。


月は絶えず満月であるということを忘れてはいやしないだろうか。地球から月を見たときに、仮にそれが三日月に見えたとしても、実は月は絶えず満月なのだ。多くの人は月の見かけに騙されてそれに気づかない。


私たちの人生もまた月のようなものである。私たちはいつもこの人生には何かが欠けているうように思いがちだが、そんなことはないはずなのだ。


人生は絶えず満月であるはずなのだが、私たちの歪んだ認識によって月が欠けているように見えるのである。絶えず満たされていない感じで日々を生き、なんとかそれを満たそうとするのだが、それは不可能である。


なぜなら人生は最初から最後まで満月のように満たされているからである。それを見落とすと、限りない欲望と焦燥感に駆られた人生を送ることになる。


現代社会は、私たちの人生が何か欠けた月のように見せる形で消費活動を煽る。それに煽られ続けている限り、そして人生の満月性に気がつけない限りは、絶えずそうした消費活動を起点にした疲弊を加速させる生き方をせざるを得ない。


そのような考え事をした後に、時間と記憶というテーマを切り口として、テクノロジーと人間性を考えていく方向性について改めて考えていた。午前中の読書もそれにつながるものばかりであった。


時間のない時間、場所のない場所。加速的なこの資本主義の世界の中で、時間は時間を失い、場所は場所を失っていく。時空間が極度に圧縮され、何か1つの点の上で人間が生きているかのようだ。


自然は唯一そうした時空間の圧縮から逃れている聖域なのかもしれない。だが当然ながら、そこにもまた時空間の圧縮の魔の手が忍び寄って来ている。


時間に満たされた時間の復権。場所に満たされた場所の復権。


そもそも時間も場所も満月のように満たされているもののはずだったのだ。それが時空間の圧縮を加速させるこの現代社会の中で、時間も場所も自らの存在から疎外される形でますます一点に収束していく。あるいは消失していく。


そのような状態からどのように脱却できるのか。それは個人においても、社会においても考えなければならないことではないだろうか。フローニンゲン:2021/10/18(月)11:48

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