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7404-7406: フローニンゲンからの便り 2021年10月12日(火)



No.2815 夜の気持ち(その1)_A Feeling at Night (Part 1)


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.964, My Sojourn

My sojourn on the earth is always replete with joy and pleasure.

Where am I going next?

I don’t know.

But the next journey will be full of joy and pleasure, too.

Groningen; 07:49, 10/12/2021

No.965, My Life and Me

My life is full of luck and fortune.

In return, I always give a feeling of appreciation to my life.

My life consistently smiles to me.

Groningen; 21:00, 10/12/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7404. 今朝方の夢

7405. エリック・フロムから考えさせられること

7406. 時空間の圧縮と超共時性/ラディカルであること


7404. 今朝方の夢


時刻は午前7時を迎えたが、辺りは真っ暗である。気温もかなり低くなっていて、自動で入る暖房に助けられている。秋が相当に深まって来た印象だ。


今朝方は1つ印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、見慣れない都市にいた。そこは日本なのか欧米のどこかの街なのか定かではない。ただし、どこか近未来的な感じがあったことは確かである。


その街に激しい雨が降ったのか、所々道が浸水していて、歩くのに不便することがあった。しばらく道を歩いていると、教会にやって来た。そこには誰も人がおらず、私は中を覗いてみようと思った。


するとそこに、高校時代のクラスメートの女の子がいた。彼女とはそれほど話をしたことがなかったが、久しぶりに再会したこともあり、少しだけ言葉を交わした。


当時は彼女はとても小柄だったのだが、少し背が伸びているような印象を受けた。というよりも、その場で再会した時は当時と同じぐらい小柄だったのだが、彼女が教会の中に本を取りに行くと述べて戻って来たら少し大きくなっていたのである。


私はそれを不思議に思ったが、気に留めず、彼女が取って来た本について話を聞いた。少し彼女の横で一緒に本を読み、そこからは私も教会の中で本を選ぼうと思った。


教会の中には図書室があり、珍しい本も結構置かれていた。しばらく本を選んでいると、図書室の入り口に雰囲気がとても綺麗な女性が現れた。


彼女はサッと図書室を一瞥し、バーに置かれているような少し背の高い丸い椅子にちょんと腰掛け、そこで飲み物を一口飲むとどこかに消えてしまった。私は彼女のことが気になり、図書室の入り口に向かい、彼女が向かった方向を見たが、彼女の姿はもうなかった。


そこで夢の場面が変わった。次の夢も雰囲気として1つ前の夢とつながっているように思える。


夢の中で私は、見慣れない体育館にいて、そこで小中学校時代の友人たちとバスケをしていた。雰囲気からしてそれは部活のようだった。


まだ顧問の先生がやって来ておらず、キャプテンである自分が練習を指揮する必要があった。今日はすぐに紅白戦を行いたい気分であり、早速紅白戦を始めた。


今回は副キャプテンの友人とは別々のチームになることにし、いざ試合を初めてみると、すぐさま激しい点の取り合いになった。今朝方はそのような夢を見ていた。


ドイツ旅行から戻って来てからというもの、夢の世界が落ち着いていたのだが、今日は比較的印象に残る夢を見ていたように思う。


鳴りを潜めていた夢の世界が再びいつものように戻って来たこと。それは旅の刺激が無意識の中で十分に咀嚼されてきたことの現れかもしれない。フローニンゲン:2021/10/12(火)07:24


7405. エリック・フロムから考えさせられること


早朝に降っていた雨が止み、今は穏やかな朝の世界が広がっている。時刻はゆっくりと午前10時に向かっている。


午前中はこれまでのところ、すでに2冊の書籍を読んだ。それはどちらも、エリック·フロムのものである。


先ほどの読書体験からいくつか書き留めておきたいことが生まれたので、それらをここに書き記しておこうと思う。


フロムは、理性とは私たちが自分の思考と関係を持てているときに初めて発揮されるものだと指摘している。そこから現代人の理性の発揮の仕方について考えてみた時に、そもそも現代人は理性などほとんど発揮していないのではないかと思えた。


それではその背後にどのようなメカニズムがありそうかと考えてみると、現代人がうまく理性を働かせられないのは、思考そのものから疎外されてしまっているからではないかと考えた。


思考からの疎外というのは、マルクスの疎外の考え方を採用したものである。思考からの疎外がどこに由来するものかを考えてみると、それは現代社会を覆っている新自由主義的な発想と仕組みに強く由来するものではないかと思える。


フロムは、心の健康をナルシシズム(歪んだ自己愛)の超克と定義しているが、新自由主義的な生き方は、自我を肥大化(ego inflation)させながらナルシシズムを強化する働きがある。ゆえに、人々は心の健康とは真逆の方向に向かってしまうのだ。


そこからさらに、フロムの自由の定義について考えていた。


フロムは、権力に対してNoを突きつけられることが自由の証だとした。またフロムは、「~からの自由」だけではなく、「~への自由」という考え方を提唱したことは有名であり、例えば現代社会においては、人々が自分の潜在的能力を開花させるための手助けをすることへの自由や、社会の変容を希求する形で社会へ積極的に参与することへの自由などは重要な自由のあり方ではないかと思う。


だが、果たして権力に対してNoを突きつける形での自由を発揮している人がどれほどいるのか、また、種々の「~への自由」を発揮している人がどれほどいるのか疑問に思ってしまう。


現代人の大部分は、自由からの逃走状態を依然として続けていて、まるで自由を獲得する気がないかのように思えてしまう。しかしこの背後には、人々が自由から目を背けるような巧妙な仕組みがあることを忘れてはならない。


そこで改めて、フロムが指摘するところの知識の重要さを思う。知識というのは情報の単なる塊ではなく、私たちを物質的·精神的に縛っている隠れたメカニズムや力を合理的に理解するための手段となるものである。


端的には、知識はマトリックス世界からの脱却に不可欠なのだ。私たちに解放をもたらす知識を獲得していくことの重要性は、こうしたところにある。


それでは今から、アメリカのプロテスタント神学者のハーヴェイ·コックス(1929-)の“The Market As God”を読み、そこからテクノロジー哲学とマルクスの思想を絡めた“Cyber-Marx: Cycles and Circuits of Struggle in High-Technology Capitalism”を読もうと思う。


おそらく今日はそれでもまだ時間があると思うので、バーナード·スティグラーをはじめ、多くのテクノロジー哲学者に影響を与えたフランスの思想家のギルバート·シモンドンの集合的個性化の主題に関する“Gilbert Simondon’s Psychic and Collective Individuation”という書籍を読み進めていこうと思う。フローニンゲン:2021/10/12(火)10:02


7406. 時空間の圧縮と超共時性/ラディカルであること


時刻は午後4時半を迎えた。ここ最近はもう日中も随分と冷え込んでおり、暖かい格好をして室内で過ごしている。


午前中に、エリック·フロムが知識を情報の集積とみなすのではなく、解放のための道具とみなした点について書き留めていたように思う。


それにつながる形で、フランスの思想家のギルバート·シモンドンは、哲学的思索行為を、知識を活用する枠組みの絶え間ない矯正·変容だと認識していた。解放のための道具としての知識をいかに活用するかのその次元は、哲学的思索の継続とその質に依存するということを改めて肝に銘じる。


今日は合計で7冊ほどの書籍の初読を終えた。読書を通じて考えていたところを備忘録として書き留めておこう。


イギリスの経済地理学者のデイヴィッド·ハーヴェイは、ポストモダンの資本主義社会の特性を、「時空間の圧縮」に見て取った。これは、バーナード·スティグラーの「超共時性(hyper-synchronization)」の考え方につながる。


超共時的な情報技術の発達によって、時空間が極度に圧縮された。それによって可能になったこともあれば、喪失してしまったことも多々ある。


個人というものが固有の時空間の塊であることを考えると、ポストモダンの資本主義社会は、没個人化を引き起こしてしまったことが見て取れる。


圧縮された時空間を豊かに紐解いて押し広げていく試みの重要性を思う。個人としては創作活動がその試みに該当する。創作は、自分固有の内側の時空間を見つめ、それと寄り添うことによって成り立つものだからだ。


今日はマルクスとテクノロジーに関する書籍を数冊読み進めていた。先日訪れたトリアーのマルクスの生家の記憶が蘇る。そして、そこからラディカルであるということがどのような意味を持つのかについて考えていた。


ラディカルであるということは、本質に至るため、さらには問題の根に至るために時に不可欠なあり方なのではないかと思う。


ラディカルであることを拒絶する社会。均一化、画一化、標準化が跋扈するこの社会において、ラディカルであることは難しくなってしまっている。そしてそれが、物事や自己の本質から私たちを遠ざけてしまう。


ラディカルさを喪失した社会というのはどこかとても危険である。フローニンゲン:2021/10/12(火)16:43

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