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7398-7400: フローニンゲンからの便り 2021年10月10日(日)



No.2808 輝きの中で_In Brightness


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.960, Mother Nature

A splendor morning has come.

A morning breeze is singing a song for celebrating Mother Nature.

Groningen; 09:12, 10/10/2021


No.961, Today’s Adventure and Tomorrow’s One

I’ll end today’s adventure with a peaceful mind.

I hope that tomorrow’s adventure will be also exciting.

My wish will come true.

Groningen; 20:57, 10/10/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7398. 秋の実感/今朝方の夢

7399. 黄色い爆弾を食べて/超共時性の罠

7400. 穏やかな日曜日の夕方に


7398. 秋の実感/今朝方の夢


静けさに包まれたフローニンゲンの日曜日の朝。時刻は午前8時を迎えようとしているが、辺りはまだほのかに薄暗さがあり、遠くの空の薄紫色の朝焼けがなんとも言えない香りを発している。


今月の最後の日曜日にサマータイムが終了するのだが、それまではこの時間帯でも薄暗い状態が続きそうだ。


秋がやって来たという感覚がする。それを体の芯から感じている。それに幸福感を感じるのはなぜだろう。


自分が自然を実感し、自分という存在が自然の一部に他ならないと深層的な理解ができているからだろうか。


最終的に還る場所。自然は人間にとってそんな場所なのだ。


最後に還るべき場所と、今このようにして一体感を感じているということ。それがこの究極絶対的な安堵感を生み出しているのだ。


自然からの乖離。自然からの疎外。それは人間にとってあってはならないことである。


でなければ、人間は即人工物になる。非人間的なもの(inhumane)というのは、非自然的なのだ。


朝空を眺めていると、そのようなことを考え、そこから今朝方の夢について思い出していた。だが、ドイツ旅行から戻って来てからというもの、夢の逃げ足は早いままである。


覚えている場面をとりあえず書き留めておこう。夢の中で、原始人のような服装をした元気の良い少年が登場した。


その少年と私は心を通わせ、サバンナのような草原を走り回って遊んでいた。しばらく思いっきり体を動かした後に、草原の木の下でしゃがんで休息を取りながら、彼と話をしていた。


彼は目を輝かせながら、いつかこのサバンナの外の世界に出かけるんだと意気込んで話してくれた。彼の輝く目を見た時、彼の想いはきっといつか実現するだろうと思った。


彼の目の輝きは、多くの現代人の死んだ魚のような目に生気を吹き込んでくれるのではないかと思わせるのに十分だった。


そのような夢の他に、確かチェコのプラハが舞台になっている夢もあったように思う。そこでは街を散策しながら、色々なお店を外から眺めて楽しんでいたように思う。


どのような理由かはわからないが、街全体がチョコレートカラーであり、同時に街の雰囲気もダークチョコレートではなく、少し甘さのある優しいチョコレートの味がするようだった。今朝方はそのような夢を見ていた。


ドイツ旅行から戻って来たばかりだが、ドイツ旅行中に考えていたこととして、今度の旅行はベルギーの主要都市を巡るものにしようかと考えていた。その代案としてはチェコのプラハがあった。


今年の年末年始はベルギーの主要都市のどこかか、チェコのプラハで過ごそうかと思う。この計画についてはもう少し時間を置いて練って行こうと思う。


この間のドイツ旅行を通じて、再び旅行に出かけていける雰囲気がヨーロッパに漂っていることがわかったので、また積極的に旅を行う人生が再開されそうだ。フローニンゲン:2021/10/10(日)08:04


7399. 黄色い爆弾を食べて/超共時性の罠


ヒーターが今、せっせと自動で働いてくれている。時刻はゆっくりと午前8時半を迎えようとしている。この日記を書き終え、創作活動を少ししたら朝風呂にでも入ろうと思う。


今朝はどうなのだろうかということが1つある。それは昨夜食べたイエローペッパーに関するものだ。


昨夜、隣人のオランダ人のマークからイエローペッパーを1つもらったのだが、調理の時から異変を感じていた。ペッパーを包丁で切ると、ペッパーのエキスが手に染みて痛みを感じ、目からはまるで玉ねぎを切った時のように涙が滲み始めたのである。


電子レンジにかけるから辛さも随分と和らぐのではと思っていたが、そうはならず、本当に辛かったという体験を昨日の夕食の時にした。


夕食後、「イエロペッパーが辛すぎて、今夜は墓地に眠ることになるだろう」というテキストメッセージや、イエロペッパーをくれたマークに対して、「マーク、君は黄色い爆弾魔だ!」などというようなオランダ語のテキストメッセージを隣人間のメッセージグループに送った。


同じく隣人のインド人のサハルはもうオランダ語が随分とできるようであり、オーナーのペイトラさんと同様に、私のテキストメッセージを相当ウケていたようだ。彼らをオランダ語でさらに笑わせるために、今朝のある現象が鍵を握っている。


仮に今朝、排泄する際に、肛門にイエローペッパーの残り香的な刺激があったら、彼らを笑わせるためのテキストメッセージのドラフトを昨夜就寝前に考えていた。


「フローニンゲン·インサイドニュース。カトウヨウヘイ(日本人、XX歳)は、昨夜イエローボム(黄色い爆弾)を食べ、今朝方肛門から火を吹いた」というようなオランダ語のメッセージを用意しているのだが、それを本当に隣人に共有することになるのか。今からそれが楽しみだ。


昨日の夕方の読書を改めて少し振り返っている。Zoomなどのコミュニケーションテクノロジーの発達のおかげで、グローバル規模でコミュニケーションの範囲が拡張されたが、そうした技術により、バーナード·スティグラーの言葉を借りれば、世界全体が「超共時的(hypersynchronized)」になっていることを冷静になって見つめている自分がいる。


超共時性(hypersynchronization)の罠はなんだろうか。個人に焦点を当てると、それは本来個人の意識というものが通時的な(diachronic)な時間の流れによって育まれていくものであることを考えると、意識の通時性を剥奪し、それが意識の発達を疎外することを引き起こしかねないということが考えられる。


集合意識も通時的性質を帯びていることを考えると、集合意識の発達においても同様のことが当てはまるように思える。意識の通時性というのは、その個人の個性そのものであると言っても過言ではなく、それが個人の意識に歴史性を帯びさせるのだ。


個人のそうした歴史としての、個性としての通時的な性質を平坦なものにし、一律に共時的なものとしてコミュニケーションを実現させてしまう現代のコミュニケーションツールには注意深くある必要があるだろう。


今日もまたスティグラーの書籍を読み進めていき、現代のテクノロジー社会を覆っている問題や病理を特定し、その治癒と変容に向けて考察を進めていきたい。フローニンゲン:2021/10/10(日)08:48

7400. 穏やかな日曜日の夕方に


時刻は午後5時を迎えようとしている。つい今し方、近所のスーパーから帰って来たところである。


先ほど買い物に出かけた時、とりわけ今日は随分と気温が下がっていると感じた。もうマフラーを巻いている人もちらほら見かけたほどである。


明日からは天気が少し崩れ、小雨が断続的に降る日が続くようだ。


そう言えば、滞在許可証の更新の連絡がまだ移民局からない。書類を確認してみたところ、もし10/11までに更新の連絡がなかったらこちらから連絡を移民局にする必要があるとのことであり、その期限が間も無くである。期限が明日ということなので、もし明日明後日に何も連絡がなければ、今週末にでも移民局に連絡をしてみようと思う。


今日は、現代社会において液状化する記憶と人間関係について考えていた。記憶や人間関係は忘失されたり、希薄化されたりするというよりも、まるで流動的な液体のような状態になってしまっていること。その点をバーナード·スティグラーは指摘している。その意味についてさらに踏み込んで理解しなければなるまい。


自らのうちに毒を少しばかり取り入れること。ホメオパシーの考えに沿って言えば、それは身体的な次元だけではなく、知的な次元、そして精神的な次元においても重要であろう。


自分の認識の狭さや歪みを指摘してくれるような存在や書物は、ある意味自分の中に毒物を取り入れることに近しい。そんな形で日々の学習が進んでいき、気がつけばそのおかげで、随分と知的·精神的な逞しさを獲得したように思う。


人間はいつの時代も見たくないものに蓋をしてきた。真実を直視することを避けてきた歴史がある。


科学の光が当たる領域はほんの一握りであり、アカデミックの世界には語ってはらなぬことがたくさんある。探究を控えさせようとする目には見えない力が巨大に存在しているのである。


そうした見たくないものや語られないものはある種の毒物のような形で存在しているが、それらを積極的に取り入れていくことの重要性を思う。


人々がホメオパシー的な形で毒物を取り入れることができるように、光が当たっていないものに光を与えていく。それを明日からもまた意識して自らの取り組みを続けて行こう。そのようなことを思わせてくれる日曜日の夕方だ。フローニンゲン:2021/10/10(日)17:12

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