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7392-7393: フローニンゲンからの便り 2021年10月8日(金)



No.2810 無意識世界の輝き_The Brightness of the Unconscious World


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.956, Liberation

Something completely sets me free.

I have no constraints.

Something liberates me from societal restrictions.

Groningen; 07:37, 10/8/2021


No.957, Our Own Music

I can hear music from the world.

Who is listening to it?

Probably, only me.

We have our own music both inside and outside.

Groningen; 20:56, 10/8/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7392. 冬を感じさせる朝に

7393. 思い立ったが吉日/喪失を通じた発見


7392. 冬を感じさせる朝に


時刻は午前6時半を迎えた。今朝方も冷え込んでおり、今の気温は5度だ。どうやら室温が19度以下になると自動でヒーターが入るようになっているらしい。自分でそのように設定していたことをすっかり忘れていた。


明日はなんと最低気温が3度とのことだ。ドイツ旅行の前と後とではもう随分と気温が違う。ここにフローニンゲンの季節の変化を見る。


ドイツ旅行の前と後で変わったのは、何もフローニンゲンの季節だけではない。自分自身もそうだ。自分もまた旅の前後で何かしらの変貌を遂げているはずなのだ。


旅の真髄はそこにある。旅には変貌力があるのだ。


気温は低いが、今日も明日も天気はすこぶる良いようだ。明日は、家の前の雑草を抜いておきたい。


オーナーのペイトラさんからもどこかのタイミングで雑草を抜いておいて欲しいというお願いがあり、ちょうど明日は時間を作れそうであり、天気も良いようなので最適なタイミングであろう。


いつものように今朝方の夢を思い出そうとしている。ドイツ旅行から帰ってきて今日で4日目だが、依然として夢の逃げ足が早いままだ。これは何を示唆しているのだろうか。


そんな中、今朝方の夢をなんとか思い出そうとしてみると、まずは夢ではなく、夢から覚めた瞬間の自分の身体反応を思い出した。少し寝汗をかいていたようであり、目覚めた瞬間に、自分が何かに対して鼻で笑っていたことを思い出した。


それは夢の中の何かに対して笑っていたのだ。だがその笑いは、何かを小馬鹿にするようなものではなく、ある意味自分に対する皮肉な笑いだったのではないかと思う。


そこから夢の中の世界について思い出してみると、そう言えば、夢の中で自分が何かについて冷静なのだが情熱を持って説明している場面があった。場所は欧州のどこかの街であり、その街のオフィスビルの会議室の中か何かだったように思う。


登場人物としては知り合いはほとんどいなかったように思う。この夢の前には、スペインかポルトガルかどこかの街にいて、そこで英語以外の言語に触れるような体験をしていた。


しかしこの夢もまたストーリー性を持ったものとして思い出すことができず、断片的な記憶が浮かび上がってきただけだ。今朝方の夢については引き続き思い出すように試みてみよう。


昨夜、無事に創作中のゲームの動作確認が終わった。ブラウザやスマホ対応にするために、ゲームを審査にかけている最中であり、審査が無事に通過すれば、晴れて様々な形で遊んでもらえるようなゲームを世に送り出すことができる。今は静かに審査を待とう。フローニンゲン:2021/10/8(金)07:03


7393. 思い立ったが吉日/喪失を通じた発見


暮れゆくフローニンゲンの夕日を眺めている。時刻は午後5時を迎えた。


この頃のフローニンゲンは夕日が沈むのが早くなり、もうしばらくしたら辺りが暗くなってくるだろう。季節が緩やかに進行している様子を眺めながら、同時にその流れと歩調を合わせる形で呼吸をしている自分がいる。


それでいいのだという気づき。このように緩やかなリズムで生きていけばいいのである。その安心感が自分を包んでくれている。


今朝方に改めて、シュタイナー教育のカリキュラムに関する教則本を眺め、自分もシュタイナースクールの幼稚園に入園できないかと考えていた。自分の息子や娘がではなく、私がである。


数年前に、世界には84歳で小学校に入学した老人がいることや、94歳で小学校の卒業試験に臨んだ女性がいることを知り、それであれば自分も幼稚園ではないにせよ、シュタイナースクールの小学校に入れるのではないかと思ったことがあった。


これは依然として密かに温めている願いである。仮にそれが実現しなかったとしても、シュタイナー教育の本質を体現した形での学びをこれからも継続していこう。


4つ目、5つ目の修士号を取得した後に、そのまま博士課程に進み、博士号取得後に小学校に入学することができれば非常に面白いのにと思う自分がいる。


学びは幾つになっても、幾つからでも遅くはない。思い立ったが吉日。自分が面白いと思う学習対象や実践対象があったら、迷わず始めてみればいいのだ。


それが自分を呼んでくれたのだ。その呼びかけになぜ答えようとしないのか。


呼んでくれたものに対して応答すること。それが「責任(responsibility)」の本質的な意味なのではないだろうか。


呼びかけの声を聞き取り、それを受け止めながらそれに答えていくこと。学びも実践もそのような形で、いつからでも始めることができるし、いつから始めても遅いことなどないのだ。


当然ながら老いによって私たちはできなくなってくるものもある。しかし、できなくなったものがあるからこそ初めて見えてくることがある。


喪失を通じた発見というのが人生にはあるのだ。そして、発見されたそれは喪失を経験しなかったそれよりも深いはずだ。


人間発達と学習の本質を考えてみると、喪失を通じた発見というのは見過ごすことのできないものだと思われる。


今の自分もまた何かを喪失したからこその発見を経験しているのだろう。そして、それによって開かれた新たな世界が目の前に広がっていて、その世界から呼びかけがひっきりなしにやってくるのだ。


これからもこの呼びかけに応え続けていこう。自らの呼びかけに応えていくことが、きっと他者の呼びかけの扉を開くことにもつながるはずである。


そんなことを考えさせてくれる優しげな夕日がフローニンゲンの上空に広がっている。フローニンゲン:2021/10/8(金)17:20

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