No.2730 星形のリアリティ_A Star-Shape Reality
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.917, Omnipresent Devaluation
One of the problems of the modern civilization is not only materializing human beings but also the way of treating material.
Modern people not only reify their relationships but also carelessly treat material.
Here, both human beings and material are degraded.
Rampant and omnipresent devaluation is a huge problem of the modern civilization.
Groningen; 08:07, 9/21/2021
No.918, Oh My God!
Oh my God!
There are two spirits and two souls in me.
Not one but two!
Two create the one.
Groningen; 09:30, 9/21/2021
No.919, The Ultimate Reality
Reality is not one but many.
A numerous number of realities merge into one.
The one is the ultimate reality.
Groningen; 09:39, 9/21/2021
No.920, Posthumans
Future humans cannot be expressed as “posthuman.”
It should be expressed in the plural, “posthumans.”
Because a variety of new qualities of humans will come.
Groningen; 09:59, 9/21/2021
No.921, Our Life as a Palace
Is our life a complicated labyrinth?
It could sometimes be so but not always.
It can be a beautiful palace.
Groningen; 21:08, 9/21/2021
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本日の3曲
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タイトル一覧
7346. 今朝方の夢/物の扱い
7347. シュリ·オーロビンドに関する夢/ポストヒューマンの時代について/成長エネルギーの枯渇について
7348.「創造的病」/唯一無二性/忘却と創作
7346. 今朝方の夢/物の扱い
時刻は午前7時半を迎えた。静かな朝の世界が目の前に広がっていて、世界を満たしている静けさに耳を傾けている。そうすると、心が自然と落ち着いてくる。
今朝方はいくつか印象的な夢を見ていたが、今その記憶が薄らいでいきそうなので、取り急ぎ覚えていることを書き留めておきたい。
夢の中で私は、小中学校時代に住んでいた社宅の目の前の公園にいた。最初私は、小中学校時代の友人(RS)と一緒に社宅の建物から外に飛び出し、公園に駆け出していった。
彼とサッカーをして遊ぶ前に、明日に控えた世界史の授業の発表に向けてリハーサルをしようと思った。それは彼と2人1組を組んで行う発表であり、フランス革命あたりのある出来事を取り上げ、その周辺の知識を含めてみんなに発表することになっていた。
私たちはまずタブレットを用いて、発表で取り上げたい情報を確認した。タブレットから情報を引っ張って来ることが少し難しい箇所があったので、私はポケットに入れておいた教科書を取り出した。しかし友人の彼は教科書は必要ないと言い、引き続きタブレットを使って情報を検索していた。
その公園にはブランコやシーソーがあり、気がつくと、そこに多くの人たちがいた。どうやら彼らは、私たちの発表のリハーサルを見に来たようだった。
まずは友人の彼が発表をしたが、それはある1つのトピックを簡単に紹介しただけだった。私は、「えっ、もう終わり?」と思ったが、彼は今日のリハーサルはそれぐらいでいいのだという表情をしていた。
いざ自分の発表の番になったが、私も何をどれくらい発表したらいいのか事前に決めていなかったので、手元にある発表資料をパラパラとめくりながら時間が過ぎていった。最終的に私は何も発表せず、多くの人たちがいる遊具の方に向かって行った。
遊具の周辺には外国人も何人かいて、あるフランス人の中年男性が、「なぜ発表しなかったんだ?」と尋ね、私は「あの場に慣れることが目的で、あそこに立っているだけで十分にその目的を果たしたんだ」と述べた。外国人の彼にしてみれば、私の行動は謎に映ったようだった。
今朝方はその他にも何か印象に残る夢を見ていたはずである。確か、不思議なダンジョン内を探検しているような夢があったように思う。
この夢とこの夢の周辺にあった夢が思い出せそうで思い出せない。朝風呂に入りながら、それらの夢について改めて想起してみよう。こうした想起の訓練が、夢の想起力をさらに高めていくはずだ。
昨日、人間を物のように扱う物質化、そして人間の関係性それ自体が物のように扱われる物象化の現象に対して批判的な眼差しを向けるだけではなく、現代においては、そもそも物に対する扱いも歪んでいるのではないかと思った。
何かを物のように扱うことが問題なのではなく、そもそも創造物としての霊性を内包する物をぞんざいに扱うこと自体が出発点としておかしいのではないだろうか。物にも霊性が宿るという考え方をすれば、あるいは目の前の物が何らかの運命の体現者であるという考え方をすれば、物だからぞんざいに扱っていいという発想にはならないはずである。
人を含め、何かを物のように扱うことが問題なのではなく、そもそも物の認識の仕方、そして物の扱い方が杜撰であることが現代文明の1つの過ちなのではないだろうか。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2021/9/21(火)07:59
7347. シュリ·オーロビンドに関する夢/ポストヒューマンの時代について/
成長エネルギーの枯渇について
時刻は午後7時半に近づいている。この時間帯になって、今朝方の夢の断片を思い出した。
夢の中で、見知らぬ若い男性と道端で話をしていた。歩きながら彼と会話をしていると、彼がインドの偉大な思想家かつ詩人でもあったシュリ·オーロビンドを敬愛していると聞き、自分も同じだと意気投合した場面があった。そこからはオーロビンドの色々な思想について話をし、お互いにオーロビンドのお気に入りの詩を紹介し合った。
夢の痕跡を追いかけながら、今夜見るであろう夢について期待感と共に思いを馳せていた。今夜はどのような夢を見るのだろうか。
その夢は自分に何を伝えようとしているのか。そしてその夢を記録し、書き留めておくことを通じて、他者に何を伝えようとしているものなのだろうか。
午前中、ポストヒューマンについて考えていた。「ポストヒューマンの時代」という言葉をよく聞くが、実は人間は絶えず新しい人間として変容を遂げながら人類史を築いてきたのではないかと思え、ポストヒューマンというのはとりわけ目新しいことではないのではないかと思った。
実際に、ルネサンス期や過去の文学作品の中に、すでにポストヒューマンに関する言及がなされていることを見ると、やはり人類というのは絶え間なくポストヒューマンの運動を続けてきたことがわかる。
人類が今の人類を乗り越えていくというのは進化の必然なのだろう。いや、果たして今の人類が向かっている先の人類を進化の産物と捉えていいのだろうか。そのような問いかけがなされる。
意識の発達理論に多大な影響を与えた思想家のジャン·ゲプサーは、このリアリティを「視点世界(perspectival world)」と呼んだが、確かにこの世界は視点によって構築されていると言えるかもしれない。
ただし、それは認識論的にこの世界を見た場合であって、存在論的に見れば、このリアリティが視点だけで構築されているわけではないことがわかる。いずれにせよ、このリアリティの構成要素として視点が重要であることは言うまでもないい。
ゲプサーの主著“The Ever-Present Origin”は実に示唆に富む。ゲプサーはこの中で、“deficient mode(欠乏モード)”という概念を提唱している。
これは端的には、人間の成長には限界があり、無限ではないということを示唆するものである。厳密には、人間は成長の過程のどこかで成長エネルギーの枯渇現象を経験する。それを示唆する概念である。
確かに、世の中には一生涯を通じてその成長の歩みを止めることなく歩き続ける人もいるが、それは少数かつ稀である。大多数は、何らかの形で疲弊し、成長の歩みをやめてしまうのだ。
それこそ、既存のマトリックス世界の中でカネを飽くなき形で求めて疲弊したり、それに付随して心身が疲弊してしまうというのは、まさに成長エネルギーの枯渇の予兆であろう。
そうした予兆があれば、少し立ち止まってみよう。自分が何に対してどれほど疲弊しているのかを確認してみよう。
そうすれば、“deficient mode”を脱却して、有機的かつ自然な形で自分の成長の歩みを歩み続けることができるかもしれない。フローニンゲン:2021/9/21(火)19:28
7348.「創造的病」/唯一無二性/忘却と創作
時の渓谷が穏やかな形を描きながら、その風景をゆっくりと継続的に引き延ばしている。時とそれに付随する風景がゆったりとどこかに向かって伸びている。
カナダの精神科医であったヘンリ·エレンバーガーが述べた「創造的病」という概念に本日出会った。これは、突如として自分の関心や人生の方向性が劇的に変化する際に生じる精神的危機のことをいう。
こうした現象は確かにこれまでの人生の中でたびたび起こった。精神的危機が付随しない形ではあるが、今まさに自分の関心と人生の方向性が大きく舵を切っていることがわかる。
自己と人生という船に雷が落ち、自己も人生もこれまでとは全く違った方向に動き出す現象。それを何度も自分は経験してきた。ここからさらに自己も人生も方向性を大きく変えながら動いていくのだろう。
遍歴する魂を持った自己。それは安住できないという否定的な形で顕現しているのではなく、むしろ何ものにも囚われない形で自由に動けることを意味している。
自己も人生も遍歴する魂の船なのだ。あるいは、遍歴を促す海流そのものなのかもしれない。はたまた、海流を生み出した創造主として自己も人生もあるのかもしれない。
自分が自分であることは、仮に肉体が消滅した後も残ることなのではないかということについて改めて考えていた。自分が自分であることは、この自分を通じての唯一無二の事柄であり、それは肉体が消滅しても、新たな人が誕生しても変わりようのない不変的かつ普遍的なことである。
興味深い。実に興味深い。
自分が自分であることは、自分にしか起こらないことであり、それは後にも先にもこの自分を通じて一回しかこのリアリティで生じ得ないことなのだ。
全ては千変万化する。だがその事実は変わらない。絶え間なく変貌を遂げていくリアリティの中で、自分が自分であることの一回性は不変かつ普遍の事柄なのだ。
忘却、想起、そして記憶。それらは今の自分の関心を形作っているものである。
ハイデガーが述べるように、私たちは忘れることを宿命づけられた生き物であり、発達とは想起のプロセスであることを合わせて考えてみると、記憶というのは非常に重要なトピックだ。そして、想起を促す表現活動の重要性も浮き上がって来る。
表現するというのは、自己を思い出させてくれる。自己が何たるかを思い出させてくれる活動なのだ。
自分の日々の創作活動は、忘却との格闘であり、同時に善く忘れるための手段であり、想起をもたらすものである。
明日も創作をし、明後日も創作をする。創作としての人生。そして、創作としての自己。
自己も人生も創作そのものに他ならず、それは創造活動の産物であるのと同時に、そうした活動そのものに他ならない。
暮れゆくフローニンゲンの空に輝き始めた星々。その星々の1つ1つが唯一無二の存在であり、今その輝きを自分に届けてくれている。
その輝きは命のバトンである。そのバトンを受け取らないという腰抜けにはなりたくないし、そのバトンを誰かに渡せないような矮小かつ利己的な存在にはなりたくない。
自分はそのバトンをしっかりと受け取り、しっかりと誰かに渡すのだ。それが唯一無二の存在同士がなすべきことではないだろうか。
きっとそうだろう。あの星々はそうだとうなづいている。フローニンゲン:2021/9/21(火)19:42
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