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7330-7331: フローニンゲンからの便り 2021年9月15日(木)



No.2694 宇宙の遊び_Play in the Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.903, Efflux and Influx

I’m in the process of efflux and influx.

Both of them always occur simultaneously.

I’m constantly participating in them even now.

Groningen; 06:41, 9/15/2021

No.904, Givens

Time is given.

My being is also given.

All are given to me.

Groningen; 08:25, 9/15/2021


No.905, A New Sense of Reality

My sense of reality has been recently deconstructed.

It is in the process of reconstruction.

I look forward to a new sense of reality.

Groningen; 21:04, 9/15/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7330. 創造的流出と流入/今朝方の夢/複製技術の時代に

7331. マーガレット·アーチャーの内的会話理論より


7330. 創造的流出と流入/今朝方の夢/複製技術の時代に


時刻は午前6時を迎えた。この時間帯はまだ辺りは真っ暗である。


数日前には暖かい日が少しあったが、再び肌寒い日々がやって来て、来週からはまた寒さのフェーズが少し変わるようだ。最低気温がいよいよ10度を下回ってくる。この分だと、今月末のドイツ旅行の際には温かい格好をしていかなければならないように思う。


昨夜、創造とは流出なのだという気づきが降って来た。日々の創作活動は、自己の流出過程であると同時に、世界の流出過程でもある。そして、その流出が再び自己へと流入してくることが面白い。


自己と世界は絶え間ない創造的流出と流入の相互互恵関係でできているようなのだ。今日の活動もまたその両者を担う。意図的に担おうとしなくても、自己は流出即流入として絶えずある。


昨日は実験的にコーヒーを全く飲まなかった。夕方にコーヒーを飲まなかったことが影響してか、カフェインが体内に残っていない状態で就寝できたことによって、いつもよりさらに睡眠の質が高く、目覚めも素晴らしかったように思う。


今日もまたコーヒーを飲むのを控え、水だけを飲もうと思っている。数日そのように過ごし、コーヒーを再び飲み始める際には、朝だけ飲むようにし、午後にはもうコーヒーを飲まないようにしたいと思う。午後にカフェインを摂取しないことがこれだけ睡眠の質に影響を与えていることがわかったのでそのようにする。


今朝方はあまり夢を見ていなかったが、1つ覚えている場面がある。夢の中で私は、ある著名な起業家の方とプログラミングの話をしていた。ちょうど私も新しいプログラミング言語を学んでいるようであり、随分と話が盛り上がった。


そのプログラミング言語を使って、私はゲームを開発しようとしていた。そのゲームについてその方から少し意見をもらっていた。今朝方の夢で覚えているのはそれくらいだろうか。


それでは今日もまた創作活動と読書に大いに励みたいと思う。午後には部屋の掃除をしようと思う。


ジャン·ボードリアードが指摘するように、この世界にはオリジナルが特定し難い似姿(simulacra)が溢れている。ひょっとしたらオリジナルを特定することが難しいだけではなく、本当にオリジナルが喪失してしまっているものも多々あるだろう。


ウォルター·ベンジャミンが述べる「複製技術の時代」。現代という時代において、オリジナルを探し求めたり、オリジナルを生み出そうとすること自体がもう不毛なのだろうか。そのあたりを考えながら、日々の創作活動に従事していこうと思う。フローニンゲン:2021/9/15(水)06:24


7331. マーガレット·アーチャーの内的会話理論より


時刻は午後4時を迎えた。今日はすこぶる読書が捗り、おそらく8冊ほどの書籍を読み終えた。そのうちの3冊は、イギリスの社会学者のマーガレット·アーチャーのものであった。それらの書籍はいずれも読み応えがあり、今後また再読することになるだろう。


それらの書籍を読みながら、自己が内的会話を行う時に、話し手と聞き手の役割をほぼ同時に担っていることを改めて興味深く思った。これはキーガンの主体客体理論とつながってくる論点かと思う。


自己の発達は、主体を客体化させていくプロセスであり、その際に内的会話の種類や性質、そして方法が鍵を握ると思ったのである。とりわけ、自己の内側で多様な声を話し、多様な声を聞けることは主体と客体の拡張を意味する。ただし、それらが病理的に実現されてしまうと、パーソナリティ障害や統合失調症として現れてしまうのだろう。


アーチャーの社会学理論を用いて、メタバースの世界における自己と社会関係について色々と考えていた。メタバースの世界の中で、人はまた新たな内的会話を獲得するのだろうか?そこではどのような内的会話が新たに生じ、それが自己と社会関係にいかような影響を及ぼすのだろうか。そのような問いが立つ。


そこから、コンテクストと関心によって様々な種類の内的会話が立ち上がることについて考えていた。実際に、アーチャーはそれらの分類をしている。


自己変容において、内的会話の変容が鍵を握る。コンテクストによって内的会話が変化することを考えると、身を置くコンテクストを多様なものにしていくことの重要性が浮かび上がってくる。


多様なコンテクストに身を置くことによって、多様な話し手·聞き手の内的会話が生まれることにつながってくるだろう。それは主体と客体の拡張を通じた自己の発達を後押しする。


モダンの幕開けとは、自律的な内的会話の発生だったというアーチャーの指摘が興味深い。確かに、それまでは社会文化的に内的会話さえも抑圧され、自律的な内的会話が困難な時代が続いていたのだ。翻って現在においても、自律的な内的会話、すなわち自分の真の内なる声を聞き、それを発することは難しいことに変わりない。


自律的な内的会話は、メタ的な自己批判的会話を可能にする。それが可能になった後は、社会批判的会話が芽生え始める。これは、具体的な社会問題を批判的に捉えるという次元のものではなく、自己を取り巻く社会の構造そのものへ批判意識を向ける類の内的会話である。


自己そのものだけではなく、自己を取り巻く社会環境そのものをメタ的に捉え、それについて内的会話を行える段階が芽生えること、それこそが後慣習的段階の芽生えである。フローニンゲン:2021/9/15(水)16:12

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