7298-7303: フローニンゲンからの便り 2021年9月6日(火)
- yoheikatowwp
- 2021年9月9日
- 読了時間: 16分

No.2676 迫り来るリアリティ_A Coming Reality
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.882, Incessant Novelty
A new world is emerging.
Incessant novelty is key to reality.
It is applicable to me, too.
Groningen; 06:18, 9/6/2021
No.883, Time and Me
Time doesn’t perish.
Time lasts forever.
I almost forget that I am time and that time is me.
I don’t die.
I exist forever.
Groningen; 20:51, 9/6/2021
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本日の2曲
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タイトル一覧
7298. 今朝方の夢/無意識のリズム
7299. ベーシックインカムと人間解放/「バンオプティコン(ban-opticon)」について
7300. ベーシックインカムの導入と「経済的脱成長」
7301. 幼い経済的発想から成熟した経済的発想へ
7302. 複製の時代/今朝方の夢の続き
7303. 同時代の課題と絶えず向き合った実践的神学者ポール·ティリッヒ
7298. 今朝方の夢/無意識のリズム
時刻は午前6時を迎えようとしている。今日からまた新たな週が始まる。昨日から新たな週が始まったと思っていたが、今日が月曜日のようだ。
日々が休日のような感覚があるのではなく、それすらもう無くなっており、単純に曜日の感覚が溶解する形で日々自分のライフワークに継続的に取り組んでいるという感覚である。
文明が築き上げたくだらない曜日の区分に従う必要は全くない。少なくとも自分のライフワークや内的活動はそれらに影響を受けるべきものではないのだ。
今日もまた大いに読書をし、映画も2本ぐらい見ることができればと思う。昨日はトレーニングの日であったから、トレーニング後は休憩として映画を見ていたので、昨日は合計で3本ほどの映画を見ていた。そのうちの1本は3時間弱の長編作だったので、随分と映画を楽しんだことになる。
今朝方の夢について思い出している。今朝方の夢はどこか穏やかだった印象だ。覚えているのは、誰か友人と何かについて話をしていたことである。
話のテーマは大学受験に関するものだったような気がする。科目として数学と国語の問題集について何が良いかを話していたような気がする。選択肢形式の好きではないセンター試験の対策をしなければならず、それに向けて国語の問題集が必要であった。
好きな数学に関しては大学受験の対策を超えて、自主的に勉強を進めていこうと思っていた。そのような夢の場面があった。ここ最近は印象に残る夢を見て来ていたので、今朝方の夢の世界の穏やかさが際立つ。
数日前に、ヘンリー·ルフェーヴラのリズムに関する書籍を読んでいたことを思い出す。リズムの観点からすると、どうやら無意識にもリズムがあるようだ。どのような夢をどれくらい見るのかというリズムがそこにある。また、1つの夢の中の体験もリズムで構成されている。
全ての現象の中にリズムがあること。生物·非生物問わず、そこにリズムが絶えずあることが興味深い。
時刻は午前6時を迎え、ようやく空がダークブルーになって来た。もう少ししたら朝風呂にゆっくり浸かり、体を温めよう。
今日は午後に近所のコピー屋に行き、書籍を受け取って来たいと思う。3回分の不在配達の書籍がそこにあるため、結構な量になるのではないかと推察される。
いずれにせよ、今週もまた読書を通じた探究を深めていけることを嬉しく思う。日々は喜びと楽しさに満ちている。フローニンゲン:2021/9/6(月)06:09
7299. ベーシックインカムと人間解放/「バンオプティコン(ban-opticon)」について
時刻は午前9時を迎えた。今、優しげな朝日が地上に降り注いでいる。それはどこか恩寵的である。
先ほど、ベーシックインカムの導入による人間解放的側面について考えていた。ベーシックインカムの導入は、単に経済上の格差を是正するだけではなく、教育も大きく変え、それが人間解放につながっていくように思えた。
これまでの教育にはジョブトレーニングの要素が極めて強く見られ、それが明示的でなかったにせよ、教育を受けることは将来の仕事(労働)のためという考え方が色濃く内在している。
仮にベーシックインカムが導入されれば、人々はカネ稼ぎのための将来の労働に向けて教育を受ける必要がなくなるのではないか。その代わりに、真に自己を涵養し、自らの可能性を育み、そして社会に価値あることを行うための教育を受けようとするのではないかと思ったのである。
今、ドイツではある一定数の人を対象に、ベーシックインカムの導入実験が始まっているようだ——調べてみると、スペインやブラジルでは実験ではなく、部分導入がすでに行われていることを知った——。もちろんベーシックインカムが導入されたとしても、富める者は絶えず存在するであろうが、現在のように貧困による困窮は改善されるはずである。
そして何よりも、カネのために働かなくて良くなるというのは、自己が何者であるのかという問いと向き合わせてくれる可能性を増やし、自己がこの世界で果たす役割は何であり、それに向けて何を学び、何を実践するべきなのかを考えさせてくれる機会に繋がりうる。
今の経済状況では、多くの人にとってそのような内省の機会さえないのである。そうした問いが立たないほどに、日々の生活に圧迫され、カネのために働き続けているのだ。
ベーシックインカム導入による人間解放の可能性についてはこれからも引き続き考えていきたい。お隣のドイツの事例を含めて、すでに導入している国や議論が進んでいる国は他にもあるだろうから、そのあたりの動向を絶えずチェックしておこう。
今朝方読んでいたフロムの書籍においても、フロムは真の自由を実現する際に、知的自由、道徳的自由に加えて、経済的自由を上げていた。マズローの欲求段階説を持ち出すまでもなく、衣食住における土台は自己実現や自己超越を含めた人間の高次の可能性を開くために不可欠であり、その土台は経済的な基盤を確保することによってもたらされる。
フロムの書籍を読みながら、個人の精神病理の発達と集合の精神病理の発達は、プロセスと内容物が酷似していることを改めて思った。精神病理というのもそれが質的に深まりうるものであるから、「発達」という言葉を使うに相応しく、それは「成長」という言葉では相容れない。
今日はすでに3冊目の書籍を読み始めている。その中で、イタリアの哲学者ジョルジョ·アガンベンが、ミシェル·フーコーの「パノプティコン(panopticon)」という言葉を拡張させ、現代の監視システムによる社会体制を「バンオプティコン(ban-opticon)」と称していることが興味深く思った。
“ban”というのは「~を禁止する」という意味であり、監視システムによって移動や行動を禁止し、バンオプティコンは新たな格差を助長していると指摘している。また現代の監視システムは、もはや目に見えるようなものだけではなく、特定の場所に制約されない(non-localized)監視システムが存在しており、バンオプティコンの力は増すばかりである。
ベーシックインカムの導入によって経済的な格差が是正され、人間解放への道が少し開かれたとしても、その道を閉ざすものがこの現代社会には山積みである。それをなんとかしていかなければならないところに現代を生きる者の使命がある。フローニンゲン:2021/9/6(月)09:29
7300. ベーシックインカムの導入と「経済的脱成長」
引き続きベーシックインカムについて色々と考えていた。その中で、オランダもベーシックインカムの実験を行っていたことを知った。
カタールなどの国家の財源が潤沢な国を除いて、どの国でも財源捻出の観点がベーシックインカムの導入を難しくさせているようだ。また、ベーシックインカムの導入によって、人々が働かなくなり、経済が停滞するという議論も含め、色々と議題が浮上している。
個人的には、もちろんベーシックインカムによって働かなくなる人もいるだろうが、それが直ちに経済の停滞と結びつくかというとそうでもないような気がする。この点は実証研究が必要だろうが、思考実験的に、働かない人も引き続き何かしらの消費活動は維持するわけであり、仮に彼らが一日中ゲームで遊んでいたとしても、そこにもまた経済圏が構築されているのだから、働かないことが経済を停滞させるというのはやはり短絡的な思考のように思える。
むしろ、これまで不安に駆られて嫌々仕事をしていたことから解放され、自らの創造性を発揮させる形で真に自分が好きな仕事に打ち込む人が増えてくるのではないかと思う。働かされているという感覚、すなわち労働強制力は私たちの生産性や創造性を大きく奪うものであり、それが改善されることによって、人々がより自らの可能性を社会に対して発揮するようになり、それが経済への刺激になることの方があり得るシナリオのように思えるのだがどうなのだろうか。
オランダはまさにその発想でベーシックインカムを考えているようであり、私自身も現在は起業家としてのステータスでこの国に居住しているが、オランダはベーシックインカムの導入によって、起業家精神を社会規模でさらに育み、それが生産性や創造性の増大および社会の豊かさにつながるという発想を持っている。
ベーシックインカムについて学術的に色々と知りたいことが出て来た。その歴史、経済的効果、社会学的影響、政治的な仕組み等々を知るために、いくつか学術書を探してみよう。
書籍を探していると、非常に優れた学術書をいくつも見つけた。それらを今月末のドイツ旅行から戻って来てから注文しようと思う。今再び書籍を大量に注文してしまうと、旅行中に書籍が届き、書籍を受け取れなくなってしまう恐れがある。
ベーシックインカムの学術書を調べているときにふと、「ベーシックインカムの導入によって人々が働かなくなり、それによって経済が停滞する」という発想そのものがいかに貧困で馬鹿げていることかに気付いた。その発想には依然として、経済成長が善であるという旧態依然とした価値観が染み付いているのである。
仮に人々が働かなくなったとしても、経済の停滞を憂うよりも、労働意欲の停滞による人々の心理的側面にどのような影響が出るのかを真っ先に心配するべきではないだろうか。なぜ経済成長の話が先に来るのだろうか?ここに現代社会の依然として未熟な価値観·世界観を見る。
経済的な尺度を導入することそのものが悪いことでは決してなく、経済は本来全ての人を救うためのものであり、生活の維持·充実になくてはならないのだから、経済的な議論は大切だ。
だが、何よりも馬鹿げているのは、経済的な話が真っ先に持ち込まれ、それしか議題に上らないことである。その点に、現代人がどれだけ経済奴隷になっているかが窺える。経済的家畜ないしは経済的野蛮人は、経済的観点でしか物事を考えることができないのだ。
ベーシックインカムの導入によって、経済が停滞した場合においても、それが肯定的な「経済的脱成長」の様相を帯びる可能性もあるのだ。むしろこれからの地球共同体の維持と繁栄においてはその方がよほど望ましいように思えるのだが。フローニンゲン:2021/9/6(月)10:15
7301. 幼い経済的発想から成熟した経済的発想へ
先ほど、ベーシックインカムの導入によって、「経済的脱成長」がもたらされるかもしれない可能性について考えていた。現在、知人の鈴木規夫さんと、発達理論の可能性を徹底検証する大学院レベルのプログラムを作っているのだが、先日の対談レクチャーの際に、発達と老いの話になった。
その時の話の内容を踏まえると、現代の経済は、歪んだ成長期から深みのある老いのフェーズに入っていくべきなのではないかという考えが芽生えた。老いは決して否定的なことばかりではなく、むしろ老いによってしか開花·実現されない人間的側面がある。それは経済においてもそうなのではないだろうか。
数値だけを追い求めるような幼い経済的発想ではなく、質的な深さを求め、真に人々の幸福に資するような成熟した経済的発想とあり方が求められるように思う。ルドルフ・シュタイナーの経済的発想や仏教経済学の発想は参考になるだろう。
時代は絶望的なベールに包まれているが、そうした状況下においても光をもたらすような実践はいくつも考えられる。ベーシックインカムの導入と、良薬としてのテクノロジーの活用を切り口に、ここからまた探究を進めていこうと思う。
少し休憩を挟んで再び日記の執筆に戻って来た。労働の奴隷は労働をしない者を憎むという構図。カネを稼ぐ労働にあくせくし、それが当たり前の日常を送っている者にとって、経済的労働は心身の隅から隅までこびり付いていて、労働しない者を自分とは違う忌むべき存在と思ってしまうのかもしれない。
ベーシックインカムの導入によって、働かない人が生まれることでとやかく言う連中は、結局そうした金銭的労働に隅々まで毒された人間たちなのだろう。
働かない人たちが生まれたとしても、それが仮に彼らの心身の健康を回復·増大させることになるかもしれないという可能性について人々は考えないのだろうか。フィンランドの導入実験の成果を見ると、ベーシックインカムが導入されても、全く働かない人はほとんどいなかったようであるし、むしろ自分が意味を見出せる仕事に打ち込んだり、これまで余裕がなかった勉強に腰を据え、自分の知識とスキルを磨く人が出て来たようであった。そして何よりも、金銭的な土台が確保されていることにより、精神的な安定がもたらされたことが指摘されていた。
イギリスの哲学者ロイ·バスカーの言葉を借りるならば、空想上のユートピア思想ではなく、具体的なユートピア思想を持つことによって初めて、真に社会を豊かにする革新的なアイデアを社会に実装していくことが可能になるのではないだろうか。
理想は、ベーシックインカムの導入によって、社会規模で肯定的な脱経済成長が起こり、人々の心身の健康が回復·増進され、それぞれが真に自分なりの意味とやりがいを見出す形で仕事に従事し、社会に参画していくことである。
その実現に向けて探究と実践を続けていくことは、自分なりの意味とやりがいのある仕事であり、それは決して労働(labor)ではなく、自分にとってはやはり意味ある仕事(work)という側面を持つライフワークなのだ。フローニンゲン:2021/9/6(月)10:43
7302. 複製の時代/今朝方の夢の続き
時刻は正午を迎えた。今日もまたとても穏やかな朝の世界が広がっていた。
今朝方は日記の執筆に時間をかけていたが、それでも3冊ほどの書籍を読み終えた。それに加え、ベーシックインカムに関する学術書の調査をし、15冊ほど吟味した上で、3冊に絞った。それらの書籍は今月末のドイツ旅行から戻って来てから注文しようと思う。
先ほどはベーシックインカムに加えて、かつてジャン·ボードリヤールが述べていた「複製の時代」について考えていた。メディアを通じて流れてくるニュースは、実際にそこで起こっているオリジナルな出来事ではなく、報道という行為を通じた複製品的な伝聞知覚体験が私たちのところに届けられる。
これはマスメディアだけではなく、ソーシャルメディアにおいてもそうであるし、複製品的な情報体験の跋扈は現代社会の至る所で見られる。現代の情報デジタルテクノロジーの性質上、それは避けられないことではあるが、この現象がもたらす負の側面についてはより考察を深めていかなければなるまい。
もはや何がオリジナルかなどを議論することが不毛に思えるぐらいに、複製模倣品的な情報·サービス·体験で溢れているのがこの現代社会だ。
今、正午を知らせるサイレンが鳴った。それが鳴るのは久しぶりのように思える。であればそれは、正午を知らせるものではないのかもしれない。いずれにせよ、それがきっかけとなってか、この時間帯になって今朝方の夢の続きを思い出した。
私は夢の中で、欧州の街にいた。そこで小型犬を飼っていた。
愛犬と散歩に出かけると、見知らぬ小型犬が2匹ほど私たちについて来て、戯れついて来た。私は地面にリュックを置き、彼らと戯れていた。
しばらくすると、1匹の小型犬が置いていたリュックサックに関心を持ち、中身を漁ろうとしていた。お腹が減っているのかなと思い、私はリュックからお菓子を取り出し、それを彼に与えた。すると小型犬も愛犬もどこかに消えていってしまった。そのような夢を見ていた。
こうした夢というのは果たしてオリジナルなのだろうか、それともそれもまたコピーのような複製品なのだろうか。そして夢を生み出す無意識や意識そのものが果たしてどこまでオリジナルなのかそうでないのかについて考える。
おそらくそれら全てがオリジナルな側面とコピーとしての側面の双方を持っているように思える。オリジナルとコピーは切っても切れない関係になっている。ひょっとしたらそうなのかもしれない。
自分自身もまたオリジナルであり、尚且つコピーであるという性質。そうした両義性を持っているのが人間存在であり、同時にリアリティの本質なのかもしれない。フローニンゲン:2021/9/6(月)12:11
7303. 同時代の課題と絶えず向き合った実践的神学者ポール·ティリッヒ
時刻は午後4時半を迎えた。先ほど近所のスーパーに買い物に出かけ、その足でコピー屋に立ち寄り、書籍を2冊ほど受け取って来た。その他にも近所のショッピングモールに預けられている書籍があるので、それは明日の午後にでも取りに行こう。
スーパーに行く際にはいつもノーダープラントソン公園を横切っているのだが、今日は愛らしい光景に出会した。いつもは活発に活動しているアヒルたちが、地面にうずくまって昼寝をしていたのである。
人間が通ると顔を上げるものもいたが、中には一向に気にせず昼寝を続けているものもいた。今日は少し暖かいこともあって、彼らの昼寝は気持ち良さそうであった。
買い物に出かける前にも2冊ほどの書籍を読んでいた。今日は合計で5冊ほどの初読を終え、それらの書籍の全体感を掴むことができた。
とにかく初読の際には細部に入っていくことは極力せず、書籍全体の情報ゲシュタルトを掴むようにしている。全体像が頭に入っていると、再読が捗るだけではなく、他の書籍の全体像と組み合わさって、色々と思考が進むことを実感している。
午後の読書においては、AIを取り巻く企業社会の動向に関する書物から色々と気づきを得ていた。AIの機械学習そのものが自動化されるという時代において、自動化はさらに加速されていくように思われる。その加速は、私たちの生活の様々な活動において異常な速度をもたらすことになるかもしれない。それによる感覚変質と実存性の変質。さらには人間性の変質を思う。
そのようなことを考えながら、ポール·ティリッヒの書籍を次に読み進めていた。"The Spiritual Situation in Our Technical Society”は、“Theology of Culture”に引き続き、洞察に溢れていて大変感銘を受けた。この2冊は今後も繰り返し読んでいきたいと思う。
象徴の力が失われ、究極的関心が喪失されているというティリッヒの指摘は、「象徴の貧困化」という言葉を提唱したスティグラーの指摘と似ている。ティリッヒの本書を読んで驚いたのは、ティリッヒが「テクノロジー神学」とでも呼べる深い分析を行っていたことである。
ティリッヒもスティグラーと同様に、テクノロジーの否定的性質と肯定的性質の双方を分析していた点が注目に値する。テクノロジーは内的体験と意味生活を豊かにする形で活用することができるのだ。
ティリッヒの分析で興味深かったのは、霊的なものを顕現させる可能性としてのテクノロジーに注目していた点である。例えば、楽器というテクノロジーの産物は、音楽的霊性をこの世界に具現化させることに貢献する。
テクノロジーと人間性及び霊性に関する慧眼のみならず、ティリッヒは同時代の課題と絶えず向き合った偉大な実践的神学者であったことにも感銘を受けた。書籍の中で、当時の最先端テクノロジーや科学の課題を指摘し、宇宙開発における種々の問題についても言及している点に、彼がどれほど同時代の課題と対峙して思索を深めていた神学者だったかが見て取れる。フローニンゲン:2021/9/6(月)16:51
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