No.2665 穏やかな出現_Tranquil Emergence
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.861, A Little Bird’s Song
A little bird is whispering right now.
The song is much more beautiful than any great songs.
Groningen; 07:35, 9/1/2021
No.862, Our Multicolored Self
We are more multiple than we think.
We have to fight against the standardization and simplification of the self.
We are much more multicoloured than we imagine.
Groningen; 10:13, 9/1/2021
No.863, God & X
God is X, and X is God.
God is phantasmagoric, protean, and kaleidoscopic.
Groningen; 10:30, 9/1/2021
No.864, Eternal Novelty
Wherever I am, a new self always exists there.
In this way, I continuously evolve.
This might be what Whitehead calls the process of eternal novelty.
Groningen; 16:06, 9/1/2021
No.865, Ecstatic Speaking
I often feel ecstasy while speaking about what I’m interested in.
Ecstatic speaking happens when my mind and body align with each other.
This principle applies to any other creative activities in my daily life.
Groningen; 16:12, 9/1/2021
No.866, Gratitude and Flourishing
I have a deep feeling of gratitude.
This feeling cultivates my soul and spirit.
My existence continues to be flourished with this feeling.
Groningen; 20:47, 9/1/2021
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本日の3曲
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タイトル一覧
7284. 今朝方の夢
7285. ポストヒューマニズムの先駆け的思想家フレデリック·ニーチェ/合理性のフラットランド化
7286. トレーニングを終えて/本日の読書より
7284. 今朝方の夢
時刻は午前6時半を迎えた。今の気温は15度ほどあるが、秋の朝を思わせるほどに寒く感じる。
今日から新しい月を迎え、9月となった。気がつけば、今年もあと4ヶ月になったということである。
起床してすぐに洗濯機を回し始めた。洗濯機が止まるまでまだ時間があるので、今朝方の夢を思い出すことにしよう。夢の中で私は、小さなサッカーコートの上にいた。それはフットサル用のコートよりは大きく、サッカーのコートよりも小さかった。
コートの周りにはちゃんと観客席があり、観客がたくさんいた。どうやらこれから日本代表の試合があるようであり、なんと私もメンバーのうちの1人だった。試合開始までのアップの際に周りを眺めてみると、数人ほどの大学時代の先輩や同期がいた。彼らも日本代表に選ばれていたようだった。
彼らの方がサッカーがうまかったこともあり、また元々の日本代表には選りすぐりの選手がいたので、私には出番がないだろうと思っていた。いざアップを始めると、ポジションごとに選手を競わせるような練習になった。その練習が始まってすぐに、目には見えない監督が私が先発出場すると告げた。
私は仮に試合に出られたとしても後半の最後の数分だけだと思っていたので、それは大きな驚きだった。初めて代表に呼ばれて、いきなり先発するというのは少しプレッシャーがあったが、なるようになるだろうと思って出場した。
最初監督は私をフォワードで出場させようとしたが、戦術を変更して、私は右サイドバックで出場することになった。ポジション的によく走らなければならず、結構きついポジションを任されたぞと思った。
相手は南米の国であり、ポジション的に私が対峙する選手はテクニックがあり、足が早かったので、一番嫌な相手であった。しかしながらいざ試合が始まってみると、卒なくプレーをこなすことができたばかりでなく、右サイドバックというポジションながら、前半開始早々にオーバーラップした際に得点を奪うことができた。得点を決めた時に、代表での初ゴールを大きく喜ぶかと思ったらそうではなく、笑顔もほとんど出ず、とても冷静だったのを覚えている。
今朝方はそれ以外にも何か夢を見ていたように思うが、少し記憶が曖昧になっている。後ほど朝風呂に入りながら思い出すように試みてみよう。
昨日は、AIが水や電気のように当たり前のように存在して活用される時代が近い将来にやって来るかもしれないということについて考えていた。そのような時代がやって来ると、水道代や電気代のように、一般人は「AI代」なんてものも課せられるかもしれない。
今日もまたテクノロジーに関するいくつかの書籍を読み進めていこう。一昨日に続き、昨日も4冊ほどの書籍を読み進めた。今日は午後からトレーニングがあるが、それまでの時間は存分に読書に充てたいと思う。フローニンゲン:2021/9/1(水)06:50
7285. ポストヒューマニズムの先駆け的思想家フレデリック·ニーチェ/
合理性のフラットランド化
洗濯機の回る音が激しくなってきた。もう少ししたら洗濯機は止まるであろう。時刻は午前7時を迎えようとしているが、まだ辺りは薄暗い。日の出の時間も遅くなり、雰囲気はすっかり秋である。これから植物たちが色づいてくれば、なお一層のこと秋を感じさせるだろう。
昨日にポストヒューマン関係の書籍を読んでいると、フレデリック·ニーチェがポストヒューマニズムの先駆け的思想家であることに気づいた。そこからニーチェに関心が向かい、ニーチェ記念館について調べてみたところ、ドイツに3箇所ほどあることがわかった。
1つは今から5年前に訪れたライプチヒの街の近くであり、残り2つはそこからそれほど離れていなかった。今月末の旅行では、ベートーヴェンの生家とマルクスの生家に行く。それらは今は記念館になっている。
このように、自分が関心を持った芸術家や思想家の過ごした家の記念館に行くことによって、彼らの作品だけからはわからないことが見えて来る。彼らが肉体を持って過ごした場所を共にすることによって、また新たな実存的理解の境地が開かれる。
ニーチェに関してもそのような形で彼の世界を理解したいと思う。それは往々にして書物よりも大きな学びを自分にもたらす。
このところは合理性というものに関して様々な思想家の考え方を調査していた。合理性の肯定的な側面·否定的な側面について言及した思想家は数多く存在する。あえて1人挙げるとすれば、合理性の問題を指摘した先駆けとして、マックス·ウェーバーを挙げたい。
ウェーバーは、資本主義社会で台頭した2つの合理性について言及していた。1つは“substantive rationality”と呼ばれるものであり、これは「実在的合理性」とても翻訳することができるだろうか。そしてもう1つは、“formal rationality(形式的合理性)”と呼ばれるものである。
端的に述べれば、前者は、規範性に基づいた何かしらの意味を追求するために発揮される合理性である。例えば、当時の社会情勢と照らし合わせれば、拡大する人口に対してどのように食糧を供給するかという点に関する規範性に応答するために発揮される合理性である。
一方で、形式的合理性というのは、規範性に対して合理性を発揮するのではなく、ある目的の遂行のためにいかに効率よくそれを遂行できるのかを考えていくために発揮される合理性である。のちにウェーバーが合理的組織としての官僚制の問題を指摘した際に取り上げられていたのはまさに形式的合理性の問題である。
現代社会を眺めてみると、本来は多様な形かつ多様な領域で発揮できる合理性がひどく矮小化かつ歪曲化されてしまっていることに気づく。ウェーバーの概念に限ってみると、実在的合理性が弱体化し、それは一様に形式的合理性に取って変わってしまったかのようだ。
この現象をケン·ウィルバーの「フラットランド化」と照らし合わせてみると、「合理性のフラットランド化」と呼ぶことができるかもしれない。合理性が本来持つ豊かな意味と機能を取り戻すこと。それをしなければ、社会はますます平面的かつ無味乾燥なものになってしまう。フローニンゲン:2021/9/1(水)07:08
7286. トレーニングを終えて/本日の読書より
時刻は午後4時を迎えた。今日は午後にトレーニングを行い、その後に再び読書を行って今に至る。この日記を書き終えたら、今日もまたノベルゲームの創作に取り掛かろう。
今日のトレーニングでは引き続き大胸筋と上腕三頭筋を中心に鍛えていた。最近は負荷の掛け方のコツが掴めてきて、狙った場所にきちんと負荷が掛けられているのがわかる。トレーニングをした箇所がきちんと張る感覚があるのである。
ここからもしばらくはそれらの箇所を重点的に鍛えていく。最初から筋肉がついている箇所については継続してトレーニングをしていき、緩やかに筋肥大をさせていこう。
今日は結局、5冊ほどの書籍の初読を終えた。午前中から読書が捗り、明日もまた同じくらいの読書を行おうと思う。読書を通じて色々と考え事が進んでいく。本日考えていたことを備忘録として書き留めておこう。
自己のアイデンティティが不明瞭·不明確の場合、ナショナリズムを通じて人々は集団のアイデンティティに同化するような動きを見せるのかもしれない。すなわち、ナショナリズムの高騰は、個人のアイデンティティの揺らぎと関係しているのかもしれないということを考えていた。
人は自己同一性をなんとか保とうとする形でこの世界を生きている。それが揺らぐ時、何かにすがるようにしてそれを維持しようとし、ナショナリズムというのは大きな自己同一性をもたらす上で格好の的になるのだろう。
ミシェル·フーコーはかつて、“governmentality”という言葉を通じて、私たちの自己は様々な形で統制されていることを指摘した。今日の読書においても何度もその用語が現れた。明日の読書では、“Technologies of the Self”という書籍を読もうと考えていて、その書籍の中でもフーコーのその考え方は重要になるだろう。
もう1つ考えていたこととして、ハーバート·マークーゼは技術の有効活用による社会変革を訴えたが、ヨルゲン·ハーバマスはそれを批判し、対話による社会変革を訴えていたことがある。両者の見解を俯瞰的に眺めると、どちらの観点における変革も重要である。
ケン·ウィルバーのインテグラル理論を用いれば、マークーゼは右下象限を出発点にした変革を希求し、ハーバマスは左下象限を出発点にした変革を希求していたのだ。さらには、マークーゼとハーバマスに多大な影響を与えたテオドール·アドルノは、芸術の力を強調し、アートを通じた人間解放を希求していた点において、彼のアプローチは左上象限に重心を置いていると言えるだろう。
人間性を喪失した技術社会において、美的領域、とりわけ芸術の役割を考察した点は重要である。しかし重要なことは、いずれのアプローチも価値と限界を内包している点を弁えておくことであり、テクノロジーを通じた人間解放、対話を通じた人間解放、芸術を通じた人間解放のいずれも重要なアプローチなのだ。
それぞれ限界を抱えているがゆえにそれらを包摂·統合した試みを実践していく必要がある。そのようなことを改めて考えていた。フローニンゲン:2021/9/1(水)16:27
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