No.2296 心の中から_From the Mind
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.654, Cultivating My Inner Eyes
Noticing not only rich experiences and events but also mechanisms and structures that generate those experiences and events is crucial for me.
Whatever I experience, I always try to see the deep realm of the experience.
This practice would cultivate my inner eyes to discover the root problems of the modern civilization.
Fully cultivated inner eyes are prerequisite for transforming our pathological civilization.
Groningen; 06:19, 5/28/2021
No.655, Small is Beautiful
Every one of my creations should be as small as possible, following Schumacher’s statement: “Small is beautiful.”
Small is attractive and creative to me, which is the basic principle of my creative activities.
Groningen; 10:49, 5/28/2021
No.656, A Season
Everything has a specific season.
In which season am I now?
Groningen; 20:31, 5/28/2021
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本日生まれた3曲
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タイトル一覧
6977. 今朝方の夢
6978. ここからの探究に向けて
6979. 物語の提出に向けて
6980. 前提条件の種々のおかしさを問う
6981. 経済学のシャドー・経済学のフラットランド化
6982. ピアジェの発達の原則と仏教経済学との共通点
6983. 「小さいことは美しい」という言葉より/14冊の書籍を注文して
6977. 今朝方の夢
時刻は午前5時半を迎えた。今、朝焼け空が目の前に広がっていて、それを眺めながらこの日記を書いている。
今朝は小鳥たちの鳴き声に迎えられる形で目覚め、今も彼らの鳴き声が辺りに響き渡っている。本当に穏やかな生活空間がここにある。
来週からようやく気温が上がってくるようだが、今朝方もまだまだ寒く、暖房が自動で入っていた。今も引き続き暖房が入っていて、家全体を温めてくれている。
今日は天気が良いようなので、午後にでも買い物に出かけたい。太陽の光を存分に浴びれることがとても嬉しい。
今朝方の夢を振り返り、今日もまた旺盛に探究活動と創作活動に取り組んでいこう。今、日々が本当に充実している。
夢の中で私は、サッカーグランドにいた。そこは芝のグラウンドではなく、土のグラウンドだった。そこで私は、元日本代表のある選手とドリブルシュートの対戦をしていた。片方がキーパー役になり、もう片方がシュートを打つというルールでその対戦は行われた。
実はその対戦の前にPKでも対戦をしていた。その対戦は私が関わるものではなかったのだが、どうしても自分がキッカーを務めたくなり、その選手が本来キッカーを務めるところに割り込み、それであればどちらがキッカーにふさわしいかをPKで決めようということになったのである。
最初にキッカーを務めたのは自分であり、ボールをセットする際に、ボールの近くに大量のバナナが積まれていて、それが邪魔だったので、それらを横にどけた。いざボールを設置してキーパー役を務めているその選手の方を見た時に、キックする前にゴールに入ることがわかった。
左右のどちらに蹴ってもゴールに入るイメージがあり、これは楽勝だと思った。とは言え、ミスはできないと思ったので、呼吸を再度整え、冷静になってキックしようと思った。得意なのは左隅を狙うことだったが、今回はあえて右の方向に蹴ろうと思った。
助走を始め、いざキックすると、見事にそれはゴールに決まったのだが、危うく防がれてしまうような甘いコースだった。ボールが低く飛んだからよかったものの、それがもう少し浮いていたら止められていたのではないかと思う。
こちらのキックが終わったので、次はその選手がキックする番になった。するといつの間にか自分はその選手のキックを防いでいて、ドリブルシュートの対戦に入っていた。
ドリブルシュートの対戦では、その選手がプロであることを突きつけられた。シュートの重さが全く違い、とてもパンチ力のあるシュートが飛んできて、最初の一球こそ防いだものの、そのシュートは重たく、止めた時に衝撃の痛みがあった。
そこから2球目、3球目に関してはゴールを決められてしまった。そのような夢を見ていた。この夢の前にも何か印象的な夢を見ていたように思う。それもまたサッカーの夢だったのではないかと思う。
そう言えばその際には芝のグラウンドで、今の日本代表のある小柄な選手と一緒に練習をしていた。リフティングをしながらパス交換する練習に始まり、その他にもいくつかの練習を楽しみながら行っていた記憶がある。フローニンゲン:2021/5/28(金)05:53
6978. ここからの探究に向けて
朝日が昇っていく美しい光景を眺めている。こうした晴れの日の朝は、先週末に新しく仕事場にした一角に朝日が差し込んでくる。柔らかい朝日を浴びながら種々の活動に従事できることほど幸せなことはない。今日も優しい太陽の光に包まれながら、探究活動と創作活動に打ち込んでいこう。
ここのところの自らの変貌に自分でも驚いてしまう。自分の中で何かが終わりを告げ、また新しいことが始まった。とりわけそれは探究活動において顕著に現れている。
超えて含むということ。それが今の自分の姿を見事に表している。これまで学んできたことを含みながらにして大いに超えていくこと。これからまた大きな跳躍を遂げるであろう。
探究テーマが明確となり、今続々と探究に必要な学術書が自宅に届けられている。昨日の日記で書き留めていたように、広義には文明批判を通じた文明変容に寄与していくことが自分の役割のようだということに気づき、その大掛かりな取り組みに向けて少しずつ歩みを進めていく。その役割を全うするために学ぶべきことは極めて多いが、何を学ぶべきかは明確になっている。
個別具体的な学問領域で言えば経済学と宗教学、さらには生態学·環境学も含まれる。重要なことはそれらを単独で学ぶことではなく、それらを架橋させる形で学んでいくことである。なぜならば、それら3つはお互いに影響を及ぼし合っていて、互いに複雑に関係し合っているからである。
そして重要な点は、人間が生み出した経済や宗教が機能不全に陥っていて、それが地球環境に影響を及ぼしているという点を起点にして探究を進めていくことである。そうした個別具体的な領域の学習を進めていきながら、発見した構造的問題にアプローチする際にメタ理論が必要になる。それがまさにインテグラル理論、批判的実在論·メタ実在論、批判理論である。
インテグラル理論に関する探究は随分と進んだこともあり、後者2つの理解をこれから深めていく必要がある。この点に関してもバスカーの著作は全て保有しており、それらの書籍を読み進めながら、バスカー以外の研究者が執筆した批判的実在論およびメタ実在論に関する書籍を読み進めていく。
このメタ理論はインテグラル理論以上に関わる学者が多く、さらにはオータナティブではなく正統的な学術世界の中での地位を確立していることもあり、書籍と論文が非常に充実している。論文を含めてそれら全てを読み進めることはできないだろうが、自分のテーマに合致するものは基本的に全て読もうと思っている。
残念ながら論文に関しては、学術機関に所属していないとアクセスしづらいこともあり、まずは学術書を中心に読み進めている。こうした事情も学術機関に再び戻ることの動機になっているかもしれない。それは小さいことだが、探究を進めていく上では重要なことでもある。
批判理論に関しては、フランクフルト学派の書籍を読み進めていく。過去数年以内にも批判理論に関する書籍は読んでいたが、その時は関心事項がまるっきり違う。
むしろこれまでは明確な主題設定をしないままに批判理論に触れていたように思う。だが今は、経済、宗教、地球環境の繋がりと3者それぞれに含まれる構造的な問題と、経済と宗教が地球環境に及びしている構造的な問題に主題設定が明確になされており、そうした主題設定のもとに批判理論の書物を読むことがこれから始まる。
エドガー·モリンが提唱したメタ理論である複雑性思考については、彼がフランス語の著作物しか残しておらず、英語で入手できるのは1冊ぐらいであり、探究が難しい。だがこの領域はフローニンゲン大学に在籍していた時に学習していたこともあり、さらには自分のテーマの問題解決に向けてそれほど新しい視点を提供してくれないのではないかという思いもある。
どうしてもそれは右側象限の記述に留まるように思え、その点が彼のメタ理論を深く学んでいこうという気持ちにさせない理由である。ひょっとするとモリンのメタ理論もまた探究に必要になってくるかもしれず、それを捨象しない形で保留しておくというのが大事になるだろう。
いずれにせよ、ここからは本当に集中的に探究を進めていきたい。それに向けた気力が自分の内側に満ち溢れている。フローニンゲン:2021/5/28(金)06:13
6979. 物語の提出に向けて
優しく降り注ぐ朝日、そして優しく響き渡る小鳥たちの鳴き声。それらに全身を包まれながら静かに佇んでいる自分。
先ほど朝風呂に入っている時に、博士課程への進学について考えていた。それは以前から何度も考えていたことなのだが、ここ最近は再び博士課程への進学に向けて動機が高まっている。
いつもこの動機は揺れ動き、結局いまだに博士課程には進学しないまま今に至る。アカデミックな世界での窮屈さがどうにも自分には合わず、まだアカデミックな世界では語られないようなことに自分の関心がいつも向きがちであることが、長くアカデミックな世界に留まらせることをこれまで避けさせてきた。
博士課程に進学するとなると、最低でも4年間はそこに留まらなければならない。そうしたことも苦痛に感じさせず、むしろ自分の探究を自由に何の囚われもなく探究できる学術機関があればと思う。
今のところはとりあえず、神学校に進学したとしても、そこで2つか3つほどの修士号をまずは取得してみて、そこから博士課程への進学を考えてもいいように思っている。博士号取得と大学機関に所属することには一切関心がなく、教授になることも一切関心のない自分にとっては、博士課程の進学は人生の中のいつの時期でもいいのだ。
フローニンゲン大学で私の論文アドバイザーを務めてくださっていたサスキア·クネン教授は、当時私以外に、博士課程に在籍している70歳近くの女性の学生のアドバイザーも務めていた。クネン教授曰く、その女性もまた自分の関心テーマを論文の形にまとめるために博士課程に進学し、決して大学でポジションを得ようなどと考えていなかったとのことだった。自分も全くそうである。
博士論文の執筆が、どこか世界に共有したい物語の執筆のように思えてくる。それは現代文明の病理を指摘しながら、文明の変容に向けた物語である。
この世界を覆う物語そのものを変容させていくこと。そこには文化も制度も含まれる。そして個人や集合の意識も含まれる。それらをひっくるめての文明である。
相対的リアリティのこの世界においては、絶対的リアリティをいかに認識するかは変容に向けた鍵であり、同時に現在の相対的リアリティの物語の問題は何なのかを突き止めながらにしてそれを変容させていくことが重要になる。
新しい物語の提出に向けて、日々の探究をゆっくりと進めていく。その先に神学校への進学がやって来るかもしれないし、博士課程への進学がやって来るかもしれない。
変容の物語の提出に向けた準備は着実に揃いつつある。少なくともそこに向けた道は随分明瞭なものになっている。
物語の中での実証データの取り扱いについて先ほどふと考えていた。もちろん物語の中でそうしたデータを活用するはずであるが、それはバスカーの言葉で言えば現実世界(the actual)の出来事に関する表面的な現象に過ぎない。あるいは、現実世界の出来事に関する表層的なパターンの特定に過ぎないのだ。
重要なことは、現実世界ではなく、実在世界(the real)で生起するそうした出来事やパターンを生み出す構造やメカニズムそのものの特定していくことなのだ。バスカーの存在論を思い出そう。
現実世界の出来事やパターンは、人間のダイナミックシステムかつオープンシステムの特性から変化しうるものであり、それは他動的(transitive)なのである。一方で、出来事やパターンを生み出すものは、人間から独立した形で存在している自動的(intransitive)なものなのだ。その点を考慮に入れたデータ——定量・定性の双方を含む——の取り扱いを行っていく。フローニンゲン:2021/5/28(金)07:27
6980. 前提条件の種々のおかしさを問う
朝の穏やかさが継続している。時刻は午前10時を迎えたが、今もまだ小鳥たちが美しい鳴き声を上げている。静かな朝の世界の中で、自分の取り組みは静かに進行していく。
昨夜、デンバーの丘の家に3年ほど籠もって『進化の構造』を書き上げたケン·ウィルバーのことを思った。また、ノルウェーのソグネフィヨルドの最奥部の山中に建てた山小屋に籠もって『論理哲学論考』を執筆したウィトゲンシュタインについても思った。
孤独な観想生活の中で自らの仕事に打ち込んだ2人の思想家に強く共感と共鳴する自分がいる。今の自分は彼らとどこか同じような生活を送っている。それは外面上の生活様式だけではなくて、内面生活に関することもだ。むしろそちらの方が重要である。
ある種の使命感のようなものに突き動かされ、静かな場所に籠もって孤独のうちに仕事に打ち込まざるを得なかった彼らに強く共感する。
小鳥たちの鳴き声が、孤独さを溶かしていく。周りの優しげな環境がそれを溶かしていく。
先ほどまでの読書の中で、既存の経済·金融の歪みについて全象限的に考えようとする自分がいた。特定の歪みではなく、全象限に渡る歪みを特定していくこと。そして、おかしな前提条件を全象限的に突き止めていくことが重要である。
経済·金融を取り巻く発想に焦点を当ててみた時に、そこにはやはり無限成長的な発想が横たわっていることにすぐさま気づく。そもそも経済·金融活動は物理的な次元と切っても切り離せない関係になっており、概念や数値で動く抽象的な経済·金融空間でさえも、下部ホロンである物質圏と生物圏と切っても切り離せない関係になっている。
それらの下部ホロンの資源は有限であるという根本的な認識。その認識を強く自覚し、その認識を育んでいくことは早急に手をつけなければならないだろう。これからますますデジタル化、及びデジタライゼーション化が進む中で、人間の意識はますます抽象的かつ無限増殖的なデータの世界に強く軸足を置くことになるだろう。その際に、自らの命を含め、人間存在と社会の根幹は、物質圏と生物圏が有限性を前提にして成り立っていることを忘れてはならないように思う。
資源の有限性を考えてみた時に、それに気づかない形で無限成長を前提とした経済活動および社会運営は危険である。経済活動は物質圏と生物圏の隅々にまで行き渡っており、それらの領域は有限という性質に裏打ちされているがゆえに、無限成長を暗黙的な前提とした経済活動の危険さが浮き彫りになって来る。
その他にも様々な前提のおかしさがあるはずだ。経済·金融を取り巻く思想的な前提条件の誤りだけではなく、技術的、方法論的前提のおかしさを見つけることができるだろう。そのような問題意識から、引き続き今日の読書を進めていこう。フローニンゲン:2021/5/28(金)10:31
6981. 経済学のシャドー・経済学のフラットランド化
時刻は午後3時半を迎えた。今日は朝から本当に天気が良く、早朝から今にかけてとても清々しい。あと1時間ほどしたらジョギングがてら買い物に出かけようと思う。
午前中の読書が今日も捗り、その中で色々なことを考えていた。1つには、テクノロジーの拡大する社会の中で、テクノロジーの使用と仏教思想をどのように架橋させていけばいいのかについて考えていた。
テクノロジーの発展とその浸透の波を食い止めることはほぼ不可能であり、また新たなテクノロジーにしかなし得ない価値も確かに存在していることを考えると、テクノロジーの発展を抑制するのではなく、むしろそれをどのように有効活用していくか、その点に関する思想上のガイダンスのような役割を仏教思想が担えないかと考えていた。
次に考えていたのは、既存の経済学の狂気に関してである。経済学の狂気の1つは、その議論の中で人間性や存在論的な側面を蔑ろにし、物理学に対する羨望の眼差しから、その方法論を論理実証的な形で、すなわち定量的側面だけを洗練化させることに躍起になっている点が挙げられる。
それは経済学のシャドーの1つとして数えることができるだろう——まさにこれは経済学のフラットランド化である——。エルンスト·シューマッハもこの点に同種の問題意識を持っており、経済学のそうした態度が、経済学から人間性や実存性、さらには霊性といった側面を完全に剥奪することにつながってしまっていると指摘している。
そうした剥奪が推し進められることによって、経済学はますます人間を脱人間化させていき、そうした経済学に立脚する経済活動全般が大規模な形で人間を脱人間化させていく姿を見て取ることができる。
また、この問題は、人間と自然との分離化も推し進めてしまっているのだろう。人間と自然の非二元性を捉えることがほぼ不可能になっている現代人の背後には、経済学がそもそも人間と自然を分離し、それぞれを定量的な物体として扱う傾向が強いという問題がありそうである。
この観点において、仏教的な非二元の発想——その他の宗教でも必ず到達する真理——が重要になって来る。このあたり、非二元の発想を含め、霊性学的な緒認識がどのように経済学とつながっていくのか、あるいは既存の経済学をどのように変容させることができるのかは、シューマッハの経済思想やシュタイナーの経済思想を調べる過程で明らかにしていこう。
また、経済と生態系との関係で言えば、数日前に大量購入したマルクスの生態経済思想は必ず理解していかなければならない。
最後に、経済学には物理学などの高度な数式を使う学問への羨望の眼差しがあるだけではなく、経済活動が欲望や嫉妬の感情をベースにし、それらを刺激する形で運営されていることについても改めて考えていた。
この点は様々な思想家によって指摘されていることではあるが、経済学はその学問領域に固有のシャドーと向き合わなければならず、経済主体である個人は自らの欲望や嫉妬の感情と向き合うシャドーワークをしなければならないのだが、そうした方法が広く世の中で共有されていないことは悲劇である。経済学のシャドーワーク、そして経済主体のシャドーワークをどのように支援していくのか、その点も必ず考慮に入れなければならない。フローニンゲン:2021/5/28(金)15:37
6982. ピアジェの発達の原則と仏教経済学との共通点
時刻は午後4時を迎えるところである。今日は、早朝に批判的実在論を活用したノルウェーのエコ哲学に関する書籍を読んでいて、昼前からシューマッハの書籍を読み始めた。どちらの書籍からも得ることが多かったのだが、先ほどシューマッハの書籍の中で、ピアジェの思想と相通じる発想を発見した。
シューマッハが提唱する仏教経済学の発想として、労働と余暇が相互に補完し合うものであり、労働には喜びがあり、余暇には至福があるという考え方がある。この考えに対して立ち止まってみたときに、現代の日本において、果たして労働に喜びがあり、余暇に至福があるのか疑わしい。そもそも荷重労働により、余暇がきちんと確保されているのかさえ疑わしい。
また仏教経済学においては、労働とは物質的欲求を満たすための対価を得るためのものではなく、あくまでも労働を通じて自我中心性から脱却していき、自己の本質及び大きな自己に至る道であるとしている点が興味深い。この点がまさに、ピアジェが提唱した発達の原則と合致する。
ピアジェは、人間の発達とは自我中心性から脱却していくプロセスであると述べており、仏教経済学の労働の定義にもその側面が見られるというのは大きな発見であった。また、労働を通じてその個人が潜在能力を十分に発揮し、それを十分に開発するかどうかというのも仏教経済学で大切にしている労働観である。ここには人間性心理学的な発想を見て取ることできる。
その他にシューマッハが指摘していたことを思い出しいている。その他には、経済指標がフラットランド化の産物であることをシューマッハも見抜いている。端的には質的差異の無視が既存の経済学で横行しているのである。
客観的な学問として経済現象を捉えていく際に、定量化することは避けて通れない側面もあるだろうが、まずは質的差異を認めるということを経済学が行わなければ——経済学が当該学問領域のタブーや盲点と向き合うというシャドワークをしなければ——、依然として数字の暴力が横行することになるだろう。そこから経済学は、既存の方法論を見直していくことが必要になるだろう。
また、経済指標を見る私たち1人1人が、そしてそれを取り上げるマスメディアが、数値の背後にある意味や物語を汲み取ろうとする態度も重要になり、そうした態度が私たちやマスメディア側に欠落していることも経済のフラットランド化を推し進めてしまっていることの1つの要因だろう。
インテグラル理論や批判的実在論の観点を採用すれば、経済学のフラットランド化の問題は根が深いが、それを乗り越えていく方法がないわけではないことが見えて来る。それを乗り越えていく大小様々な実践が必ずある。
最後に、シューマッハの発想で興味深いと思ったのは、大量生産型のテクノロジーは、ひどく暴力的であり、資源を食いつぶし、人間を脱人間化させていくことに加担するが、非中央集権的な生産テクノロジーはそれとは反対の性質を持つと述べている点である。
これはまさにブロックチェーン技術の発想の根幹に当たるものであり、シューマッハが非中央集権型の生産に対して具体的にどのような点を評価していたのかを調査していこう。そして、それを現代のブロックチェーン技術の思想と仕組みと合わせて考察してみようと思う。フローニンゲン:2021/5/28(金)16:07
6983. 「小さいことは美しい」という言葉より/14冊の書籍を注文して
時刻は午後7時半を迎えた。今、穏やかな夕日の光を浴びながらこの日記を書いている。
今日は実に素晴らしい天気であり、久しぶりに暖かさを感じたように思う。夕方にジョギングがてから買い物に出掛けたときはとても清々しかった。通り抜けたノーダープラントソン公園は、どこか輝いて見えた。
今日もまた読書が捗っていた。それは単に多くの時間を読書に充てたということではなく、読書から得られた事柄によって色々とアイデアが生まれ、それを日記に書いたり、音声ファイルの形にしていったということである。このように、得られた事柄は絶えず何らかの形で世界に共有していけたらと思う。
エルンスト·シューマッハの「小さいことは美しい」という言葉は、自我の肥大化に対する警鐘の意味が多分に含まれているように思える。無限成長が所与の神話として信奉されている現代の経済·金融の世界において、シューマッハの言葉は立ち止まって考えるに値する。
「発達はゆっくりな方が望ましい」というピアジェの言葉と相まって、シューマッハの言葉には色々と考えさせられることがある。小さいことの美しさ。その点について、これから様々な角度から考察を深めていこう。
今日の午後に、スロヴェニアの哲学者スラヴォイ·ジジェクとフランスの哲学者バーナード·スティグラーの著作物のいくつかが自分の関心テーマに大いに合致していることを知った。ジジェクに関しては前から注目をしていた哲学者なのだが、過去に読んだことがあるものはわずか1冊ほどだった。しかもそれは現代文明批判の類のものではなく、ドイツ観念論に関する哲学書であった。結局今日もまた、合計で14冊ほどの書籍を購入した。
アマゾンから大量の書籍が隣人のサハルの家に一昨日と昨日に届き、昨夜サハルから書籍を受け取る際に、サハルは笑いながら「ベゾス(アマゾンCEO)をまた金持ちにしてるね(笑)」と述べ、それに対して私は、「そうだね、随分と彼に貢献していると思う(笑)」と笑いながら答えた。
実は今日もまた何冊かの書籍が届く予定である。午後に郵便受けに入っているものについては既に受け取っていたのだが、郵便受けに入らないような書籍が今夜届く。またしてもサハルに受け取ってもらうことになるのだろうか。
サハルには、現在重要な研究に従事しているとだけ伝えているのだが、これだけ連日書籍が届けられると、さすがにサハルも驚くだろう。今度サハルに何かお礼をしようと思う。
本日購入した書籍の中では、とりわけスティグラーの技術社会に関する論考が自分の問題意識と非常に関係しているように思える。テクノロジー依存型の現代社会において、テクノロジーがもたらす負の側面について考察を深めていくことは必要不可欠である。本日購入したものを備忘録として下記に記載しておく。
ジジェクの著作物
1. Like a Thief in Broad Daylight: Power in the Era of Post-Human Capitalism
2. Trouble in Paradise: From the End of History to the End of Capitalism
3. Living in the End Times
4. Sex and the Failed Absolute
バーナード·スティグラーの著作物
1. The Age of Disruption: Technology and Madness in Computational Capitalism
2. The Lost Spirit of Capitalism: Disbelief and Discredit
3. Symbolic Misery- Volume 1: The Hyperindustrial Epoch
4. Symbolic Misery, Volume 2: The Catastrophe of the Sensible
5. For a New Critique of Political Economy
6. The Re-Enchantment of the World: The Value of Spirit Against Industrial Populism
その他にもイギリスの批評家であるマーク·フィッシャーとアメリカの精神分析家かつ映画批評家でもあるトッド·マクゴーワンの書籍も関心事項に合致していたのでいくつか購入した。
マーク·フィッシャーの著作物
1. Postcapitalist Desire: The Final Lectures
2. Capitalist Realism: Is There No Alternative?
トッド·マクゴーワンの著作物
1. Capitalism and Desire: The Psychic Cost of Free Markets
2. Enjoying What We Don't Have: The Political Project of Psychoanalysis
おそらくこれで一旦は書籍の注文が落ち着き、あとは必要に応じて関連書籍を購入していきたいと思う。書籍との出会いもまた運命的なものであり、出会えた書籍に感謝しながら、そこで得られた事柄を必ずやこの世界に還元していきたいと思う。フローニンゲン:2021/5/28(金)19:50
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