No.2269 静かな上昇_Silent Ascension
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.629, A Dream
I had a dream last night.
The dream was filled with enthusiastic feelings.
When I woke up, the feelings still remained.
A dream is efficacious, that is, it affects the awakening self.
In that sense, a dream is real.
Surely, it is real.
Groningen; 05:18, 5/20/2021
No.630, A Peaceful Death
While taking a bath, I was thinking about and feeling a peaceful death.
It is a death that we die as if we gently enter in a dream world.
I’m still feeling the experience of the peaceful death in the early morning.
Groningen; 06:56, 5/20/2021
No.631, A Kosmic Playground
The Kosmos can be a playground.
It must be.
Everything can play together in the eternal playground.
Groningen; 07:40, 5/20/2021
No.632, A Plant and Seeds
It is really difficult to create a good plant from bad seeds.
Also, it is puzzling that good seeds do not necessarily create a good plant.
This principle is applicable to humans.
Groningen; 08:10, 5/20/2021
No.633, I’m an Omnipresent Boundless Circle.
I’m a circle whose circumference is nowhere.
I’m a circle whose center is everywhere.
I’m an omnipresent boundless circle.
Groningen; 08:14, 5/20/2021
No.634, A Kosmic Seed and Address
A kosmic address has a particular kosmic seed.
A kosmic seed has a particular kosmic address.
Everything is spawned from both a kosmic seed and address.
Groningen; 10:13, 5/20/2021
No.635, A Sudden Realization
One of my roles in this life is to discover and transform invisible structures and systems that inhibit freedom and creativity of all sentient beings.
This is what I realized suddenly now.
Groningen; 14:50, 5/20/2021
No.636, It’s Me
I am the person who loves abstract art.
I am the person who loves meta theories and meta philosophies such as Integral Theory, Critical Realism, and Meta Realism.
It’s me.
Groningen; 17:16, 5/20/2021
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本日生まれた5曲
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タイトル一覧
6934. 今朝方の夢
6935. 穏やかな死
6936. 境界線を持たない円としての自己/“theopathy”
6937. 仏教経済学との出会いとオーベルンドルフの思い出
6934. 今朝方の夢
時刻は午前5時に向かっている。今、数羽の小鳥たちが美しい鳴き声を上げている。
午前4時半すぎに起床した時から、すでに小鳥たちが鳴き声を上げ始めていた。いつもより彼らが鳴き声を上げるのは早かったように思う。彼らの鳴き声は、自分の起床を祝福してくれるかのようであった。
今、自動で暖房が入り、部屋全体を温めている。6月を迎えようというのに、室温に応じてまだ暖房が自動で入り、夜は湯たんぽを使って寝ている。日中に関しても、ヒートテックの上下を着用しているほどだ。
天気予報を確認すると、来週もまだまだ同じような気温が続くようであるから、本当に6月までこのような寒さが残る状態なのかもしれない。先日親友のメルヴィンとも話をしていたが、今年は寒さが長引いている。
これも地球環境の変化なのだろうか。要因の所在がわからない奇妙な現象である。
現在地球上では、ハイパーオブジェクト化した目には見えない巨大な問題が、下手をするとそれらどうしが絡み合い、種々の問題を生み出している。こうした気温の変化もその現れなのかもしれない。
小鳥たちの鳴き声に耳を傾けながら、今朝方の夢を振り返っている。今朝方は興奮した気持ちで目覚めた。
夢の中で私は、中学校時代の部活のメンバーと一緒にバスケの大会に出場していた。それは市内の大会だった。
ちょうど市内の強豪校と対戦をしていて、試合はとても白熱していた。点差はほどんどなく、文字通り、シーソーゲームが続いていた。
試合が後半に差し掛かると、私たちのチームはさらに気合いを入れた。普段は大人しいメンバーたちも、この試合にかける気持ちは尋常ではなく、全員気持ちで満ちていた。なんとしてでも勝ちたいという気持ちがチームを1つにし、その団結力は本当に強かった。
試合が後半に差し掛かり、相手がファウルを犯した。そこでこちらのボールになったのだが、相手の1人がなかなかボールを渡そうとせず、こちらの選手がそれに苛立ちを露わにした。私も少し苛立ちそうになったが、ここは冷静にいく必要があると思い、彼に声をかけて気持ちを落ち着かせ、苛立つ力はプレーに転換していくように促した。
試合が再開し、私は彼にボールを預け、そこからリターンパスをもらってゴール下のシュートを放った。いつもは難なく決めるそのシュートを外してしまったが、リバウンドを自分で拾い、もう1度シュートを放とうとすると時が止まった。
選手たちは話すことはできたのだが、動くことはできず、私だけが動くことができたのである。そこで1点シュートという形でダンクシュートをしてはボールを拾い、再びダンクするという奇妙なシュートを16回入れた。
合計16点入れたところで、次にそのシュートを打てる権利は、どこか知らない場所の高校に移ったというメッセージが脳内に届いた。そこからは私以外の全員が再び動けるようになった。
16点一気に決めたこともあり、また残り時間を考えると、この試合は晴れて強豪校に勝てるのではないかと思った。ベンチを見ると、試合に出ていない選手や後輩たちが熱心に応援をしてくれていた。
監督は不在であり、今日の試合は全て私が指揮を取っていることもあり、試合終了間際に点差がまだついていたら、少しメンバーを変えて、この熱気に満ちたコートの感覚を味わってもらい、勝利を一緒に喜びたいと思った。フローニンゲン:2021/5/20(木)05:12
6935. 穏やかな死
時刻は午前6時を迎えた。穏やかな青空が早朝の世界に広がっている。
朝日が燦々と照り始める前のこの時間帯は最も心が落ち着く。起床直後から鳴いていた小鳥たちも一旦休憩に入ったようである。
リズムがあるのだ。この世界は種々のリズムで満ちている。
ちょうど昨日、先日古書店で購入した時間に関する書籍を読んでいて、その書籍の中で、固有の存在者の固有の時間のことが言及されていた。
自分には固有の時間があり、小鳥たちには固有の時間があるのだ。そして固有のリズムがそれぞれあるのである。それを証明するかのように、リズムが変化したのか、再び1羽の小鳥が鳴き声を上げた。
先ほど朝風呂に浸かっていると、穏やかな死に関する考えがふと芽生えた。しかもそれは体験を伴っていた。夜眠りの世界に入り、そこからもう目覚めることなくスッと死の世界に移行している状態について、体験を通じた考えが芽生えたのである。
それは確かに想念の類なのだが、そこには独特の感覚が備わっていた。考えと内的感覚はやはり切っても切れないものなのだ。これは想像力と密接につながっているのだろう。
想像力が豊かで深いものであればあるほどに、ある考えが浮かんだ時、その固有の内的感覚が高まるのである。まさに先ほど穏やかな死について考えを巡らせているときに、そうした内的感覚が伴う体験があった。
この体験を改めて振り返ると、こうした穏やかな死が存在しうると知るだけで死というものへの恐怖が消えていく。そして実際に想像世界の中でそれを体験してみると、なお一層のこと死の恐怖は消えていく。
気づかない形であちらの世界に入り、あちらの世界に安眠すること。自らの死だけではなく、生きとし生けるもの死がそのように安らかなものであって欲しいと願う自分がいる。
今日もまた探究が大いに捗るであろうという予感がする。今日は、この間街の中心部の古書店で見つけた密教思想に関する書籍、そしてウィルバーの何かしらの書籍の再読を行っていく。それでも時間があれば、届いたばかりの批判的実在論と経済学の書籍を読み進めていこう。
探究活動と創作活動が日々充実した形で進んでいるのは、兎にも角にも住環境の落ち着きと、心身の状態に対する配慮と実践のおかげかと思う。とりわけ身体の状態に関して言えば、食は本当に重要である。
先ほど、昨日初めて飲んだ4種類の植物のドリンクを改めて作った。その際に、蜂蜜を少々加えてみたところ、随分と飲みやすくなって嬉しく思う。
好き嫌いはない自分にとっても、昨日それを飲んだ時、少々飲みにくさを感じていた。蜂蜜のおかげでこうも甘味が増し、飲みやすくなるとは。明日からもこのようにしてこのドリンクと付き合って行こうと思う。フローニンゲン:2021/5/20(木)06:18
6936. 境界線を持たない円としての自己/“theopathy”
時刻は午前9時を迎えようとしている。寒さの残る朝の世界において、朝日の光がもたらす温もりは格別である。とても穏やかな朝日が部屋の中に差し込んでいて、今その光を浴びながらこの日記を書いている。
早朝に読書をしていると、いくつか気づきが生まれた。そしてそれが言葉の形を持ち始めた。
遊戯場としてのコスモス。このコスモスは無限の広がりを持つ遊戯場であり、そこでは全ての存在者が戯れ合っている。
遊戯場と遊戯によって成り立つこのコスモス。全ての存在者は、遊戯場としてのコスモスにおける遊戯者であって、日々他の遊戯者と戯れ合っているのだ。
自分は遍満する境界線を持たない円であるという気づきが降ってきた。その円は円周を持たず、境界なくどこまでも広がっていく。一方で、円の中心はある。
とても興味深いのは、円の中心はこのコスモスのいかなる場所にも置くことができるという点だ。中心があり、円周がなく、中心はこのコスモスのいかなる場所にも置けるという円としての自己。それが自己の本質なのだろう。
そんな性質を持つ自己は、物理的な世界においてどこにでも行けるだけではなく、むしろ抽象的な形のない世界においてどこにでも行ける点が面白い。コスミックアドレスのどこにでも行けるのだ。
つい先ほどまで、ヘレナ·ブラヴァツキーの思想を中心に据えて、世界の様々な密教思想を紐解いている書籍を読んでいた。その書籍が持つ固有のコスミックアドレス。そこにアクセスし、その世界の中に佇んでいる自分がいた。
そして、そこでしか見えないもの、感じられないものに触れることによって、自己は再び境界線を先へ先へ、上へ上へと広げていき、高度な精神的世界の中に入っていった。
気がつけば、意識は再び自室にあった。そこでふと、“theopathy”に陥っている現代人について考えを巡らせた。
現代人の多くは、神聖なものを意識的·無意識的に傷つけ、そして自らの神聖さをも傷つけている。自らの神聖さに気付けずに苦しむ病理は、“theopathy”の本質的な特徴である。その苦しみが自己や他者を傷つけ、社会や世界そのものを傷つけることに加担している。
朝日の光。その光は未だ止むことを知らない。
“theopathy”の蔓延る時代において、果たして自分に何ができるのだろうか。何をすることをこの世界から求められているのだろうか。
世界の深層的な叫び声が聞こえて来ると共に、自分の内側にもこの世界に関与しようとする叫び声が鳴り響いているように思う。フローニンゲン:2021/5/20(木)09:05
6937. 仏教経済学との出会いとオーベルンドルフの思い出
時刻は午後7時半を迎えた。先ほどまでは夕方の穏やかな夕日が照っていたのだが、今日は天気予報が当たり、小雨が降ってきた。今もまだ小雨が降っていて、空はうっすらとした雲に覆われている。
仏教経済学という領域に関心の矢が向いたこと。それは今日の収穫であった。
少し前にその学問領域について知り、いくつか書籍を読んでみようと思っていたのだが、今日改めてその領域を本格的に探究してみようと思った。この学問領域を提唱したのは、イギリスの経済学者エルンスト·フリードリッヒ·シューマッハーなのだが、実はシューマッハーについては随分と前から関心があった。
そのきっかけを作ったのは、今から4年前にオーストリアのザルツブルグに訪れた時の出来事である。厳密には、ザルツブルクから北に約20kmほど離れた場所にあるオーベルンドルフという小さな村を訪れたことがきっかけだった。
この村を訪れようと思ったのはもっとずっと前の出来事がきっかけになっている。高校時代に、この村が「きよしこの夜」の聖歌が誕生した場所であるということを父から聞き、父が実際にこの村を訪れた時の話をしてくれていたことがきっかけだった。
父が訪れたこの村に私も訪れてみたいと思い、実際に足を運んだのが4年前のことだった。ザルツブルグでちょうど学会があり、それに参加することを主目的にしながらも、この村を訪れることができたのは幸運であった。
「きよしこの夜」が生まれたとされるこの村の小さな教会の近くに小さな美術館があり、そこに入った時のことだった。そこに置かれている作品か展示資料か何かに、シューマッハーの「小さいことは美しい」という言葉が掲載されていた。
その言葉が自分の心に強く響き、以降、シューマッハーの存在が頭の片隅にあり続けていた。彼の名前を見聞きするたびに彼のその言葉を思い出し、同時にオーベンドルフを訪れた時のことを思い出す。
ザルツブルグを訪れたことがきっかけになって、突如として作曲実践を始めたことは啓示的な出来事だったのだが、それに加えて、今まさに自分が仏教経済学に関心を持ち始めていることも何か啓示的なものを感じさせる。
午後にふと、自分に課せられた重要な役割は、この世界を覆っている目には見えない抑圧的な構造やシステムを発見し、それを変容させていくことなのだという気づきが突然降ってきた。それは以前から薄々思っていた役割なのだが、改めて強い言葉として立ち現れてきたのである。
現在、インテグラル理論や批判的実在論、そしてメタ実在論を探究しているのは、その役割を全うするためなのだ。それらのメタ理論に実装させていくのは霊性学と経済学なのかもしれない。
今日突如として降ってきた気づきを大切にし、関心の矢が強く向かった仏教経済学はこれから本格的に探究をしていきたい。早速、シューマッハーの書籍を含めて、仏教経済学に関する学術書をいくつか文献リストに加えた。
来月は宗教と経済学を架橋した学術書を大量に購入していこうと思う。今、着実に探究者として、そして実践者としての自分が新たな方向に力強く向かっていることを感じる。フローニンゲン:2021/5/20(木)19:56
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