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6907-6909: アートの国オランダからの便り 2021年5月12日(木)


No.2239 存在者たち_Various Creatures


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.609, Ignition

Though it is already the middle of May, it’s still chilly in Groningen.

Yet, my heart is always warm.

Zest ignites my existence.

Groningen; 06:25, 5/12/2021


No.610, “I”

I refer myself as “I.”

Someone else uses the same word “I” to refer him or herself.

This is very interesting.

The word “I” contains two meanings.

One is the uniqueness of the person.

The other is the possibility of universality or unity of humans.

Groningen; 09:00, 5/12/2021


No.611, Interconnectedness

If everything is interconnected, true self-realization is unattainable until everyone attains it.

Others’ self-realization is mine.

Mine is others’.

Groningen; 09:18, 5/12/2021


No.612, Smiles

The evening sky is smiling at this moment.

The ground is smiling back to it.

I hope the entire world will regain full of smiles soon.

Groningen; 21:40, 5/12/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた5曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

6907. 今朝方の夢

6908. 食習慣の微修正/旅行予定の変更/今朝方の夢について

6909. 真の自由と解放/「私」としての一


6907. 今朝方の夢


時刻は午前6時を迎えようとしている。室内がとても肌寒く感じる。だが今日と明日は晴れるようなので、その点はとても嬉しく思う。天気予報を見ると、引き続き肌寒い日が続くようだ。


今朝方の夢を今思い出そうとしているが、あまり思い出すことができない。いや、1つ思い出した場面としては、大学時代にサッカーサークルに入っていた友人が高校時代に、部室に不審者が侵入してそこでタバコを吸い、吸い殻を発見した友人がタバコを吸ったと思われてしまって停学処分になったという話を聞いた。


その話を聞いた時、私の意識は彼が高校時代にいた時空間に遡り、そして意識は部室にあった。実際に不審者が侵入するところから友人がタバコの吸い殻を発見する一部始終を見届けた。


友人のその話を聞いた後、私は自分が今どこにいるのかを確認した。そこは見慣れない場所だった。


古びた建物が目の前にあり、辺りは薄暗く、霧がかかっているかのようであった。その場所がどこの国に属しているのかは不明であった。


私は目の前の建物の中に入ってみることにした。どうやら地下室があるようなのでそこに向かってみた。すると、地下室のさらに下に壁面がガラス張りの不思議な空間があった。


そこには少々ゴミが落ちていた。私はその空間に降り立った。


何気なくそこに降り立ち、そして再び上に上がろうとしたが、降りるよりも上がる方が難しく、窪んだその空間を覆っている板に脇をかける形でよっこらしょと上に上がった。


目的不明のその空間に対して考えを巡らせながら建物の外に出ると、そこで高校時代にサッカー部に所属していた小柄な友人と遭遇した。彼にその不思議な空間について説明すると、彼はその空間のことを知っているようであり、それについて説明を始めた。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私は巨大な迷宮の中にいた。そこは階層構造を持つ形になっていて、ちょうど私はエスカレーターを上っている最中だった。


どういうわけか、エスカレーターの足を乗せる場所に乗っていたのではなく、手すりにしがみつく形で上に上っていた。足を乗せる部分は本当に狭く、人が乗れるような形ではなかったのだ。


手すりにしがみついて上へ上へと上がっていく際に、その迷宮の階層は無限に続くような高さを持っていたので、手すりから落ちてしまうと命を落とす可能性があった。だが私は、不思議と死の恐れはなく、自分であればこのエスカレーターを上り切ることができるだろうと思っていた。


すると、反対側のエスカレーターを小中高時代の友人2人(YK & SN)が手すりに乗るのではなく、足を乗せる場所に乗って悠々と上に上がっていく姿を見た。彼らは私に気づき、一声かけてさらに上に行こうとしていた。


私も少し急いで上に上がる必要があると思い、脇に抱えた手すりの上を前へ前へと進めていった。すると後ろから誰かがやってきて、彼は本来人が通れないような足を乗せる場所を通じてこちらにやってきた。そして私に一声かけて、先に進んでいってしまった。


私は彼を追いかける必要があると思い、そこからはより急いでエスカレーターを上って行った。そこで夢の場面が変わった。


最後の夢の場面では、私は巨大なスーパーにいた。そこは欧米のどこかの国のスーパーだった。


スーパーは大勢の客でごった返していて、店内を回るのが一苦労だった。最後レジに向かう際に、どういうわけか私の体は宙に浮き始め、足を地面につけずにレジに向かうことが要求されているように感じ、それをまっとうしようと思った。


商品棚に手をかけ、そこから宙に浮いて次の商品棚に移動し、そしてまた次の商品棚へということを繰り返していると、肉売り場に到着し、そこでも多くの人が列を成していて、その列の向こうにレジがあることを確認したところで夢から覚めた。フローニンゲン:2021/5/12(水)06:20


6908. 食習慣の微修正/旅行予定の変更/今朝方の夢について


時刻は午前7時を迎え、辺りの霧が晴れた。清々しい早朝の世界が広がっている。


朝日も姿を見せ始め、優しい光を地上に届けている。今日は天気が良いようなので何よりである。


ここ最近はまた食生活を若干微調整した。一昔前までは完全にヴィーガンであったが、そこからチーズを摂取するようになり、さらには卵を摂取するようになった。そこからまたプロセスが逆戻りし、今はチーズを食べることをやめた。


というのも、夕食にチーズを食べると、消化に少し時間がかかる感じがして、それが睡眠の質に若干ながら影響しているように思えたのである。それはとても微細な感覚だが、その感覚にしたがって、ここ最近は茹で卵を食べながらもチーズは摂取しないという日々が続く。


その時の自分の身体の状態や季節に応じて、このように食生活を見直し、微調整していくことは大切だろう。食実践を惰性で行ってしまうと、基礎構造としての身体の基盤が脆弱になり、全てが惰性と化してしまう恐れがある。その点を改めて確認する。


昨夜、久しぶりに欧州のコロナの状況を確認した。コロナが落ち着いていれば、そろそろ欧州内の旅行に行きたいと思っていたからである。


だが残念ながら、欧州においてはコロナは引き続き猛威を奮っているようだ。むしろここ最近は各国また感染者が増加しているようなのだ。


春に予定していたドイツ旅行はお預けである。この分だと、夏に予定していたフィンランド旅行の代わりにドイツに行くことになるかもしれない。それか夏はやはりフィンランドに行き、秋にドイツに行くことにしようか。そのような計画修正が求められる。


コロナの状況を確認した後、ふとユング博物館に足を運んでみたいと思った。チューリッヒ郊外にあるユングの家が今は博物館になっていて、以前より足を運んでみたいと思っていたのだ。


そこはすでに訪問リストに入っており、近いうちに必ず訪れたい。ウィーンのフロイト博物館にはすでに訪れていて、あとはユングだ。心理学上の二大巨頭の歴史を辿る旅もまた計画せねばなるまい。


先ほど浴槽に浸かりながら、今朝方の夢の再ワークを行っていた。とりわけ迷宮内の無限に続くエスカレーターを上っていたシーンが印象的である。しかもエスカレーターを上る際に手すりに脇を抱えていたことも何かを象徴しているのだろう。


無限に続くエスカレーターは、無限に続くこれからの探究の道を示しているのだろうか。手すりを使ってエスカレーターを上っていくというのは、人とは違う形でその道を進んでいくことの現れか。


そもそも探究上における手すりとは何なのだろうか。偉大な思想家や学者の肩なのだろうか。そうなのかもしれない。


過去の巨人の肩に乗せてもらいながら高みに向かっていくこと。それは自分に課せられた1つの役割なのだろう。


浴槽に浸かりながらそのようなことを考えていると、1つ別の場面を思い出した。メディア関係の見知らぬ中年男性が、突然私の左耳に指を入れ、耳掻きをしてくれたのである。


見知らぬ他人に耳の掃除をしてもらうのは少し抵抗があったが、有無を言わせない形でその方は自分の耳を掃除していた。その後、その方の出版書籍の話となり、そう言えば自分は4冊ほどその方の本を読んでいて、それらの書籍の話で盛り上がった。そのような場面もあったことを改めて思い出した。フローニンゲン:2021/5/12(水)07:26


6909. 真の自由と解放/「私」としての一


夕暮れの時。なんという穏やかな夕日だろうか。


晴れの日の夕方のフローニンゲンの夕焼け空はいつも優しく世界を包んでいる。今この瞬間の夕暮れ空の優しさに感謝しながらこの日記を書き始めた。


昨日の体験をふと思い出す。それは自分の中で今何かしらの転回が起こっていることを象徴する体験だったように思う。


勉強をもっと本気でしたいという思いから涙を流していた自分が昨日にいたのである。感情的になりやすい夜の時間帯ではなく、午前中にそれがやってきた。


祈るような気持ちでもっと勉強させてほしいと思った。学習に対する飢餓感でも欠乏感でもなく、そうした感情とは別種の気持ちが自分の中に湧き上がっていて、それを抑えることは難しかった。


決して焦ることはしない。ゆっくりとでいいのだ。むしろ自分はゆっくりとしか進めない。


昨日の朝に風呂に入っているときに、天窓を見上げると、そこに1匹の小さなカタツムリがいた。自分はそのカタツムリだと思った。


誰も見ていないところにポツリと存在し、そして誰も見ていないところで小さな歩みを進めている存在。カタツムリと自分は仲間なのだ。


ゆっくり着実に進むこと。その大切さをあのカタツムリは教えてくれていた。


今朝方、全てがつながっているのであれば、真の自己実現や自己超越というのは、他者の自己実現や自己超越が成し遂げられなければ存在しないものなのだろうということを思った。言い換えれば、全ての人が自由と解放を享受するまで、人は全て何かしらの檻の中にいるのである。


自分の実践の鍵はそこにある。己の真の自由と解放は、他者の自由と解放なくしては存在せず、己の真の自己実現や自己超越は、他者の自己実現や自己超越がなければ存在しえない。


己だけが目覚めるのではなく、共に目覚めていくこと。それが大切なのだ。


午前中にはその他に、私たちは自分のことを「私」という言葉で表現することができ、そこには固有の「私」が含まれていながらして、同時に全ての人が「私」という同じ言葉を用いることができる点に、人間の共通基盤を見る。


そう全ての人は「私」として共通なのだ。であるがゆえに、私はあなたであり、あなたは私という関係性が成り立つ。


それは関係性というよりもありありとした直接体験的な現象であり、バスカーの言葉で言えば「共現存」という現象に該当するだろうか。私たちは、「私」という言葉を通じて一であり、同時に言葉を超えて存在として一なのだ。フローニンゲン:2021/5/12(水)19:32

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