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6901-6906: アートの国オランダからの便り 2021年5月11日(水)


No.2229 来たりしもの_Something Coming


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.606, A Silent World

A silent world is standing in front of me.

Is the world standing?

Maybe not.

It is enfolding me.

I’m enwrapped in the world.

There is no boundary between the world and me.

Groningen; 05:52, 5/11/2021


No.607, The Gentle Morning

The morning world looks very gentle.

It is very very pacific.

Birdsongs are constantly reverberating around the neighborhood.

The entire world is watching over me gently.

Groningen; 05:58, 5/11/2021


No.608, I’m a Snail.

I’m a snail.

I’m slowly walking on a way in my life.


I’m a snail.

I’m slowly moving forward my lifework everyday.

Groningen; 21:34, 5/11/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた4曲


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タイトル一覧

6901. 今朝方の夢

6902. 探究に向かう時

6903. 届けられた書籍たち

6904. ブロックチェーン技術を使ったトーレディングカードの創作に向けて

6905. ゆとりと遊びの回復に向けて

6906. 抑え難きものに見舞われて


6901. 今朝方の夢


目覚めると小鳥たちの鳴き声で世界が満ちていた。時刻は午前5時半を迎え、今も引き続き小鳥たちが鳴き声を上げている。今日の鳴き声はとりわけ澄んでいるように聞こえる。


辺りの世界そのものが澄んでいて、彼らの鳴き声が世界を純化しているのだろうかと思ってしまうほどである。彼らの美しい鳴き声に包まれながら、今朝方の夢について思い出している。


夢の中で私は、どこまでも続く果てしない道を1人で歩いていた。そこは世界から私のような旅人が集まってくる聖地のようだった。


自分が何を目的にそこを訪れたのかは知らない。ただ単に果てしなく歩きたかったのかもしれない。


目的はなかった。だが仮に目的があるとすれば、目的を持たずに果てしなく遠くまで歩くこと。そんな目的があったと言えるかもしれない。


そこは無国籍の場所のように思えた。世界にそのような場所があるのだろうか。


その日の天気は晴れであり、時刻は昼下がりの感じであった。しばらく国道のような一本道を歩いていると、私はふと立ち止まり、後ろを振り返った。


すると後ろの方からフードを被り、背中にリュックを背負った日本人男性の姿を確認した。よくよくその男性を見ると、私の知人だった。


彼がゆっくりとこちらの方に歩いてきて、私は声を掛けようと思ったが、どうもその知人は声を掛けて欲しくないような雰囲気を発していた。彼の表情はとても暗く、何か思い詰めているようにも見えたし、真剣にこの一本道を歩いているようにも思えた。


果てしなく続くこの道を歩く者は、みんな色々な思いと目的を抱えてこの道を歩いているのだ。そのようなことを改めて思った。


そうした考えが芽生えた時、彼はもう私の目の前を無言で通り過ぎていた。彼は一瞥することすらしなかったが、おそらく私のことには気付いていたように思う。それでも挨拶も何もなかった。


私は彼を追いかけ、そこで彼の名前を呼んで肩に触れた。その瞬間に夢から覚めた。今朝方はそのような夢を見ていた。


その他にも夢を見ていたが、この場面が一番印象に残っている。その他の夢としては、私はヨーロッパのどこかの街の城のような建物の中にいた。そこで高校時代の同級生と出会った。


彼に何をしているのか尋ねると、大学入試に向けて勉強しているとのことだった。彼は何気なく窓の方に指を差すと、その部屋の窓辺に同級生たちがたくさんいて、そこでみんな勉強していた。


私の知り合いは軒並み窓辺に立ちながら単語帳を無言で眺めていた。私は彼らの姿を見た時、単語帳を単に眺めるだけで果たして単語が身につくのか疑問に思った。声に出してみたり、書き出してみるというように体を動かすことをしなければ、なかなか単語は身につかないのではないかと思ったのである。


すると、小中高時代のある小柄な友人(YU)が私に声を掛けてきた。そこで少し立ち話をした後、もう1人別の友人(SN)と3人で一緒に帰ることになり、城の中にあるエレベーターの中で、勉強の進み具合について話し合った。そのような夢の場面もあった。


実際のところはこの場面の前後にもう少し印象に残る事柄があったように思う。それについては今から少し回想してみたいと思う。フローニンゲン:2021/5/11(火)05:46


6902. 探究に向かう時


時刻は午前6時半を迎えた。辺りは引き続き穏やかさに包まれている。


先ほど通り雨が降ってきて、今はそれが止んでいるが、空は薄い雲に覆われている。今日はどうやら1日を通して曇りがちであり、小雨も断続的に降るようだ。今日からまた気温が下がり始め、再びこの時期のフローニンゲンらしさに戻ってきたと言える。


1時間前に比べると、小鳥たちの鳴き声が小さくなった。どうやら彼らは一仕事を終えたようだ。自分はこれから今日の本格的な仕事に取り掛かる。


絶え間なく続くライフワークの道。今朝方見ていた夢の中の一本道は、それを象徴していたのかもしれない。


ここ最近は、自分の探究活動により専心したいという思いが高まっている。2年後を目処に考えている神学校への進学の準備もその探究活動の中に含まれていて、ここから集中的に自分の関心テーマに関する探究をしていきたい。


そうしたことから、いくつかの協働を終わりにする時期に差し掛かっているように思えた。ちょうど2つほど、この秋に一旦落ち着く活動がある。協働者の方にはできるだけ早くこの件について連絡しておこうと思う。


一旦可能な限り協働プロジェクトから離れ、自分の時間をより確保していくフェーズの到来が間近に迫っていることを感じる。こうしたサイクルは過去も繰り返し見られることであり、決しておかしなことではないのだろう。


自分の内側によりベクトルを向けて探究活動に勤しむ時期と、自分を外側に開くことによって種々の協働を行っていく時期という2つの対極的な運動があるのだ。自分の不勉強を嘆いてもしょうがないが、今はとにかく勉強が必要な時期なのだ。


関心テーマに対して知識と理解が圧倒的に不足していることを実感しており、じっくり時間をかけてこれをなんとかしていく。それは焦らずにしっかり取り組んでいきさえすれば、必ずなんとかなるものだということをこれまでの経験上わかっている。


とにかく今は、自分の勉強にもっと時間を充て、より集中的な取り組みがしたいのである。そうしたことを含めて、近々協働者の方々に連絡をしておこうと思う。


先ほど朝風呂に入っている時に、今朝方の夢についてもう一度振り返っていた。そうすると、夢の断片的な記憶を思い出すことができた。


夢の中で、高校2年の時に遅れてサッカー部に入ってきた友人と話をしていたのを覚えている。それも確か先ほど書き留めた夢と同じ場面の中だったように思う。


ヨーロッパの城のような場所の大広間で彼と立ち話をしていたのを覚えている。彼は決して勉強を熱心にするような人間ではなかったが、大学入試に向けて勉強を本格的に始めたということを私に教えてくれた。


話を聞いている過程の中で彼の真剣さが伝わってきたが、勉強の仕方にまだ改善の余地があるように思えた。しかし、それについて私は何も述べず、しばらく様子を見守ることにし、仮に何か勉強の相談を彼に持ちかけられたら相談に乗って話をしようと思った。


そのようなことを思い出した。「見守る」ということに関して言えば、ちょうど早朝に作った詩の中でそれについて言及していた。この世界が自分を見守っているという感覚。それがありありと感じられたのである。


世界が自己の目の前に立っているというよりも、世界が自己を優しく包んでいるという感覚。その感覚に加えて、世界から見守ってもらっているという究極的な安心感が今この瞬間の自分を満たしている。フローニンゲン:2021/5/11(火)06:58


6903. 届けられた書籍たち


引き続き早朝の世界に小鳥たちの鳴き声が響き渡っている。それはこの世界と共鳴し、互いが互いを反射し合っているかのようである。


小鳥と世界の共振。それによって生み出された音が今自分の耳に届けられているのだ。


昨日、書籍がまた10冊ほど届いた。夜にメールを確認したところ、オランダの郵便サービス会社であるDHLから連絡があり、荷物が届けられたとのことだった。しかし、それらの書籍は郵便受けに入らなかったので、同じ敷地内の道路に面した家に住むサハルが預かってくれていた。


サハルは先日、荷物の受け取りに関してはもう正面玄関の扉を叩く必要はないと述べてくれた。今の敷地から外に出る際には、大きな扉を開ける必要があり、そうして初めて道に出れる。

サハルの家のキッチン側の裏口は、その大きな扉の内側にあるので、いちいち鍵を開け閉めして大きな扉を行き来する必要はないとサハルが述べてくれたのである。


裏口の扉をノックすると、サハルが笑顔でやって来て、私の顔を確認するや否や、本の受け取りだと気づき、彼は奥の方に一旦戻ってすぐに本を持ってきてくれた。“Many books!”とサハルは笑いながら本を渡してくれた。その時に、先日の土曜日の畑仕事で筋肉痛になっていないかどうかについて少し立ち話した。


サハルとはまたゆっくりと話をしたい。彼もまた人格者であり、オープンさと誠実さの双方を感じる。オランダ人の親友のメルヴィンと似たようなものをサハルに感じる。こうした友を持てたことを嬉しく思う。


自宅に帰って早速本の開封をした。一昨日にも10冊弱書籍が届けられていて、ここ数日間は書籍の開封をする嬉しい楽しみが続く。


新品の本の香りは素晴らしく、それだけで酔ってしまいそうである。書籍の香りがもたらす恍惚感に浸りながら、今後はこれらの書籍を読むことを通じて得られる恍惚感があることを思った。


今回届けられたのは、先日注文していた書籍たちであり、トランスパーソナル心理学、霊性学、批判的実在論の書籍である。それらの領域と架橋した形で解説された宗教学の書籍もいくつかある。とりわけ宗教を批判的実在論の観点から解説している数冊の書籍から得られることは多大なものがあるだろう。


今日はまだ届けられた書籍を読むのではなく、過去に読んだバスカーの“From East to West”を読む予定だ。本書は、バスカーが霊的転回を迎えた後に執筆された書籍であり、ちょうど批判的実在論の思想体系からメタリアリティの思想体系に移行していく時期に執筆されたものである。


今のところの予定としては、本書を読み終えた後、ウィルバーのメタ理論、バスカーのメタ理論、モリンのメタ理論を横断比較する書籍の再読を行い、その後に統合的霊性学の領域で重要な仕事をしているダスティン·ディパーナの書籍を経て、ここ数日以内に到着した書籍を読み始めていこうと思う。


とにかく今は集中的な勉強の時期である。今の自分はほぼ何も知らないまっさらな状態である。インテグラル理論についても、成人発達理論についても、まだ自分は何も知ってないと思っていいのではないかと思う。それだけにそれらの領域の奥は深く、それらの領域の知識を実践で活用するとなれば、さらにまた奥深い世界が広がっている。フローニンゲン:2021/5/11(火)07:18


6904. ブロックチェーン技術を使ったトーレディングカードの創作に向けて


これはカッコウの鳴き声だろうか。いつも聞こえてくる小鳥たちの泣き声とは少し違う鳴き声が聞こえてくる。


つい今し方日記を書き終えたところなのだが、再び日記の執筆に向かう自分がいる。それはもう逆らい難い流れであった。


流れがあるのだ。活動には流れがあり、それに逆らってはならない。


いや活動というよりも、存在すること、あることの中に流れがあるように思う。存在が流れの中にあるというよりも、流れが存在の中にあるという感覚だろうか。


今この瞬間の感じは後者のものに近い。ある種の流れが自分の存在の内側にあって、自己はその流れに導きかれるようにしてあるべき活動を通してそこにあり続けていく。


今日はこれから絵を少しばかり描き、そこから作曲実践を経て、読書に勤しんでいく。読書に関して言えば、いずれの書籍も繰り返し読んで理解を徐々に深めていくことを前提にしているので、初読の音読の際には細部に囚われず、全体感を把握することを大切にしている。


パラグラフリーディングを有効活用しながら、重要な箇所を押さえていき、初読の際にはその書籍が伝えようとしている重要なメッセージを感覚として掴まえるようなことを心がけている自分がいることに気づく。今日の読書においてもその点を意識しよう。細部を追いかけるのではなく、とにかく全体感の把握を大切にし、重要な記述に出くわしたらそこで一度立ち止まり、その箇所の内容をゆっくり咀嚼するようにする。


今日の午後には、『インテグラル心理学』の読書会に関してまた音声ファイルをいくつか作っていこうと思う。音声ファイルを作っていくことも1つの学習であり、創作活動でもある。とりわけ自己表現としての創作活動の側面があることが音声ファイルを作る楽しさの鍵を握っている。


そこでふと、創作活動の一環として、今後、ブロックチェーンの技術を使って、成人発達理論やインテグラル理論の用語をイラスト(図表)付きでトーレディングカード化してみることを思いついた。


それを実際に行うのか、行うとしてもいつやるのかは全く未定だが、アイデアとしては、今後読書会やセミナーを開催する際に、参加してくださった方にカードをプレゼントしたり、そのカードを用いて参加者の方々がその場で対話を行ったり、読書会やセミナー終了後には、そのカードを使って別の場所で様々な形と対話をする流れができたら面白いのではないかと思ったのである。


ウィルバー自身も述べているが、インテグラル理論には多様な概念が存在していて、「ギガリスト」を作れてしまうほどであり、それは成人発達理論においてもそうである。また、現在探究中のバスカーの批判的実在論についてもそうである。


こうした理論体系を学習する際に、そして実践に活用する際に、用語集のようなものがあればと以前から考えていたこともあり、上記のアイデアはいつか形にしてみるのもいいかもしれないと思った。幼少期の頃にカードゲームが好きだったこともきっと何かつながりがあるのだろう。


今保有している暗号資産は、トレーディングカード化する技術も備わっているので、その作り方を少し調べてみようと思う。上記の理論体系だけではなく、過去の偉大な詩人の一遍の詩や言葉の引用などもイラスト付きでカード化し、場に偶然出されたカードをもとに対話をしていく姿を想像している自分がいる。


レアカードとして、インテグラル理論の「統合的方法論的多元主義」、成人発達理論の「領域一般型発達理論と領域特定型発達理論」、批判的実在論の「不在の不在化」、そしてルーミーの詩の一遍に関するカードが場に出た時、そこでどのような対話がなされるのかを想像すると高揚感がある。


自分の知識を世界に共有し、創造性を発揮する活動としてこの案は温めておきたいと思う。カードを用いた建設的かつ創造的な対話が様々な場所で行われれば、民意の発達に繋がり、この世界が少しばかり良い方向に向かうのではないかという期待がある。フローニンゲン:2021/5/11(火)07:43


6905. ゆとりと遊びの回復に向けて


先ほどの日記に対する追記のような形でまた筆を取った自分がいる。この分断された社会において、もう一度人々が繋がりを回復し、対話を通じて成長を実現していくための1つの手段としてのトレーディングカード化について改めて考えていた。


これまでのデジタル技術を活用したトレーディングカードだと、簡単に複製できてしまうという問題があった。しかし、ブロックチェーンの技術を使えば複製を不可能にさせることができる。


それを利用すれば、自分が所有していないある特定の用語のカードを使って対話を行いたいという人は、そのカードを持っている人を何らかの手段で探そうとし、その人と繋がることができたら、そこでしか生まれないような対話が生まれるかもしれないと思った。それは些細なことかもしれないが、こうした小さな実践を社会規模で行っていくことの重要さを思う。


また、ブロックチェーンを使った複製不可能という制約条件が逆に無限の創造的な事柄を産んでいく可能性があることを改めて思う。いずれにせよ、諸々の分断を乗り越え、人々がまた様々な次元の繋がりを回復し、より良い社会が醸成されていくことに少しでも寄与できたらという思いが絶えず自分の中にある。


そもそも私たちは、バスカーでいうところのデミリアルな世界(半世界·部分世界)の幻想性と虚構性に埋没してしまい、遊びの感覚を喪失してしまっているのではないかという危惧がある。端的には、大多数の人々は、デミリアルな世界の中の種々の幻想的なゲームの世界の中に埋没し、そこでの活動に勤しむことでしかこの世を生きていないのだ。


必要なことはそうしたゲームへの目覚めであり、ゲームから脱却していくことであり、成人発達理論やインテグラル理論、そして批判的実在論は、本来それを促す役割を担っている。


この世界で生きることの遊戯性(リラ性)を忘れてはならず、それはデミリアルな世界における社会的に構築されたゲームの中で遊ぶこと——遊ばさせられていること——とは歴然として異なる。


そもそも人生は戯れなのだ。一者との戯れであり、一者と多者の戯れなのだ。自己は多者の一存在として一者と戯れることも可能であるし、自己は一者として多者と戯れることも可能なのだ。


この過度に前のめりな世界において、ゆとりと遊びを取り戻すことの大切さを思う。本来ゆとりも遊びも絶えずそこにあり続けているもののはずであり、それを取り戻さなければならないような状態に陥っているこの社会がいかに末期的であるかがわかる。


上述のトレーディングカード化の案は、ゆとりと遊びを回復させる取り組みの1つであり、社会的生き物としての人間が持つ最大の遊戯である他者との対話を通じた交流を促すものでもある。


他者との交流を通じて、一者を発見すること。そして自己と目の前の他者が、「多者」としての固有の存在であり、同時にお互いに一者を共有しているということに目覚めること。それが多くの人の間で実現したら、少しずつ世界は変わっていくように思う。フローニンゲン:2021/5/11(火)08:13


6906. 抑え難きものに見舞われて


時刻は午後7時半を迎えた。今、静かな夕方の世界が辺りに広がっている。


今日は午前中に、突然感極まる瞬間があり、しばらく涙を流していた。あの涙は一体何だったのだろうか。


突然に、もっと本気で勉強したいという思いが内側から現れ、それが涙と一緒に表出した。全てを捧げる形で探究に打ち込みたいと願っている自分。


ロイ·バスカーという巨人が目の前に現れ、彼の思想を深く理解したいという強い思い。バスカーの仕事については以前から関心を持っていたのだが、突如としてその関心が吹き荒れたのである。


ウィルバーのインテグラル理論と出会い、それを深く探究するために日本を離れた時に匹敵するような、あるいはそれ以上の探究意欲が今の自分の中にある。


10年のサイクルである。10年前に感じたあの爆発的な探究心を超えるようなものが吹き上げたのである。


依然として自分の中にそうした溢れんばかりの探究心の塊があるとは想像していなかった。日々確かに自分なりの情熱に基づいて探究をしていたが、そんなものが吹き飛んでしまうぐらいの強烈な探究意欲が今日の午前中に表出した。


この現象に逆らうことはできない。これもまた何かの導きなのだ。


自分にできることはその導きに従うことだけである。それが自分の道を歩むことであり、自分のダルマに則って生きることなのだ。


批判的実在論からメタ実在論へと思想的発展を実現させたバスカー。彼の生き様を見ていると、ウィルバーと似た苦難があり、それを乗り越える形で栄光に向かっていった。


だがその栄光は決して個人的なものではなく、超個的(トランスパーソナル)なものであった。自らの道を歩み、自らのダルマを全うする過程の中で得られた知見を共有し、この世界のために常に関与し続けるという栄光がそこにあった。


午前中の出来事が落ち着いてから、今日は『インテグラル心理学』の読書会に関する音声ファイルを気づけば13個ほど作っていた。まだ初回が終わったばかりなのだが、合計で53個ほどすでに音声ファイルを作っている。


この読書会は2ヶ月に1度の緩やかなペースで進んでいくこともあり、参加者の方々がその期間に学習を進められるようにとのことで、気持ち多めに音声ファイルを作っていくことにした。ここからも引き続き、日々の探究で得られたことを音声ファイルとしても共有していきたいと思う。フローニンゲン:2021/5/11(火)19:41


【追記】

「情熱を持って」生きるのではなく、「情熱として」生きること。「本気で」生きるのではなく、「本気として」生きること。そうでなければ、自分の生には何の意味も価値もない。そのような極端な発想をあえて持つ必要があるように思う。


自分だけが自分の生き方を知っている。自分だけが日々自分の生き様を見ている。それを知っている自己と完全に一致すればいいのだ。自己が自己と完全に一致すればいいのである。


そのように生きればいいのだ。そうでなければ、もう自分の生に生きる意味はない。


そうした考えが芽生えた後、静かに1つの気づきがやってきた。自分はこの生を生きているのではなく、この生だというとてもシンプルな気づきだった。


自己はこの生だったのである。最初から。そして最後まで。フローニンゲン:2021/5/11(火)19:51

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