No.2110 深層意識から_From the Depth of Unconsciousness
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.513, On a Chilly Morning
A chilly morning has come.
It is still very cold in Groningen.
This coldness definitely cultivates a certain aspect of me.
The self is condensed by the coldness in order to transform itself.
Groningen; 06:42, 4/11/2021
No.514, Grateful for the Heater in My House
The heater in my house is automatically switched on.
So, I need to wait for it to work.
Just Now, it suddenly started to work.
I’m so grateful for it because today is severely cold.
Groningen; 06:45, 4/11/2021
No.515, Toward Rebirth
A silent night has come.
It represents the epitome of quietude.
The stillness always embraces me gently and deeply.
By virtue of it, I can be reborn with a feeling of relief.
Groningen; 22:01, 4/11/2021
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本日生まれた5曲
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タイトル一覧
6815. 不意の別れと出会い、そして出発
6816. 名前と必然性/今朝方の夢
6817. サハルの家を訪れて
6815. 不意の別れと出会い、そして出発
夜明けを迎えようとしているフローニンゲン。少しばかり風の音が聞こえて来る。昨夜雨が降り、その痕跡がどこか残っている。
今日の最高気温は6度であり、最低気温は0度と低い。午前中には雪が降るとの予報が出ている。おそらく霙まじりの雪か、あられのような雪が降って来るのだろう。深く積もるような雪が降らないのがこの季節の雪の特徴であるが、もう4月も第2周を迎えている。
来週の木曜日まで最高気温は7度前後の日が続き、金曜日からようやく10度を超えて来る。そして金曜日からは連日晴れマークなので嬉しく思う。
こうした寒さが続く日々の中で、昨日、突然湯たんぽが壊れてしまった。朝、湯たんぽをお腹に入れながらスタンディングデスクで活動に従事していると、気がつけば机の上のノートが濡れていた。
最初は何か飲み物をこぼしたのかと思ったが、そんな記憶はなく、湯たんぽをよくよく見ると、表面に小さな穴が空いてしまっていたようであり、そこからお湯が滲み出していたのである。最初、そろそろ季節が暖かくなって来る頃なので湯たんぽはもう必要ないかと思い、再び寒くなる今年の秋がやって来る前に新しいものを購入すればいいと思ったが、フローニンゲンは5月末まで寒さが残るということを経験上知っているため、新しい湯たんぽを購入することにした。
これまで使っていた湯たんぽは数年前に日本で購入したものであり、随分と思い入れを持って使っていたこともあり、突然の別れを少しばかり残念に思った。突然別れがやって来るというのは人生において不可避なのだろう。それは物であろうとも、人であろうとも、はたまた物や人以外のものであっても関係ないのだ。
不意の別れとそこから出発。人生はそれを不可避として、そして所与として進んでいくものなのだ。
昨夜は湯たんぽ無しで入眠に向かったのだが、やはり湯たんぽが無いと恋しかった。入眠の少し前に、ベッドの足元辺りに湯たんぽを入れておく、ベッドに入ってからはまずはお腹周りを温めることにしている。
お腹を温めながらしばらく瞑想をするかのようにシャバーサナのポーズで留まったのち、再び足元に湯たんぽを持って来て就寝するという流れがこれまでずっと続いていた。昨日は形式上は同じ行為をしていたが、そこに湯たんぽはなかった。
昨日購入した湯たんぽは明日に届くことなので、今夜もまた湯たんぽ無しで就寝することになるが、月曜日からは新しい湯たんぽと共に日々を過ごしていきたいと思う。新居に移ってから、色々と物にも変化が見られ、別れと出会いがあることが興味深い。
湯たんぽに加えて、せっかくなので、ヨルゲン·ハーバマスの“Between Naturalism and Religion: Philosophical Essays”と"An Awareness of What Is Missing: Faith and Reason in a Post-Secular Age”という書籍と、チャールズ·テイラーの“Varieties of Religion Today: William James Revisited”という書籍も購入した。いずれも2人の哲学者が執筆した現代社会における宗教の問題や意義を問う内容になっている。当初は5月に書籍の一括注文をする際にそれらの書籍を購入しようと思ったが、もう待ちきれず、湯たんぽを注文するのであれば合わせて購入してしまおうと思った。
実は荷ほどきはまだ終わっておらず、段ボールが15箱弱ほど未開封のまま1階の玄関フロアに置かれている。来週からまた残りの段ボールを開けていく予定であるが、それに並行して新しい書籍が到着し、それらの書籍を読むことに没頭している自分がいるのは確かだ。荷ほどきの完了は、来週末をめどにしたいと思う。フローニンゲン:2021/4/11(日)06:02
6816. 名前と必然性/今朝方の夢
時刻は午前6時を迎えた。依然として辺りは暗いが、真っ暗闇ではなく、空がダークブルーに変わりつつある。夜明けが再びやって来る。
昨日、名前と必然性について考えていた。1人の人間が名前の意味や由来に目覚め、名前が持つ必然的な何かに意識が開かれる現象。それを実感させられる出来事が最近いくつかあった。
欧米社会においては、人の名前に意味などない場合が往々にしてあり、そのあたりが日本と異なるところなのだが、それでは名前に特別な意味が込められていない人たちの内面世界や人生の歩みはどのようなものになっているのかに関心が向かう。
引っ越しに向けて書籍を整理していると、ソール·クリプキの“Naming and Necessity (邦訳『名指しと必然性』)”という書籍が本棚に眠っている姿に出会した。名前が持つ必然性、名付けるという行為に伴う必然性。自分の名前の意味とそれがもたらす必然性について思いを巡らせる。
名前が人生を導いているという感覚。そして、自分は両親が付けた名前の深層的な意味に還っていくという感覚がある。後者において言えば、それは深層的な意味に向かいながらにしてそこに帰還していくという感覚だと言い換えることができるだろう。
今、1羽の小鳥が鳴き声を上げ始めた。その鳴き声に耳を傾けながら、今朝方の夢を振り返っておきたい。
夢の中で私は、自分が育った地元の町にいて、同じ部活の友人たちと一緒にマラソン練習をしていた。あるところまで走ったところで、自分は練習をする側ではなくて、コーチの側としてメンバーを支えることになり、彼らの走る様子を眺めていた。
すると、1人の友人(HY)が私の方に近づいて来て、リンゴをいくつか渡してくれた。ちょうど喉が渇いていながらも飲み物がなかったので、瑞々しいリンゴをもらえたことは嬉しかった。しかし、そのリンゴを見ると、どうも有機栽培のものではないと思われたので、せっかくリンゴをくれた友人に悪いと思い、何とか言い訳を述べてリンゴを返し、後ほど自分で購入することにした。
すると彼は特に気にする様子を見せず、まるで手品を使うかのようにリンゴを一瞬で消し、再びゴールに向かって走っていった。そこから私は、走るのはもう面倒だったので、地元の町の上空を飛んで移動することにした。
すると、空を飛ぶ自分に気づく人がちらほらとして、こちらの方を見上げて驚いているようだった。だが、私は空を飛ぶことは何らおかしなことではなく、普通の能力だと思っていたので、気にせず空を飛んでいくことにした。それどころか、そこからさらに高度を上げて人々を驚かせようかとすら思った。
しかしそれよりも、雲より高い場所を飛べば、人々は自分の存在に気づかず、気が楽だと思ったので、雲を抜ける高さまで高度を上げた。すると、時刻はまだ昼の時間帯だったのだが、朝日とも言えるような、はたまた夕日とも言えるような眩い輝きを放つ太陽の姿が見えた。そこで夢の場面が変わった。
最後の夢の場面では、私は実家のマンションの下にいた。ちょうどこれから上に上がるところだったのだが、マンションの駐車場で、ちょっと不思議な小太りの中年男性に出会った。少し人間ではないような、異星人のような雰囲気を発しているその男性は日本語を話した。
確かに外見は日本人のそれだと言えなくもなかったが、やはりどこかこの星の人間ではないかのような印象を与えるものがあった。私はその人とたわいもない話をしていた。
話の中でその男性は、コロナの影響で、ここ最近は外食に全然行けていないと残念そうな表情で述べていた。すると突然、今から夕食を一緒にどうかと誘われた。私は自宅で何か勉強したいと思っていたのだが、どうも断りづらい雰囲気があり、夕食を共にすることにした。
すると、その男性の家族と思われるこれまた異星人のような人たちが駐車場に続々と降りて来た。そして、3台ほどその家族が所有しているリムジンがやって来た。まさかリムジンを、しかもそれを3台も所有していると思わず驚いたのだが、ゆっくりと驚く間も無く私はリムジンに乗り込んでいた。
運転席の後ろの列の席は変わったシートになっていて、そこに座ってその男性の家族の1人と思われる男性と会話を始めたところで夢から覚めた。今朝方の夢に関しても、もう少し細かな場面があったように思う。
いずれにせよ、空を飛んでいる場面においては、その意味するところがなんとなくわかり、一方で異星人のようなあの男性とその家族が何を暗示しているのかは気になるところだ。フローニンゲン:2021/4/11(日)06:33
6817. サハルの家を訪れて
時刻は午後4時を迎えた。午後から天気が良くなり、今は晴れた空が広がっていて、とても気持ちがいい。やはり精神衛生上、太陽の光を拝めることは重要だと改めて実感する。
今日は昼前に嬉しい出来事があった。同じ敷地内に住むサハルの家に招待をしてもらったのである。
注文していたバランスボールと書籍が自分が不在だったために受け取れず、サハルの家に預かってもらうことになり、てっきり郵便物の受け渡しだけかと思ったら、サハルがわざわざ自宅に招いてくれて少し話をしようと持ちかけてくれた。
サハルには4歳の息子のフィンという少年がいて、彼が私がやって来る11時前に、おもちゃのピザを焼いてくれていて、サハルからその様子を写した写真がテキストメッセージで送られて来てともて微笑ましく思った。
一応サハルの家、オーナー夫妻の家、そして私の家は、表の扉に出ることなく、扉の内側の敷地内にあるため、わざわざ表の扉から訪問しなくてもよかったのにとサハルから言われたが、さすがに初対面の際に裏口の扉をノックするわけにはいかなかったと後ほど笑いながら話した。
実は昨日は、新居で初めてZoomを用いて知人と話をしたのだが、話に盛り上がり、結局3時間半ほど話をしていた。今日もサハルとフィンの家で結局1時間半ほどゆっくりさせてもらった。
お互いに初対面だったことを忘れるぐらいに、最初の挨拶を通じてすでに打ち解けたような関係性を築くことができたのは不思議であるが、最近はもうそうした事柄がとても自然のように思える。オーナー夫妻との関係性においてもそうであったし、また別の隣人のマークとの関係性においてもそうであった。彼らに共通するのは魂の純粋さだろうか。
1時間半の話の中で色々な話題を取り上げたのでいずれも印象に残っている。サハルの生い立ちからフローニンゲンに導かれた人生の概略について話を聞いたところ、サハルはボンベイで生まれ、母親はポルトガル系のイスラム教信奉者であり、父親はインドの由緒ある地域出身のキリスト教信奉者とのことであった。両親が違う宗教を信奉しているところが興味深く、そこから彼と霊性や宗教の話をした。
自分の宗教観は無神論的な(atheistic)側面と不可知論的な(agnostic)側面の双方があり、それらが折衷的な(eclectic)、あるいは統合的な(integral)形になっているように思えたので、説明は難しかったが、その点について言及をした。どうやらサハルも似たような宗教感を持っているらしく、そこでも話が盛り上がった。
サハルはインドにいた頃に、スラム街の子供たちへ教育サービスを提供していて、その協力者にオランダ人がいたらしく、その人物にオランダに来てみてはどうかと勧められたらしい。そこからサハルは、欧州中を旅をして、オランダが生活拠点かつ仕事の拠点として良さそうだと判断し、さらにはインドにいた頃のもう1つの仕事として行っていたアート関係の仕事の専門知識を高めるために、フローニンゲンの街にあるフローニンゲン大学とは別のハンゼ大学に入学してデジタルメディアについて修士号を取得したとのことだった。
現在は、イラストレーターかつアートディレクターとして活動をしていて、家にはたくさんのアート関係、イラスト関係の書籍や資料があった。その中でもすぐに目を引いたのは、サハルが日本のアニメイラストレーターの画集をいくつも持っていたことだった。
ちょうどこの間、『AKIRA』というアニメを見ていたところであり、その画集があったのでその作品についてしばらく話をしていた。その他にも、数年前にパリでジブリのイラストの特別展があったようであり、その際に購入した画集も見せてもらった。
サハルには、荷物を預かってもらっていただけではなく、1時間半の間にヘンプチャイと果物のスムージーをご馳走になり、さらには嬉しいことに、サハルがデザイナーとして参画した“India and The Netherlands: Past, Present & Future”という資料集をもらった。これはオランダ国王に献呈され、さらにはオランダが誇る最大の美術館であるアムステルダム国立美術館にも献呈されている——その美術館ではこの資料集を購入することができる——。
本書はタイトルにあるように、インドとオランダの歴史的関係性を様々な観点から調査した資料であり、その資料価値は極めて高い。サハルが本書を開きながら色々と解説をしてくれる中で、思わず声を上げて興奮してしまったのは、インドが誇る神秘思想家の1人であるジッドゥ·クリシュナムルティ(1895-1986)と音楽家かつ神秘思想家のハズラット·イナヤット·カーン(1882-1927)がその資料集で取り上げられており、オランダと2人が関係していることを初めて知ったことである。
その他にもサハルやフィンとのやり取りについて書きたいことはたくさんあるが、それはまた追って書き留めておこう。いずれにせよ、素晴らしい隣人と同じ敷地内で暮らしを共にできることを本当に幸せに思う。近々サハルとフィンに何か返礼したい。フローニンゲン:2021/4/11(日)16:57
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