No.1950 早朝の精霊_A Spirit of the Early Morning
本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)
No.367, Illumination
I can see the shining moon now.
It illuminates the world.
Our awareness has the same power as the moon.
It illuminates ourselves and the world.
Groningen; 05:13, 3/3/2021
No.368, Interest in Zen Poetry
I’m interested in studying Zen poetry from the perspectives of theology and developmental psychology.
Zen poetry has something meaningful and captivating to me.
Groningen; 05:27, 3/3/2021
No.369, Limitations of Conceptual Thinking
From a perspective of philosophy of language, our conceptual thinking always draws a line between A and non-A.
Also, it presupposes the opposite.
Yet, our reality is essentially non-dualistic, meaning that it has no opposite.
Only conceptual thinking doesn’t enable us to reach the higher realm of consciousness.
The importance of non-verbal creative activities arises here.
Groningen; 06:19, 3/3/2021
No.370, Forms and Emptiness
Forms emerge from emptiness.
Forms evolve through emptiness.
Emptiness is the ground that create any forms.
Finally, non-duality is the union of forms and emptiness.
Groningen; 09:06, 3/3/2021
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本日生まれた6曲
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タイトル一覧
6697. 神学校への進学可能性による生活の張り
6698. 発達的不快感の必要性/今朝方の夢
6699. 非二元性への絶え間ない気づきに向かって/明け渡し
6697. 神学校への進学可能性による生活の張り
時刻は午前4時を迎えた。今、小鳥たちが清澄な鳴き声を上げている。
今朝は3時半頃に起床し、起床した時の爽快感と、今聞こえてくる小鳥たちの鳴き声の爽快さがシンクロする。ここ最近はまた寒さが戻ってきたのだが、小鳥たちがこの時間帯に鳴き声を上げてくれていることを嬉しく思う。また暖かくなってきたら、鳴き声を上げる小鳥たちの数も増えてくるのではないかと思われる。
今の気温は1度であり、今日は11度まで気温が上がるようだが、明日からはまた最低気温がマイナスになる。寒さが戻ってきたとこともあり、最近は夜寝るときに再び湯たんぽを使い、早朝から午前中の半ばにかけても湯たんぽを使って生活している。春の訪れまで時間がかかるであろうから、今年の春は新居で迎えられそうだ。
昨日は結局段ボールが届かず、それは今日のどこかのタイミングで届きそうだ。できれば午前中に届いて欲しいと思う。
昨夜、引っ越しに向けた準備の一環として、壁に掛けてある絵の整理をした。自分が所有している3点の絵画作品の額縁を拭いただけではなく、この家に最初から備え付けられていた数点の絵画作品についても綺麗にしておいた。自分で所有している絵画作品については、新居のどこに飾ろうかと今から思いを巡らしている。
ここ最近は、神学校へ留学するという小さな目標が新しく生まれたことによって、探究活動と創作活動にまた張りがもたらされたように思う。大変喜ばしいことだ。
2021年は、欧米にある神学校について色々と調査をしていく時期にしよう。実際にアプライに向けた本格的な準備をするのは2022年からにする。
探究は日々少しずつ深まっていき、同時に探究領域が徐々に拡張されていく。まさか自分が神学校に留学を考えるほどに神学という領域に関心を持つとは思っていなかった。
もちろん、成人発達理論やインテグラル理論に関心を示していたときから、神学的なものへの関心は間違いなくあったのであるから、それは何らおかしなことではないと言えるかもしれない。ただ、すでに修士号を3つ取得した段階で、再びどこかの神学校で修士号を取得しようと思うようになったことは、少し前までの自分にとってはあまり想像できないことである。
今、欧州だけではなく、アメリカにいくつか興味深い大学院を見つけており、仮にアメリカの大学院に再び進学することになったら、アメリカでまた数年ほど生活を送ることになる。一旦欧州から離れたとしても、また欧州に戻ってこようと考えている。
米国から欧州へという流れを経ることによって、ここ数年はアメリカという国を客体化して眺めることができるようになってきていた。今度は逆に欧州を離れてアメリカに行くことによって、欧州を客体化して眺めることが可能になるかもしれない。
いずれにせよ、神学校への留学という選択肢が芽生えたことによって、生活に新たな張りがもたらされたことは大変喜ばしいことだ。今月末からの新居での静寂な生活の中で、絶えず情熱的に探究を進めていくことができるだろう。フローニンゲン:2021/3/3(水)04:28
6698. 発達的不快感の必要性/今朝方の夢
小鳥たちの鳴き声は本当にいいものだ。彼らの鳴き声を夜が明けぬ闇の世界の中で聴いていると、自然と黙想的な意識になる。
今月末からの新居の周りも緑が多く、家の近くには木々があるので、小鳥たちがそこに集まってきてくれるだろう。彼らの鳴き声がもっと身近なものになるかもしれない。より静かな環境である新居において、彼らの鳴き声はより一層自分にとって近しいものに感じられるだろう。
ソロー的·ディキンソン的な観想生活がいよいよ始まる。最近新たに浮上してきた神学校への進学の可能性を考えてみると、仮にそれが実現されたら、再び大学に近い街のどこかに住むことになるだろうか。その際にも可能な限り閑静な場所を選びたい。
精神的な潔癖主義には陥らず、それでいて自分が求める住環境を追求していく姿勢は今後も持っていく。この精神的な潔癖主義に関連づけて言えば、そう言えば一昨日に、成長発達支援における快·不快について考えいていた。とりわけ後者についてである。これは成長·発達に伴う不満の話と紐づいているかもしれない。
時に成長発達支援において、発達上必要な健全な不快感を感じるような支援が求められる時がある。その塩梅は非常に難しいが、快だけでは人は成長していかず、まさに現状及び自己に対して健全な批判を投げかけることによって成長していく姿を見てみると、そうした批判の根源には、やはり現状や自己に対する何かしらの不快感があるように思えてくる。
社会に必要悪が存在するように、必要不快というものも存在しているのだろう。自分に引きつけて考えてみると、確かに自分が発達を遂げていく際には、その時の認識の枠組みに揺らぎをもたらすという意味での不快さ、すなわち発達的不快さが生じていたように思う。
その不快さは興味深いことに、必ず生理的にも不快感が伴う。認識というものが言葉で構築されていて、言葉と身体は密接につながっているがゆえに、そうした不快には必ず生理的な反応があるのだと思われる。
発達には、身体精神的な次元における健全な不快さが必要であること。それを忘れないようにする。
今朝方は1つだけ夢を見ていた。それについて振り返ったら、今日もまた創作活動と探究活動に打ち込みたい。今日は午前10時半から対談セミナーがあるので、それまでの時間、ウィルバーの書籍を音読したり、創作活動に精を出していきたいと思う。
夢の中で私は、見慣れない建物のトイレの中にいた。そのトイレにはいくつか個室があり、私はそのうちのどこかに入ろうとしていた。しかし、個室がどれも狭く、なかなか理想的な個室を見つけることができなかった。
一般的にトイレの個室は標準化されていて、どれも同じ作りになっているのだが、興味深いことに、そこのトイレは1つ1つの個室に個性があった。個性があるのは評価できる点なのだが、個性がある分選択が難しい。そんなジレンマがあった。
結局私は、赤ちゃんを連れた人のための一番広い個室に入った。そして便器に腰かけると、頭上から赤ちゃんがつぶやく声が聞こえてきた。
ふと見上げると、赤ちゃんが顔を覗き出していた。私は一瞬ギョッとした。すると、赤ちゃんだけではなく、親とは思えないほどの若さの大学生ぐらいの男性がその赤ちゃんを抱っこさせる形で顔を出させたのだと気づいた。
なぜかその男性は、私が個室に入っているところをスマホで撮影していて、インタビューのようなことをし始めた。私はそれをプライバシーの侵害かと思った。
彼はわざとそのようなことをしてきたことがすぐにわかった。つまり、私が入っている個室は赤ちゃんを連れた人のためのものであり、そこに赤ちゃんを連れていない私のような者が入ることは問題があると主張したいようだった。
私は彼に対して自分の主張をしようと思った。そこで夢の場面が変わった。
実際にはそこで目覚めたのかもしれない。今朝はその他にも夢を見ていたように思うが、その記憶はもう不鮮明である。フローニンゲン:2021/3/3(水)04:47
6699. 非二元性への絶え間ない気づきに向かって/明け渡し
時刻は午後8時を迎えた。静けさの中で本日の充実振りを改めて噛み締めている。
自分は充実という名の果実を毎日食べさせてもらっているのか。それとも自分は充実という名の果実の中にいるのか。もしかしたらその双方かもしれない。
自分は充実という名の果実の中にいて、それを毎日味わさせてもらっているのだ。この味をこの世界に共有していくこと。
1人でも多くの人たちが自分に固有の充実という名の果実に出会い、それを毎日享受できること。その実現に向けて貢献していこう。
続く非二元的な意識。今日は午後に仮眠を取っている最中に、意識がコーザルからサトルに戻ってきた時に、意識の状態がとっさに深まり、目撃者の意識状態になった。
サトルの意識状態で生起する千変万化するイメージを、それらに囚われることなく純粋に眺めていたところ、いつの間にか自分は全てを眺める者になっていた。そしてそこから突発的に非二元の気づきがやってきた。そのような体験があった。
日常の中に絶えず存在している非二元性。というよりも、本来このリアリティは本質的に非二元的なのだ。
単に私たちがいつもすぐに二元的、ないしは分節的に世界を認識しようとするだけなのだ。私たちはすぐに思考という道具に飛びつき、世界を言葉によって切り分ける。
もちろん、それによって初めて実現可能な事柄も多々あるのだが、リアリティの本質である非二元性と、究極的な自由と解放の実現を考えるのであれば、分節的な思考だけに頼って生きることには問題がある。
今この瞬間も世界は常に非二元的であり、私たちのちょっとした気づきによって、リアリティの非二元性には常に触れることができるのだ。
気づきの意識のシフト。そしてその深まり。
意識をしていないと非二元性からすぐに離れてしまいがちな私たちであるが、逆に言えば、日々の生活の中で非二元性に触れる体験を意識的に積んでいくことが究極的な自由と解放に私たちを向かわせてくれる。
今日は昼前に、無事に段ボールが届いた。明日の午後4時に、不動産会社の人がやってきて、物件の貸し出しに向けて部屋の写真撮影をすることになっている。
今日は午前中から昼過ぎにかけて対談セミナーがあり、セミナーが終わった後、セミナーの内容の補足として、「一瞬一生の会」の補助音声教材として音声ファイルを午後に作成していた。
そうしたこともあり、午後にはあまり荷造りが進まず、今からもう1箱か2箱ぐらい書籍を詰めておきたいと思う。そうすれば、明日の昼前ぐらいからまた荷造りをし、午後に部屋を掃除すれば、綺麗な状態で写真の撮影をしてもらうことができるだろう。
写真撮影に向けて部屋を綺麗にすることは決して強制されているわけではなく、不動産屋からは何も依頼がなかった。何も言われていないからこそ、自主的に部屋を綺麗にしたいという気持ちが湧いてくる。
仮に部屋を綺麗にしろと指示を受けていたら、自分の性格上、決して部屋を綺麗にしなかっただろう。むしろわざと書籍を散らかし、乱雑なままにしていたように思う。
何も言わなかった不動産屋に感謝をし、5年半お世話になった感謝の意を込めて、できるだけ部屋を綺麗にして部屋を明け渡そう。フローニンゲン:2021/3/3(水)20:24
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