top of page

6481-6482: アートの国オランダからの便り 2020年12月16日(水)


No.1640 蜂蜜の田んぼ_A Farm of Honey

本日の言葉

All living beings have Kamma as their own. Majjhima-Nikaya


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた4曲

本日生まれた曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

本日生まれた曲はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

6481. 名前に込められたもの/今朝方の夢

6482. 絶え間ない現在感覚/『パプリカ(2006)』を見て


6481. 名前に込められたもの/今朝方の夢


時刻は午前4時を迎えた。今朝の起床は午前3時半過ぎだった。


昨夜、平穏を希求し、平穏な国の平穏な環境で生活をしているのは、自分の名前に「平」という文字が付くことと関係しているのではないかと思った。また、平和と平等を強く求めるのも同じ理由からなのかもしれないということを考えていた。名前に込められたものや名前の力を思う。


名付けとしての日々の創作活動。作ることは名付けることである。今日もまた名付けとしての創作活動に励んでいこう。


今朝方は印象的な夢を見ていた。夢の中で私は、高校時代を過ごした場所にいた。小中学校時代も同じ街に住んでいたのだが、高校に入ってすぐの時に街の中で引っ越しをした。


夢の中の私はもう成人であり、感覚として今と何も変わりはなかった。私は街中を自転車で移動していて、小中高時代の友人(HY)とオランダでお世話になっている会計士との電話のやりとりを聞いていた。


友人も確定申告をその会計士にお願いしているようであり、イスラム関係の保険について話をしているようだった。私はその保険に加入していて、その税務上の取り扱いに関心があった。


会計士曰く、基本的にそれは控除の対象にならないとのことだった。その理由について会計士が友人に説明していたのだが、税法の原理上、その理由はどこか理不尽なものに思えた。そう思ったところで私は電話を静かに切った。


時計を確認すると、昼食時となっていた。ちょうど目の前に駄菓子屋のような店があり、中に入ってみると、そこに2人の友人がいた。彼らに話しかけ、レジの近くで売られている梅の飴を購入することにした。私はその飴が昔から好きなようであり、最近はオーガニックの梅を使い、精製された砂糖を使用していないため、久しぶりにそれを購入してみようと思った。


店を出ると、数名の友人が偶然道を通りかかり、せっかくなので全員で昼食を一緒に食べようということになった。店に関しては、近くにいくつか候補先があり、私が選ぶことにみんな同意していた。


合計で7名ぐらいの友人を引き連れて、私は自転車で先頭を走っていた。なぜか私は右手に持っていたサンドイッチを一口かじると、ヴィーガンである私にとって、それがカツサンドであることにショックを受けた。


一口食べてしまったものは仕方ないと思ったが、もうそこからは口をつけず、サンドイッチを袋にしまった。すると、ちょうど右手に見えたビュッフェ形式の日本食レストランがヘルシーでとても美味しそうに思えたので、その店に決めた。


時刻はちょうど昼時だったので、続々と人が入ってこようとしていた。私たちはなぜかみんな、店内に自転車を持ち込んでいて、さすがに外に停めないとダメだろうと思って、一度外に出ようと思った。


だがその前に、ある親友(HS)に代表者をお願いして、ウェイティングリストに名前を書いておいて欲しいとお願いしたところ、彼はなぜかそれを躊躇しており、断られた。それには何か事情がありそうだと思ったが、ゾロゾロと客が入ってきていたので、とにかく彼にお願いした。そこで夢から覚めた。フローニンゲン2020/12/16(水)04:35


6482. 絶え間ない現在感覚/『パプリカ(2006)』を見て


時刻は午後8時を迎えた。静かな闇の世界が目の前に広がっている。ここ最近はもう何日も太陽の光を見ていない。


今日はほんの一瞬だけ太陽が天から差し込む瞬間があったが、それ以外はずっと曇ったままだった。ほんの一瞬太陽が差し込むというのは、まさに天の恵みである。


明日の天気はどうだろうか。それは明日になってわかればいい。


記憶としての過去はあっても体験としての過去はなく、展望としての未来はあっても体験としての未来はない。絶えず体験は現在に立脚しているということ。


解放された自己は絶えず現在を通じて生きることができ、自我に囚われた自己は過去と未来に囚われる。過去·現在·未来という境界線を引くということそのものが自我の働きであるということ。それを思う。


ここ最近見ている映画の中で、このあたりの主題を見事に描いている作品と出会う。そのたびに嬉しくなってしまう。同じ感覚を持って生きている人が他にいて、その人が映画監督として見事に映画作品にその感覚を仕立て上げている点に感銘を受ける。


過去と未来が脳裏をよぎるのは、自我の境界線を産出するという機能上仕方のないことなのだが、過去と未来を引き受けながらにして絶えず今というこの瞬間を生き続ける強靭な、あるいは成熟した実存的あり方が作品で描かれることがある。


そうした作品は傑作であり、一方で、自我の姑息性と欲望に囚われた形で過去や未来を変えようとしたり、あるいは虚無主義的に過去や未来を放棄するというあり方が描かれている作品——こうした虚無主義的な態度よりも、圧倒的多数の作品は前者のあり方に収束する——は傑作とは程遠い凡庸な作品であると思う。


本日見た作品の中で、『パプリカ(2006)』という作品が印象に残っている。この作品は、他者の夢に入り込める装置をめぐるサイコセラピストの奮闘を描くSFサスペンスアニメである。


この作品を通じて初めて今敏(こんさとし)監督の作品を見たのだが、その世界観には惹かれるものがあった。この作品は、「想像と現実の融合」という発想が見事に体現されていたように思う。


この作品は、『マトリックス(1999)』から多分に影響を受けているだろうし、逆に『インセプション(2010)』に影響を与えているのではないかと思われるような内容だった。


本作品の設定は、他者と夢を共有でき、他者の無意識の世界の中に入ることができるという興味深い設定である。他者と夢を共有できるのではないかというのは、以前自分が実際の夢を通じて体験したことでもあり、その考えが以前よりあった。その点については過去の日記に書き留めていたように思う。


先日見た、マッツ·ミケルセン主演の『ザ·ドア ‐交差する世界‐(2009)』という映画において、蝶が主人公を導く存在として登場していたのだが、本作においても同様の役割を果たしていた。さらには、本作においては蝶は「胡蝶の夢」を象徴するようなものでもあった。


人は人為的に夢と現実の境目を設けるが、本質的には夢と現実の境界線など無いに等しく、現実が夢であり、夢が現実であるという見方もできる。


近年は、夢が現実と本当に混じり合うような社会になっている。広義において、ネットの世界は夢の世界でもあり、VRの世界もまた夢の世界であり、同時にそれらは全て現実世界でもある。


それらは「仮想現実現実世界」あるいは「現実仮想現実世界」とでも呼べるだろうか。リアルもヴァーチャルも超越した「ハイパーリアル」としての現実の二重構造が想起され、そのような言葉が生まれた。


今後は、仮想現実世界においても現実世界の法律が適用されたり、仮想現実世界固有の法律が適用されたりするかもしれない。それほどまでに両者の世界の境界線がこれからますます曖昧になっていき、最終的には渾然一体となるだろう。そうした社会の到来に向けた足音はもう聞こえているし、そうした社会への扉はもう開いている。フローニンゲン2020/12/16(水)20:19

Comments


過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page