No.1586 輝きの礫_Bright Gravel
本日の言葉
A human being is made out of energy. Thoughts, moods and feelings are all manifestations of energy. Ajahn Thanasanti
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本日生まれた5曲
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タイトル一覧
6434. 流れる時間/意識の流れの形象化
6435. 今朝方の夢
6436. 『コングレス未来学会議(2013)』を見て/今朝方の夢の続き
6434. 流れる時間/意識の流れの形象化
時刻は午前6時半を迎えた。今、小鳥たちの鳴き声が聞こえて来ている。ちょうど朝の換気のため、書斎と寝室の窓を開けていて、そこから彼らの鳴き声が聞こえてくる。
今週もいつの間にかもう木曜日になっていて、あと少しで週末を迎える。本当に時の流れは早い。
時間の進行過程において時の早さを感じるわけではないのだが、振り返ってみたときに、いつの間にか時が随分と過ぎていたという感覚なのである。これは良い兆候かもしれない。
日頃の活動中においては、活動そのものに没頭できていて、時間感覚など消失しており、活動を終えてふとしたときに振り返ってみると、随分と時間が経っていたという感覚なのだ。人生全体においてもそのような形で時間が進行していて、このままこうしたあり方を継続していけば、人生を終える段階になって初めて、随分と時間が経っていたことに気づくかもしれない。
人生の瞬間瞬間に没入しながら、時間と共に歩んでいき、振り返ってみたときに、時間の流れの早さとそこまで積み重ねて来たものを知る。そこに向かう形でこれからも日々を生きていこうと思う。
今日の最低気温は1度まで下がるようだが、最高気温は10度と比較的温かい。明後日の土曜日にはついに最低気温が0度となり、日曜日にはマイナス1度となる。しかも日曜日には最高気温がもう4度までしか上がらなくなってしまう。いよいよ冬本番といったところである。
昨日は結局、近所のスーパーに行くことができなかったので、今日の午後に散歩がてらスーパーに行こう。トイレットペーパー、そして果物と野菜を購入しようと思う。
今日は特にオンラインミーティングもなく、全ての時間を自由に使える。午後にでも、この秋に一時帰国した際に作ったインテグラル理論に関する動画コンテンツのテロップのレビューをしたいと思う。
ちょうど昨夜に協働者の方からテロップ原稿が送られて来たので、そのレビューを行う。少し前に最初のレビューを行い、今回が最後のレビューとなる。本日やることはそれぐらいであるから、あとは映画鑑賞と作曲実践に全ての時間を充てていく。
昨日はオンラインミーティングがあり、街の中心部に買い物に出かけたこともあり、3時間ぐらいそれらの活動に時間を充てていたため、映画は6本ほどしか見れなかったが、今日は7本ぐらい見れるかもしれない。
旧ソヴィエトの映画監督タルコフスキーが『鏡』という映画作品を通じて、意識の流れを映像化していったのと同じように、意識の流れを言葉·音·絵として日々表現していこうという意思を改めて持った。
それを続けていくことによって、意識はどのように純化していくのだろうか、また、意識はどのように拡張していくのだろうかということに関心が向かう。その結果として、意識の流れは大河と合一できるのだろうかという関心もある。
意識の流れを自分なりの表現手段で形にしていくことを今日も行っていく。今ここで書いた日記もまさにその実践の1つだ。フローニンゲン:2020/11/26(木)06:48
6435. 今朝方の夢
時刻はゆっくりと午前7時に近づいている。小鳥たちの鳴き声は止み、今静寂に包まれた闇の世界が外に広がっている。日の出は午前8時頃になり、日が昇る姿を拝むまでにまだ時間がある。
小鳥の鳴き声が止んだと思ったら、今また彼らの鳴き声が聞こえ始めた。それはいつも私の心を落ち着かせてくれ、なんとも言えない至福さに導いてくれる。
彼らに祝福されながら、今朝方の夢について振り返りたい。今朝方の夢は、幾分自分の攻撃性が現れるような内容だった。
夢の中で私は、見知らぬ体育館のような場所にいた。そこのフロアはよく磨かれていて、とても綺麗だった。
私は体育館の右端の方にいて、フロア全体を見渡すと、小中学校時代の友人たちが多くいた。どうやら私たちはこれから体育館で運動をするらしく、今は準備体操の時間のようだった。
フロアの前の方には、中学時代にお世話になっていた若い女性の数学の先生がいた。先生はどういうわけか私に右手だけの腕立て伏せを命じた。私もそれに挑戦したいと思ったので、すぐに腕立て伏せを始めたところ、それが一向に終わらない。
最初は自分の腕立て伏せのどこが悪いのかわからず、なぜ長く腕立て伏せをさせられるのかイマイチ理解できなかったが、どうやら右足の親指のポジションがあまり良くないことに自分で気づいた。しかし私は、そのポジションを修正することなく、少しばかりムキになって、そのまま腕立て伏せを続けていた。
自分であれば永遠と腕立て伏せを続けていけるという確信があったのでそのような態度を取った。すると、先生が注意のためか、私のところに近づいて来た。そして、先生が私の真ん前にやって来たところで、私は突然腕立て伏せをやめ、先生に殴りかかった。
先生はフロアに倒れ込み、それを見て、今度は腹部に蹴りを何度も入れ、最終的には殴り殺す結果になった。先生の死亡を確認し、私は何食わぬ顔で友人に声を掛けて、体育館から出て外にでも行こうと述べた。そこで夢の場面が変わった。
そう言えば、この夢の場面の前に、小中学校時代の友人(ST)と一緒に街をランニングしていた場面があった。彼は野球部のキャプテンを務めていて、彼に野球部の近況について話を聞きながら走っていた。
野球部には個性的な人間が多かったので、取りまとめるのは一苦労だと言うことを彼は述べていて、私もそのように思った。するといつの間にか彼はどこかに消えていて、彼は若くして亡くなったという知らせがどこからともなくやって来た。そのような夢の場面があった。
最後の夢の場面では、私は焼肉屋の前にいた。私自身は肉は一切食べないのだが、2人の友人が焼肉屋に行きたいと言ったので、彼らについていくことになった。
友人のうちの1人は、小中高時代の親友(SI)であり、彼が店の予約をしてくれていた。店に入ると、店員は誰もおらず、客の姿も見えなかった。
どうやら食事をする場所は2階よりも上の階のようだった。すると、どこからともなく店員の声が聞こえて来た。
天井に備え付けられているスピーカーから女性の店員の声が聞こえて来て、予約番号を教えて欲しいと述べた。友人は予約番号を伝え、私たちは上の階に通された。
上の階に向かうまでの途中の階段が変わっていて、階段は捻り曲がっていて、柵もなく、階段から落ちると大怪我をしそうな感じであった。不思議な階段をゆっくりと登っていると、いつの間にか私は、学校の教室の中にいた。そこは小学校の理科室のようだった。
理科室は中庭に面していて、紫陽花のような花が咲いていた。私の席は、中庭の見れる窓際の一番前の席だった。自分の席に向かってみると、机が自分のものではないことに気づいた。
すると、友人である双子の兄弟の弟の方が、私の机を後ろにどかし、彼の机が本来の自分の席のある場所に置かれていたのである。彼は自分の席に座ろうとしていて、それを見て私は、もう一度自分の机を本来の場所に持ってこようとした。
まず彼の机を強引に後ろにどかし、彼の手荷物も脇に置こうと思った。彼の食べ物が入った容器がビニール袋の中に仕舞われていて、ビニールの中で私は容器を潰し、持ち物ごと全部窓の外に捨てた。
彼は私のそのような行為に怒り始めたが、私も自分の席が奪われたことに対して腹を立てていたので、そこで喧嘩になるかと思ったが、私には敵わないと思ったのか、彼はその場から消えた。今朝方はそのような夢を見ていた。いずれの夢も印象的であり、シンボルとして色々と示唆に富む。
お世話になった教師を殴る夢を見るというのは久しぶりだったように思う。ここ最近の映画鑑賞にせよ、創作活動にせよ、自分の内側にある巨大なエネルギーがそれらの活動に自分を駆り立てている側面は確かに存在しており、そうした意味において、怒りにまつわるシャドーは自分の活動の根源でもある。
怒りという感情にも発達段階があり、夢の中の怒りは往々にして低次元の“anger”のようなものだが、現実世界においてはそれがこの時代のあり様への嘆きにつながっているような“indignation”として現れているように思う。この感情が自分の日々の活動をどこか根元から支えていて、強く活動を駆動させている。
夢の中で自分の手によって殴られたり、殺されたりする対象は様々だが、共通しているのは過去にお世話になった人たちであり、そして彼らは権威があるということである。今回の夢は、「師匠殺し」ということが1つ主題になっているように思われ、師匠を乗り越えていくことが夢の中で起きていることは興味深い。
夢で発露された攻撃性が一度落ち着き、純化される形で今の自分の内側に流れているように感じる。このエネルギーをもとに、今日もまた自分の取り組みに従事していこうと思う。フローニンゲン:2020/11/26(木)07:24
6436. 『コングレス未来学会議(2013)』を見て/今朝方の夢の続き
時刻は午後7時半を迎えた。今日は1日中曇っていたが、それでも充実感を感じさせてくれる1日だった。
見たうちに入らないぐらいの微々たる投入量だが、今日も映画とドキュメンタリーを合わせて6本見た。昨日の予定だと、今日は7本ほど見ようと思っていたが、現在進行中の「一瞬一生の会」の音声ファイルを作成していた。
最近は必然的に映画の話を多くしており、今日録音したものも映画の話しか今のところしていない。就寝前に音声ファイルを作成してしまうと、意識が覚醒してしまうので、できれば寝る前に録音するのは避けたいが、夕方に録音したものだけでは話し足りないように感じるので、この日記を書き終えたらまた録音をしたい。
今日見た作品では、ビルマ民主化運動を牽引したアウンサンスーチー氏の半生を描いた『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛(2011)』という映画、第45代アメリカ大統領、ドナルド·J·トランプの半生を綴るドキュメンタリー『波乱万丈!トランプ大統領の知られざる人生(2014)』、プラシーボ効果を取り上げ、人間の治癒力の不思議に迫った『プラシーボ ニセ薬のホントの話(2014)』というドキュメンタリーは、いずれも興味深かった。それらについてはこれから音声ファイルを通じてコメントをしておきたいと思う。
本日見た映画の中で最も面白かったのは、『コングレス未来学会議(2013)』という作品である。この作品はある意味、マトリックスを超えた映画だった。なぜなら私たちの社会が実際にこのような社会が作られる方向に動いており、実際に部分的にもうこうした社会が到来しているからである。そして、いずれ本格的にこうした社会がやってくることが明らかになって来ているからである。
幻覚の世界で幻覚の人生を歩む人々の姿。現代においては、列車の中や街中で、あるいは至る所でスマホを片手にネット的ヴァーチャル世界にプラグインし、その世界に無自覚に浸っている人たちが大勢いる。
今後はテクノロジーの進歩によって、その度合いが一層強まり、人々はヴァーチャルの世界かドラッグによる幻覚世界に浸る時間が長くなるだろう。そして、ずっとそうした世界に留まり続ける人たちが増えてくるはずである。
なぜならそれらの世界では、現実世界の苦しみから逃れることができ、幸福感も感じられてしまうからである。また、映画の中で描かれていた空中庭園のように、クスリでエゴから解放され、争いのない平穏な世界の中で生きられるからである。
この映画作品は、インテグラル理論で言うところの第2層の世界観を体現していなければ理解が難しい映画かもしれない。あるいは、トランスパーソナル的体験をしたことがあるか、そうした知覚体験に関する知識がなければ理解できない部分が多々あるだろう。
そのようなことを思いながら、映画はイマジネーションの産物であり、未来の人間のあり方や社会のあり方を見事に描写していることがある点についても考えていた。1人の人間のイマジネーションが集合のイマジネーションに浸透し、それが具現化されていく。そのイマジネーションが否定的·肯定的なものかにかかわらず、人間のイマジネーションの力にはそうした力があり、映画というのはそうした装置のように思えてくる。
時刻はもう間も無く午後8時を迎えようとしている。この時間帯になって、そう言えば、今朝方の夢の中で、シュークリームを食べようとする場面があったことを思い出す。
私は、小中学校時代を過ごした社宅の食卓に座っていて、朝食を食べようとしていた。母がシュークリームを含め、甘いお菓子を冷蔵庫に保存していたことを私は知っていて、朝食としてそれらのいくつかを食べたいと思っていた。
しかし、母はそれらをどうやらどこかにお土産として持っていくために保存しているようだった。またそもそも私は朝食を普段食べないこともあり、結局それらのスイーツを食べないことにした。
そのような夢の場面があったことを今になって思い出す。今夜はどのような夢を見るだろうか。フローニンゲン:2020/11/26(木)19:56
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