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6410-6411: アートの国オランダからの便り 2020年11月17日(火)


No.1560 朝の愉悦_Morning Rejoice

本日の言葉

When you have one eye on the goal, you only have one eye on the path. Zen proverb


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本日生まれた5曲

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タイトル一覧

6410. 『鏡の中にある如く(1961)』を見て/今朝方の夢

6411. 芝居が持つ治癒と変容効果:『大鹿村騒動記(2011)』を見て


6410. 『鏡の中にある如く(1961)』を見て/今朝方の夢


時刻は午前7時半を迎えた。今、空がダークブルーに変わり始め、小鳥たちが朝の合唱を行っている。彼らの鳴き声から推測すると、今日の彼らはとても元気そうだ。


今朝は少し小雨が降っているのだが、それはじきに止むという予報が出ている。昨日は結局、街の中心部に買い物に出かけることができなかった。


「一瞬一生の会」の第3期が始まり、初回のクラスの振り返りに関する音声ファイルを作っていると、思いの外長くなり、午後に2時間ほど1人で話をしていて、夜寝る前にも1時間弱1人で話をしていた。合計で3時間ほどの音声ファイルを作ったことになる。


この3時間とクラスの2時間を合わせると、昨日は一瞬一生の会に5時間を充てたわけなのだが、それでも映画は5本見た。映像の持つ力は強く、それが良い意味で覚醒意識の世界と無意識の世界の双方に揺さぶりをかけている。こうした揺さぶりをかけてくれるというのは、自分の中での良い映画の1つの条件である。


昨日見たスウェーデン映画の『鏡の中にある如く(1961)』という作品を改めて思い出す。これは、イングマール·ベルイマン監督の「神の不在3部作」の1作目に該当する作品だ。本作品もまたすぐに理解できない箇所があったが、いくつかの台詞が印象に残っている。


台詞通りではないが、「人は円を描いてその中で生きている。時にその円が何かをきっかけにして破られる。そして人は、新たな円の中で生きていく」という意味の言葉と、「私の生きるよすがは、愛に満たされているということではなくて、この世に愛が存在するということだ」という意味の言葉である。


これら2つの言葉については、少し立ち止まって考えていた。今日もまた映像作品を積極的に見ていこうと思う。映像を通して訴えかけられるものを感じ、その感覚をもとに何かを考えていくこと。自己と世界に対する理解を、映像を通して深めていくこと。それを今日もまた行っていく。


辺りはうっすらと明るくなり、通りを走る車の音が聞こえてくる。フローニンゲンもめっきり寒くなり、昨夜から湯たんぽを使い始めた。ここから長い冬に突入し、例年の経験上、湯たんぽは5月上旬まで使うことになるだろう。


今朝方の夢が微かな記憶を持って自分の内側に滞留している。夢の中で私は、ある有名な日本人サッカー選手と、ある社会学者の教授と話をしていた。場所は、その選手が所属するサッカーチームのクラブハウス内のカフェだった。


私たちは窓側の席に腰掛けて、窓の外に広がる数面ほどのサッカーグラウンドを眺めながら話をしていた。そこでサッカーの話をするのかと思いきや、教育の話になった。そのサッカー選手はオランダのチームに在籍していたこともあり、オランダの教育にも精通しているようだった。


その選手が教育の話題を切り出し、話は日本とオランダの教育で盛り上がった。その選手の教育に対する洞察はとても深く、私たちは共感の念を持って話を聞いていた。


今朝方の夢で覚えているのはそれぐらいだろうか。その他に覚えていることと言えば、見知らぬ日本人女性と話をしていたことぐらいだ。私は彼女に何か物を渡していたように思う。それがなんだったのかはもう記憶にないが。フローニンゲン2020/11/17(火)07:55


6411. 芝居が持つ治癒と変容効果:『大鹿村騒動記(2011)』を見て


静かな時間が流れている。そして、濃密な闇の世界が外の世界に広がっている。


時刻は午後7時半を迎えた。今日もまた、とても充実していた1日だったと思う。


今日は珍しくオンラインミーティングが2件あったのだが、そうした中でも時間をうまく作って、映画を4本ほど見た。現在貪るように映画を見ている自分にとって、1日に4本というのは見たうちに入らない微々たる数なのだが、そうしたことをいちいち気にすることなく、少しずつ映画を通じた探究を進めていけばいいと自分を宥めるように言い聞かせた自分がいた。


つい先ほど見終えた、園子温監督の『希望の国(2012)』という作品の中に出てきた言葉にあるように、大股で歩いていくのではなく、一歩一歩歩いていけばいいのだ。大股で歩こうとするのは虚勢的であり、作為的なのだ。そうではなく、自分にとって自然な歩幅で一歩一歩進んでいけばいい。


本日見ていたその他の作品の中で印象に残っているのは、阪本順治監督の『大鹿村騒動記(2011)』という作品である。邦画にも非常に良い作品はたくさんあることを改めて感じる。


この作品を見ながら取っていたメモは多岐に渡る。取り留めもないが、備忘録がてらここにまとめておきたい。


この映画を見ながら、先日一時帰国していた時に、金沢で訪れた金沢能楽美術館での体験を思い出し、本作で取り上げられている歌舞伎も興味深い伝統芸能だと改めて思った。作品の中でも描かれていたように、想像力を働かせ、芝居をすることによって、身分や地位に関係なく私たちは何にでもなれることを知る。


本作の中で、リニアモーターの誘致に関して村が分裂寸前だったが、村人たちが一緒になって歌舞伎の芝居に向けて稽古をしていくことを通じて、村が一体感を取り戻していくところが印象に残っている。


芝居のみならず、祭りを含め、何か私たちを非日常的な世界にいざなってくれるイベントに一丸となって向かっていく際には、なんとも言えない一体感が生まれる。学生時代の記憶を遡ってみれば、文化祭や合唱コンクール、そしてスポーツの大会など、一体感を醸成してくれるイベントが随分とあったことを懐かしく思い出す。


そうしたイベントに向かう過程の中では、時に対立や不和が生じる。だが、それらを乗り越えてイベントを終えた時、もはやそのイベントの前とは比べものにならないほどの共同体意識のようなものが芽生えていることは注目に値するのではないかと思う。


このあたり、企業社会における仕事やプロジェクトにおいて、祭りや芝居の要素はどれほどあるのかを改めて問う自分がいた。端的に述べてしまうと、1つ1つの仕事やプロジェクトが、一体どれほどチームや組織の一体感を醸成することにつながっているのだろかという問題意識と、仕事やプロジェクトの祭り事化·芝居事化の可能性を考えていたのである。


日常の自分の身分や立場、鎧を脱ぎ捨てて、無礼講を楽しむことの大切を改めて思う。現代人を見ていると、ある特定の役割だけに縛られる形で日々窮屈そうに生きている姿を見る。既存の役割を脇に置き、ちょっと別の役割を演じてみることによる非日常体験と、それがもたらす治癒を蔑ろにすることはできない。


演技や芝居を通じた教育効果やヒーリング効果に関しては、研究も進んでおり、教育においては、シュタイナー教育で演劇は非常に大切にされている。フランス哲学者のドゥルーズの考え方を採用すれば、現代人は大なり小なり精神分裂症(統合失調症)を患っており、バラバラな人格を癒しながらにして人格統合を図っていくために、芝居や演技の観点や実践は大切なのではないかと思う。


本作の最後のシーンはとても印象的だった。物語は主役の風祭善が「ぜんちゃんは俺だよ~···あれ~?」と述べたところで終わる。


最後のシーンを見た時、この問いは「Who am I?」という究極的な実存的問いが主人公の中で芽生えたということなのではないだろうかと考えていた。「自分はぜんちゃんと呼ばれているが、ぜんちゃんって誰なんだ?果たして自分とは何者なのか?」という極めて重要な問いが主人公の内側から自発的に湧き上がったのである。


このような問いが立ったのは、歌舞伎を演じることによって、自分という存在に揺らぎが起きたからなのだろう。芝居というのは、このような変容効果がやはりあるのだ。そのようなことを実感させてくれる素晴らしい作品だった。フローニンゲン2020/11/17(火)19:51

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