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6408-6409: アートの国オランダからの便り 2020年11月16日(月)


No.1558 虹鳥と宿木_A Rainbow Bird & a Host Plant

本日の言葉

The reality today is the only way to resolve differences is dialogue and compromise, human understanding and humility. Tenzin Gyatso


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本日生まれた3曲

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タイトル一覧

6408. 今朝方の夢

6409. 園子温監督の作品を見て


6408. 今朝方の夢


新たな週を迎えた。時刻は午前6時を迎えたところである。


今、小雨がパラついていて、外はとても寒い。ここ最近はもう、寝室の暖房をつけるようになった。今週末から一歩寒さが増すようなので、そろそろ湯たんぽを使うことを考えようと思う。


真っ暗な外の世界を眺めながら、今朝方の夢について思い出している。夢の中で私は、実際に通っていた高校の体育館にいた。


どうやら今はスポーツフェスティバルの最中のようであり、学年問わず、クラス対抗で行われるバスケの試合に私は参加していた。ちょうどこれから試合があり、対戦相手のクラスには、中学校時代にバスケ部の副キャプテンを務めていた友人(HY)がいた。私は彼とマッチアップすることになり、それはとても楽しみだった。


うちのクラスにはガードを務めてくれる友人がいたので、コート上のボール運びは彼に任せることにし、自分は点を決めることだけに集中しようと思った。


試合開始早々、彼は私に絶妙なパスをしてくれ、すぐさまロングシュートを1本気めた。そのシュートはネットに直接吸い込まれて行き、回転のかかったボールがネットに入っていく瞬間のあの何とも言えない音を聞いて、恍惚感を覚えた。


私は思わず雄叫びを上げて、体育館を埋め尽くす観衆にパフォーマンス的な仕草を取った。そこから私はもう相手も仲間も見ずに、自分にボールが回って来たらゴールを決めることしか考えていない状態になかった。


その次に放ったシュートもまた恍惚的な音をネットから発する形でゴールに決まり、絵も言えぬ感覚に浸っていると夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私はその体育館の倉庫にいた。倉庫の中には小中高時代の友人が何人かいて、彼らは椅子に腰掛けていた。


学年で一番背の高かった友人(YK)が足を椅子から放り出して伸ばしていたところ、彼の足の上をまたぐ形で私は移動し、倉庫の外に出ようと思った。すると、気がつけば私はもう倉庫の外にいて、道路を走る車の中にいた。


その車の運転手は、見慣れない外国人だったが、彼は日本語が話せた。車内には数名ほど友人がいた。


しばらく道路を走ると、運転手が突然車を止めた。どうやら台風か何かの自然災害の影響で、道路が水浸しになってしまっていて、そこから先は前に進めないとのことである。


仕方ないので私たちはそこで車を降りることにして、歩いて目的地に向かうことにした。私たちが車を降りた時、その車はもう少し先までゆっくりと進んでいった。その車がどこまで先に進めるのか不明であったが、まだ幾分車を走らせることができたようだった。


最後の夢の場面では、私は薄暗い部屋にいた。そこは先ほどの体育館の倉庫のようだった。


そこで私は、ある小柄な女性に声をかけられた。その女性は、日本人のようなそうでないような外見をしていた。


彼女は手に解答用紙を持っていて、見ると世界史か何かの試験の答案だった。そう言えば私もその試験を受け、解答時間があまりに短かったのと、問題が難しく、さらには自分の不勉強もあって、思うように問題が解けなかったことを思い出した。


その試験は単なる暗記形式ではなく、出題者の先生がかなり工夫を凝らしていて、それがなお一層問題を難しくしていた。おそらく平均点は30点ほどではないかと思う。


私はあまり気乗りしない形で、次に迫っている別の試験の勉強に取り掛かることにした。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン2020/11/16(月)06:28


6409. 園子温監督の作品を見て


時刻は午後8時を迎えた。今日は、実際の気温とは違って、身に染みるような寒さがあった。数日前から考えていたように、今夜から湯たんぽを使って寝ようと思う。


本日より「一瞬一生の会」の第3期が始まった。今回は、受講者の方が6名と少人数なのだが、その分、密な関係性でこれから6ヶ月間学びを共にできるように思う。


本日の初回は、オランダ時間の午前10時からスタートした。実はその前に、すでに3本ほど映像作品を見ていた。


まずは昨日からの続きとして、園子温監督の『恋の罪(2011)』を見て、本作が人間の実存的側面と内在的な狂気さを見事に描いていたことに感銘を受け、その後に園監督自身についてもっと知りたいと思い、『園子温という生きもの(2016)』というドキュメンタリーを見た。


このドキュメンタリーを受けて、さらに園監督の作品が気になり、10時までまだ時間があったので、『自殺サークル(2002)』というこれまた印象的な傑作を見た。


この作品は集団的狂気を描いていて、グロテスクな描写も多々あったのだが、考えさせられることが非常に多い作品だった。本来であれば、映画の世界に(あるいは「映画の世界から」)離陸して行き、そこから現実世界に戻って来て、意識状態を整えてから仕事に取り掛かるべきかと思うのだが、ある種の変性意識状態のままで一瞬一生の会の初回のクラスに突入する形になった。


この点については、会のために作成している音声ファイルの中で言及しておいた。エンドロールが終わった瞬間においては、会の開始5分前だった。


音声ファイルの中でも言及したのだが、次回は状態を整えるために、仮に会の前に映画を見たとしても、15分前には見終えておいて、呼吸を整えるなり何なりをしておきたい。


園監督はその他にも優れた作品を多数作っているようなので、それらについてもこれから見ていきたいと思う。先ほど見た『ひそひそ星(2015)』を除いて、視聴予定の映画リストの中に、園監督のものは8作品ほどある。


昨日から見かけていた『恋の罪(2011)』の傑作たるゆえんについては音声ファイルの中で随分と時間を割いて説明をしていた。何かが満たされないような反復する日常を私たちはきっと誰しも経験したことがあるだろうし、現在進行形でそれを感じている人もいるだろう。


そうした単調的に反復される日常を生きている中で、何かをきっかけにして、繰り返される単調な日常にふと気づく瞬間があり、またそれをきっかけにして、享楽や狂気への道へ踏み出す瞬間があるというのが人間の内在的な特性だろう。


カフカの作品を引用する形で映画の中で出て来た、「人は城を探しているが、誰も城に辿り着けない」という言葉が印象に残っている。確かに人は様々な理想を持ち、それを追い求めるが、決してそれに辿り着くことはないという、理想を取り巻く不条理についてその言葉は示唆してるのかもしれない。


『自殺サークル(2002)』という作品は幾分古い作品だが、作品で描写されている集合的狂気さは、今も変わらず、いやそれ以上に度合いが増した形で日本社会に横たわっている。それを私は、今回日本に一時帰国して大都市のみならず、地方都市において感じた。


こうした作品の価値は、集団的な病理を描くことにとどまるのではなく、それを描くことによってもたらされる集団的治癒の可能性にあるのではないかと思う。対象に埋没するのではなく、対象を客体化させることはセラピーの基本原理であり、そうした観点において、本作のグロテスクな描写や狂気さは、むしろ社会の暗部に光を当て、それを癒すことにつながっている側面も多分にあるだろう。


少なくともこの作品を見た時に、自分自身の中で一種のカタルシスやヒーリングが起こっていたことを見ると、集合規模においては、こうした作品が多くの人に見られることによって、狂気さの一歩手前で踏みとどまる安全弁としての機能があるのではないかと思えてくる。


昨日見ていたデイヴィッド·リンチ監督の作品にもそうした力が多分にある。園監督とリンチ監督の作品にはまだまだ見たいものがたくさんあるので、明日からも引き続き彼らの作品を見ていこう。


今日は色々とやることがあったので、5本しか映像作品を見ることができなかったが——今日からアニメ『鬼滅の刃』を見始めたので6本とカウントできなくもないが——、焦ることなく、それでいて当面は貪るように膨大な量の映像作品を見ていこうと思う。フローニンゲン2020/11/16(月)20:28

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