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6392-6393: アートの国オランダからの便り 2020年11月9日(月)


No.1539 心模様_An Inner Picture

本日の言葉

I await those moments when mystery comes to permeate everything, instilling itself into everything, and saturating everything with its splendour. Stephen Batchelor


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タイトル一覧

6392. 通過儀礼を経て/今朝方の夢

6393. 『ア·ゴースト·ストーリー(2017)』と『Nスペ 人生100年時代を生きる(2018)』を見て


6392. 通過儀礼を経て/今朝方の夢


時刻は午前7時半を迎えた。今、小鳥たちが大合唱をしている。その鳴き声に心がとても落ち着かされる。


今、空は少しばかり曇っていて、ここから晴れ間を見せるようだが、夕方には小雨が降るという予報が出ている。今週は天気が良いようなので何よりである。


日本からオランダに戻ってきて数日が経つ。改めて、日本での体験を振り返ることが多い。


通過儀礼の形式として、人は離陸して混沌を経験し、再び着陸するという図式がある。今回の日本の一時帰国もまさにこの図式に該当し、自己を変容させてくれるような旅は全てこの図式に当てはまるように思える。


オランダを出発する前と後とでは、もはや異なった自分がいることに気づく。日本での体験は、肯定的な意味で混沌としていた。


そうした体験と1つ1つゆっくり向き合いながら旅を続け、再びオランダに戻ってきてみると、新たな地平に着陸している自分がいた。日本での体験の本質的な意味は、それを消化·咀嚼するプロセスの中で、これからますます無意識の層から湧き上がってくるだろう。


今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、外国の空港にいた。雰囲気としてはオランダの空港だろうか。


とても落ち着いた雰囲気があり、自分の心を安らかにしてくれるような雰囲気だったから、おそらくオランダのどこかの空港だろう。そこで私は、小中高時代の親友(SI)と話をしていた。


話の内容は、まずは携帯についてだった。彼はまだガラケーを使っているようであり、それが珍しかったので見せてもらうことにした。


携帯を見せてもらった後に、お互いの目的地について話をした。彼の目的地は分からなかったが、どうやら私は日本に戻ることにしているようだった。しかし、自分の中では、日本に戻るよりも、どこか他の国に出かけていきたいという思いがあった。


今朝方の夢で覚えているのはそれくらいだろうか。実際には、もう少し場面があったのを覚えている。夢の中の感覚は総じて、肯定的でも否定的でもなく、中立的なものだった。


夢から覚めてこの夢について改めて考えてみると、日本に滞在中は、いつもどこかのタイミングで複雑な気持ちになることを思い出す。寂寥感が国の根底に流れていて、それに触れる形で自分もその感情を抱く。


どの街にも穏やかさを見出す瞬間があるのだが、全体として衰退している感覚を抱かざるを得ず、目には見えない次元で街が荒涼としていることに心が痛むという体験をする。


来年もまた日本に一時帰国するとは思うが、その際にどのように日本で過ごすのか、そして日本におらずしてどのように日本に関与していくのかを考える必要があると改めて思う。フローニンゲン2020/11/9(月)07:56


6393. 『ア·ゴースト·ストーリー(2017)』と

『Nスペ 人生100年時代を生きる(2018)』を見て


時刻は午後7時半を迎えた。本日、月曜日の午前中は、まるで今日が日曜日であるかのように穏やかであり、心が深く落ち着いていた。


そのような中で、映画を見る至福さに浸っていた。結局今日は、短い映画を含めて、6本ほどの映像作品を見ていた。


映画に関して印象に残っているのは、『ア·ゴースト·ストーリー(2017)』という作品である。この作品を見ながら、人間は絶えず何者かに見守られている存在なのかもしれないということを思い、時空間に階層的に堆積されているものの存在を思った。


作品の中で登場した幽霊は、絶えず歴史を見続ける存在だったのだろう。人間は絶えず歴史の中に生き、歴史を絶えず作っていく存在であることを改めて実感する。


そしてドキュメンタリーに関しては、つい先ほど見終えた『Nスペ 人生100年時代を生きる(2018)』が終末医療と死について深く考えさせてくれる優れた作品だった。


こちらは2つのシリーズ物になっていて、シリーズ1では、深刻な介護施設不足が懸念される中、切り札として登場した「サービス付き高齢者向け住宅(通称「サ高住」)」を特集し、認知症の高齢者の急増などで発生している思わぬ事態を取り上げている。


また、シリーズ2では、全国の救命救急センターに衰弱した80代·90代の高齢者が次々運び込まれている現状を取り上げ、一命を取り留めても、意識が戻らないまま入院が長期間に及ぶことの問題が取り上げられている。


2つのシリーズを見ながら、死というものがタブー視されてきたことのツケを現代人が払わされ始めている姿を見た。自分も含め、死とどのように向き合っていくのかに関する教育と対話が現代人には圧倒的に欠けており、突然自分や身内が死と向き合うことを突きつけられた場合に、どのような意思決定をしたらいいのかがわからなくなってしまうのだと思われる。


人工透析の技術を含め、医療の進歩によって延命できるようになったことは、確かに喜ばしい側面もあるかもしれないが、死と深く向き合うことを避け、死に関する理解とその受け止め方の方針が定まらなければ、医療技術の進歩による単なる延命は不幸を生み出すだろう。


(超)高齢化社会の到来に向けて、死に関する理解と内的成熟がますます必要になってきている。死に関する自己省察と対話の大切さを知る。


作品の中でも言及されていたが、認知症になってしまうと省察も対話も思うようにいかないのだから、生前に自分自身がどれだけ死について考え、そして家族を含め、自らの人生をどのように終えていくのかについて身近な人たちと対話をすることが極めて重要であり、その対話を文書に残しておくことがどれほど大切かを思った。


「死への準備教育」を目的とする学際的な学問領域である「死生学(thanatology)」に関する探究に乗り出すのもそう遠くないことかもしれない。フローニンゲン2020/11/9(月)19:54

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