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6387-6389: アートの国オランダからの便り 2020年11月7日(土)


No.1535 フローニンゲンの浮き船_A Floating Boat of Groningen

本日の言葉

The wise man strives to no goals, but the foolish man fetters himself. The Faith Mind Sutra


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本日生まれた9曲

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タイトル一覧

6387. フローニンゲンで迎える最初の朝に

6388. フローニンゲンの澄み渡る朝に

6389. 微光を浴びて/本日見た4つの映像作品


6387. フローニンゲンで迎える最初の朝に


時刻は午前6時を迎えた。フローニンゲンに戻ってきてからの最初の朝を迎えた。


今この瞬間の外はまだ真っ暗であり、日の出の時間はあと1時間半後ぐらいだろうか。昨日の日の入りの時間を確認してみたところ、もう午後5時ぐらいには随分と暗くなっていた。ここからさらに日没時間が早くなり、日の出の時間はさらに遅くなるだろう。


フローニンゲンに戻ってきたことに合わせて、昨日の昼から断食をスタートした。昨日の朝はホテルで軽食を摂り、それ以降は何も固形物を摂取していない。


今回の断食をどれだけ行うのかは定かではないが、少なくとも数日間に及ぶだろうと思われる。心身が欲する分だけ断食を行い、断食明けからはラクト·ベジタリアンではなく、そこから一歩進めてヴィーガンになっていこうと思う。


食に関してもどうやら段階があるようであり、ここにきて乳製品を摂取しない段階に来た。以前より牛乳やヨーグルトなどは摂取しないようになっていたのだが、チーズに関してはまだ摂取している自分がいた。


オランダはやはりチーズが伝統食でもあり、バイオダイナミクス農法といった優れた農法で作られたチーズが美味であることもあって、これまでチーズの摂取は続け来た。ところが今の自分はもうチーズも欲していないようなのだ。


それは身体感覚的な直感から来るものである。この直感に従って、また新たな食生活を確立していこうと思う。ライフステージが存在するように、食に関してもステージがあることを実感する。


昨日の昼から断食を始めたことに伴って、日中の活動時間は増えるだろう。今日からは、日本から持ち帰った書籍を読み進めていく。まだ読んでいないものに関しては初読を進めていき、全ての書籍の初読を終えたら、既読書の再読を行っていく。


今のところまだ読んでいないのは、映画評論に関する一連の書籍であり、それらを楽しみながら読み進めていく。そうした書籍を読みことに並行して、それらの書籍で言及されている実際の映画を見ていこうと思う。


昨日は結局、4本ほどの映画及びドキュメンタリーを見た。1日に3つから4つぐらいの作品を見ていくのが無理のないペースのようだ。今日もそれぐらいの数の作品を見て、気づきや発見事項を記録しておこうと思う。


今朝方は夢を見ていた。夢の中で私は、大学時代に同じサークルに所属していた1学年上の先輩と話をしていた。お互いに大学を卒業してから随分と時間が経っていて、これまでの歩みについて2人で話をしていた。


先輩はアメリカの著名なビジネススクールでMBAを取得し、そのまま現地の投資銀行で働いていた。まさにエリートコースである。


どうやら今は日本に帰ってきており、その投資銀行の日本の支社で働いているようだ。世間から見れば順風満帆に見えるようなキャリアを歩んでいる先輩がポツリと、「今の仕事に閉塞感を感じていて、全く自由がない···」ということを述べた。私はただうなづき、黙って先輩の話の続きを聞いていた。


今朝方の夢の場面で覚えているのはそれくらいだろうか。その他に覚えていることとしては、夢の場面がすでに欧州の雰囲気を発し始めていたことである。


昨日の日中においてすでに気づいていたが、いやオランダに戻ってきて、スキポール空港近くのホテルに宿泊している時から気づいていたのだが、自分の内的感覚と言語空間がすでに日本にいた時とは異なるものになっていた。


そうした移行が速やかに行われているのは肯定的だが、それがあまりに早すぎることもまた自分に対して負荷を与え過ぎることになってしまうかもしれないと思う。フローニンゲン2020/11/7(土)06:30


6388. フローニンゲンの澄み渡る朝に


土曜日のフローニンゲンの朝は、静寂に包まれている。今、書斎と寝室の窓を開けていて、確かにもうこの季節の朝は随分と寒いのだが、新鮮な空気を取り入れることはとても気持ちがいい。


小鳥たちが自分を出迎えてくれていて、彼らは小さな歌を歌っている。何種類かの鳥たちが、思い思いに鳴きながらも、それが1つの曲として知覚される。


空が本当に澄んでいる。秋も深まりを見せているこの時期のオランダの空は殊に美しい。澄んだ空を眺めているだけで、自己の存在が澄んでいくかのようなのだ。


1ヶ月ほどこの街を留守にして戻ってきてみると、街路樹はもう裸の枝になっている。もちろん、紅葉をつけた木々もあるが、裸になってしまった木々が多い。


自分は再びこの街で生活を営んでいくのだということを改めて思う。自分を知っている人などほとんどいないこの街で。


自らを知っている人間がほとんど周りにいないということの落ち着き。そう、それは落ち着きなのだ。もっと言ってしまえば、それは異邦人性から来る落ち着きなのだと思う。


自分の孤独さが尊重され、それが守られているという絶対的な安心感がここでの生活にはある。残念ながらそうした生活は母国ではない。


今回の一時帰国に際して、試しに人がほとんどいないような場所にも足を運び、そこでの生活を想像してみたが、結局のところ、誰かに見られているというような感覚を拭うことができなかった。


日本では孤独死の問題が社会問題化しているらしいが、本質的な意味での孤独は日本にはほとんど存在しないのではないかと思う。自分が求めているのは、自己を深めるのに必要な、いやそれ以上に重要なのは、自己を真に寛がせるために必要な本質的な孤独なのだ。


今日は風がほとんど吹いていない。予想通り、辺りが明るくなり始めたのは、午前7時半に近づいてきた頃だった。


今日は天気が良いようなので、街の中心部に出かけていき、BRITAの新しいボトルを購入したい。今使っているものはもう丸4年使っていて、外側が随分と汚れてしまっている。中のカートリッジを交換すれば、依然として美味しい水が飲めるのだが、容器そのものを買い換える時がやってきたように思う。


久しぶりにフローニンゲンの街を歩くことになるであろうから、また色々な発見があるかもしれない。日々新鮮な目で自己と世界を見ていこう。澄み渡る空と同じように、澄んだ目で自己と世界を見続けていく。フローニンゲン2020/11/7(土)07:49


6389. 微光を浴びて/本日見た4つの映像作品


時刻は午後7時を迎えた。昨日の午後にフローニンゲンに戻ってきたことを考えると、実質上、今朝からフローニンゲンでの生活が再度始まったような感覚があった。フローニンゲンでの再出発を祝福するかのように、今日のフローニンゲンは、雲ひとつない快晴に恵まれた。


本日は断食2日目であったが、午後に街の中心部に買い物に出掛けた。すると、街中では日本の人たちと同様に、マスクをしている人たちの姿をちらほら見かけた。


特に、店に入る際にはマスクを着用している人たちが随分いたことに驚かされた。やはりコロナの第2波が猛威を振るっているようだ。


4年間使っていたBRITAの容器を新しくして、これで中身だけではなく、外見も綺麗な形で水を飲むことができる。これまで使っていたものは、中身は綺麗でも、外見が随分と汚れていて、洗っても落ちない汚れが付着していた。


中身のカートリッジはきちんと定期的に交換していたが、外見が汚いと中の水も汚く思えてしまう心理効果が働いているのではないかとふと気づき、フローニンゲンでの生活を再スタートさせることをきっかけにして、新しいものに買い換えることにした。


以前のものは透明なものだったが、今回は少し青味がかったものにした。やはり心理効果が働いているのか、綺麗なボトルで飲む水が以前よりも美味しく感じられる。


街の中心部からゆっくりと自宅に向かって帰っている最中に、ふと足を止めて、こんなにも柔らかい太陽の光があるだろうかと思った。秋の深まるフローニンゲンの微光はとても優しかったのである。太陽が最も高く昇る時の日差しは、朝の太陽の光のように優しいものになっていた。


今日は作曲実践を旺盛に行い、映像作品を4本見た。フローニンゲンに帰ってくると、自分の取り組みに従事できる時間が十分にあることが本当に嬉しい。


本日見た映画とドキュメンタリーのいずれもとても印象に残っている。今、あまり外国の映像作品を見る気がせず、邦画を中心に見ている。


今日は、『闇の子供たち(2008)』『砂の器(1974)』『震える舌(1980)』『精神(2008)』を見た。どれも違った意味で本当に素晴らしい作品であった。


なぜ自分は、これまで映像作品をあまり見てこなかったのだろうと大いに反省させられる。読書から多大な恩恵をこれまで受けてきたが、読書では決して得られない大きな学びが映像作品にあることを強く実感する。


2つ目に見た『砂の器(1974)』は、実に15年振りに鑑賞した。私たちにはそれぞれの宿命があり、それが時に交差し、宿命がより色濃いものになっていくことがある。


最後のシーンにおいて、ハンセン病を患った犯人の父が取った行動は、真を超えた善そして美に基づくものだったのではないかと思う。このシーンは、15年前に見た時も大いに感動したのだが、今日見た時の感動は15年前よりもさらに深いものになっていた。この作品との再会を通じて、15年間の自身の歩みを知る。


明日もまた映画やドキュメンタリーを積極的に見ていこう。今のところ、1日に無理なく見れる作品数は3つか4つだという感覚がある。


今日はこれからメールの返信を1通して、曲の原型モデルを作り、それでも時間が余っていれば、もう1つ何か作品を鑑賞したい。フローニンゲン2020/11/7(土)19:37

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