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6316-6319: アートの国オランダからの便り 2020年10月11日(日)


No.1483 非忘却の瀬戸内海_Unforgettable Seto Inland Sea

本日の言葉

One who has discarded this clinging to renewal of existence is a man who has realised the highest knowledge. Free from craving, without distress, without desire, he has crossed beyond birth and old age. Sutta-Nipata

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本日生まれた2曲

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タイトル一覧

6316.【日本滞在記】観照生活と生の実感

6317.【日本滞在記】交差する豊かな時間の中で/父の本棚より

6318.【日本滞在記】『夢(1990)』を見て

6319.【日本滞在記】今日の読書から


6316.【日本滞在記】観照生活と生の実感

時刻は午前4時を迎えた。今、瀬戸内海の優しい波の音が聞こえてくる。辺りはまだ真っ暗で、涼しい風が室内に入ってくる。


日本の気温は寒くもなく、暑くもなくといったものであり、本当に良い時期に帰って来たなと思う。今日も晴天に恵まれるようであり、秋晴れの日を楽しみたい。


のんびりと日記を執筆したり、創作活動をしたり、読書をする。そしてもちろん、家族との会話の時間を楽しみたいと思う。


昨夜のディナーもまた非常に凝ったものだったが、今夜のディナーも父が相当に凝ったものを作ってくれるようなので楽しみである。まだ時刻は午前4時だが、父はこれから目の前の砂浜に散歩に出かけていく。そこから帰って来たら筋トレをして、エスプレッソを淹れることが日課のようだ。父が淹れてくれるエスプレッソは美味であり、それを飲むのは毎朝の楽しみの1つである。


オランダでの生活とは少し違った形で、古代ギリシャ人が大切にしていた観照生活を実家で送っている。何かを求めてあくせくするのではなく、のんびりとした穏やかな時間の中で、1つ1つの体験を味わうような時間の過ごし方が実現されている。


うした観照生活の中で、運命の守護霊であるダイモーンの手招きと呼び声に応じていく。昨日は和書を20冊ぐらい読み、今日もまたそれくらいかそれ以上読もうと思う。


オランダには和書の良書だけをいつも持って帰るようにしているのだが、実家にもまだまだたくさんの良書があることに改めて気づき、今はそれらの再読をどんどん進めている。昔読んであまり意味のわからなかったことが、今随分と理解できるようになっていたり、新たな発見が多々ある姿を見ると、自分の進歩を見る。


読書を通じて自らを肥やし、進歩が実現されていくだけではなく、読書によって進歩の確認と、これからの進歩に向けた一歩が踏み出されていく。


昨日、フローを経験しやすい性格特性を、「オートテリック·パーソナリティ」と呼ぶことを知った。自分にはひょっとすると、この性格特性があるかもしれない。


美的体験とは、この生を生きるに値するものに感じさせてくれるものである。創作活動はまさにそうした美的体験を大なり小なり感じさせてくれる。


創作活動の最中は、いつも小さなフロー体験をしており、それは美的体験と密接につながっている。そうした体験を通じて、この生が持つ素晴らしさの一端を垣間見る。


今日もまた、この生が生きるに値するものであるという実感を得ながら、自分の取り組みを少しずつ前に進めていく。山口県光市2020/10/11(日)04:22


6317.【日本滞在記】交差する豊かな時間の中で/父の本棚より


時刻は午前4時半を迎えた。オランダにいる時と変わらず、ココナッツオイルでオイルプリングをしながらヨガをし、その後歯磨きをして、目覚めの水を一気に飲んだ。


母の部屋を覗くと、母がパソコンを開いて音楽関係の情報を得ているようだった。クラシック音楽に関することか、ピアノ演奏に関することについて調べ物をしていたのだろう。


そして今、新聞を取りに1階に降りて行った。母を追うようにして、トイプードルの愛犬が玄関に向かってひたひたと歩く音が聞こえて来る。


日常。家族の各々が日常の習慣的な行動を取りながら、それぞれの人生の時間がそれぞれに流れていく。そして、各人の人生の流れが時に交差しながら進んでいく。


実家では、そうした交差する豊かな時間の中を生きることができている。瀬戸内海の波のように優しげな充実感が自己を包む。


私のベッドの上は、どうも愛犬の香りがする。私が来る前や、来てからも、時折愛犬がベッドの上に遊びに来ていたことがわかる。


昨日ふと、現在の社会の中で本当に怖いのは、コロナというウィルスの振る舞いではなくて、その振る舞いに影響される人間の振る舞いだということを思った。コロナによって喚起された不安や恐怖による非合理的な振る舞いや狂気的な振る舞いの方が恐ろしい。そしてそれが集団的非合理と集団的狂気を生み出すことが怖い。


昨日、西田幾多郎の一連の書籍を読み返す中で、西田幾多郎が金沢にゆかりのあることを知った。今回の一時帰国では金沢にも滞在するので、西田幾多郎の記念館がないかと調べてみたところ、見事にあった。


そこは「石川県西田幾多郎記念哲学館」という。金沢駅から電車に乗って、1時間弱で到着することができるとのことなので、金沢滞在中に是非とも足を運びたい。


金沢では、西田幾多郎記念館だけではなく、鈴木大拙記念館にも行く。今回金沢に足を運ぶのは、父方の下り藤の家紋を持つ加藤家のルーツを感じるためであり、実家に帰って来た初日に、父が色々と調べた加藤家のルーツについて教えてもらった。


それに関する書籍とプリントアウトされたインターネットの記事を借り、今夜にでもそれらに目を通しておこうと思う。福井県に行くのもルーツを辿るためであり、そこでは母方の上り藤のルーツを感じる旅を行う。


石川県では、日本の哲学に多大な貢献を果たした2人の巨人の跡を辿る旅をする。実家に置いたままにしていた鈴木大拙の『日本的霊性』はオランダに持って帰ろうかと思っていて、『東洋的な見方』については、今日か明日にでも再読をしようと思う。


昨日父の本棚を眺めていると、本棚の中にに、ローレン·アイズリー(ソロー、エマーソンの系譜を継ぐナチュアリストであり、エッセイストかつ詩人)の『夜の国:心の森羅万象をめぐって』『星投げびと:コスタベルの浜辺から』という書籍があった。


アイズリーがソローやエマーソンの系譜を継ぎ、生命の本質を探究する人間であったことを知り、それらのエッセイと短編集にとても関心を持った。今回の滞在中に読めるかわからないが、いつかそれらの書籍を読む日がきっとやって来るだろうと思う。山口県光市2020/10/11(日)04:50


6318.【日本滞在記】『夢(1990)』を見て


——

海岸を散歩していると、少年がヒトデを海に投げていた。

何をしているのかと尋ねると、少年は「海に戻してやらないとヒトデが死んでしまう」と答えた。

私はそんなことをしても、海岸中がヒトデだらけなんだから、すべてのヒトデを助けられないし、意味がないだろうと言うと少年は少し考え、またヒトデを海に投げた。

そして私にこう言ったのだ。

「でも今投げたヒトデにとっては意味があるでしょ」と。

——ローレン·アイズリー


時刻は午後2時を迎えた。つい今し方、仮眠から目覚めた。


今、父はキッチンで夕食の準備をせっせと行っていて、母はバッハのピアノ曲を演奏している。


仮眠の前に、黒澤明監督の『夢(1990)』という作品を見た。これは、黒澤監督自身が実際に見た夢の世界を8つのエピソードで綴るオムニバスファンタジー作品である。


端的には、黒澤監督の美意識と現代社会への問題意識が見事に体現されている素晴らしい作品だった。作品中の自然美の映像や、おどろおどろしい場面の映像が見事であった。


8つの夢のうち、幻想的な雰囲気を持つ場面、そして雅楽が流れる場面がとても印象に残っている。断片的であるが、印象に残っているシーンをその他にも列挙しておくと、死してなお、無言で忠誠を誓う兵隊たちの姿、原発による放射能の拡散の問題に対して警鐘を鳴らすような場面、そしてゴッホの絵の中に入り込む場面などがとても印象的だ。


何より、最後のエピソードの中で登場した祭りのシーンは、解放と浄化のモチーフを表していたのではないかと思い、自分自身が解放と浄化を体験するかのようであった。また、最後に主人公が綺麗な川を渡っていくシーンは、祭りによって此岸から彼岸へ渡り、そこから再び此岸へ戻って来たことを象徴していたのではないかと思い、自らがそれらの2つの世界を行き来した感覚があった。


黒澤監督の世界観には引き込まれるものがあったので、早速いくつかの作品をマイリストの登録した。近々それらの作品を見ていこう。


午前中に、埴谷雄高先生の『不合理ゆえに吾信ず』を読み、テイヤール·ド·シャルダンの思想に関して言及のあった『人間回復の経営学』を読み返していた。それ以外にも15冊ぐらいを午前中に読んでいた。


以前から購入しようと思っていた親鸞の『歎異抄』が父の本棚にあったので、それも近日中に一読しておこうかと思う。今道友信先生の『東洋の美学』とジャック·アタリの『21世紀の歴史』も父の本棚にあったが、それらは自分の書籍なので、再度中身を眺めてみて、オランダに持って帰るかを判断したい。


ここから夕食までの時間、そして夕食後から就寝にかけての時間は全て読書に充てていこう。あと50冊ほど再読しておきたい書籍があるので、それらの再読を明々後日までに行っておく必要がある。


今、養分を全身で吸収する植物のように読書が進んでいる。山口県光市2020/10/11(日)14:29


6319.【日本滞在記】今日の読書から


時刻は午後6時半を迎えた。今日もまた午後5時から家族団欒で夕食を摂った。本日の夕食のメインは、様々な魚介類を使ったブイヤベースを父が作ってくれた。それは大変美味であり、残ったスープは、明日にパエリアとして活用するとのことである。


今日も読書が大変捗った。今日は読書に集中したかったこともあり、映画は1本だけ見ることにした。


読書に関して色々と得るものや考えさせられることがあったので、それらを取り止めもなく書き留めておきたい。


有益なものは全て真理であるというプラグマティズム的発想について少し考えた後、暗黙知を豊かにするために、多様な体験を積み、それらを経験に昇華させていくことについて考えていた。西田幾多郎は、経験のより深部·暗部に降りていくことによって、形なきものを見、声なきものの声を聞くような、経験の純化が実現されると指摘した。経験の純化の過程で暗黙知がさらに豊かなものになり、暗黙知の獲得過程の中で経験の純化が進んでいくのだろう。


ゲオルク·ジンメルが言うように、人間は境界によって限界づけられた存在であり、同時に境界線を絶えず超えていく超越的な存在でもある。人間は、生と死さえも超えていくような存在なのだ。つまり、人間は生まれながらにして越境者なのである。


今とここを起点にして、絶えず越境を続けていく存在。それが人間存在である。


境界は絶えず超えられていくという性質を考えてみると、それは虚構的なものなのだということに気づく。真なるものは越境という行為の持続そのものにあると言えるかもしれない。


ジンメルの提唱した「生の弁証法」は、高次元での和解を知らない永遠の自己超越の運動であるとされている。弁証法と言えばヘーゲルの発想であるが、ヘーゲルは、矛盾は自己が主体的に発達していくための原動力であるとみなしている。


ジンメルとヘーゲルの弁証法的な思考を総合的に考えてみると、人間は絶えず矛盾を抱え、矛盾を原動力にしながら、自己超越の運動を継続させていく存在だということが見えてくる。


弁証法思考については、ロイ·バスカーもその思想を受け継いでいる。バスカーが提唱した「超越的実在論(transcendental realism)」において、現実の様々な現象の深層に潜んでいるメカニズムを直感的に把握して現象を説明していくことが大切にされている。


超越論的実在論とは、実験室で正確に再現やコントロールができない個人的な現象及び社会的な現象というのは、私たちの主観を通して存在するだけではなく、それとは別に、独立した客観的な存在を持つのだという発想を取る。


そのようなことを考えながら、モデル化について考えていた。何らかの現象がモデル化されると、そのモデルからこぼれ落ちる現象について、私たちは盲目的になってしまう。


そう考えると、モデル化は現象に光を当てると共に、影をもたらすことでもあると言えるのではないか。これは言語にせよ、非言語にせよ、形象活動全般に当てはまることである。


つまり、何かを形にした瞬間に影が生まれるということである。しかし一方で、ある形を作らなければその影はできず、その形と影が生まれたことによって、また新たな形が生まれる可能性が生まれたことを考えてみると、形象化という活動そのものは弁証法的なものであり、創造的なものであることがわかる。山口県光市2020/10/11(日)18:52

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