No.1465 慰めの踊り_A Dance of Solace
本日の言葉
Intuitive knowledge of the void constitutes illumination. Beatrice L. Suzuki
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本日生まれた8曲
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タイトル一覧
6289. 今朝方の夢
6290. ロイ・バスカーが提唱したいくつかの誤謬について
6291. 実在世界に自己の拠り所を見出すこと
6292.『彷徨える河(2015)』を見て
6293. “Unacknowledged: An Expose of the World's Greatest Secret (2017)”を見終えて
6289. 今朝方の夢
時刻は午前6時を迎えようとしている。辺りは真っ暗であるが、風の強いことが窺える。寝室と書斎の窓を開けて換気をしているのだが、とても冷たい風が流れ込んでくる。
日本への一時帰国の日まであと少しとなった。日本からオランダに戻ってくる時はもう随分と冷え込んでいることから、マフラーとヒートテックを持参することにした。オランダに戻ってきてからはすぐにフローニンゲンに帰るのではなく、アムステルダムで少しばかり観光したいと思っているので、なお一層のこと防寒対策が必要になる。
書斎の窓を通じて外をぼんやりと眺めながら、今朝方の夢について思い出している。夢の中で私は、見慣れないビルの中にいた。どうやら私は、そこで試験監督のバイトをすることになっているようだった。
最初私は会議室のような場所にいて、そこで大学時代のゼミの友人に声を掛けた。彼女は大学3年生の時に公認会計士の資格試験に合格し、すでに監査法人でバイトのような形で働いていたのだが、一緒に試験監督のバイトをすることになっていた。
彼女は朝から午後3時まで試験監督をすることになっていたのだが、私は午後3時半からしか空いていなかったので、もう30分試験監督を務めてもらうことを彼女にお願いした。彼女はそれを笑顔で快諾してくれた。
実際のところは、私はあまりバイトには乗り気ではなく、午後3時から試験監督ができないこともなかったが、できるだけバイトの時間を減らしたかった。自分には勉強したいことや取り組みたいことが他にたくさんあったのである。
結局私は、午後3時半から午後5時までの1時間半だけ試験監督を務めた。試験監督をしている間はずっと本を読んでいた。
試験監督が終わり、1階のカフェに立ち寄ると、彼女もそこにやってきて、何かスイーツを注文していた。それを見て、私も久しぶりにドーナツでも食べようかと思ったが、やはり体に悪そうだったので食べるのをやめた。そこで次の夢の場面に移った。
次の夢の場面では、敬意をを評しているある学者の方と、もう1人見知らぬ男性と一緒に対談を行うことになっていた。対談を行う場所が不思議な場所であり、そこは崖に面した場所だった。
崖から落ちると命はなく、非常に危険な場所だったのだが、私は崖を歩くことによって何か大きな気づきを得ているようだった。2人がそこで述べていることの背景にある事柄が全て知覚されるような体験があったのである。
崖を歩き終えると、とても爽快な気持ちになり、ちょうどそのタイミングで対談も終わった。私は2人に元気よく挨拶をした。そこで別れようとしたところ、今先生の名前を呼び間違えてしまったことに気づき、それを謝り、再度挨拶をしてその場を離れることにした。
対談場所の近くにはお洒落なカフェがあって、そこでコーヒーを飲みながらくつろいでいると、先ほど対談していた先生が店に入ってきた。私は再び先生の話が聞けることを嬉しく思い、そこでプライベートな話を色々とし始めた。
どうやら先生は、研究の合間に、見晴らしの良い場所に行って、そこから自宅を眺めることを楽しみにしているらしい。自宅の背後にある自然と自宅とのコントラストが素晴らしいとのことだった。そのように高い場所から景色を眺めることは、良い息抜きになるということを教えてもらい、そこで夢から覚めた。フローニンゲン:2020/10/3(土)06:14
6290. ロイ・バスカーが提唱したいくつかの誤謬について
時刻は午前6時半を迎えようとしている。今日は昼過ぎに1件ほどオンラインミーティングがあり、それを終えたら街の中心部のオーガニックスーパーに買い物に出かける。
小麦若葉とヘンプのパウダーが必要であり、あとは一時帰国の日から逆算した形で、玉ねぎを2つ(大であれば1つ)、豆乳を1本購入したい。いつもは椎茸のパックをそこで買っているが、パックで買ってしまうと食べきれない可能性があるので、本日街の中心部の市場が開かれていれば、そこのオーガニック専門店で椎茸をいくつか購入しようと思う。
数日前に、ロイ·バスカーの書籍を読み返していたことを思い出す。バスカーは多岐に渡る認識上の誤謬をしてきており、それらについて印象に残っているものを書き留めておきたい。
1つには、“ontic fallacy”という誤謬がある。これは知識の外部化に伴う誤謬であり、知識から主観的なものを完全に抜き去ってしまうことの過ちのことを指す。
いかなる科学的な知といえども、完全に客観的ではあり得ないにもかかわらず、それを認めずして主観的な要素を否定し、それを毒抜きするかのように消し去ろうとするような態度への批判の現れがこの概念にある。
知識から主観的なものを排除しようとする態度は、アカデミックな世界でもよく目立ち、実証的か否かを過度に強調する大衆の中にも見られる態度だ。そこでは主観的なものがまるで悪のようにみなされており、それによっておかしな対話や実践がなされているように見える。
とりわけ社会科学において主観性を排して価値中立的になろうとすることは2つの点で不可能であるとバスカーは指摘する。1つには、社会科学が目指すところは、社会生活空間における現実的な介入を意図しているものであるという点である。2つ目は、研究手法の選択や仮説の立案の際に、必ず主観性や価値論が混入するという点である。
特に私は最初の点が重要かと思う。結局のところ、主観的なものを排除してしまうと、主張や対話が机上のものとなってしまい、当事者意識というものが極めて薄くなってしまう。
自分が取り上げた問題に対して何も心が動かされない状態になってしまい、それでは単なる機械に成り果てることでもある。熱さも重みも感じられない発言というのは、主観性が取り除かれてしまったものだろう。
そもそも「主張」という漢字が示唆しているように、ある発言をする主体が確立されていること、そしてその主体が持つ固有の主観性を込める形で発言をすることが主張の本質なのではないかと思う。空を切るような発言が世の中で横行する姿を見ていると、改めて主観性の大切さを思う。
こうした状況が続けば続くほど、私たちの心や実存はより貧困なものになっていくだろう。なぜなら心や実存というのは、主観性によって成り立っているからである。
その他の誤謬で印象に残っているのは、「認識論的誤謬(epistemic fallacy)」と呼ばれるものだ。これはわかりやすく、beingをknowingに還元してしまうこと、つまり広義には、在ることを認識することに取り違えてしまう誤謬を指す。
バスカーが指摘するように、西洋の哲学において、認識論優位の時代が長く続き、存在論が蔑ろにされることが多く、その傾向は今にも引きずられている。私たちがこの世界に対して何を認識するかだけではなく、そもそも私たちとは一体どのような存在であり、世界はどのような場所なのかという存在論的な視座で考えを深めていくことは、今の私の関心の1つであり、そうした関心が映画やドキュメンタリーを見ることに向かわせたと言っても過言ではない。
最後にもう1つバスカーが言及していた誤謬を取り上げると、「思弁的幻想(speculative illusion)」という誤謬がある。これは、哲学と社会生活を分離させてしまう過ちである。これもまたよく見受けられることではないだろうか。
思索活動と社会実践の分離をバスカーは強く否定しており、その点に大きな共感の念を抱く。今道友信先生の実践美学や、シュタイナーの実践霊性学とでも形容できるような霊性思想に関心を持ち、それを自分なりの実践の形で社会課題に適用しようとしているのは、思弁的幻想に陥らないようにする自分なりの試みなのかもしれない。フローニンゲン:2020/10/3(土)06:41
6291. 実在世界に自己の拠り所を見出すこと
時刻は午前11時に近づこうとしている。曇り空の下、土曜日がゆっくりと進行している。
早朝にふと、2年前の一時帰国の際に、行きの機内でほとんど睡眠を取らなかったことにより、日本に到着して数日後に体調を崩し、胃腸の働きが悪くなったことを思い出した。より具体的には、胃腸の機能不全により、食欲が減退し、朝食のレストランで取った肉を見て、吐きそうになってしまったことを思い出したのである。
この記憶が突然呼び起こされたことは興味深い。あの時の私は、肉に対してそのような反応を見せたが、野菜や果物に対してはそのような身体反応が起こらなかった。それを見て、やはり肉を拒絶する根源的に何かが自分の中にあることを知った。
弱っている時にこそ、身体的·精神的な自分の素が現れてくるものではないだろうか。自分の素の中に、肉を取り入れることを拒絶する何かがあり、それがあの時偶然身を襲った胃腸の機能不全によって気づかされたのだと思う。
ロイ·バスカーが述べる“the real”と“the actual”の違いについて考える。バスカーの批判的実在論にといては、3つの階層構造で存在的世界を捉えている。
一番下の階層にあるのは、“the empirical”と呼ばれる階層であり、それは私たちが日々間接的あるいは直接的に直面する種々の経験が生じる階層(経験世界)である。その上位に位置するのが「現実世界(the actual)」と呼べるような、ある個人が経験する体験とは独立した形でこの世界に実際に起こっている種々の現象や出来事(その個人が観察できるか否かにかかわらずこの世界に発生している現象や出来事)を司る階層である。
そして、その上位に「実在世界(the real)」を規定し、個人や社会の経験や出来事を生み出すメカニズムを司る階層を想定している。端的には、最後の「実在世界」は、私たちの経験や概念などとは独立に存在しており、その全体や細部を知ることは不可能であり、これは社会学者の宮台真司先生が提唱している「社会の外側にある世界」という考え方とほぼ同じなのではないかと思う。
メカニズムを司る実在世界は、その複雑性と予想不可能性から全てを規定することは不可能である。私たちの日々の行動や社会というのは、この規定不可能な実在世界の中にある。
当然ながら、自然科学·社会科学のアプローチや叡智を用いてメカニズムを1つ1つ解明していくことは重要な側面もあるが、1つのメカニズムの解明はまた未知なるメカニズムを生むという「不在の弁証法的プロセス」がそこにあるがゆえに、それは終わりのない試みである。
ここ最近重要だと思うのは、そうした規定不可能な世界の中に生み出されるメカニズムに着目するだけではなく、それよりむしろ、そうしたメカニズムを生み出している超越的な世界に眼差しを向けることである。端的には、超越的な世界を直視しながら、そうした世界から産み落とされるメカニズムを見ていくという感覚だろうか。
超越的な世界の内部に形作られる社会の中でいかに自己のアイデンティティを確立しようと思っても、やりがいや生きがいを見つけようと思っても、往々にしてそれがうまくいかないのは、概念世界としての社会が絶えず予測不可能な形で絶えず変化しているからだろう。
端的には、揺れ動く社会の中で自己を規定しようとするからうまくいかないのであり、それが絵も言わぬ不安や焦燥感などを生み出しているのではないかと思う。そうであれば、それに対する打ち手として、絶えず変化を生み出している社会を超えたところに存在している実在世界の中に自己のアイデンティティを確立していくこと、そしてその世界を通じて自己のやりがいや生きがいを見いだしていくことが挙げられるのではないだろうか。
実在世界は変化を超越しており、絶えずただそこに全体として在る世界である。これまで社会の中に自己の拠り所を見出そうとして私たちは失敗してきたのだから——それは現在進行形で行われている営みである——、そうした実在世界の中に自己の拠り所を見いだしていくことが私たちに求められていることのように思える。フローニンゲン:2020/10/3(土)11:22
6292.『彷徨える河(2015)』を見て
時刻は午後4時半を迎えた。先ほど街の中心部での買い物を終えて自宅に戻ってきた。
今日はこれから雨が降るようなので、雨が降る前に買い物から帰ってこれたことは幸いである。本日の買い物を持ってして、一時帰国前の買い物は終わりである。
先ほど街の中心部に行ってみて気がついたが、フローニンゲンの外からやって来たと思われる人たちの中でマスクをしている人たちが多かった。これまでオランダでは、公共交通機関の中だけでマスクの着用が義務付けられており、外でマスクをしている人はほとんどいなかった。
ところが先週ぐらいからとりわけオランダ南部(アムステルダム、ハーグ、ロッテルダム)でのコロナの感染者が一気に増え、その辺りの地域から来たと推測される人たちは街でもマスクを着けて歩いていた。オランダではこれからより一層寒くなり、コロナの第2波が心配される。
つい先ほど、昼に途中まで見ていた『彷徨える河(2015)』を見終えた。この作品は、コロンビア人のシーロ·ゲーラ監督によって作られたものであり、20世紀前半にアマゾンを訪れた2人の白人探検家の実際の日記を基に作られた作品だ。
話の内容は、数十年にわたって他者との接触を拒んできた部族最後の生き残りである呪術者カラマカテが、聖なる樹木ヤクルナの調査に来たドイツ人民俗学者と共にカヌーを漕いでアマゾン奥地へと入っていく中で、失われた記憶を取り戻していくというものだ。
物語の中では、「カーピ」と呼ばれる植物のエキスを飲むシーンがあり、それは強烈な幻覚作用があり、アマゾンのシャーマンの世界ではまたの名を「アヤワスカ」と呼んでいるものである。物語を見ていく過程の中で、ここでもまた文明人の時間の流れとは全く異なる流れがジャングルの世界と先住民族の世界の中で流れていることが感じられる。
先住民族には文明人とは異なる認識世界があり、それは同時に存在論的にも異なる存在世界があるのだと思う。認識の階層構造と存在の階層構造の相違と、認識世界の階層の違いが存在に異なる影響を与えていることも窺い知ることができる。
その他に書き留めておくべきことは、ジョン·エフ·ケネディ大学に留学していた頃に体験したシャーマニズムの儀式の記憶が自ずから思い起こされるような体験があったことだろう。シャーマンが見ている世界と私が見ている世界は異なり、彼らが見ている世界に参入することによって初めて開示された認識世界のことを思い出す。
話の中で、夢に治療を求め、夢の声を聞くことの大切さについて言及されていたのは印象的である。夢は治癒を促す素材に溢れていて、夢の声は人生の方向を導くような力がある。夢が持つそうした力を汲み取る実践はこれからも続けていきたい。
最後に、ストーリーの中で出て来た「チュジャチャキ」という言葉が印象に残っている。これは、実態はあるが中身のないもののことを指す。例えば、姿形は人間であるが、人間としての中身のない人間のことや、言葉としての実態はあるが、中身のない言葉などが具体例として挙げられる。
先住民族が述べたチュジャチャキという言葉に象徴されるような人間や言葉、そして仕組みで溢れているのが文明人たちの社会なのではないかという批判的なメッセージも汲み取ることができる作品であった。フローニンゲン:2020/10/3(土)16:48
6293. “Unacknowledged: An Expose of the World's Greatest Secret (2017)” を見終えて
時刻は午後7時を迎えた。つい今し方夕食を摂り終えた。
先ほど、数日前から視聴を始めていた“Unacknowledged: An Expose of the World's Greatest Secret (2017)”を見終えた。数日前に言及したように、これは地球外生命体に関する過去現在のアメリカの調査の実情を描いていて、とても興味深い内容であった。
残りの1時間を見る中で印象に残っているのは、UFOをモチーフにした過去の絵画作品が取り上げられ、それは今から2年前の夏にロンドンナショナルギャラリーに訪れた際に私を釘付けにしたキリスト教絵画だったことだ。それは、カルロ·クリヴェッリが描いた『聖エミディウスを伴う受胎告知』という作品である。
あの日私は、ロンドンナショナルギャラリーの宗教画のエリアを歩きながら様々な作品をぼんやり眺めていた。キリスト教絵画が私の内側に響き始めたのは、昨年末のマルタ共和国に訪れたときであり、ロンドンを訪れたその時の私には、キリスト教絵画はほとんど内側に響いてこなかった。
しかしながら、クリヴェッリのその作品だけは私をひどく捕らえていた。その時の私は、マリアの頭上に輝くハトが描かれていることに注目をしていて、ハトを照らす光の先に何気なく描かれている円盤状の物体には大して注意がいっていなかった。
この絵画が描かれたのは1486年のことであり、実際にクリヴェッリがUFOを見たのかどうかは定かではなく、この作品をもってして、人類は数百年も前からUFOの存在を認識していたと述べることはできないであろうが、いずれにせよ、その時代にUFOを示すモチーフが描かれていることが興味深い。また、2年前の夏のあの日に、ロンドンナショナルギャラリーで私がこの作品にやたらと惹きつけられていたことも偶然では済ませられないようなものがあるように思う。
数日前の日記でも言及したように、アメリカは膨大な軍事予算以上にUFOや地球外生命たいの調査と研究を進めている。作品の中で、そうした国家規模のプロジェクトに過去関与していたある人物の話が大変興味深く——こうした人物がもう公に情報を開示できるような時代に入って来ているということもまた興味深く、一昔前であれば、彼は間違いなく国家の手によって暗殺されていたであろうと本人も述べていた。おそらくAmazonプライムのオリジナル作品としてこのドキュメンタリーを公開したことは、今後地球外生命体の存在を認める報道をしたときに、アメリカ国民全体、そして地球市民全体が驚かないようにする下準備のようにも思える——、彼曰く「この世界の本当の脅威は、ISISでも、イラクでも、ロシアでも中国でもない。脅威なのは、このプロジェクトに携わるソシオパス的な人間であり、彼らが地球を代表して地球外生命体とコミュニケーションを図ることである」と述べていた。
少し補足すると、これはアメリカの視点ではあるが、この世界の本当の脅威は特定の国でも組織でもなく、UFOや地球外生命体の調査·研究の蓄積によって獲得された、地球を滅ぼすようなテクノロジーを乱用してしまうことであったり、どれほどの力を持つのかわからない地球外生命体を怒らせてしまうようなソシオパス的なコミュニケーションをすることである、という意味のことを述べていたのである。
番組の中でも暴露されていたが、アメリカが軍事予算を使って戦争を仕掛けている国々は、単なる仮想敵国であり、戦争をすることによって経済を潤し、経済を回すためであり、実はその背後には、アメリカが本当の脅威だと思っている地球外の未知なる存在の調査から国民の目を背けるためであるという説明もまた興味深かった。
近年はNASAなどでも地球外生命体に関する調査報告のようなものがすでに出ているとのことであり、早速調べてみると、確かにいくつかレポートが公開されていた。こうしたレポートはすでに誰でもアクセスできるようになっているのだが、一般人はこうした科学的なレポートを読むことはほとんどないだろう。
だが今回のドキュメンタリー番組のように、ここから少しずつ様々な形で地球外生命体やUFOに関する情報が公開されていき、近い将来にはそうした存在が当たり前のように認識されるようになるのではないかと予感する。フローニンゲン:2020/10/3(土)19:42
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