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6279-6283: アートの国オランダからの便り 2020年10月1日(木)


No.1457 黄昏のまどろみ_A Twilight Doze

本日の言葉

Nothing can stop you from playing your part as long as you dare to believe. Too many people hold themselves back when they should be reaching out. Josei Toda

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6279. 一時帰国に向けて

6280. 今朝方の印象的な夢

6281. 共通感覚/次世代中心主義を超えて/在ることの感覚と不在の力

6282.『さらば青春の光 (1979)』と『21グラム(2003)』を見て

6283. “Unacknowledged: An Expose of the World's Greatest Secret (2017)”を見ながら/多様な時間が交錯する奇跡


6279. 一時帰国に向けて

時刻は午前5時半を迎えた。今朝の起床は午前5時前であり、今日もまた自分の取り組みに従事するための十分な時間がある。今日と明日はオンラインミーティングがなく、より時間に余裕があるだろう。


先日和書を随分と注文し、それを実家宛に送ってもらったのだが、西部邁先生の書籍も何冊か読みたいと思っており、今夜中にそれらを注文しておきたいと思う。明日は日本滞在中のホテルの予約をする。


今回は厳選した和書を購入し、それをオランダに持って帰るために、大きめのスーツケースを持って行こうかと思う。厳選したとは言え、おそらく30冊ほどはオランダに持って帰ることになるであろうから、


これまでの機内持ち込み可能なスーツケースでは容量が足りない。スーツケースに入らない書籍を手荷物としてトートバックに入れるにしても限界がある。そうしたことから、今回はいつもよりひと回り大きめのスーツケースを持っていくことにしよう。


これまでは日本に一時帰国する際には、手荷物として機内に持ち込むことのできる小さなスーツケースしか持って行っていなかった。それによって、到着した空港でスーツケースがベルトコンベアーで運ばれてくるのを待つ必要がなかったり、現地での移動が楽だという良さがあった。


しかし今回は、前者に関して言えば、そもそも乗客が少なく、さらには搭乗クラスの都合上、スーツケースは優先してベルトコンベアーで運ばれてくるだろうから、受け取りは速やかになるはずである。また移動に関しても、実家で書籍を受け取った後に滞在するホテルは、基本的に駅の近くのため、スーツケースを引きずって移動することはほとんどないと思われる。


今回は仕事の都合上、どうしてもスーツを2着持っていく必要があり、それに合わせてワイシャツやビジネスシューズも持っていく必要がある。そうしたことを考えると、尚更大きめのスーツケースを持参する必要があるだろう。


ビジネスシューズはオランダに持って帰るが、2着のスーツとワイシャツはそれらを使い終えた後、滞在先のホテルから実家に送ってクリーニングに出してもらおうと思う。また、それに合わせて、読み終えた本の中でオランダに持って帰る必要がないと思ったものもいくつか実家に送ることを検討しているが、そうした吟味はできるだけ実家に滞在している間に行いたい。


今確認してみたところ、すでに実家には25冊ほど書籍を送っていて、東京にいる協働者の方に8冊ほど書籍を預かっていただいている。そして今夜、西部邁先生の書籍を8冊ほど購入する予定なので、41冊ほどの書籍となる。


全てすでに吟味した書籍ではあるが、オランダに持って帰って今後何度も繰り返し読みたい本なのか、それとも実家に帰るたびごとに読み返せばいい本なのかを識別したいと思う。そうすれば、スーツケースの中に書籍を全て収めることができるだろう。


絶えず再定義·再構築していく存在としての自己。これは、ニーチェも指摘している人間の性質である。


自己を絶えず再定義していき、再構築をしていく営みを今日も行っていく。その1つのきっかけを作ってくるのが創作活動であり、映画鑑賞でもある。


今日もまた映画を見ようと思っている。時間的な余裕があれば、今日もまた2本ほど見たいと考えていて、何を見るかについては、U-NEXTのマイリストに入れている作品の中から直感的に何かを選びたい。フローニンゲン2020/10/1(木)05:47


6280. 今朝方の印象的な夢


時刻は午前6時にゆっくりと近づいてきている。ここ最近はめっきり気温が下がっている。ヒーターをつけるほどではないが、室内での格好は冬のそれである。


日本からオランダに戻ってくる11月上旬はもう随分と寒くなっているだろう。その頃はもうマフラーが必要かと思うので、昨年と同様にマフラーを持参しようと思う。


調べてみると、11月上旬の最高気温はもう10度を下回っていて、最低気温に関しては1、2度の日もあるようなのでとてもに寒い。これは本当にマフラーを持って行った方が良さそうだ。


結局今回は、やはり当初の計画通り、オランダに到着したら空港内のホテルで宿泊し、翌日はアムステルダムの美術館を2つほど巡って、その翌日にフローニンゲンに戻ろうと思う。今回はアムステルダム空港と関空の直行便であるから、移動の疲れはさほどないかと思うが、アムステルダム空港に到着してからそこからまた2時間半ほど列車に乗ってフローニンゲンに移動するのは大変かと思う。


アムステルダムに到着したその日はすぐにホテルにチェックインをして、そこでゆっくりする。その翌日もゆったりとした気分で美術館巡りをして、その翌日にゆっくりとフローニンゲンに戻ってくるのが賢明かと思う。


今朝方は印象に残る夢を見ていたので、今からそれについて振り返っておきたい。


夢の中で私は、どこかの国の高速道路を車で走っていた。ところがそれは道を逆走していて、前からやって来る車をよけながらのものだった。私の他にもう1台逆走している車があり、それを運転しているのは私の友人だった。


しばらく逆走をしていると、前から大量に車がやってきて、よけるのが難しくなってきた。しかし幸いにも車の速度はゆっくりだったので、なんとか問題なかったが、あるとき、一台のワゴン車がこちらの車を気にせずに突っ込んでこようとした。


私は一体誰が運転してるんだと思って運転席を見たところ、ある有名な学者の先生だった。先生は歯に衣着せぬ物言いをすることで有名だが、根は優しいのではないかと思われることが多々ある。


そんな先生がしかめ面をして、クラクションを鳴らしながらこちらに向かってきた。私はなんとか車をよけたところで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、またその先生が出てきた。先生と一緒に、ヨーロッパの田舎町を歩いていた。


そこは確かにヨーロッパなのだが、雰囲気はアメリカの西部劇で登場するような街並みだった。砂埃が立ちそうな道を歩きながら、私は先生と会話をしていた。


:「先生は先ほど、資本主義は輪郭を持たないような得体の知れないものだと仰りましたが、あえて色や形で表現するとどのようなものに喩えられるでしょうか?」


先生:「そうだね、赤いトカゲのようだと喩えることができるかもしれない」


:「赤いトカゲですか···。その心は?」


私がそのように質問をすると、ちょうど通りかかった家の2階の窓から顔を出している日本人の老人がいた。その人はこちらを見て微笑んでおり、見ると、その方もまた著名な学者であった。


その方は、私の隣いにいた先生に向かって、「〇〇君、あんまりワシのことを悪く言わんでくれよ」と笑いながら述べた。それに対して隣にいた先生は、「先生のことを悪くなんて言っていませんよ。また対談をしましょう」と笑いながら返した。


その後、先生はポツリと、「あの爺さんとの対談はとても楽しみだ」と述べた。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私はオーストリアのザルツブルグの町にいた。ザルツブルグは内陸にあるのだが、どういうわけか、ヴェネチアのように洪水に見舞われる時期があるとのことだった。


ちょうど私が滞在しているときに洪水がやってきて、街中の道は随分と浸水していた。そんな中、サイクリングバイクで街中を駆け抜けていく人たちの姿を見かけた。彼らは全身が土砂まみれになっていたが、それを気にせずサイクリングバイクでどこかに向かっていた。


街中を歩いていると、どこかの国の王子が結婚9周年の旅に出かけるという話を聞いた。その王子はちょうどザルツブルグに滞在しているようなのだが、洪水の時期に観光は大変だろうと思った。


王子と王女の旅は1年間にかけて行われるものらしく、自分も同じようにそうした旅に出かける時間的ゆとりがあると思ったところで夢の場面が変わった。


最後の夢の場面では、私は日本だと思われる国の沿岸部にいて、ゲーム屋の中にいた。そこでは面白いゲームが色々と売られていた。それはテレビゲームだけではなく、ボードゲームを含め、おもちゃに関してもである。


店員は若い女性が務めていて、彼女もまたゲームがとても好きなようだった。店員のその女性に話しかけてみると、彼女はちょうど今自分がやっているゲームの解説書を作っている最中だった。


見ると、地図のような形で広げられるようなカラーの立派な解説書だった。それを1つもらうことにし、そのゲームについて少し話をした。すると突然、私の体は店の外にあった。


見上げると、そのゲームの裏ボスである巨人がそこにいた。私はその巨人について解説書で調べようと思って視線を解説書に移すと、開いたページに2体の伝説のドラゴンの絵が出てきた。


そこでふと顔を上げると、まさにそこに2体の異なる伝説のドラゴンが現れ、私のことを凝視した後に雄叫びを上げ、どこかに飛び去って行った。


そこで我に帰ると、数百メートルほどの大きさの巨人が、私の方をじっと見ていた。私のことを踏みつぶすのかと思いきや、そのようなことはせず、大人しくじっとしていた。


それを見て私は、今の自分ではこの巨人には到底敵わないと思い、巨人を倒すためには相当な鍛錬が必要だと思った。もう少しこのゲームと付き合う必要があると思ったところで夢から覚めた。フローニンゲン2020/10/1(木)06:27


6281. 共通感覚/次世代中心主義を超えて/在ることの感覚と不在の力


時刻は午前11時を迎えた。今、書斎の窓を閉めた。というのもこの時間になっても気温がほとんど上がらず、冷たい空気が入り続けていたからである。


先ほど、ロイ·バスカーの主著“Dialectic: The Pulse of Freedom”の再読を終えた。そうした読書をしながら、ふと昨日見た映画についてまた色々と考えていた。


1つには、クリント·イーストウッド監督が描く共通感覚に関するものである。彼の作品には一貫して、人種や宗教観を超えて、人間として抱く人類に共通の感覚を描いているように思えたのである。


昨日鑑賞した『硫黄島からの手紙 “Letters from Iwo Jima (2006)”』で言えば、あるアメリカ兵と彼の母との手紙のやりとりが描かれており、それと同じことがある日本兵を対象にして描かれていた。そこには人間に共通する感覚が描かれており、それはひょっとすると、他の生物においても持ち得る感覚なのかもしれない。


そうした共通感覚がますます希薄なものになっていく現代社会において、イーストウッド監督の問題提起は重要に思える。


昨日は、『11·25自決の日 三島由紀夫と若者たち(2012)』という映画も見ていた。その映画についても1日経って改めて思い出してみると、作品の中でも言及されていた「後に続く者を信ず」という言葉を、5年ほど前の日記の中で引用していたことを思い出した。


それは神風特攻隊の言葉であり、この言葉をその時に引用した時も三島由紀夫の何らかの文章を読んだ後だったように思う。当時その言葉を引用した自分と今の自分に共通している感覚、ないしは当時よりも育まれた感覚は、子々孫々を思って事を為すことの大切さのように思える。


昨今の次世代中心主義的な種々の発想や行動はどこかおかしいのではないかと思う。自分の世代さえ生き残ればそれで安心というのは、視野も器も狭く、精神病理的な症状なのではないかとさえ思う。


現代社会が直面する種々の問題を、子々孫々まで射程に入れて取り組んでいくという最低限のことを改めて問う必要があるように思える。そうでなければ、人類は本当に近い将来滅亡してしまうだろう。


これから少しばかり作曲実践をして、近所のスーパーに買い物に行く。来週の今頃は、もう日本にいる。


一時帰国の日が近づいてきたので、ここからの買い物は出発日から逆算したものにして、不要なものを購入しないようにする。今日購入するのはニンジンとバナナだけだ。


この世界に在ることの確証を得ようとする試みとしての創造衝動、そして、この世界に在らんとする試みとしての創造衝動。そうした衝動が自己の内側に湧き立っているのを日々感じる。


在るという確証を通じて世界と繋がろうとする自己。世界と繋がるためには、当たり前なのだが自己が在る必要がある。


ただし、ここで述べている自己が在るという感覚は、在りや無しやの自己感覚であり、絶えず不在の不在化を通じて立ち現れる自己を見つめているという感覚である。


先ほどバスカーの書籍を読みながら、不在があるからこそより完全なものに向かっていくということを改めて思った。不在には因果力があり、不在であるものは現実に存在しているものにすでに影響を与えているものもある。


不在のものを不在化させていくことによって、自己も社会も、永遠に到達することはできないが、より調和の取れた完全なるものに向かっていく。逆に言えば、不在の不在化を怠れば、その運動は止まってしまうということだ。フローニンゲン2020/10/1(木)11:14


6282.『さらば青春の光 (1979)』と『21グラム(2003)』を見て


時刻は午後4時を迎えた。今日もまた2つの映画作品を見た。1つは、『さらば青春の光 (1979)』(原題:Quadrophenia)という映画である。この作品は、1960年代のイギリスを舞台にした、当時流行していた「モッズ」と呼ばれる若者たちの生き様を描いている。


ここ数日、日本の1960年代や1970年代を描く作品を見ていたこともあり、イギリスの当時の社会状況がいかなるものであったかを知りたかった。イギリスにおいても、旧態依然とした社会の有り様に対して若者たちの感情が鬱積しており、やり場のない憤り、そして彼らはたむろしながらも各人はなんとも言えない孤独を抱えているように映った。


彼らの生き方はとても衝動的であり、刹那的でもあった。そのようなことを思いながら、当時のイギリス社会の背景についての描写がほとんどなかったこともあり、そこだけが残念だった。あくまでも若者たちの鬱積感と衝動的な行動だけが映し出されていて、彼らがあのような行動に及ぶ社会的なコンテクストを暗にでもいいので示してくれると有り難かった。


次に見たのは、『21グラム(2003)』 (原題:21 Grams)という作品で在る。これは、メキシコ人の才イニャリトゥ監督が製作した作品であり、余命1カ月と診断されて心臓移植の提供者を待つ主人公のポール、夫と娘たちと幸福な生活を営むクリスティーナ、そして神への強い信仰心を持つ前科者であるジャックが、ある事件をきっかけとして3人の人生が交錯していく物語である。


この映画は様々なことを考えさせてくれる内容だった。人は死ぬと体重が21グラムだけ減るという。それは5セント5枚分だということが述べられていた。


その重みとは一体何なのだろうか。ここで述べている重みとは、物質的な重さのことではもちろんない。そこには物質的なものを超えて、実に様々な重みが内包されているように思う。


その人の人生そのものの重み、そしてその人を取り巻く残された人たちの人生の重み。作品の中で、「それでも人生は続く」ということが何度か述べられていた。まさにそうなのだ。


残された者たちの人生は続き、亡くなった人の命の重みはその人の人生全体の重さに加えて、残された全ての人たちの人生も背負っている。そうした重みに命の尊さや人の尊厳なるものがあるのかもしれない。そして、そうした重みを起点にした発言や行動が求められているのではないだろうか。


人間について、そして社会について全く何も知らないという感覚が、映画やドキュメンタリー作品を見ることに導いていった。この道もまたとても長く複雑なもののように思える。少しずつの歩みを進めていくこと。それは映画やドキュメンタリーの鑑賞においても同じである。


スペインの哲学者ホセ·オルテガ(1883-1955)の思想は、「生の理性」を中心主題にして形成されていることを先日知った。生の理性とは、1人1人の有限な生を媒介して、より普遍的なものに高めていく理性のことを指す。


このような発想は、森有正先生の思想形成においても見られるように思える。また、オルテガと森先生の思想形成における自己表現のアプローチもとても近しいものが見られる。


オルテガは、ただ欲求に従って生き、自らの権利を主張しながらも、一切の義務を果たそうとしないような人間たちのことを「大衆」として括った。先ほど見た『21グラム(2003)』の中の登場人物であるポールもジャックも、オルテガの述べるような大衆ではなく、彼らは自らの義務を果たそうとする高潔さを持っていたように思う。フローニンゲン2020/10/1(木)16:23


6283. “Unacknowledged: An Expose of the World's Greatest Secret (2017)”を  見ながら/多様な時間が交錯する奇跡


時刻は午後7時半を迎えた。昨日より、Amazonプライムのオリジナル作品である“Unacknowledged: An Expose of the World's Greatest Secret (2017)”というドキュメンタリー番組を視聴している。


端的には、このドキュメンタリーはアメリカが戦後から現在にかけて行なっている地球外生命体の探索の実態を取り上げたものである。UFOや地球外生命体と言うと、ひょっとすると一般人の中には、それらの存在をSFのようなものやオカルトのようなものと捉えている人が多いのかもしれないが、現代の科学の発展により、むしろそれらの存在を認識し得ないことの方がオカルト的発想と言えるかもしれない。


それを確証づけるような内容を取り上げているのがこのドキュメンタリー番組である。これまでアメリカでは、国民が仰天してしまい、混乱に陥らないように、巧みにマスメディアを操り、少しずつ情報を出してきたことがわかる。


この番組が作られ、そして世に提供されたことも何かしらの意図があるに違いないが、アメリカの国家諜報機関と政府があれほどまでに地球外生命体の存在を裏付けるデータを取得しているとは思わなかった。とりわけ地球外生命体の探索とその情報隠蔽に加担していたのは国家諜報機関であり、興味深かったのは、大統領でさえそれらの情報を深く知り得ない立場にいたということである。


端的には、アメリカの大統領というのは単なる一時的な雇われ従業員のようなものであることが見えてくる。であるがゆえに、そのような一時的な雇われ人間に国家機密を明かすことができないというのは考えてみれば当然である。


今はまだ番組の途中までしか視聴していないが、ちょうど半分辺りまで見終わり、直前に見ていた内容が、カネによる巧みなメディアコントロールと裏金を通じた口封じに関するものである。アメリカの軍事予算が膨大なのはよく知られていることだが、表に出ない形で地球外生命体の探索調査には軍事予算を遥かに超える予算が当てられていることにも驚いた。


明日もまた番組の続きを視聴していこうと思う。地球外生命体については、これまではそれらの存在がいないことが前提で調査探索が進められていたが、ある時期を境に、その前提が180度転換し、それらの存在がいる前提で調査探索が進められるようになったことを最後に明記しておきたいと思う。


宇宙の広大さや性質、そして地球外での生命の発生確率などを考えれば、地球外生命体が存在しないと考える方が本来難しいのだが、そうした当たり前の計算ができないように情報操作と信念体系の構築を促されたのが多くの現代人なのだろう。


それにしても今日はとても寒かった。日が沈むのが早くなり、もうほとんど真っ暗だ。


このような真っ暗な世界の中で、他の人々、そして他の生物たちはどのように過ごしているのだろうか。動物学者フォン·ユクスキュル(1864-1944)が提唱した「環世界(Umwelt)」という概念について考えさせられる。


ユクスキュルは、アリにはアリの世界が、犬には犬の世界が、ヒトにはヒトの世界があり、それらの間に優劣はないのだということをその概念を用いて提唱した。


簡単に言えば、生命はそれぞれ異なる時空間を生きているのである。そしてもちろん、それらが交差することもある。


バスカーが提唱した「存在論的な階層構造(ontological stratification)」の考え方を用いれば、異なる生命に異なる時空間があるという種類の問題だけではなく、そこに階層的な次元の存在も認めることができるだろう。


そのように考えてみると、私たちは本当に多様な生命たちと共に入り組んだ時空間を生きていることがわかる。それらは互いに独立しながらも、共有している時空間もあるだろうし、それらの時空間が交錯することによって影響を与え合うこともあるだろう。


「存在論的な階層構造(epistemological stratification)」の考え方だけを用いると、どうしても人間中心的な発想や議論に陥りやすい。それを防ぐ上で、ユクスキュルの環世界という概念や、バスカーの存在論的な階層構造という概念は重要な役割を果たすだろう。


1人の人間の中に固有の時間が流れているだけではなく、1人の人間には多様な時間が流れている。人生は本当に多様な時間の流れの織物なのだということがわかる。そして、個人の多様な時間の流れとしての人生が、他者や他の生命たちが持つ、これまた多様な時間の織物と混じり合っていく。


それは多様な時間が交錯する奇跡だと言えるのではないだろうか。小雨降る夜空を眺めながら、そのようなことを思う。フローニンゲン2020/10/1(木)19:51

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