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6257-6260: アートの国オランダからの便り 2020年9月26日(土)


No.1435 朝川の流れ_A Flow of a Morning River

本日の言葉

Water, falling drop after drop, fills also a jar. The steadfast man is filled with goodness, even if he accumulates it little by little. Gautama Buddha

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6257. 来月の対談講演会に向けて/今朝方の夢

6258. 一時帰国に際して/種々のメタ理論について

6259.『野火(Fires on the Plain )』を見て

6260. "This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”の第3話を見て


6257. 来月の対談講演会に向けて/今朝方の夢

時刻は午前5時半を迎えた。今日から週末を迎える。


今日もまたいつもと変わらず、自分の取り組みを前に進めていこう。午前中は特に創作活動と読書に集中していく。


今日の午後は、日本に一時帰国した際に行う対談講演会に向けての資料作りに励んでいこうと思う。この講演会に向けての資料はすでにアイデアがいくつも湧いており、それが湧き上がってくる都度、ワードファイルに書き留めていた。今日はそれをもとにして、PPT資料を作っていこうと思う。


対談の時間は2時間であり、質疑応答などの時間を30分ぐらい取る予定なので、それを考慮した分量の資料を作っていく。こうした資料作りもまた自分にとっては創作活動でもあるので、創作を楽しんでいこうと思う。


今日の進み具合によるが、明日は午後から何かしらの映画を見てもいいかもしれない。昨日から視聴しているドキュメンタリーの続きを見ていくのではなく、明日はいったんそこから離れ、何か映画を見ることも検討する。


映画を見る視点や汲み取れるものをこれから少しずつ増やしていきたい。そのようなことを考えながら書籍を調べていると、社会学、政治学、哲学、心理学の観点から映画を扱っている専門書を、今のところ35冊ほど見つけた。


先日映画の社会学的考察を行っている和書を10冊弱購入したので、それらと合わせて洋書で35冊ほど専門書を読んでいけば、映画を見る視点の幅と深さが随分と変化するだろう。来年以降は、創作活動と映画·ドキュメンタリー鑑賞により時間を充てるような日々を送っていければと思う。


年々関心領域が拡張されていき、実践領域が増えていく。それは自己がゆっくりと深まっていることの証だろうか。


自己の発達の土壌が少しずつ肥沃なものになってきているのを実感する。そうした大地に、天から降ってきた種を植えていこう。自分の関心はそうした天の恵みのようなものである。そして植えられた種もまた、天の恵みのような様々な出来事や関係性を通じて育てていこうと思う。


今朝方は少しばかり印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、実際に通った中学校の教室にいた。そこは、中学校3年生のときに使っていた教室であった。


その日は快晴であり、暑くも寒くもなく、秋というよりも春の雰囲気を感じさせるような日であった。時間帯は朝であり、春の優しい朝日が教室に差していた。


私は教室の窓際の1番前の席に座っていた。授業の始まる直前だったため、もうみんな席に座っていた。


すると、教室に1人の女性の先生が入ってきた。見ると、小学校のときにお世話になっていた個人塾の先生だった。


先生はにこやかに教室に入ってきたが、教壇に立つと、教壇の上の机に文章が大きく書かれたオブジェのようなものが置かれていて、先生はそれを見て顔をしかめた。そのオブジェに書かれていた文章は、先生の授業と関係のあるものではなく、生徒に向けた単なる連絡事項であり、確かにそのようなものが机の上に置いてあると、邪魔であり、あまり気分がいいとは言えないだろうと思った。


すると私の体は、教室の外にあり、階段を上っている最中だった。私の左横には、小中高時代の1人の友人(SN)がいた。そして彼の後ろには、同じく小中高時代の女性友達(KF)がいた。


その男性の友人が私に、教室の前の廊下に面白いものがあると述べた。それは何だろうと気になりながら階段を上り、教室の廊下に辿り着くと、そこには先日行われた模擬試験の結果が張り出されていた。


見ると、私は学年で1番の成績のようだった。学年で1番であるだけではなく、全国でも上位の成績のようであり、教室に到着すると、担任の先生がそれを祝ってくれた。しかし、自分の机の上に置かれていた模擬試験の結果を冷静になって眺めてみると、数学は学年で1番だったが、国語が8番であることに少し不満であった。


そこは中学校だったのだが、その模擬試験はどういうわけか大学入試に関するものであり、第一志望に関してA判定だった。しかしその判定結果についてもあまり信用しておらず、これから何をどのように勉強していこうかと考えている自分がいた。


私は、模擬試験を含め、学校でなされている教育に窮屈さと理不尽さを感じ、早くこのゲームから抜け出さないと自分の人生が台無しになってしまうと思っていた。フローニンゲン2020/9/26(土)06:10


6258. 一時帰国に際して/種々のメタ理論について


時刻は午前6時を迎えた。今の気温は6度と肌寒く、今日から1週間のフローニンゲンは、ヘルシンキよりも気温が低いことを知って驚いた。


早いもので、再来週の水曜日に日本へ一時帰国するのだが、オランダに戻ってくる11月初旬はもう相当に寒いだろうということが予想される。昨年の今頃は、ちょうど日本に到着した頃であり、その時はまだ日本は暑く、日中は半袖で過ごせるほどだった。


一方で、日本に向かってオランダを出発した朝にはもう冬用のジャケットとマフラーをしていたように思う。そう考えると、今年は昨年よりもまだ暖かいのかもしれない。


再来週の水曜日に自宅を出発するときにマフラーが必要かどうかを判断するというよりも、そこから4週間弱の日本の滞在を踏まえ、11月初旬のオランダの気候を考えてマフラーを持参するかを考える必要がある。それはもう考えるまでもなく、マフラーは持っていった方がいい。ただし、あまり余計なものを持っていきたくはないので、タートルネックの服とジャケットを羽織れば、なんとか寒さを凌げるかもしれない。


今回はスキポール空港と関空の直通便を使うため、乗り換えがないのは諸々の意味で楽である。当初は、ヘルシンキを経由してアムステルダムに戻ってくる予定であり、それであれば空港近くのホテルに2泊ほどし、到着の翌日に市内の美術館を巡って、その翌日にフローニンゲンに帰ろうかと思っていた。


今回は移動の疲れがなく、アムステルダムに到着するのが午後3時過ぎであるから、そこからフローニンゲンに戻っても問題ないように思える。やはり1番寛げるのは自宅であり、近々日本にいる友人や知人がアムステルダムに遊びにきたときに美術館を巡ることもあるだろうから、今回はアムステルダムに滞在することなしに素直にフローニンゲンに戻って来ようかと思う。そのようなことを昨夜考えていた。


昨日は改めて、現代のメタ理論の比較研究に関する専門書を読み返していた。メタ理論が果たすべき役割の1つとして、規範性に対する規範性の確立を行っていくことがあるであろうと考えていた。つまり、とりわけそのメタ理論が対象とする領域における既存の規範性を検証し、必要であればそれらを刷新していくことが少なくともメタ理論には求められる。


メタ理論は、単なる知識の整理をするために活用されるものではないのだ。ケン·ウィルバーのインテグラル理論、ロイ·バスカーの批判的実在論、エドガー·モリンの複雑性思考は、メタ規範性として機能するようなメタ理論に該当すると言えるだろう。


それらは、それぞれ異なる領域の規範性のメタ的な検証と刷新の役割を果たす。いずれのメタ理論も固有のシャドー領域と脆弱な箇所がある。もちろん、それぞれのメタ理論は自身の理論的枠組みに対するシャドワークを行う力が備わっているが、固有のシャドーそのものを生み出す構造そのものを完全に治癒することはできない。


そしてそこにこそ、そのメタ理論の強みや価値があるとも言えるだろう。メタ的な批判をし、メタ的な新たな物語を創造していくこと。


インテグラル理論はメタ理論の中でも、メタ物語の創造に軸を置いており、批判的実在論はメタ批判に軸を置いている。前者はセラピーの技法や心理学的な理論に基づく1人称的解放からの世界の解放に焦点が当てられており、後者は社会学·政治学的な理論と実践に基づく2人称的解放からの世界の解放に焦点が当てられている。


もちろん、どちらのメタ理論も諸々の学術領域を参照しているが、それぞれがどこに最も力点を置いているかの違いは上述の点にあるだろう。再読をしていた書籍の中でも同様の指摘がなされている。今日の午前中の読書では、バスカーの書籍を2冊ほど再読できればと思う。フローニンゲン2020/9/26(土)06:35


6259.『野火(Fires on the Plain )』を見て


時刻は午後7時を迎えた。土曜日がゆっくり終わりに近づいている。


今日は午後に、U-NEXTを契約し、早速映画を見た。これまでは映画を見るとしても洋画を見ることが多かったが、今日は『野火(Fires on the Plain )』という冢本晋也監督の映画を見た。


この作品の原作は大岡昇平の小説であり、第2次世界大戦末期のフィリピン·レイテ島を舞台にした物語である。とりわけ本作品では、日本軍の敗戦が色濃くなった中、日本兵がそこでいかに過酷な状況を生きていたかを描いている。


映画は、塚本晋也監督演じる田村一等兵の視点で進行していく。戦争の過酷な状況における人間の脆さや弱さなどについてここであえて言及するのではなく、本作で印象的だった点を書き留めておきたい。


私が注目をしたのは、レイテ島の中で自動機関銃のようなもので日本兵が次々と殺されていく中で、奇跡的に助かった主人公の視線の先にあった一本の植物が映し出されたシーンである。このシーンを見たとき、人間世界とは別の世界が存在しているということをまざまざと見せつけられたように思えた。


私たちが生きている時空間とはまるっきり異なる時空間が確かにあって、その1つとして動植物の世界があるように思えたのである。また、殺されていく人間が死の世界の描写なら、その植物は生の世界の描写であり、それら両方の世界の中間に位置している、あるいはそれらを超越した世界もあることを示唆するようなシーンだった。


それと少し似た観点としては、レイテ島の中で兵士たちは明日も分からなぬ極限状態の中で協力し合ったり、騙し合ったりしながら生きている一方で、ふとした時に大自然や大空の描写が描かれていることも印象的だった。そこに、天と地の対比を見た。


地上で行われていることとは全く関係なしに存在している天の世界があるということ。そして、ひょっとしたら、天は常に私たちを見ているということを示唆するような描写のようにも思えた。


一体どれほどの現代人にこの感覚があるだろうか。天が見ているという感覚を神話的合理性段階のそれとして受け止めるのではなく、合理性段階を超え、超越的な段階のそれとしてそうした感覚を持つことは大切なのではないかと思った。それはきっと、高度な道徳観や倫理観の礎になる感覚だろう


その他にも印象に残っている点がある。最終的に主人公は生き残り、無事に日本に帰った。彼以外のほとんどの日本兵は死に絶え、彼がどうして生き残れたのかについても考えていた。


それはもちろん運もあったであろうが、何か別のところにあるように思えたのである。作品の中でも、愛する人が日本にいる点について言及されていたが、それは他の多くの日本兵においてもそうであろう。そうなってくると、愛する人への愛以外の何かが彼を生存に導いたのではないかと考えていた。


そのようなことを考えていると、そう言えば主人公が他の兵隊と会話をしているときに、「日本では何をしていたんだ?」という質問に対して、「ものを書いていました。本を読んで、ものを書くことをやっていました」ということを述べていたことを思い出したのである。


主人公を最後まで人間として支え、生存のための大きな拠り所になっていたのは文学という芸術の力なのではないかと思ったのである。繰り返しになるが、それは楽観的な見方かもしれないが、彼が文学を愛し、文学から何かを得ることによって、他の兵隊とは異なる形で精神を涵養していた点は見逃せないように思う。


主人公はひょっとすると、自ら文学を読み、文学を創作するという芸術活動を通じて、超越的な世界に参入する経験を積み、それが天が見守っているという感覚を最後まで主人公にもたらし、人間としての自己を保持することを可能にしたのではないかと思ったのである。


戦争から日本に帰ってきた主人公は、精神的·身体的な障害を患っているように思えたが、それでも人間として世界に戻ってきたことは確かであり、そこからまた小説を執筆する行動に駆り立てられていたことも印象に残っている。


ここからしばらくは、Amazonプライムのドキュメンタリーを見ていくことに並行して、午後に時間を取って、U-NEXTを通じて映画を見ていきたいと思う。邦画の良さを改めて見直しているところなので、しばらく邦画を見ていこうと思う。明日は、『日本のいちばん長い夏』か『実録·連合赤軍 あさま山荘への道程』を見たい。フローニンゲン2020/9/26(土)19:44


6260. "This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”の第3話を見て


時刻は午後8時に近づこうとしている。もう辺りは随分と暗い。今日は気温も低かったこともあり、秋も随分深まり、もう冬の足音が聞こえてくるほどだ。


本日U-NEXTを契約したことに伴い、これから少しずつではあるが、本格的に映画やドキュメンタリーから学びを深めていき、この世界に対してこれまでとは違った形で関与していこうと思う。できれば毎日映画を1本見たいところだが、それができない日もあるだろう。


無理に毎日映画を見るのではなく、映画を見たいというある種の飢餓感を大切にし、それなりに吟味をして面白そうだと思った映画を見ていこうと思う。片っ端から映画を見ていくのではなく、自分が関心を持っている主題を中心にして映画を選定していく。


もちろん、これまでの自分の関心の外にあったのだが、ふと気になってしまうような主題やジャンルの映画も見ていこう。それによって、自分の内面宇宙がまた拡張していくだろう。


AmazonプライムとU-NEXTを併用していけば、随分と多くの映画やドキュメンタリーを見ることができるだろう。もちろん、どちらも海外ドラマが充実しており、後者に関しては日本のアニメが非常に従事しているので、引き続き海外ドラマや日本のアニメも楽しみながらにしてそこから学びを得ていこう。書物から得られるものは多大であるが、映画、ドキュメンタリー、ドラマ、アニメから得られるものも多大であると感じている。


先ほど夕食を食べながらふと手を止めてしまうことがあった。それは、自分の中にある考えが去来したからである。


それは何かというと、今後何かのきっかけで、母国に入国することができなくなってしまうこともあり得るのではないかという考えだった。今回の一時帰国はまさにその縮小版のような体験に思えた。


非居住者の私は、日本の空港に着いたら検査を受け、そこから移動を含め、そこからいろいろな制限を受ける。今後、コロナ以上に重大な出来事が日本や世界を襲い、それによって今後2度と母国の大地に足を踏み入れることができなくなってしまうことも十分にあり得ることを思ったのである。


一寸先に闇があり、一寸先に光があること。そして一寸先には、闇も光もない世界がありうるということ。それについて考えていた。


昨日から視聴し始めた"This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”の第3話を本日見た。第3話は、天然ゴムにまつわる話だった。


本エピソードではまず、木々から作られる天然ゴムが私たちの生活と経済をどれだけ支えているかを紹介している。その後、ゴムの木の病気が経済を崩壊させ、私たちの生活に大きな影響を与えることについて触れられていた。


印象的だったのは、天然ゴムの供給先が寡占状態になっており、供給先の多様性を確保しなければ、発生しうる木々の病気によって現在の供給先が潰れてしまうことによって、世界が一変してしまう危険性を指摘していたことである。


さらには、ゴムの木の生産者は低賃金で働いていて、その問題をゴム工場の責任だとしていたが、ゴム工場の責任者は、ゴムという先物市場に参加しているディーラーたちに問題があると指摘し、彼らディーラーは世界経済の変動性に問題があるとしてきていた。


この問題の堂々巡りには思わず苦笑いが出てしまったが、問題の種類と深さは多岐に渡っていて、先日読み進めたティモシー·モートンの書籍の言葉で言えば、これは地球温暖化の問題と同じく、「超対象(ハイパーオブジェクト)」と括られる問題だと思った。


今回のコロナの1件からも垣間見えたように、予測不可能なウィルスが蔓延することや、異常気象による生態系の危機的な変化を見ていると、超対象としての巨大で複雑で目には見えない問題が一気に人類に襲いかかってくるかもしれない。


ほんのわずかなかけ違いが、バタフライ効果によって巨大な問題につながり、それが雪崩的に地球全体に影響を及ぶということ。そして、それらの問題の複雑性は、日進月歩、人知を遥かに凌駕するものになってきていることを突きつけられたような思いにならざるを得なかった。フローニンゲン2020/9/26(土)20:08

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