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6254-6256: アートの国オランダからの便り 2020年9月25日(金)


No.1430 音の癒し_Healing Sounds

本日の言葉

Friendship and love are not asked for like water, but are offered like tea. Zen proverb

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本日生まれた9曲

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タイトル一覧

6254.『アンダン ~時を超える者~』を視聴して/今朝方の夢

6255. "This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”の第1話を視聴して

6256. 協働の意義/ "less is more"の発想と余白/呪いと祝福


6254.『アンダン ~時を超える者~』を視聴して/今朝方の夢

時刻は午前6時半を迎えた。今、ゆっくりと空がダークブルーに変わり始めている。今日の最高気温は15度、最低気温は6度とのことであり、ここ最近の中では寒い方である。


昨日、『アンダン ~時を超える者~』(原題: Undone)というアメリカのアニメーションドラマの全てのエピソードを視聴し終えた。この作品は、Amazonプライム初のオリジナルアニメシリーズとのことである。


この作品は、以前視聴した『ゴッホ 最期の手紙』を彷彿させるようなアニメーション技術が使われているのだろうかと思って調べたところ、少し異なるようだ。『ゴッホ 最期の手紙』では、実際の油絵をアニメーション技術で動かしていくような形で製作されていたのに対して、『アンダン ~時を超える者~』では、もちろん絵も活用しながらも、実際の役者の動きをカメラで撮影してトレースするというロトスコープという技術が用いられていることを知った。作中の登場人物の表情や動きがリアルなものに感じられたのは、この技術のおかげだろう。


この作品が主題として扱うリアリティの可変性について少しばかり考えさせられる。作中で描かれていた描写と似たような知覚体験をこれまで何度かしたことがある自分にとって、改めてリアリティとは何なのかについて考えさせられてしまう。ふとしたときに、このリアリティから別のリアリティに移り、そのリアリティが今ここのリアリティになるような体験が思い出される。


主人公のアンマの特殊能力は、亡くなった父以外の人たちには理解されず、幻覚や妄想を見て、突飛な思考や行動をもたらす統合失調症(schizophrenia)とみなされていた。そうした状況を見て、アンマは実際に時空を超えて、様々なリアリティを行き来できる能力があるのではと思った一方で、現代人は大なり小なり、誰もが統合失調症的な特性を持っているのではと思わされた。


厳密には、現代人は幻想や妄想に縛られる形で日々を生きているという点において統合失調症的であり、同時に無自覚に種々の反復的行動をしているという点において神経症的なのではないかと思われる。この作品から汲み取れることはまだたくさんあるかと思われるので、少し時間を空けて再度考えを巡らしてみよう。


今朝方の夢について少し振り返っている。夢の中で私は、小中学校時代の親友3人(NK & HS & SI)とサッカーをして遊んでいた。4人でパス交換をして遊んでいる中で、私はいくつかの種類のキックを織り混ぜて、近くにいた2、3人の女性友達にキックの仕方を教えていた。


そこから場面が変わり、今度は別の2人(AF & YU)と一緒に、川辺で木のボートに本を積んでいくことを行っていた。結構な重さの本を、ボートが沈まないように適度に乗せていくことを3人で行った後、気づけば私はボートの上にいた。しかしそのボートには本は積まれておらず、私の横には父がいた。


どうやら私は、以前にボートの操作方法を父から教えてもらっていたようなのだが、それをすっかり忘れてしまい、危うく激流に流されるところだった。なんとかボートを川の中の巨大な石の近辺で止めることができ、命が助かった。


父曰く、その川の深さは19mで大したことはないと述べていたが、私は2mを超えたらもう十分に深いだろうと思っていた。その川は、どこか見覚えのある川のように思えた。フローニンゲン2020/9/25(金)07:15


6255. "This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”の第1話を視聴して


時刻は午前7時半を迎えた。今、西の空に夕日が沈んでいく姿を拝んでいる。


今朝方にふと、引っ越しをするのは12月の頭ではなく、年末にしようと思った。まもなく日本への一時帰国があり、オランダに戻ってくるのが11月の初旬であるため、日本にいる間に物件を探すのではなく、オランダに戻ってきてから物件を探す方がより時間をかけて物件を選ぶことができるかと思った。


もちろん、自分の望む条件に合致するような良い物件がなければ無理に引っ越しをすることはないが、登録しているウェブサイトから比較的頻繁に条件に合致した物件がメールで通知されてきている。そうしたこともあり、可能であれば年末に引っ越しをし、新年を新居で祝おうと思う。


当初はマヨルカ島で年末年始を過ごそうかと思っていたが、コロナが完全に終息したわけではなく、さらには引っ越しを行いたいこともあるので、マヨルカ島に行くのはまた来年以降にしようと思う。


本日から、"This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”というAmazonプライムオリジナルのドキュメンタリー作品を視聴している。これは地下経済の様々な現象や仕組みを取り上げている興味深い作品である。


1話においてはマネーロンダリングが取り上げられ、租税回避行為に関する一連の機密文書である「パナマ文書」の舞台裏を垣間見ることができたり、マネーロンダリング対策をしていた元FBI捜査官のインタビュー、そしてドキュメンタリー作品の主人公が実際にマネーロンダリングを行うためにキプロスでペーパーカンパニーを作ろうと試みるという興味深い場面もある。


特にその場面において、キプロスの起業斡旋業者の発言が印象に残っている。主人公が、「起業資金が汚れた金(人身売買、核兵器の売買、ドラッグの売買によって得られた金)だった場合でも起業支援をするのか?」というような質問を投げかけると、その斡旋業者は、「その質問を尋ねられるまで考えたこともなかった」と笑いながら答えた。


仮にそれが本当であったとしても、そしてそれが嘘であったとしても、マネーロンダリングを斡旋するようなことが自然と行われている点に構造的な問題があるように思えた。斡旋業者たちにとってみれば、マネーロンダリングは日常のことであり——2013年以降からキプロスにおける規制は厳しくなったらしいが——、そうした状況が彼らの倫理観を含めた感覚を麻痺させているように思えたのである。


エピソードの後半に、マネーロンダリングを一掃しようとすると、金融システムが成り立たなくなってしまうという構造的問題についても言及されており、ますます現代の病理的な経済システムの姿が浮き彫りになってくる。金融·経済のこうした制度的な歪みが、それに関わる人々の感覚を麻痺させ、それに関わらない人にも直接·間接的な害を与える流れが見えてくる。


先ほどから第2話を見始めており、第2話においてはビジネスリーダーとサイコパスについて前半で取り上げており、後半はドバイの経済·社会状況が取り上げられている。続きを明日見ることにし、また何か考えさせられることがあれば書き留めておこうと思う。


しばらくは海外のテレビドラマや日本のアニメを見るのではなく、ドキュメンタリー番組や映画を中心に視聴していこうと思う。今後はドキュメンタリーや映画をより多様な観点で紐解いていきたいと思うため、取り急ぎ、ケンブリッジ大学出版、オックスフォード大学出版、ルートリッジ出版からそれぞれ出版されている、政治学、社会学、哲学、心理学の本格的な辞典をそれぞれ購入しようと思う。


吟味をした結果どれも良さそうであれば、3つの出版社から4つの分野に関する辞典の全てを購入し、それらを参照しながらドキュメンタリー番組や映画を視聴していこうと思う。フローニンゲン2020/9/25(金)19:47


6256. 協働の意義/ "less is more"の発想と余白/呪いと祝福


時刻は午後8時を迎えようとしている。まだかろうじて日が沈んでおらず、辺りには明るさが残っている。とは言え、もう随分と日が沈むのが早くなったものである。


今日は正午前に、現在協働中の方々とオンラインミーティングを行った。その前半には、シンガポールオフィスのシンガポール人の方と話をし、彼女と組織美学について話し合った。今後、その方が組織美学に関してどのような研究と実践をしていくのかとても関心がある。


早いもので、その協働者の方々とのお付き合いは丸2年が経ち、年々関係が深まり、研究と実践がより幅広く、そしてより深いものになっていることを実感する。ここからは、さらに深く成人発達理論を起業家の育成支援に活用していくより実践的な形でプロジェクトを進めていく方向になった。これまでの2年間はどちらかというと基礎研究のフェーズであり、ここからがより実践的なフェーズになる。


以前から思っていることではあるが、こうした形で様々な関係者の方たちとの協働がなければ、学術的な知識が単なる机上の知識で終わってしまっていただろう。また何よりも、人間や組織の成長·発達に関して、広く深い実践知を得ることができなかったであろうと思われる。


現在、それぞれ異なる領域でいくつかの組織と協働させてもらっており、協働者の方たちとのやり取りが自分の関心と実践を幅広く、そして深いものにしていってくれているように実感する。ここからも自分1人で行う諸々の取り組みに加えて、様々な関係者の方々と協働を続けていこうと思う。


午後にふと、“more is more”の発想ではなく、“less is more”の発想で、内面世界に創造性と発達のための余白を作っていくことの大切さについて考えていた。前者の発想では、決してそうした余白が生まれない。


前者の発想は、むしろ貴重な余白を無駄なもの、あるいは空虚なもので埋めてしまうことをもたらす。この現代社会は私たちに前者の発想を半ば強制的に仕向けてくる。そうした強制力に気づき、そしてそうした力を産むメカニズムについて自覚的になる必要があるだろう。


自らの人生における重大な経験が、後々の経験を規定する可能性について考えていた。確かに私たちは未知の世界に開かれており、自由意志に裏打ちされた様々な選択をすることは可能だが、そうした自由意志すらも規定してしまうような重大な経験というものがあるように思える。端的には、それは私たちを呪縛する呪いのようなものでもあり、同時に祝福のようなものでもある。


私たちの存在は、開かれながらにして閉じているということ。逆に、閉じながらにして開かれているとも言えるだろう。どちらであったとしても、自分の全経験を方向付けるような呪いが、人生の何かしらの重大な経験によってもたらされてしまう可能性があるということを自覚する。


そうした経験は、善意の他者や悪意の他者からもたらされるかもしれない。はたまた、善意も悪意もない社会によってもたらされるかもしれない。


偶発的にもたらされるそうした経験が自己をこれ以上もないほどに呪縛することの中に人間として生きることの不条理さを見る。フローニンゲン2020/9/25(金)20:03

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