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5976-5978: アートの国オランダからの便り 2020年7月9日(木)


No.930 ありのまま_As It Is

本日の言葉

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本日生まれた12曲

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タイトル一覧

5976. 今朝方の夢

5977. シャドーワークの確かな進展:フラットランドの進行と一次元的人間の蔓延

5978. 本日の雑多な考え事

5976. 今朝方の夢

時刻は午前6時半を迎えた。今、小雨がパラついていて、今日は1日を通して雨が降るようだ。

小雨の中、小鳥たちが小さく鳴き声を上げている。その鳴き声に耳を澄ませて、心を落ち着かせてみる。平穏な心と今ここを感じることは、ほぼほぼ同義なのだとわかる。

今朝方も印象に残る夢を見ていた。それについて書き留めたら、早速今日の活動を開始していこう。

夢の中で私は、どこか見慣れぬ海岸にいた。波打ち際には獰猛な動物が5頭いて、そこから近くの海の中には2頭の人食いザメがいた。

私の横には友人がいて、近くには5人ほど子供がいた。どうやら私たちは、2頭のサメと5頭の獰猛な動物がいる場所を通っていかなければならないようだった。しかし、そこを通過するのは1人でよく、誰か1人が通過すれば、あとは全員自動的に通過できるようになっていた。

5人の子供を砂浜に残し、友人と私は協力して、あれらの獰猛な動物たちの前を通過していこうと思った。まずは海の中に入り、サメの前を通過するために私たちは泳ぎ始めた。

すると突然、その場は海ではなくプールに変わった。そのプールには水が数センチほどしか入っておらず、サメの姿も見当たらない。サメがどこに行ったのかを探していたところ、私の脳裏には、そう言えば先ほどまでプールに水がもっと入っていたときに、誰かがサメを捕まえ、サメの体の解体作業を行っていたことを思い出した。

すると、横にいた私の友人が2つの小さなパックを差し出した。それはスーパーで売られているもずくや納豆のパックぐらいの小さなものであり、中にはサメの脳髄が入っているようだった。

1つのパックにはサメの脳髄が少しだけ入っていて、もう一方のパックにはサメの脳髄がぎゅうぎゅう詰めに入っていた。友人曰く、サメの珍味らしく、少し食べてみてはどうかと言われたが、私はそれを食べることをせず、パックを持ったままプールを後にしようとした。するとそこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、私は小中高時代の親友(SI)とランニングをしていた。ランニングの道のりは長く、私たちは途中である建物のに立ち寄り、1階のトイレに行ってそこで休憩を取ることにした。

私はトイレの中には入ったが、特に用を足すことをせず、トイレの端に立っていて、そこの壁にもたれかかって休憩していた。すると、小中高時代の別の友人(HY)がトイレにやってきて、親友に何か励ましの声をかけていた。それは部活に関することのようであり、どうやら親友は部活を続けるかどうか悩んでいたらしかった。

それに対して、トイレに入ってきた友人は彼を励ましていた。私は、彼らのやり取りに深い友情を見て取った。

私がもたれかかっている壁の左側には大きな窓があり、そこを開ければ外に出られるようになっていた。すると、そこからその親友の母親と弟が現れ、親友に何か声をかけていた。

そこから親友と私たちは、再度ランニングを開始することにし、ゆっくりとではあるが着実にどこかに向かって走り始めた。

すると、私の体はどこか見慣れない小さな会議室の中にいた。そこには机と椅子が変わった形で配置されていた。

また別の親友(NK)がその部屋にやってきて、私に相談事を持ちかけてきた。話を聞くと、彼はどうやら言葉を通じて内面探求がしたいとのことだった。言葉を通じて自己を深めること、そしてそのプロセスを言葉の形として記録しておくことは大変素晴らしいと思ったので、私は彼にその方法と継続して実践するコツについて話をした。

すると再び私の体は別の場所にあった。そこは欧州のどこかの国のパブだった。そのパブは一風変わっていて、フットサルコートが店の中にあった。

店内にはラテン系の音楽がかかっていて、客もフットサルをしている人たちも、ラテン系の顔をしている人が多かった。ラテン系の音楽がサビに向かったところで、フットサルをしていたどちらかのチームがゴールを決めて、彼らの盛り上がりと曲の盛り上がりが重なった。

それを見計ってか、私の視界に入るところに座っていた白人の外国人が、別の大柄な白人男性の首を何度もナイフで斬りつけ始めた。私は思わず声を上げたが、時すでに遅しであり、ナイフで刺された大柄な男性はすぐに息を引き取り、男性を殺した男は店を後にした。

私は衝動的にその男を追いかけようとして店を飛び出した。すると、その場にはもうその男の姿はなかった。

そこから私は歩き始め、程なくして日本のある大学の立派な校門に辿り着いた。門をくぐって校内に入ると、ちょうど女性警官がパトロールをしていて、私はその警官に先ほど目撃した事件について報告をした。

最初その女性警官は、私が突然事件について話し始めたものだから、怪訝そうな目つきをしていたが、私が真剣に話をすることによって、事件について信じてもらえ、すぐに現場に他の警官たちと駆けつけるとのことだった。

今朝方はそのような夢を見ていた。あと1つぐらい夢の場面があったように思うが、それはもう記憶の彼方に飛んでいる。それが再び戻ってきて、形を変えて今夜の夢として現れるかもしれない。フローニンゲン:2020/7/9(木)07:06

5977. シャドーワークの確かな進展:フラットランドの進行と一次元的人間の蔓延

時刻は午前9時を迎えようとしている。今、小雨が降っているのだが、それよりも何よりも、今日はとにかく寒い。一瞬、暖房をつけようかと考えるほどだった。もう7月の第2週が終わろうとしているにもかかわらず。とりあえず今は長袖長ズボンを着て、靴下を履いて過ごしている。

早朝に、夢を書き出すことを長く続けていると、シャドーワークがゆっくりと着実に進んでいることを実感した。心の中で深い治癒が起こっていて、それが変容の後押しをしている。

自分の夢を自ら綴っていくという実践は無理がなく進められるため、治癒と変容の速度も自分の内側のプロセスに合致したものなのだと思う。

昨夜も就寝前に、これから自分が見る夢が誰かと共有されている可能性について考えていた。現実世界の中の人と夢の世界の中でも会うことができる可能性についても思いを馳せていた。

異なる人が同じ夢を共有するということ。異なる人が同じ夢の世界の中で鉢合わせること。それらを考えるだけで、幾分胸が高鳴る自分がいる。人間の想像力は無限であり、それは無限の創造力につながる。

先ほどトイレに向かう最中に、ケン·ウィルバーが提唱した「フラットランド」という概念と、ハーバート·マルクーゼが提唱した「一次元的人間」という概念の関係性について考えていた。2人の思想家の問題意識は多分に重なっているようだ。

マルクーゼは、理性の本質を「否定の力」だとみなしており、それは大変興味深い。私たちは、改善されるべき現実の姿と、あるべき現実の姿を区別する形で理想の現実に向かっていくが、その際に否定の力としての理性を働かせ、そもそもそうした識別を行うことがまずは必要になる。

しかしながら、現代社会の風潮と仕組みにより、人間からはそうした識別能力としての理性が剥奪され、人間は欲望や欲求を煽る画一的な社会に埋没していく。ウィルバーとマルクーゼの考え方の双方を用いれば、社会としてはフラットランドが進行し、同時に個人としては一次元的な人間の生産が進んでいると言えるだろうか。

マルクーゼの分析は興味深く、一次元的人間が誕生した背景には、科学技術や合理性のイデオロギーの信奉というフラットランド的価値観の蔓延と、そうした価値観と消費至上主義のイデオロギーを煽る広告宣伝を通じた大衆文化の醸成を挙げている。そしてそれらは、かつて金融資本主義の否定勢力として存在していた労働者階級すらも取り込んでしまい、現代は社会の変革が抑制され続けている状態にあると指摘している。

今、哲学者のザカリー·スタインの書籍を読み返しているのだが、彼自身が失読症を持っており、マイノリティーかつアウトサイダーとしてこの社会で長らく生きており、彼の問題意識の中には健全な批判の精神、すなわち否定の力が備わっている。マルクーゼも、フラットランド的な社会の変革においては、少数のアウトサイダーやマイノリティーが持つ否定の力が不可欠であると指摘しており、この点については共感の念を持つとともに、また色々と考えさせられることがある。フローニンゲン:2020/7/9(木)09:10

5978. 本日の雑多な考え事

時刻は午後7時を迎えた。今日はとても寒い1日だったが、活動としてはいつも変わらずにとても充実した1日だった。

午後に仮眠を取っていると、今日も短時間のうちに深い意識状態に降りていき、少しばかりビジョンを知覚していた。知覚していたビジョンについては覚えていないが、仮眠から目覚めた時に、新しい1日が始まったと勘違いした自分がそこにいた。

それくらい回復力のある深い仮眠が取れており、それほどまでに深い意識状態に参入していた。目覚めてみると、激しい雨音が寝室の窓の外から聞こえてきた。

午後、自分の固有のシンボル創出能力とゲシュタルト生成能力が相まって、曲や絵が形になってくることにふと気づいた。曲や絵もそうした能力によって不可避的かつ必然的に生み出されてくる。抗いがたい力がそこに働いているようだ。

そうした力に身を委ねる形で、自分の内的体験を観察するというよりも、それを単に目撃しながら音や絵の形にしている自分がいることにも気づく。こうした意識のあり方で創作活動を続けていこう。それを通じて、自分の生命の真底部に流れている創造的な力と絶えず一致した形で日々を過ごしていこう。

己の言葉の限界が自らの認識の限界を作り、同時に己の想像力の限界が自らの認識の限界を作る。それを改めて思い、言葉と想像力を涵養していく必要性について考えていた。

現代は、言葉と想像力の枯渇の時代なのかもしれない。社会で語られる物語はひどく一面的であり、歪曲されていて、幅も深さもない。そしてそこには豊かな想像力が発揮されているような痕跡もない。

この現代社会に蔓延する既存の物語を変容させていくためには、個人として、自分の言葉と想像力をたくましく育むことが第一に求められているように思える。

今日は教育哲学者のジョン·デューイの思想に触れていた。デューイの指摘の中で興味深かったのは、真の民主主義とは本質的に教育的なものである、という指摘である。

民主主義とは、本来、絶えず新たな体験と学習に開かれたものなのだ。そのようなことを考えると、我が国は本当の意味での民主主義社会ではないように思えてくる。

そもそも、1人の人間として民主主義社会に参画するための素養が欠けており、それが教育によって適切に涵養されていないように見受けられる。素養の中でも重要なことは、言葉を通じて自己を表現する力と、自己を表現するだけではなく、他者と対話を通じて合意形成をなしていく力である。これら2つのどちらかではなくて、双方がなければ、デューイが述べるような真の民主主義が実現することはないだろう。自己表現力と対話力の不在は、民主主義の不在を示唆している。

夕方、文化は人を形成し、人は文化を形成するという点について考えていた。それらは双方向的なものである。その点について考えを巡らせていると、この現代社会に存在している私たち1人1人の行動が文化を作っているのだという認識を改めて持つことの大切さに至る。

今日の自分の一連の行動、そこには今この瞬間に行っている日記の執筆や、音楽や絵画の創作も含まれ、それらの行動は絶えず何かしらの形で現代社会に関わっているものであり、現代の文化を今その瞬間に形成していくことに参与していることを意味している。そのような認識を持って、明日からの1つ1つの行動を行っていく。フローニンゲン:2020/7/9(木)19:28

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