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本日の4曲
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タイトル一覧
4954. 来週の今日は:ゆとりが体現された生活に向けて
4955. 今朝方の夢
4956. 世界のドラマよりもゆっくりと
4957. 輝く夕焼け空を眺めて:存在論的・実在論的な笑い
4954. 来週の今日は:ゆとりが体現された生活に向けて
今朝は4時前に起床し、時刻は午前4時半を迎えた。これくらいの時間帯に起きると、今日一日の創造活動に思う存分従事できることの喜びが極大化される。
創造活動に伴う喜びを高めてくれる起床時間の極致は、私にとって4時から5時の間なのだと思う。それくらいの時間に起床すれば、その日一日が本当に充実したものになる。今日もまた、ゆっくりとではあるが着実に自分の取り組みを前に進めていこう。
フローニンゲンはすっかり秋の世界に入っており、朝夕は本当に寒くなった。日中も相当に肌寒い。そして、日の出の時間は遅くなり、日没の時間は早くなった。
そうした世界の中で、ゆっくりと、そして絶え間なく自分の取り組みに従事し続けていく。ライフワークを少しずつ進行かつ深耕させていくこと。それを粛々淡々と行っていく。
ちょうど来週の今日は、日本に一時帰国する日である。今日ぐらいの時間に起きれば、余裕を持って自宅を出発できる。アムステルダムのスキポール空港に行き、そこからヘルシンキを経由して成田に向かうといういつもの経路で日本に向かう。
アムステルダムからヘルシンキに向かうフライトの出発時間は11:55であり、搭乗開始が11:25あたりであるため、自宅を出発する時間を焦る必要は全くないが、空港のラウンジでゆっくりしたいため、6時半前には自宅を出発したいと思う。
空港のラウンジでは作曲実践をし、現在書斎で行っているのと全く同じく、ラウンジでもYoutube用の動画を撮影する。ラウンジで作曲実践をするのであるからそれは当然である。
絶えず文章を書き、絶えず曲を作ることに加えて、曲を生み出す過程を言葉にし、それを動画にするという実践が加わった。曲を作るのであれば、ラウンジであれ、ホテルであれ、場所を構わずに動画を撮影していく。
ラウンジで生み出される曲、そしてそれを作る過程で自分が何を考え、何を感じているのか、さらにはそれらをどのような言葉で表現するのかに今から関心がある。今回の日本での滞在期間中も、オランダでの生活と変わらずに、文章を書き、曲を作り、音声動画を作っていくということを行っていく。
昨日の日記に書いたように、今日からはぼーっとする時間を意識的に設けていく。最初のうちは、特にこの実践を意識的に行っていく必要があるだろう。というのも、ついつい私はぼーっとする時間を設けることなく、絶えず何かの活動に従事してしまう傾向があるからである。
本来、ぼーっとするという行為は無意識的に行ってこそ真の意味があると思うのだが、それが習慣となるまでは意識的に行っていくのも止むをえない。今の私に必要なのは、自分の内側にこれまで以上にゆとりを与えることである。
内側にスペースを与え、そのスペースから何かを創造していく。逆に言えば、自分の内側から外側に何かを創造していくためには、そうしたスペースが不可欠なのだと思う。
オランダは、真の意味でのゆとりが体現された国なのであるから、ここで自らにゆとりを与える生活ができなければ、その他の場所で生活をしたとしてもゆとりのないものになってしまうだろう。
一日の中でぼーっと窓の外の景色を眺めるような時間を作ることからこの実践を始めたい。その他にも、ぼーっと絵画を見る、ぼーっと音楽を聴くことも日々の生活に取り入れたいものである。フローニンゲン:2019/9/17(火)04:57
4955. 今朝方の夢
時刻は午前5時を迎えた。相変わらず辺りは闇に包まれている。闇の世界をぼーっと眺めながら、今朝方の夢について振り返っている。
夢の中で私は、高校時代に知り合った友人(HH)と一緒に、この間世界のどこかの国にサッカー観戦に行った際の思い出話を一緒にしていた。
現実世界において、彼とは高校1年生の時に、イギリスのリバプールにサッカーを見に行こうと話し合っており、私たちが大学2年生になった時にそれを実現させた。日本からイギリスに向かう際の様々な光景や感情が今でも鮮明に蘇ってくる。
そうした思い出を共有した私たちは、夢の中でもサッカー観戦旅行について計画を練っていた。ちょうど休憩時間であり、教室は賑やかであったが、私たちは自分たちの計画を練ることに没頭しており、周りの様子は気にならなかった。
すると、小中高時代の別の友人(HY)が私たちのところにやってきて、彼もサッカー観戦旅行に関心があるという。というよりも、どうやら私は彼とすでにどこかの国にサッカー観戦に旅行していたようだった。
そこからは三人で旅の計画を練り、旅の話に花が咲いた。最初の夢の内容はそのようなものだった。
次の夢の場面では、旅館のようなホテルのような研修施設の中に私はいた。より具体的には、落ち着いた雰囲気の研修ルームの中にいて、そこで高校時代のクラスメートたちと円になって体験のシェアリングを行っていた。
シェアをしていた内容は、自分の生い立ちから今に至るまでのライフストーリーであった。10人ぐらいの男女が円になり、そこには先生も含まれていた。
私の横には、高校三年生の時にクラスメートになった友人(SK)がいて、ちょうど彼がシェアリングを始めたところだった。彼の話は大変興味深かったのだが、次の番が私のため、少しばかり仮眠を取っておこうと思い、私はすぐに夢の世界の中に落ちていった。夢の世界の中でさらに深い眠りの世界に落ちていくということがそこで行われていた。
夢から覚めると、ちょうど彼のシェアリングが終わったところだった。私の番になる前に、一度休憩となり、飲み物を取ってこようと思った。
その部屋の隅にはキッチンスペースがあり、そこに冷蔵庫があった。冷蔵庫の中には麦茶とウーロン茶のペットボトルがそれぞれ一本ずつ入っており、どちらも共に3分の1ほどの分量になっていた。
私は麦茶が飲みたいと思い、そのペットボトルを手に取った。すると、「ウーロン茶が飲みたい」と小中高時代の友人の一人(TK)が述べた。私は彼に、「ウーロン茶は勧められないけど、飲みたければご自由に」と述べた。私の態度は幾分そっけなく、今から自分のシェアリングが始まるためにそうした態度になったのかもしれないと思う。
シェアリングの最中にも気づいていたのだが、そのシェアリングを見守ってくれる先生がとんでもなく馬鹿であり、どうしようもないと思っていた。勘弁してほしいというぐらいの頭の固さと遅さのため、呆れ返っている自分がいた。そんな先生も飲み物を欲していたらしく、先生もまたウーロン茶を飲もうとしており、そんな先生にはもはや何も声をかけなかった。
麦茶をコップに入れてシェアリングの場に戻っている最中に、後ろから先生が私に幾つか質問をしてきた。最初の質問だけは先生の方を向いて答えたが、それ以降の質問がどうやら私に対する詰問のように思えたため、もはや先生の方を向くこともなく、前を向いて歩きながら適当に回答していた。
そんな形でシェアリングの場に戻ると、今からのシェアリングは夕食を摂りながら行おうということになった。それは名案だと思ったが、いざテーブルに全員がつくと、円になっていた時と比べて全員の距離が遠く、自分が座っている席から反対の席に座っている人には声が全く聞こえないだろうと思われた。
その場にいた全員がそれを察知しており、しかもテーブルが二つに分かれてもいたため、私は自分がこれからシェアリングを行うことが無意味に思えてしまった。無意味に思えること、気乗りしないことは一切やらないという性格上、私は食事をすることも、シェアリングをすることもなく、その場から立ち去ろうとした。
すると、そこで先生が私を止めようとしたが、先生の無能さには絶望を通り越し、さらには諦めの気持ちも通り越し、存在を無視することが最も賢明なことのように思われた。私は、テーブルに着席している友人たちには挨拶をしたが、先生には挨拶をしなかった。
全員に向かって「チャオ」と別れの言葉をかけた時、先生への土産として、先生の目や顔を見ることなく、無視した形のままで、手からぴゅっとナイフを先生の胸に向かって投げつけた。そのような夢を今朝方見ていた。
起床して目を開けた瞬間に、夢の中の先生のように、絶望的なまでに無能な人間とどう接したらいいのか考えている自分がいた。いや、最良の無視の形は何なのかを考えている自分がそこにいた。フローニンゲン:2019/9/17(火)05:35
4956. 世界のドラマよりもゆっくりと
つい今しがた夕食を摂り終えた。今日は早朝より雲が多く、日中は断続的に雨が降った。
夕方を迎えたこの時間帯は、空が晴れ渡っており、夕日が沈みゆく光景を今目の当たりにしている。
昨夜の日記、及び早朝の日記で書き留めていた通り、今日は意識的にぼーっとする時間帯を設けていた。何を考えるともなく窓の外を眺めたり、雲の動きをぼんやりと見つめていた。
不思議なことに、それを行うと自分の心身がとてもリラックスしていくのを実感した。以前より、ゆとりを日々の生活に取り入れることが大切だと述べていたが、ここ最近はそうした意識が薄れており、気がつかない形で少々ゆとりのない生活を送っていた。
自分としてはそれでも十分にゆとりがあると思っていたのだが、窓の外をぼんやりと眺める時間やぼーっと絵画を眺めるような時間が惜しいような精神状態になっていた。そうした状態から抜け出すために、今日からぼんやりと外の景色を眺めたり、絵画を眺めたりすることを行ってみた。
その効能については繰り返し述べないが、本当に多大なものがあった。効能を求めてぼーっとするのは本末転倒かもしれないが、まずは意識的にぼーっとすることを習慣にしていきたい。
ぼーっとできるチャンスは毎日の中で意外とあるのだが、これまでの自分はそうした時間においても学習や実践を絶えず行うようなことをしていた。
今日はホッと一息することの大切さをしみじみと感じさせてくれる一日だった。飲み物を飲むときや食べ物を食べる時は、なおいっそうのことホッとしたひと時を楽しむようにしよう。
来週から日本に一時帰国するのはもしかすると、ぼーっとすること、及び休息をうまく取り入れながら日々を生きていくことを促すためにあるのかもしれないとふと思った。そのきっかけになるのが母国へのしばしの滞在なのだろう。
日本ではとにかくゆっくりとする。フローニンゲンでの生活以上にゆとりを心がけ、家族や親友などの本当に大切な人とだけ時間を共にするようにしたい。
今、夕日に照らされて輝いている雲をぼんやりと眺めている。それはゆっくりと空を横断している。
遠くの空に飛行機雲が見える。世界は絶えず動いており、それは一大ドラマである。そのドラマを楽しむためには、こちらはその動きよりもゆったりとしておく必要があるだろう。
ドラマの進行と同じ速さで動いていては、決してそのドラマを鑑賞することはできない。ドラマの進行よりもゆっくりと過ごすこと。できれば限りなく動きを緩めていくこと。
それによって初めて、この世界のダイナミックなドラマを眺めることができるだろう。そんなことを教えてくれる夕方の空だ。フローニンゲン:2019/9/17(火)19:04
4957. 輝く夕焼け空を眺めて:存在論的・実在論的な笑い
午後8時。それは、息を飲むほどの美しさを持つ夕日が輝く時間。
つい先ほど、うす紅(くれない)色の夕焼け空を眺めることができた。それは本当に美しく、実はこうした夕焼け空はほぼ毎日姿を見せてくれていたことにハタと気づかされた。
午後8時において窓の外をぼんやりと眺めるような心がけをこれまでしておらず、今まで私は美しい夕焼け空の輝きを見逃してきていたのである。それを知って後悔するというよりも、今日からその美と毎日寄り添えることを嬉しく思った。
今日から私は心を入れ替え、一日を通して窓の外をぼんやりと眺める習慣を取り入れた。それが習慣として確立されるまでしばらく時間がかかるだろうが、これは必ず習慣にしたい。こんな美しい夕焼け空を見たのだから、それが習慣にならないはずはない。
それにしても、オランダの空はこんなにも澄んでいたのだ。先ほどもそれに気付き、夕方買い物に出かけるときにもそれに気づいた。
オランダの街は大抵、他の国の大都市と違って高い建物がそれほどない。そうしたことが、空と自分との近さを感じさせてくれているのかもしれない。
手の届くところに広大な空がある。自分の内側にも、絶えず広大な空が存在している。
内側の広大な空に気付き、それと一体化させてくれることをオランダの空は促す。
この広大な空間にくつろごう。何をするともなく、ただそこにくつろごう。
今というこの瞬間にくつろごう。そしてそこに溶け出していこう。
一日がゆっくりと終わりに近づいている。時刻はあと少しで午後の8時半だ。もうすぐ太陽が完全に沈む。
来週の今頃は、日本に向かう飛行機の中だ。それを信じられるだろうか。最後に日本に帰ったのは二年前の年末だったか?最後に一時帰国したのがいつかもう覚えていない。
人生。人生がゆっくりと時の流れに寄り添って静かに進行していく。
あるようでなく、ないようであるこの人生。今日もまた、自分の人生はあるのかないのかについて考えていた。本当にあるようでなく、ないようであるのがこの人生だ。
自分という一人の人間がこの世に存在しているということに対して、今日もまた大爆笑だった。あまりにも可笑しくてびっくりした。
こうした笑いはよく起こる。存在論的・実在論的な笑いである。
いるようでおらず、いないようでいる自分。こんなに滑稽なことが他にあるだろうか。
自己も人生も冗談なのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
自己がこの世界に存在しているという不思議さ。これはつくづく不思議である。そこに人生なるものが付随しているのだからなお不思議だ。
リストのピアノ曲が書斎の中で響き渡っている。リストは実在し、この世を去り、それでもなお今も生き続けいているということ。
自分もそうなのだろうか。全ての人もそうなのだろうか。きっとそうなのだろう。
全ての人間は実在し、この世を去り、そして永遠に生き続ける。実に実に不思議な事実がここにある。
それは隠された事実ではなく、剥き出しの事実である。だから人々は気がつかないのだろうか。フローニンゲン:2019/9/17(火)20:29