つい先ほど散歩から戻ってきた。自宅を出発してから10分程度ランニングをし、残りはゆっくりとウォーキングを楽しんだ。
驚いたことに、今日の暖かさのためか、目でわかるほど昨日よりも木々のつぼみが開いていた。私はつぼみの付いた枝を撫で、ここから立派な花を咲かせてくれることを願った。
いよいよ本当に春が到来しそうである。確かに朝夕はまだ冷えるが、日中の陽気は春のそれである。
散歩をしながら、発達の出発点は、とにかく自分自身の内側にあるということを改めて考えていた。発達は、決して他者の体験を起点にはなし得ない。それは自らの固有の体験を起点として起こるものである。
多くの場合、人は他者の体験を必死になって参照しようとするが、それらの体験を通じて自らの体験を見つめ直すことは少ないように思う。他者の体験を参照にするときに注意しなければならないのはこの点だろう。
他者の体験は、確かに私たちの発達の触媒になりうる。だが、他者の体験を参照しているだけでは決して自らの発達は起こらない。
自己を深めることができるのは、自己に固有の体験であり、それを豊かにしていくことなのだ。とにかく自己を起点に、自己から出発しよう。そのようなことを改めて考えていた。
サイクリングロードの横には運河があり、今日は夕日がいつも以上に美しく水面に反射していた。風が一切なかったこともあり、水面は至って穏やかであり、澄み渡っているように見えた。
日々雑多な体験をし、それらを通じて、雑多な思考や感覚、そして気づきが生まれてくるが、それらを焦って整理する必要など一切なく、時が濾過をしてくれるのを待てばいい。その際に、体験を通じて生起したものを文章として書き留めておくというのは、時による濾過の作用を促進してくれるように思う。
書き留められたものは水底に沈んでいってしまうかもしれないが、それはそれで問題ないのである。それが水底に沈んでいくのとは反対方向に、濾過されて水面に浮上してくるものがあるのだから。
感覚や気づきというものを自分の内側に沈めていくためには、それらを形にすることが有益であり、私の場合は言葉と音楽にしていくことだろう。それを通じて上澄みとして現れてくるものの中に、変化の証を見て取ることができだろう。
不思議なことに、数ヶ月前に自分が書いた文章を読み返してみると、「もうそこにはいない」という感覚になることがよくあり、それは私自身の変化の現れであり、そしてそれは上述のような事情によって生じているのだろう。
今日はこれから、夕食前に再度作曲実践を行う。今、書斎の中ではスクリャービンのピアノ曲が流れており、今からの作曲実践では、スクリャービンの曲に範を求める。
今日もまた、探究活動と創造活動に旺盛に取り組む形で時間が流れていく。
ふと、確かに、今の私を取り巻いている諸々の条件は恵まれたものに見えるかもしれないということについて考えていた。だが、本当に恵まれた条件というものが存在するのかどうかは疑わしい。
というのも、確かに現在の自分を取り巻く環境は、ある観点(例:物理的生活環境や経済環境)においては恵まれたものだが、全く別の観点(例:実存的環境)においてみれば、恵まれているとはいえない可能性もあるからだ。
一人の人間として生きる過程の中で、何かを築き上げ、何か事を成し遂げてきた人たちは、果たして恵まれた条件の中にあったのだろうか?過去の偉大な思想家や芸術家を見てみると、彼らは決して恵まれた条件の中にいたわけではないことが見えてくる。
少なくとも、私の視点から見ればそのように思えることがよくある。彼らは、恵まれない条件の中で克己と自律の精神を持って、そうした条件そのものと格闘しながらも、日々の取り組みに淡々と従事し続けていたのだ。
自己を取り巻く条件ならびに環境と対峙し、その過程の中で絶えず自分の取り組みに粛々と取り組んでいくこと。おそらくそこに、人間の生の本質があり、自己を深める真の道があるように思えてくる。フローニンゲン:2019/2/25(月)17:14